遠き守り 第四話
道が開けると、少し明るくなった。
先ほどの飲み込むような闇はなくなり、いつもの薄暗い森へと戻ってきたようだ。
「良かった…」
私はほっと胸をなで下ろす。
「って、いや、壱灯さんたちとはぐれたんだから、まだ安心はできない…」
一人で突っ込む。
その虚しさに溜息をつきながら、あたりを見回した。先程より明るいと言ったものの、やはり遠くまでは見渡せない。
このまま進むべきか、此処で待っているべきか悩んでいると。
ガサガサ…
音がした。
私は凍りついたように身を固くした。
音がしたのは自分の前方からだ。
「…っ」
私は息を呑む。
どうしよう。妖怪だったら私、もう…
そう思うより前に、その音の主は私の目の前に姿を現した。
「た、食べないで!」
「香織さん!」
私がとっさに目を瞑って自分を庇うと、聞き慣れた声が飛んできた。
「って」
私はその聞き覚えのある声に、ぱっと目を開ける。
「壱灯さぁん!」
私は彼を認識した瞬間、情けない声を上げた。
壱灯さんに駆け寄り、少し涙ぐむ。
「急にみんないなくなっちゃうんですもん!」
私は文句をたれた。
多分、急にいなくなったのは自分の方かも知れないけど。
「ごめんね。見つかって良かった」
壱灯さんは柔らかく微笑んだ。
天使みたいだ…
私は急に冷静になって思った。
「今手分けして香織さんを探していたんだ。離れるのは危険だけど…香織さん一人にはしておけないから」
言いながら、そっと私の手を握る。
「怖かったね」
そう、労いの声を掛けてくれた。
天使だ。
私は確信した。
自分の浅はかな考えを恥じるように、私は壱灯さんを凝視した。
壱灯さんは頭にははてなマークを浮かばせながら、分からないながらにも苦笑いした。
「さっき向こうの方で分かれたから、まだ近くにいるかも…と言っても、さっきの大きい天邪鬼も近くにいるんだろうけど…智迅がそれぞれの位置がだいたい分かるらしいから、智迅を先に見つけられれば…」
と、言っていると。
「あ、壱灯発見!香織ちゃんも!!」
話題の主、智迅さんが登場した。
「助けて!!」
背後にあの巨体を付き従えながら。
「!?」
私と壱灯さんは繋いだ手をそのまま固く握って驚いた。
「香織さん、其処に居て!」
壱灯さんは私より先に反応し、私から手を離して智迅さんの元へ駆け寄る。
「もう戦うしかないよ!」
「分かった…!」
智迅さんが勢いよく踵を返し、背を向けていた相手を真正面に据える。
金の髪が遅れてなびき、その手にはいつの間にか刀が握られていた。
壱灯さんも細身の剣を携えて、智迅さんと並んだ。
天邪鬼は音を立たてて立ち止まる。袖が木の枝に引っかかり、木が迷惑そうに葉を揺らした。
あの時は一瞬で分からなかったが、天邪鬼の左手には鉈のようなものがあった。
錆びついて切れ味が悪そうな鉈を、天邪鬼は振り上げ、威嚇するように自分の目の前で振り下ろし地面に叩きつけた。
私たちに向かって、大きな叫び声をあげる。
私は目を瞑るほどの大きな声に、怯えて動けなくなった。
しかし壱灯さんと智迅さんは違った。
彼らはその声を合図に二手に分かれ、両脇へ廻る。
獲物を分断された天邪鬼は、どちらを狙おうか一瞬思案した。
その瞬間を見逃さず、智迅さんが天邪鬼の左手首を切りつける。
しかしその攻撃は浅く、天邪鬼が煩わしそうに鉈を持つその左手で智迅さんを振り払う。
すんでの所でそれを避け、後方に飛びすさる智迅さん。
「はぁ!」
智迅さんに注意を向けている先に、壱灯さんが背を向けた天邪鬼の背中に一閃した。
天邪鬼は大きな声をあげて頭を振った。
その攻撃も浅いらしく、すぐに天邪鬼は体制を立て直す。
「うひー!やっぱり無理かもー!」
安全な木の上に退避した智迅さんが泣き言を言う。
