चंद्र讚歌 -La L'inno per il Candra-
天に在らば
私の恋人が突然私の目の前からいなくなって早2年。私は毎日無気力に、ただ漫然と自らの生を食い潰して生活していた。
恋人を喪った悲しみは何に喩えられるだろう。散った花だろうか、それとも止まない雨だろうか。いや、これはそう簡単なことではないのだ。少なくとも、私にとっては生易しいことでは決してなく、これまで経験したことのないような、言い知れない感情に支配されているのだ。恋人がいなくなった時、私は本気で死を考えた。その人のいない人生など、生き続けていても仕方がないと、そう思ったのだ。しかし、結局は自殺することはなかった。というのも、それをしたところで恋人は帰っては来ないし、そうする私を何処かからか見ているなら、きっと悲しむに違いないと、そう考え直したからである。「恋人の分まで生きよう」だなんて殊勝な考えは持っていないが、とりあえず今日を生きている、といった体でこの世をふわふわと漂っていた。
そうして漂泊の生活を続けているうちに、ひとつの噂が耳に入ってきた。曰く、
「妙高という名の山の頂は天界に繋がっているそうで、そこに行けば心の奥底から会いたいと願う人と再会することができるのだそうだ」
その妙高という山は世界の中心に聳え立つ山で、並大抵の者は到底、麓にすら到達し得ないとされた神聖な山であるらしい。実際に、この聖域を目指し、道半ばで命を落とした者も数知れず、という。しかし、私は、どうせ一度棄てようと考えたこの命、最後にもう一度、恋人のために捧げむとて、妙高を目指すことにした。
旅の途中、行く先々で、道行く人に、
「世界の中心はどちらであろうか」
と尋ねて歩いた。皆人、目を白黒させ、或いは不思議がって、私を変人扱いしながら、それでもめいめい思い思いの方向を指さし、
「あちらが世界の中心だとあたしは思うんだがねえ」
と教えてくれた。私はお礼を言って、指された方角へと進み、果てしない旅を続けた。
それから一体どれくらいの季節が巡ったことだろう。私は、辺りの木々に生っている実が見たことのない色をしているのに気づいた。そこへ、ちょうど果樹園の見張り番らしい老人が近寄ってきた。
「これはな、九千年に一度熟すと言われる仙桃であり、食べると恐ろしく寿命が延びるのじゃ」
「それは本当のことでございますか」
「どうじゃろう。儂はまだこの蟠桃の木の実を食べてから、これが再び熟するのを見たのはこれで3度目じゃから、本当に寿命が延びたかはまだ分からぬよ」
翁はそう言って笑い、私に背を向けて何処かへ行ってしまった。私はしばらくその後姿を見つめていたが、気を取り直し、果樹園の中を進むことにした。
果樹園を抜けると、大きな門が立ちはだかった。これを押し開けようかどうか間誤付いていると、不意に向こうから門が開き、中から小さな老人が現れた。私は、彼の顔に見覚えがあった。
「誰が来たかと思えば」
「あなたは、私の曽祖父でございましょうか。そのお顔は、仏壇の遺影を拝見しました」
「さよう。儂はお前が生まれる以前にこの山に呼ばれてな。今ではこの門の番人としてここに住んでいるのだ。本当ならお前はこの門をくぐった後、自分の背丈の実に6億4千万倍もの高さを自力で登ってもらうところじゃが、今回は特別に、儂の客として招いて、上まで連れて行ってやろう」
私は先祖の足元に平伏し、敬意を表した。その間に彼は印を結び、呪文を唱えた。
「もう、おもてを上げても良いぞ」
言われたとおりに私が顔を上げると、そこは知足天であり、様々な神格が並んでいらっしゃった。奥の扉が開き、現れたのは弥勒菩薩であった。憧れの存在を前に、私は慌てて伏せ、素早く次のような言葉を呟き、弥勒菩薩を讃えた。
「ॐ मैत्रेय स्वाहा」
弥勒様は優しく微笑み、私に顔を上げるようにお命じなさった。
「知ってのとおり、私はおよそ4000年後、あなた方の住む地上に降りて衆生を救う予定です。ですから、あなた一人をこんなにも早くから優遇するのは、地上の人々から羨ましがられることでしょうが、この場所で会うことができたのもきっと何かの縁なのでしょう。あなたの望みを叶えてあげます。
「あなたの願いは既に知っていますから、安心して私について来なさい」
そう言うと、救いの修行者は私の手を引いて、神々が見守る中、座敷を抜けて進んだ。その先にある大理石の階段の手前で弥勒様は一旦足を止め、私を振り返った。
「時間が許すのであれば、私は西洋の歴史にある、父なるウェルギリウス Virgilが我が子同然にあのカッチャグイーダ Cacciaguidaの子孫を導いたように、あなたをこの天を案内して回ることができましょう。しかし、私にも、外界の者にも時間がないとのことで、私方はまっすぐ忉利天へと、あなたを送り届けることとします」
そう言って弥勒様は、私の曽祖父がしたのと似たような印を結んだ。途端に、辺りに雨が降り注ぎ、瞬く間に私はずぶ濡れになってしまった。修行者は、この雨をものともせず、平然と立っていた。
