8月16日(1)
子供の頃に足の裏をガラスで切りました。
指摘されるまで気付かなかったせいで血の足跡をいくつも残してしまい、軽くホラーな光景を作ってしまったことがあります。
昨夜は、眠れないだろうという灯里の予想に反していつの間にか眠っていた。
心身ともに疲れていたせいだろう。相当深く眠っていたのか鳥の声では起きなかったようで、今朝は祖母に起こされた。
多少気は重かったが、灯里の怪我を気にして手伝いを断ろうとする祖母を説得し、いつものように仕事をこなした。
「はい、この野菜もお礼に持って行きなさいね。…本当に大丈夫?」
「だーいじょーぶ! 足に負担掛けないために自転車で行くんだし。ゆっくり行って、ゆっくり帰ってくるから!」
今まで祖母と話す時にどもっていたのが嘘のようにスムーズに会話できる。昨夜祖母に助言を受けてから、もう彼女の前で萎縮することは無くなっていた。
「それじゃっ行ってきまーす!」
自転車の籠に荷物を入れ、サドルに跨る。ペダルは漕がずにつま先で地面を蹴って前進した。
本当は普通に歩けるのだが、重い荷物を持ちながらという事で祖母が心配したため、こういう変な移動の仕方をすることになった。
目的地は田辺商店だ。人に見咎められることもあまりないだろう。
何事もなく到着した商店に自転車を横付けする。籠から荷物を取り出して、ガラス戸を開けた。
「こんにちはー!」
「こんにちは、いらっしゃいませー。」
返ってきた声に少し気分が上がった。
「店番良啓くんでちょうど良かった!」
「アカリちゃん! 昨日はあの後大丈夫だった? 足も…」
「うん、大丈夫! 足もゆっくり歩けば問題ないよ。」
椅子から勢い良く立ち上がった良啓は、灯里がニコニコしながら答えると気が抜けたように腰を下ろした。
「それで、昨日のお礼に色々持ってきました。また同じ物で申し訳ないんだけど…家からは野菜を。いつもは人にあげてないのも入ってるから、良かったら皆さんで召し上がって下さい。」
「いや、美味しいからいつもありがたいし、今回も貰えて助かるよ。ありがとう。」
先に野菜入りの袋をレジ台に置いた。先日よりも幾分か軽いのは、入っている種類が若干違うからだ。
「それと…あたし個人からは、煮物作って持ってきました。お昼にでも食べて下さい。…ホントはお菓子でも作るところだと思うんだけど、甘いもの好きか分かんなかったから。良啓くんの口に合うといいんだけど。」
ちょっと照れながら紙袋に入ったタッパーを差し出す。目は見られなくて、かと言ってあからさまに照れるのも気恥ずかしくて、良啓の首の辺りに視線をやりながら手渡した。
「え、ありがとう。――えっ、本当にアカリちゃんの手作り?」
「…あたしってそんなに料理できなさそーに見える?」
ぶすっとして視線を下げる。拗ねたように見せかけてはいるが、少し落ち込んでいた。
「あっ違う、違うよ!? ええっと、手料理なんて貰うの初めてだからちょっと信じられなくて…。嬉しいです。いただきます。」
「…ちなみに甘いものは好き?」
「甘党って訳じゃないけど、普通に好きだよ。むしろ好き嫌いはほとんど無いかな。」
「手作りのお菓子を貰ったことは?」
良啓の弁明で一気に機嫌が上昇した灯里は、踏み込んだ質問もしてみることにした。
「…ここのご近所さんには和菓子をよく貰ったよ。あとは…クラス全員にクッキー配ってる女の子に貰ったりしたね。」
「え、バレンタインに彼女から貰ったりとかは?」
良啓が喉に何か詰まったような顔をした。一呼吸置いた後に、苦い声で返事が返ってきた。
「……彼女いたこと、無いデス。」
「あっは! モテない男だ!」
「そんなはっきり言われるとさすがに傷付くよ、アカリちゃん…。」
良啓がガックリと項垂れる。
灯里は懸命に笑いを堪えながら励まそうとした。
「良啓くん優しいしいい人なのに何でだろね?」
「…高校は男子校だったし、学部は理系、都会っぽい女の子には怖くて話し掛けられないで、そもそも僕には女の子の知り合いがほとんど居ないんだよ。」
「そっかぁ、じゃあ話せるように頑張らないとねー。」
「…やっぱりそうだよね。…はぁー…」
良啓が深い溜息を吐いたところでガラス戸が開く音がした。
「こんにちは。」
「こんにちは! いらっしゃいませー。」
初老の女性が店内に入ってきた。灯里に会釈をして、調味料の並ぶ棚に向かって行った。
「あっしまった! それ、おばさんがお昼作る前に見せなきゃだよね? 邪魔してごめん!!」
「ああ、確かにそうだね。僕も気が付かなくて…」
「え、っと。それじゃ改めて。 昨日は本当にありがとう。良啓くんが探しに来てくれなかったら今ここには居られなかったと思う。感謝してます。」
深々と頭を下げた。灯里の精一杯の謝意を伝える。
「アカリちゃん頭上げて、気持ちは十分伝わったよ。とにかく君が無事で良かった。」
良啓はそう言って優しく微笑んだ。
その顔に灯里も笑顔を返す。満足して腰に手を当て、背筋を伸ばした。
「それじゃっ! 長々とお邪魔しましたー!」
「はい、また何時でもおいで。…気を付けてね。」
