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ひまわりの約束  作者: rintaro
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第一話

序章からの続きです。

しばらくの間、車の話が続きます。

 二人の四十九日の法要が終わった。

 夏の焼けつくような日差しが二人の遺骨が入ったばかりの真新しい墓と参列者の黒い肩を照らしていた。うるさかった蝉の鳴き声はいつしかやんでいて、墓地をとりかこむ森はひっそりと息をひそめていた。

 僕は住職にいま一度深く頭をさげると、すぐ横の(くぬぎ)の木陰に退避している両親のもとへ重い足を運んだ。


「俺たちは山岸さんたちと一緒に、ここに来る途中にあったファミレスに寄ろうかと思ってるんだけど、お前はどうする?」

「僕はいいよ。少しひとりになりたいから、のんびり家まで歩いて帰ろうと思ってる」

 僕は父にそう告げた。「そのほうが気が楽だから……」

「最近あまり食べてないんでしょ?」と日傘を差したままの母がハンカチで額の汗を拭きながら僕にいった。

「食欲がないのはわかるけど、ちゃんと食べないと駄目よ。あなたひどい顔してるから」

「わかってる。気が向いたらファミレスに顔を出すよ」

「山岸さんたちも心配してるみたいだから」

 と、父が僕の肩に手を置く。妻方の親族は墓の前で市役所の人間と何やら話をしている。

「熱中症にはくれぐれも気をつけて」と母がつけ加える。

「うん、ありがとう。じゃあ、よろしくいっといて」

 僕は首筋に流れる汗を手でぬぐいながら、そのまま歩を進めた。

 二人の魂はもうこの世には存在しない。極楽浄土へと旅立ったんだ。


 歩道に転がっていた蝉の死骸を隅に弾いたときだった。一人の礼服の男が森の中の小径を急いでこちらへ駆けてくるのが見えた。小太りの白髪頭のその男は僕の前までやってくると、大きく息を吐いて顔中に流れる汗を手でぬぐった。

「遅れてしまって大変申し訳ありません。この度、新たに運送会社の顧問弁護士に任命された木村という者です」

「わざわざどうも。でも法要はもうすみましたので」

 僕は男から受けとった名刺を礼服の内ポケットに押しこんだ。

「どうやらそのようですね。いやあ、道路が混んでたもんで参りました。せめて焼香だけでもさせてもらえないでしょうか?」

「べつにかまいませんけど。でもあなたも大変ですね、マスコミにいろいろ騒がれてるみたいで」

「どうってことありません。これも仕事のうちです」

 ふう暑い暑い、と木村と名乗る顧問弁護士はズボンのポケットからとりだしたハンカチで大きな顔を扇ぐ仕草をする。

「じゃあ、失礼します」

 僕は男の横をすり抜けようとした。すると男は「ああ、ちょっと待ってください」と僕の腕をつかんで、手にさげていた荷物を差しだした。

「粗品です。それと慰謝料の振込証書が入ってます」

 ああそう、と僕は興味なさげに荷物を受けとった。

「この度は誠にご愁傷さまでした」

 男はあらためて僕に一礼すると、満面の笑顔を輝かせた。

 さすがに頭にきた僕は、何かいい返してやろうと思ったが、面倒くさくなってやめた。

 もう何もかも終わったことだ。死んだ二人が帰ってくるわけでもない。

 僕はネクタイを緩めると、再び蝉がけたたましく鳴きはじめた森の中の小径へと重い足を運んだ。





 突然の知らせだった。仕事の手を休めて電話口に出た僕の耳に、二人の事故死を知らせる警察署の人間の低い声が届いた。それはまるでどこか他の惑星からかかってきた電話のように感じられた。

「ーー大変申しあげにくいことですが、ご夫人とお嬢さんを乗せた車が運送トラックの絡んだ交通事故に巻きこまれてしまいまして、ただいまお二人の正式なご死亡が確認されましたーー」

