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アパルトマンへようこそ  作者: あめ
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102号室:豊岡 和臣




 しとしとと雨粒が降り注ぐ中、豊岡さんとふたり、公園の中央に位置するたこさん滑り台内の空洞に収まりながらじっとしている。

 確か今日の天気予報は、曇りときどき雨。傘を忘れずにお持ちくださいと天気予報士のひとが言っていたような気がするけれど、すっかり忘れて出掛けてしまったのが運の尽きであった。いつもは子どもたちの姿があるはずのこの公園にも、今はひと気がなく、雨足は微弱ながらも一向に止む気配はない。

 昔アメフトをやっていたというだけあって、豊岡さんはとてもがっちりした大きな体格をしている。身長も180、190くらいありそう。ずいぶんと窮屈そうに収まっている様子を見ながら、なぜ雨除けにこんな狭い場所を選んだのかと首を傾げたけれど、かく言うわたしも同じ穴の狢なので何も言えない。

 ちなみにわたしは、近所のコンビニにお目当てのアイスがなく、少し遠出したもののやっぱりどこにもそのアイスがなかったので何も買わずとぼとぼと帰宅する途中だった。豊岡さんは会社帰りなのか、土曜日なのにスーツを着ている。あっくんは土日休みらしいけれど、豊岡さんの会社はそうじゃないんだろうか。それにしては、仕事終わりというには中途半端な時間帯である。午後お休みだったのかな。


「……言いたかった……の、かな」


 この分なら多少濡れるのを覚悟でアパルトマンまで走った方がいいのでは、と提案しようとした矢先、先ほどから微動だにせず体育座りしていた隣の豊岡さんが、一言発した。

「……なにを?」

 純粋に、疑問に思ったことを尋ねる。なにぶんずっとじっとしていたところへ突然の発言だ。話の内容に心当たりがない。

 豊岡さんは、わたしの声がちゃんと聞こえたのか不安になるほど、長いこと黙り込んでいた。もしかしたらさっきのは単なる独り言だったのかもしれない。けれど、この距離で独り言いわれたらさすがに質問しちゃってもしょうがないとも思ったので、黙ったまま返答を待つ。

「……姉。が、いるんだけど」

 囁くように豊岡さんが言った。気をつけていないと、雨音にかき消されてしまいそうな声だった。

「お姉さん?」

 問い返すと、とつんとちいさく頷く。

「姉は……昔から僕のこと、嫌いみたいで。しょっちゅう、お前は気持ち悪い、死ね、どっか行けって言われていて」

「それは……ひどい、ね」

「……でも、僕は……そう言われても、仕方がないやつだから」

 わたしが来るより前からここに収まっていたらしい豊岡さんは、いつもアパルトマンですれ違うときよりもずっと蒼白い顔をしていた。さっきからこの顔色なのでとくにこの話題を出したからではなさそうだけれど、話していて気持ちのよい話題でも、なさそう。

「豊岡さん」

「え……あ、なんだい?」

「その話、今したい気分?」

 目尻に向かって下がり気味な、優しげな二つの眼を見つめると、豊岡さんは慌てたように早々に視線を外して俯いてしまった。血色の悪い唇が戦慄いている。

「あ、ご、ごめん……面白い話じゃ、ないよね。……ごめん、そういう……あの、昔のこと急に思い出したら、動けなくなって。そしたら、雨が降り出したから……手近なところに移動しなきゃって。だから、ここに」

 いたんだってことを説明したくて。と、後半は言ったんだと思う。たぶん。

 余計な話だったね、こんなこと聞きたくないよね、とも言っていたような気がするけれど、ほぼほぼ豊岡さんの膝と顔の間にある空間に吸われてしまって聞き取りづらい。

「あ、ちがう」

 そこで、言葉選びを間違った、と気付いた。

「違くて。あの、その話しないでって意味で言ったんじゃないよ。ごめんなさい、言い方間違ったかもしれない。あんまり話したいことじゃなかったら無理して言わなくていいよって言いたかったんだけど、ええと」

