序章
秦基博さんの『ひまわりの約束』にインスパイアされて書いた物語です。
初投稿で何かとご迷惑をおかけするとは思いますが、お暇なときにでも読んでいただければうれしいです。
「あの黄色いところがひまわり畑なのかしら?」
助手席に座る彼女がたずねた。「うん、そうだよ」と僕は窓の外をゆっくりと流れてゆく、そこだけ黄色く輝いた区画を眺めてうなずいた。
「東京ドーム約五個分の土地に、およそ二百万本のひまわりが植わってるんだ」
「東京ドームに行ったことがないからよくわからないけど、その二百万本ていうのはさすがにすごいわね。想像もつかないぐらいの数だもの」
「見ることは可能だよ。だって、これからそこへ行くんだからね」
そうね、と助手席の彼女は微笑む。
「でもいったい誰が数えたのかしら? 観光センターの人?」
まさか、と僕はハンドルを切って十字路を曲がる。
「とにかく気の遠くなるような作業ね……。もしかして一本いっぽん数えていくのかしら?」
「おそらく植えた種か苗の数をあらかじめ数えていたんだよ。そうじゃなきゃとてもやってられない」
「ふふ、そうよね」と彼女が笑う。「コンビニの品数えも仕入数をもとに計算するものね」
「それはそうと修一さんは、ここへ来るの何度目なの?」
「三度目。三年前にはじめて来て、次の年にまた来たよ。ひまわりはよく成長するんだ」
僕は再びハンドルを切って十字路を曲がり、愛車のZを北竜町へと走らせる。緑の田園風景の中に家屋がまばらに見えてくるにしたがって、ひまわり畑の黄色い帯が見えなくなる。
「あのひまわり畑と、私のお腹の中にいる子供に修一さんが『夏美』と名づけたことの間に、何か深い関係があるのね?」
助手席の彼女が下腹部を愛おしそうに見つめながら訊く。
「そうだよ。勝手に名前をつけたことまだ怒ってる?」
「ううん、端から怒ってなんかないわよ」と彼女は僕を見つめる。「ただ私は、その理由が知りたいだけなの。どうして修一さんがその名前にこだわるのか、その理由を知りたいの」
彼女の訴えはもっともなことだった。彼女に子供ができたのがわかって、しかもそれが女の子だと判明すると、僕は彼女の意見も訊かずに勝手に『夏美』と名づけたのだ。どうしてと疑問に思わないほうがおかしかった。
「でも信じてもらえるかな……?」
僕はステアリングを指さきで叩いて、自分に問いかけるようにつぶやいた。
三年前のあの夏に僕の身に起こったことは、とても不可解なことだった。あまりに不可解すぎて、僕はいまだにあれは夢でなかったかとたびたび自問するくらい、それは普通ではありえない出来事だった。先月入籍をすませたばかりの彼女に話すのも、実はこれがはじめてなのだ。
「それはにわかには信じられない、とても不思議なことだったの?」
「まあ、普通はそうだろうね……。当の僕自身がいまだに信じられないぐらいだから」
僕は曖昧にそう返事した。そんな僕を見て彼女は、まるで僕を励ますかのように口を開く。
「でも修一さんのいうことなら信じられると思う。あなたは嘘をつくような人じゃないから」
ありがとう、と僕は助手席の彼女に微笑んだ。「すごく嬉しい」
「とてもいい天気ね」
先に車から降りた彼女が笑う。「すこし肌寒いような気もするけど」
「ここは北の大地だからね」
「ねえ、手をつないでもいいかしら? これでも私たちの新婚旅行なんだから」
「うん、いいよ」と僕は彼女の差しだされていた手を握る。
「やっぱりこの車、ハロウィンのかぼちゃのお化けみたいに見える」
彼女は僕の愛車をおかしそうに眺めて口にする。
「嫌いかい?」
「ううん、好きよ。乗り心地も意外といいし。ヤンキーみたいな後ろの羽根はともかく、前から見るととても可愛いから」
たしか彼女も三年前に同じようなことをいっていたような気がする……。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない」と僕はつぶやいて、目の前に佇む真っ赤な愛車を見つめた。朝日を反射するZは、あのときと同じようにとても眠たそうな顔をしている。
「新婚旅行は、やっぱり海外旅行のほうがよかった?」
僕は彼女の手を握り直して訊いた。
「ううん、海外旅行は喧嘩のもとよ。それで私一度失敗してるから」と彼女は笑う。「それにここに来るまでいろんな温泉旅館に泊まったり、きれいな海で泳いだりしてとても楽しかった。お互い二度目なんだし、これで充分よ。私たちらしくてとても素敵だったと思う」
「僕たちの新婚旅行はまだ終わってないよ。これからメインイベントが待っている」
僕たちはひまわり畑へと歩きはじめた。
「それからそんなに自虐的にならなくてもいいよ。君はまだ三十代なんだし、人生はこれからだよ」
「そうね、修一さんと一緒なら」と彼女は微笑んで、僕の手を強く握る。
「お腹の中の赤ちゃんを忘れちゃいけないよ」
「あら、ごめんなさいね、夏美ちゃん」と彼女は下腹部を見おろして微笑む。
「お母さんを許してね」
「ねえ修一さん、こんなところに勝手に入って大丈夫かしら? 見つかったら怒られない?」
「まだ朝の八時をまわったばかりだから他の観光客もいないし、大丈夫だよ。立派に咲いたひまわりたちが僕たちの姿をうまく隠してくれる。それに見つかったら見つかったで謝ればいいんだよ」