 気づいたら僕は、連絡のあった警察署の地下駐車場内に茫然と立ちつくしていた。目の前のレッカー車には妻の愛車だった軽自動車の残骸らしきものが載せられていた。

「こちらの写真でお二方の身元のいちおうのご確認をお願いします。あとで所持品のご確認もお願いすると思います」

 となりに立っていた交通課の警官が申し訳なさそうに、僕に写真を手渡していった。

 僕は写真を見つめた。二枚とも足さきだけが写っていた。

 六歳になる愛娘のお気に入りだった赤いエナメルの靴をはいた一本の小さな足に、互いにあらぬほうを向いた大人の女性の二本の足。ワニのマークの入った靴下と、先日近所のホームセンターで買ったばかりのスニーカー。その片方は特殊なペンキでもかけられたみたいに鮮やかな赤色に染まっていた。

 それまで半信半疑だった僕は、自分勝手な推測にしがみついていた。

 これは何かの間違いで、二人はきっと無事だ。どうせ人違いか何かだろう。やれやれ、警察にも困ったものだな……。

 あわてて飛び乗った電車の中で僕はこんなことばかりを必死に考えていた。

 だってそうだろう。今朝もいつもと変わらず、妻と娘は笑顔で僕を家から送りだしてくれたのだ。

 二人は何も悪いことをしていない。今日は娘の通う小学校が設立記念日だったので、母娘(おやこ)で美味しいと評判の近郊のイタリア料理店へ昼ご飯を食べに行ったまでだ。どうしてその二人が信号無視で交差点に突っこんできたトラックに無残にも押しつぶされなければならないのだ?


 頭の中で何かが弾ける音がした。

 あるいはそれは、僕の心というものが壊れた瞬間の音だったのかもしれない。

 耳鳴りがつづいていた。

 僕は何も感じなくなっていた。

 涙さえ出なかった。そう、僕は声をあげて泣くことすらできなかったのだ。


 それからのことはあまりよくおぼえていない。

 会社に一週間の忌引休暇の連絡をしたのだけは、はっきりとおぼえている。わずかに署内の一室で遺族調書なるものを書かされたのを記憶しているだけだ。

 様々な人々が僕の前を通りすぎていった。

 市役所の人間や弁護士、新聞記者、果てはテレビ局のリポーターなどの姿もあったような気がする。

 そして身内の誰かが手配してくれたのだろう、自宅の和室には立派な仏壇が据えられており、二人の位牌と遺骨の入った白い艶やかな大小の壺が置かれてあった。


 仏壇の前での六畳一間の生活がはじまった。

 それはまるで海の底で暮らしているようで、何もかもが重く鈍く、奇妙に歪んで感じられた。

 関西の田舎の母が一週間ほど家に留まって、そんな僕の生活を支えてくれた。日がな一日僕は仏壇の前に寝そべって畳の匂いをかぎ、二人の思い出に身を沈めた。

 思い出の中の妻と娘はいつも笑顔だった。二人はとても幸福そうに見えた。だから僕も一緒に微笑んだ。

 食事がうまく喉を通らなかった。まるで味がしないのだ。

 好物だったとんかつもすき焼きもゴムまりを食べているようで、無理やり胃の中に押しこんだ。

 夜もよく寝られなかった。誰もいない暗闇が怖いのだ。

 そんなときは二人の思い出の中に身を浸し、夜が明けるのをじっと待った。明けない夜はないけれど、夜はまたやって来るのだ。

 僕は畳に仰向けになり、指先でしきりに髭の成長をたしかめた。そして髭は何があってもはえてくるものなのだと知った。


 週が明けて会社に出勤した。

 僕は何事もなかったかのように働いた。夜遅くまで働いた。誰もいない家に帰るのが嫌だったからだ。

 僕は妻と娘のいない生活にうまくなじめないでいた。二人がいなくなってしまったとはどうしても思えなかった。

 僕は仏壇の前まで足を運び、二人の遺骨を手にとって目と指で何度も確認した。何度も確認したけれど、愛する二人の死という現実はうまく理解できないままだった。

 僕は誰もいない、ひっそりと静まり返ったリビングに腰をおろし、ウィスキーのソーダ割りをちびちびと飲みながら、娘の愛菜(あいな)を乗せた妻の軽自動車がこっそり駐車場に入ってこないかと、暗闇の中でずっとひとり耳を澄ましつづけた。