「この先にある宮殿に、あなたを待っている人がいますよ」
***
その人は、寝台から降りたばかりであったらしく、髪が多少乱れ、目は眠たげではあったものの、その美しく可憐な姿は、私の目の前からいなくなる直前までの容貌をそのままにして、或いは更に美麗さを備えて、私の目の前に現れた。取次の使者が退くのを待って、私はその人の名を呼んだ。
それを聞いたその人は、信じられない、という表情でしばらく私の顔を見つめるのみだったが、私がもう一度名前を呼ぶと、こちらに駆けて来た。そのまま私の胸に飛び込み、私の腕に抱かれた。涙が滝のように流れるのもそのままに、その人は私に礼を言った。
「私があなたのもとを離れてから、どれだけの時間が経ったことでしょう。あなたにはつらい思いをさせたに違いありません」
「君もきっと同じであろうに」
「いいえ、いいえ、私はあなたの苦しみの100分の一も分かることはないのです。それは、あなたの気持ちに対する懺悔をいくらしたところで解決いたしませんわ」
「しかし、たったいま、こうして二人、再会することができたのだから、もう泣くのはおよし」
私がその人を優しく慰めると、その体は次第に震えが収まってきた様子で、やがて楽な呼吸を始めた。その人は、私を見上げた。
「以前にあなたと私で誓い合いましたね。覚えていますか?」
「もちろん、覚えているとも」
「在天願作比翼鳥」
「在地願爲連理枝」
私たちは微笑み合った。そこへ、弥勒菩薩が現れ、告げた。
「私と、外界の者と、そして今度はあなたにも、時間がありません。そろそろ帰らねばならない時間となってしまいました」
それからそのお方は、手を合わせて唱えた。
「ॐ इन्द्राय स्वाहा」
するとどこからともなく猫が現れた。その尻尾は三又に分かれていた。
「この猫は帝釈天の使者です。この尾は、それぞれ過去、現在、未来を司っていて、あなたをそのうちのどれかに連れて行くことができます」
私は愛しい人を振り返った。その人は寂しそうに私を見つめていた。
猫が尻尾を崖から垂らす恰好をすると、たちまちそこから虹が地上に向かって架かった。
「さあ、選びなさい」
弥勒様に促され、私はとうとう3本のうちの一つを選んだ。もう一度だけ恋人を振り返り、それから、虹の橋を滑り降り始めた。
***
ベッドから落ちる衝撃で、私は目を覚ました。少しの間頭が働かず視点が宙を彷徨ったが、部屋のドアが開けられ、顔が入ってきたことで意識が戻ってきた。
「朝から何を騒いでいるのですか。そろそろ起きてください」
その人が出ていってからしばらくは同じ体勢で口を開けていたが、だんだん脳みそが動き始めたようだ。今しがた出ていった人のことを考える。
「私の……恋人……?」
私の恋人は、何年も前に死んだはずで、先ほどまで私は妙高山の頂上でその人に会いに行っていたはずではないか。それから、インドラの虹を滑り降りて――
私は急いで部屋の壁にかけてあるカレンダーを見た。日付は割とどうでもよくて、今が何年なのか。そこに書いてあったのは、私が旅に出る2年前の西暦が記されていた。
「そう、か。私が選んだのは、過去だったのか」
もう一度カレンダーを見て、今度は日付もちゃんと確認した。今日は、恋人がいなくなった次の日だった。
「いなくなってない、いなくなってないぞ!」
急激に喜びが体の底から湧き出てきて、たまらなくなって私は踊り始めた。
「今度は何ですか。何をドタバタと……っ!?」
再び顔を覗かせたその人に、私は躊躇いなく抱きついた。
「ど、どうしたのですか。そんなに――あなた、もしかして泣いているのですか?」
「ごめんなさい。今度こそ、絶対に離さないから……」
「当たり前です。言ったではないですか。『ずっと一緒にいましょう』って」
「そんなストレートな物言いはしていないけれど――」
「それと」
恋人は私の肩を掴んで突っ張り、私の顔を見上げた。
「嬉しかったです。迎えに来てくれたこと」
そして、微笑んで今度は私を抱きしめた。私は驚いて尋ねた。
「え、夢じゃなかったの」
「そ、夢じゃなかったの」
それを聞いて、私の目から涙がまた溢れてきた。
「或いは、二人して同じ夢を見ていたのかもしれませんけどね」
そう言うその人の目にも、光の粒が輝いていた。私たちはそれから長い間ずっと抱き合っていた。
ふと窓の外を見ると、虹が架かっていた。雲の形が、何となく天のあのお方に見えなくもないような気がした。
愛は世界を満たしているらしい。それを信じることができたものに、救いの手は差し伸べられるのかもしれない。件の子孫は、この宇宙を動かす真理は他ならぬ神の愛と言ったが、私にとっては、そんな大それたものじゃなくて、例えば今の私と恋人の間にあるような愛でも、世界は変えられるのではないかと思う。愛は地球を救ってはくれないかもしれないけれど、少なくとも、私の心は救われたのだ。
…Yesli v Nebe