良啓に手を振って元気良く店を後にした。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
午後中家に居た祖母と灯里は何だか浮足立っていた。
祖母は珍しく手伝いを願って灯里を傍に置こうとしたし、灯里もなるべく一人にならないようにしていた。
(写真だって消したし、誰かと居れば大丈夫だとは思うけど…。)
考え事をしながらも祖母に頼まれた手仕事を終えた。手先が器用な灯里は、教わればすぐに出来るようになったので、二人での作業は思いの外捗ったのだ。
「これ片付けてくるわね。灯里はお茶淹れてくれる?」
「はーい、まかして!」
台所で急須を取り出した灯里は、昼過ぎにお茶休憩をした際に祖母に教わった美味しくなる淹れ方を実践した。
蒸らしている間に考え事の続きをする。
(おばあちゃんの話では翌日だったけど、あたしは翌日自分で行きかけて、連れてかれたのは二日後で…。一体いつまで気を付ければいいんだろ? 自宅に帰ればもう大丈夫だろうけど、ここに来る度気を付けなきゃだったら困るなぁ。)
20秒程蒸らした煎茶を温めた二客の湯呑みに交互に注ぐ。お湯が少し多かったようで、注ぎ切った頃には湯呑みには並々とお茶が入っていた。
(あ、ちょっと多かった。あっしかも茶の間でやれば良かった! これじゃ運んでる間に絶対零すよー、失敗したー。)
胸を張って引き受けたというのに失敗してしまって恥ずかしい。
せめて味はどうかと自分の分を一口飲んだ。
(――うん、不味くはなってない、かな?たぶん、きっと…。)
煎茶の味の違いなど分からないことに気付いてしまって落ち込んだ。
(…って、お茶のことより自分のこと! 何か“もう大丈夫”って言える指標とか無いのかな? 昨日何か気付かなかったか良啓くんにも聞いて―――)
そこで一瞬思考が止まった。今までそのことに誰も気付いていなかったという事実に冷や汗が出た。
(そうだよ、良啓くん! バカっ昨日あたしを探して入っちゃったから、彼も危ないかもしれないのに!)
咄嗟にスマートフォンを手に取った。連絡先一覧を表示させ、そこで指が止まる。そもそも良啓の連絡先を知らなかった。
苛立ち紛れにスマホをジーンズの尻ポケットに乱暴に突っ込む。
昼前に会った時には自身も危ないことに気付いている様子は無かった。
しかし、優しい良啓のことだ。気付いていても、全く思い至っていない様子の灯里に心配をかけるようなそぶりは見せないだろう。
灯里は良啓が気付いているのかいないのか、判断を下せるほど彼のことを知らなかった。
居ても立っても居られなくなった灯里は走って玄関に向かった。途中ですれ違った祖母が珍しくも目を丸くしている。
「灯里!? どうし――」
「田辺商店に行ってくる!! スマホはちゃんと持ってるから!」
スニーカーを履いて玄関を飛び出した。後ろで呼び止めるような声がしたが聞こえない振りをして走る。
すぐに足裏に痛みが走ったが、それも無視して走り続けた。
体力の無い灯里には5分の道程は厳しかったようだ。田辺商店に着いた頃には汗だくになり、ゼェゼェと息が乱れて苦しい。
店のガラス戸に手を掛けたところで、視界の端に何かが見えて、左側に顔を向けた。
道路を歩き去っていくひょろりと背の高い後姿があった。
(良啓くんだ!)
「っ良啓くん!!」
背中に大きな声で呼びかけようとしたが、酸素の足りない状態では思ったような大声は出なかった。
気付かず歩き続ける良啓を、再び呼び止めようと声を張り上げる。
「良啓っ、っ、ゲホゲホッ」
今度は咽てしまう。息が整わないうちは呼び止めるのを諦めることにした。
代わりに疲れた足で後を追いかける。再び走ることは出来そうになかった。
(山に入るつもり? やっぱり、なんかおかしい…。)
息が整って早足になっても、大声で呼びかけても良啓との距離が縮まることも、彼が振り返ることも無かった。
町の中に居るうちに追い付きたかったのだが、それは叶わず良啓は山に入ってしまった。
(――痛っ…。)
足裏の傷口が開いてしまったのだろう、怪我をした辺りが脈打っているように感じる。
痛みで灯里のペースが落ち、良啓から離され始めた。
(山の中じゃ見失っちゃう!)
懸命に追いかける。
ふいに良啓の足が止まり、喜びかけたのもつかの間。
(あとちょっとで追い付く! …あれ、ここって…っ!)
良啓が立つ前にはコンクリートの壁、そして庇の付いた鉄扉があった。一昨日灯里が来てしまった場所だ。
良啓は南京錠がかかっているはずの取っ手を掴み、引いた。ギィ、っと耳障りな音がして扉が開いた。
「――やだ、嘘…。ダメ、良啓くん!!!」
バタンッと大きな音を立てて扉が閉まる。良啓は灯里の悲鳴のような静止も聞かずに中に入ってしまった。
灯里は呆然と鉄扉の前に立ち尽くした。
(――ここ、遊園地に…。なんで、連れてかれて、鍵は、 )
思考が空回る。
灯里は鉄扉から、良啓へ伸ばしたまま固まっていた自身の手に視線を移した。
(そうだ、今は考えてる場合じゃない。あたしを助けたせいで巻き込まれちゃったんだよ? 今度はあたしが助けないと!)
意を決して鉄扉の取っ手を掴んだ。
はい、また長くなって分割です。
本当申し訳ないです…