「あ……そ、そう、なんだ」

「だから、豊岡さんが話したいなら、わたしも聞きたい、よ。っていう。ええと……」

「ぼ、僕こそ、勝手に勘違いして……」

「いや、全然……」

「いやいや……」

 ふたりしてしどろもどろしてしまう。あわわ。


 一頻りしどもどし尽くして、数分。

 落ち着いてきた頃に、豊岡さんはわたしの様子を伺いながら「立っていられなくなったんだ」と呟いた。

「目眩とか、吐き気とか、そういうのはなくて……ただ、急に、思い出したくないことを思い出して、ほんの少し……立っているのがつらく、なる時があって」

「……うん」

「そういう時に、こ、こんなところへ逃げるから、気持ち悪いって、言われるのにね……」

 豊岡さんはそう言って微かに笑ったけれど、わたしは、全然笑えなかった。

 だって、わたしにも覚えがある。立っていられなくなるほどの嫌なこと。不意に襲う記憶のかたまりと、耳に反響することば。もうずいぶん前のように感じるのに、たった今起きたことみたいに甦る"それ"。

 豊岡さんはわたしに気を遣わせまいとしているのかもしれないけれど、笑わなくていいのに、と思った。自分が傷ついたことを、笑って、なんでもないように話さなきゃいないなんて、そんなことはないのに。


 豊岡さんはアパルトマンでは達也さんに次ぐ古株らしいのだけれど、シャイなのかなかなか共有スペースに来てくれず、実のところあまりしっかり話したことがない。たまに、朝仕事へ出かけていくよれよれのスーツ姿と鉢合わせして挨拶する程度。

 ママは時々一緒にお茶を飲んだりしているそうだけど、豊岡さん自身はあんまりアパルトマンのひとたちとは関わろうとしていないみたいで、栞里さんにいたっては挨拶しようとしたら逃げられたと話していた。

 そんなだから、豊岡さんがどういうマイノリティなのか、わたしは知らない。自分を気持ち悪いと言われても仕方ないやつだと言う、その言葉から彼の人生を想像するしかできない。なにもわからないのだ。わからないけれど。

 けれど、気持ち悪いって言われても仕方ない人間なんて、いるんだろうか。

 ひとにそういうことを言わない方が良いのはもちろんとして、だれかにそう言われるのももちろんつらい、けど、自分自身を気持ち悪いと思いながら生きることの方が、わたしにはつらいことのように思える。自分はおかしいんだ、変なんだと思いながら生きるのは、とても、とても苦しい。逃げ場がなくて、常に責められている気分になる。少なくともわたしは、そういうものから解放されたくてあのアパルトマンに来た。

 豊岡さんも、もしかしたらそうなのかもしれない。ひとに関わろうとしない豊岡さんだけど、それでもあのアパルトマンに住んでいるってことは、豊岡さんだってきっと、すこしだけすくわれたいと思ったんじゃないだろうか。

 「仕方なくなんかない」って、本当は言いたかったんじゃないだろうか。


「……あ」

 そこまで考えて、ぽろりと一音がこぼれ出た。びょっと隣の豊岡さんが跳ねる。びっくりさせてしまった。

「そっか。だから、そうなんだね」

「え……」

「最初に言ってたこと」


 『……言いたかった……の、かな』

 

「あ……」

 豊岡さんが、わたしを見つめる。

 たれ目がちの目がまるく見開かれて、口もぽかんと開いていた。どうして、とでも言いたげな顔だと思ったけれど、それが実際に音になることはなかなかなくて、開いたままの口が音を成そうとして震えているのを眺めながらじっと待つ。