通路から外れてひまわり畑の中に直接足を踏み入れた僕たちは、畝と畝の間の、人ひとりがやっと通れるぐらいの、ひまわりの葉で覆われた狭い空間を突き進む。
「ねえ、どこまで行くの?」
後ろを中腰になって歩く彼女が不安そうにたずねる。
「もうあと少し」と僕は前方を塞ぐ大きな葉を手でどける。
「ミツバチがたくさん飛びまわってて怖いんですけど……」
「もうちょっとだから我慢して」
しかたないなあ、と彼女は深いため息をつく。
「たしかこの辺だったと思うんだけど……」
僕はひまわり畑のど真ん中あたりに立ち止まって、付近に生い茂るひまわりの根もとに目を走らせた。
「何を探しているの?」
ようやく僕に追いついた彼女がやれやれといった感じに訊く。
「墓標。小さな木片に書いたやつ」
「墓標? 修一さんが作ったの?」
僕はうなずいた。
「ねえ、これじゃないかしら?」と彼女は三歩ほど後ろに下がって腰をおろす。
「根もとに『ジジの墓』って書いてある木片が突き刺さってる」
「それだ、それ!」
一本の立派に成長したひと際大きなひまわりの根もとにそれは刺さっていた。『ジジの墓』と書かれたその小さな墓標は、僕が二度目にここに来たときに目印として刺したものだった。
僕は彼女のとなりに腰をおろした。
「ジジって何? 動物のお墓?」と彼女は額に流れた汗をハンカチでぬぐいながらたずねる。
「前に僕の家で二年ほど飼ってた黒猫の名前」
「ふうん、お猫さんね」と彼女がハンカチを手渡してくれる。
ありがとう、と僕はそれを受けとると、額と首筋に流れる汗を拭く。「それにしても暑いね」
「もう、こんなところに連れてきて、お化粧が台無しじゃない!」
「すっぴんのほうが可愛いよ」
おだてても駄目なんだから、という彼女の顔は笑っている。
「お尻が汚れちゃうけど、このままここに座ろう」
「え、ここに座るの?」と彼女は地面を見つめる。
「だって君、このままの姿勢で僕に長話をしろというのかい?」
畝の間の狭い空間にしゃがんだままの僕たち二人の格好は、まるで露天商で品定めをしている怪しい二人組のそれだった。
「え、この猫ちゃんとあなたのお話は関係があるの? つまり私のお腹の中にいる赤ちゃんが『夏美』である理由が?」
と、彼女は目を丸くする。
「何いってるの? だからここまで来たんだよ」
僕は彼女に笑いかけた。
「うん、わかった。ちょっと待ってて……」
彼女はバッグからタオルをとりだし、それを背後の畝を利用して地面に敷いた。「ここに二人で座りましょう」
「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらうよ」
僕はタオルの上に尻をおろした。「ふう、それにしても蒸し暑いね」
はいこれ、と彼女が団扇を手渡す。「ついでに私も扇いでちょうだい! 朝っぱらからどうしてこんなに蒸し暑いのよ?」
「風がまったく通らないからね」
「あなたがその団扇で風を起こしなさいっ!」
「三年前このあたりは小さな草むらだったんだ」
「え、このあたりが?」と彼女はびっくりしたように訊く。
僕はうなずいた。
「もういまじゃご覧のように立派なひまわりたちが生い茂る場所に変わっちゃったけどね」
「ふうん、ひまわりって成長がはやいのね」と彼女は感心したように周囲を見渡す。
「少し長くなるけど、これから話す僕の物語を聞いてくれるかい?」
「何いってるの? だからこんなクソ暑いところに二人して座ってるんじゃない」
と、彼女は笑う。
「三年前の夏に、僕はある一人の不思議な少女と出会ったんだ」
「それが夏美ちゃんね?」
僕はうなずいた。
「家族をいっぺんに亡くした僕は、どうしようもなく落ちこんでいた……。それこそ精神科のお世話になるぐらいにね」
「それは当然のことだと思う。私だって大好きだったおじいちゃんが中学生のころ死んだとき、長い間とても落ちこんだもの……」
「そんなときに彼女は僕の前に突然あらわれてくれたんだ」
「夏美ちゃんがね」
「うん、そう」と僕は団扇を扇いだ。
「僕は会社を休んで旅に出ることにした。つまりここを目指す旅にね」
「どうしてここを目指すことにしたの?」
「死んだ娘の愛菜がとても行きたがってたんだよ。二百万本のひまわりを見に、この場所に」
「ふうん、そうだったの……」と彼女はハンカチで額の汗を拭く。
「僕は彼女と一緒に旅に出たんだ」
「夏美ちゃんとね」
僕はうなずいた。
「だからこれから話すのは、三年前の夏に突然僕の前にあらわれた十六歳の夏美と名乗る不思議な少女と、ここに眠るジジという黒猫についての物語なんだ」
僕は目の前の小さな墓標を見つめていった。
「ねえ、ちょっと待って」と彼女は僕を見つめる。
「この黒猫ちゃんはいったいどこで出てくるの? ここに眠ってるということは、この子もここに来たわけでしょ?」
「うん、そうだよ。僕たちと一緒に北海道までやって来たんだ」
「ふうん、そう。なんだか楽しそうなお話ね。あ、でもジジちゃんは死んじゃったのか……。ねえ、どうして死んじゃったの?」
僕は大輪の花を咲かせるジジのひまわりを見あげた。
「ここから普通ではありえない話になってくるんだ……」
「いいから話してみて。さっきもいったとおり、私は修一さんを信じているから……。だから一緒になったんだし」
と、彼女は僕の肩に頬を寄せる。
「それに最後まで聞いてから判断してもおそくはないでしょ?」
「そうだね、ありがとう」
僕は彼女の肩に腕をまわした。