 体は悲鳴をあげていた。

 ぼんやりと空想に耽ることの多くなった僕は、仕事で簡単なミスをくり返した。

 そんな僕を見かねた上司が産業医に僕のことを相談した。

 僕は会社の産業医に紹介された、家の近くの大学病院の精神科に通院することとなった。

 抗うつ剤と睡眠薬を処方された。

 薬を飲んでみた。少し気が楽になったような気がした。夜もどうにかまとまった時間寝られるようになった。

 一週間ほどでそれまでうっとうしかった性欲がなくなった。抗うつ剤の副作用だった。僕は薬に感謝した。

 僕は担当医に愛する妻と娘の死という現実をうまく受け入れられないでいることを相談した。

 医師は極度のショック状態がつづいているのだろうといった。やがて時間が解決してくれます。

 抗うつ剤の量が増えた。薬を朝と夜に分けて飲んでみた。若干ふわふわと雲の上を歩いているようにも感じられたが、二人の死という現実は、うまく飲みこめないままだった。


 月が変わり本格的な梅雨がはじまった。

 東京の街はすき間なく雨で満たされた。

 でも僕の目は乾いたままだった。どうすれば泣くことができるのだろう。

 僕は泣き方を忘れていた。

 僕は二人のいない生活にうまくなじめないままだった。自分ひとりだけが世界からとり残されているように感じた。

 妻と娘の四十九日を一週間後に控えた僕は、会社の上司に相談して、およそ一ヵ月間の有給休暇をとることに決めた。上司が人事部にかけあってくれたおかげだった。





 僕は家までの小一時間ほどの道のりを、上着を肩にかけてのんびりと歩いていた。

 夏休みに入ったばかりの元気な太陽がコンクリートとアスファルトの大地を容赦なく照らしつけていた。

 二十分ほどで父親たちがいるであろうファミレスが国道沿いに姿をあらわしたが、僕は手前の交差点を折れて横道へと足を延ばすことにした。いまは誰とも話したくない気分だったのだ。

 そのまま横道をまっすぐ二百メートルほど進むと、片側二車線の大きな通りに出た。

 角にコンビニがあったので、僕は迷わず中へと入った。そろそろ水分を補給しておきたかったし、トイレにも行きたかったからだ。

 スポーツ飲料水を購入し、トイレを借りる旨を店員に告げてから雑誌置き場奥のトイレへと足を運んだが、トイレはあいにく使用中だったので、僕は店内を物色しはじめた。レジ横にあった喫煙用具一式のセットが目についた。

 ひさしぶりに煙草でも吸ってみようか……。

 僕はレジに並び、それからトイレへと向かった。

 およそ六年と三ヵ月ぶりの喫煙だった。

 娘が生まれたを契機に、僕は煙草をやめていた。それまでは日に一箱半も吸うかなりのヘビースモーカーだったが、家を新築したこともあって、きれいさっぱりと禁煙に成功していた。

 軽い煙草のはずなのに、やけに頭がくらくらする。

 僕は煙草を持った手で頭を支え、空いたほうの手でペットボトルから水分を補給した。


 通りの向かい側にこじんまりとした中古車販売店があった。

 十数台の中古車が狭いスペースに斜めにきれいに並んでいた。となりの廃品工場みたいな外観のトタン屋根の建物には、「宮田モータース」と錆びついた大きな看板が掲げてあった。

 興味を惹かれた僕は、その車屋へと足を運ぶことにした。野ざらしのガレージに昔乗っていた愛車と同じ型の車が置いてあったからだ。しかも色は赤色で、僕が乗っていたのと同じ色だった。

 横断歩道を渡り終えた僕は、宮田モータースの敷地内へと勝手に足を忍ばせた。

 倉庫のような建物の中で白髪まじりの男がジャッキに載せたトラックのタイヤを外して何やらひとりで作業していた。

 僕はかまわず歩を進め、道路沿いのガレージに置いてある目当ての車ーー真っ赤なZ32型日産フェアレディーZの前に立ち、新たに煙草を一服した。

 Zは僕がつけていたのと同じ社外製の派手なエアロパーツを身にまとっていた。

 フェラーリF40みたいな大型のリアウィングが目に懐かしい。

 日灼けして色あせた外装色が時の流れを感じさせた。この車が登場したのは、バブル期の1980年代末だったから、それからもう三十年近くの歳月が流れていた。

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