 雨音が先ほどよりも強くなっていることに気がついて、ふと、帰りどうしようかなあと考えた。

「……そう、なんだ……」

 何度か失敗して、ようやく漏れでた声は、やっぱり弱々しい。

「僕は、確かに……気持ち悪くて、い、生きてるだけで、迷惑……なのかも、しれないけど」

 涙は流れていないのに、泣いているみたいな豊岡さんの声、顔。

「……でも、姉さんが言うほど、駄目じゃない、って。きっと」

 わからない。自信はない。ほんとうは本当に駄目なのかもしれない。生きてていいのかな。迷惑じゃないかな。いつだって不安で、崩れ落ちてしまいそう。でも、それでも。


「僕は、そんなに駄目なやつなんかじゃないって。ずっと……言いたかった」


 ──信じたい。

 特別じゃなくても、上等じゃなくても。駄目ではないって。

「……うん」

 そうだよね、豊岡さん。





「……なんで二人してそんな狭いとこにいんの?」

 たこさん滑り台の中の空洞を覗くように顔を出したあっくんは、心底呆れかえったような表情でそう言った。

「急に傘持ってきてくれって連絡きたと思ったら……。あんたら一応社会人なんだから、カフェとかもっと適当なとこで雨宿りしろよ」

「咄嗟に入っちゃったんだもん。ね、豊岡さん」

「う、うん……。あの、わ、わざわざごめんね。四月一日君」

「……いいよ。別に」

 あっくんが傘を差し掛けてくれているので、そこへ向けてもぞもぞと出ていく。まずはわたし、次に豊岡さん。最悪、豊岡さんはつっかえて出てこれないのではと思ったのだけれど、さすが小一時間収まっていたことだけはある、うまいことコンパクトに肩をすぼめて脱出に成功していた。


 ようやく自由になった四肢を、傘の下でぐっと伸ばす。直接雨に当たっていないにせよ、ずっと体育座りをしていたせいかお尻のあたりがじっとり湿気っているのが不快だ。這い出たときに地面へついた手や膝にも、もはや泥と呼んで良さそうな土粒やべちゃべちゃの葉っぱなんかが張り付いている。

「帰ったら風呂と洗濯だね」

 自分が差しているのとは別に持ってきていたらしいビニール傘をわたしに手渡しながら、あっくんが言う。しょんもりしながら頷き、その傘を開くと、骨組みが一本ひん曲がっていた。

「いやごめん。それ捨てようと思ってたやつだから」

 ……他のにしてよと思ったけれど、文句は言うまい。

 ちなみに、豊岡さんに渡された傘はママから借りたものらしく、骨組みも柄の部分も何から何までしっかりした作りだったが、白地にピンクや青の花柄が大判でプリントされた大層エレガントなものだった。あっくん曰く、豊岡さんに合いそうなサイズの傘がこれくらいしかなかったから、らしい。

 豊岡さんは一瞬ものすごく複雑な表情をしたあと、わたしと同じくもろもろを呑み込んだらしい。柄のボタンを押し、パッと傘を開いた。

「……。やっぱり、僕にはちょっと……か、かわいすぎるね」

 やっぱり言わずにはいられなかったのか、ぼそぼそと恥ずかしそうに豊岡さんが言う。

「そうでもないんじゃない? 似合ってる似合ってる」

「そ、そうかな……」

「エレガントさが増したね」

 あっくんの言葉にわたしが同調すると、豊岡さんは味方をなくしたと言わんばかりに眉毛をへにゃりと八の字にした。それを見て、あっくんが思わずといった様子で吹き出す。自分もよく八の字にしてるくせに。

 わたしが、小さいし壊れてるけどわたしのと交換する?と尋ねると、豊岡さんは少し考えるような素振りをみせたあと、ゆるゆると首を横に振った。

「……ありがとう。でも、やっぱりいいよ」

「いいの?」

「似合わなくても、『駄目じゃない』……から」

 そう言って、豊岡さんがすこしだけ笑う。いたずらっ子のような、叱られる前の怯えた子のような、まだどっちつかずの笑顔だった。へたくそなそれに、つられてわたしもへんな笑顔になってしまう。

 あっくんは、様子のおかしいわたしたちを見て怪訝そうに首を傾げていた。意味がわからないだろうから当然だ。だってこれは、この雨の日の、ふたりだけの秘密のことば。







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