その時。
「情け無ェ声だなァ!」
その頼もしい声は頭上から降ってきた。
私が見上げるほど大きな天邪鬼の更に上を見ると、其処には宙に浮いた左甫さんがいた。
いや、どこから飛んできたのだろう、左甫さんは天邪鬼の頭に向かって落ちてきている。
「本ッ当にでけェな、手前は!」
左甫さんが怒りを含めた声音を吐きながら、天邪鬼のこめかみにクナイを投げた。
刺さった場所から黒い靄が溢れ出し、天邪鬼は鉈から手を離して両手で顔を覆った。
その手に着地し、すぐさま地面に飛びすさる左甫さん。
「此処で片をつける!」
左甫さんが合図を送ると、智迅さんと壱灯さんが同時に頷き、天邪鬼の後方に廻る。
三人で囲むような形になり、それぞれ手を合わせて目を瞑る。
『諸々の禍事、罪、穢を有らむをば』
三人で口を揃えて唱え始めた。
すると天邪鬼の足元に何かの模様が光を発しながら浮かび上がる。
天邪鬼は頭を抑えたままで悲鳴をあげていた。
『祓へ給へ、清め給へと白す事を、聞食せと、恐み恐み申す!』
三人が言い終わると、その光は一層強さを増し、私は目が眩んで思わず目を閉じる。
目を瞑ってもわかる其の光の強さが落ち着いた頃、私は恐る恐る目を開ける。
すると、其処には何も無かった。
いるのは、疲れきったようにへたり込む三人の姿だけだった。
「だ、大丈夫ですか!?」
私は夢中で近くにいる左甫さんに駆け寄った。
左甫さんは眉間に皺を寄せて非常に不機嫌そうである。
「ッたく、だからオレらだけで浄化は辞めようって言ったんだ」
「もう動けない〜」
智迅さんは一人遠くで何か言っている。
「授業で習っただけだけど、此処まで疲れるなんて…」
剣に体重を預けながら、座り込んだ壱灯さんが呟いた。
終わったような雰囲気の三人の中で、私の心のざわめきは収まっていなかった。
あの妖怪…私が最初に会った妖怪じゃない…
そう、私が一番最初に出会ったあの、女の人のような妖怪。
もっと牙が大きくて、なんというのか、もっと恐ろしいような雰囲気で…
左甫さんは立ち上がり、天邪鬼がいた場所で何かを確認している。
「ぐへぇ〜」
「智迅、大丈夫?」
一人でぐだっている智迅さんに、やっと立ち上がった壱灯さんが声をかける。
智迅さんはうぅんと唸って、それ以上の返事はしなかった。
「あの、大変言いにくいのですが…」
私はおずおずと三人に話しかける。
「私が最初に会ったのは…」
と、言いかけて。
壱灯さんが私を見て顔を青くさせていたのを、見た。
そして、それと同時に私も気付いた。
私の後ろに、何か居る。
振り返った。
すると其処には、私がつい先程まで思い浮かべていた存在が、在った。
あの、最初の妖怪。
『其れ』は私に目掛けて何かを振り下ろそうとしていた。
それが何だったのか、それすらも認識する間もなく。
「おんやァ、目が合うた」
妖怪は、口をにんまりと横に伸ばして笑った。
そして、その腕を振り下ろす。
その一瞬で思い浮かぶのは。
優しい、あの祖父の面影。
瞬間、何かが私の前に立ちはだかった。
いや、立ちはだかるほど大きい存在ではない。
しかし私には、とても大きく写って見えた。
それは、あの絵馬だった。
「おじいちゃん…?」
私は自然と口にしていた。
絵馬が眩い光を放ち、私も天邪鬼さえも包み込んだ。
私は眩しさに目を瞑る。
天邪鬼の悲鳴が聞こえる。
目を閉じている間、不思議な暖かさに包まれた。
そして、誰かが私の頭を優しく撫でてくれたような気がした。
薄目を開けてその主を見る。
私の方へ腕を伸ばしていたのは、私がずっと焦がれていた相手そのものだった。
祖父は優しく微笑んで、私の表情を見つめていた。
その優しさの中には、私を心配するような少しばかりの陰りも見て取れた。
「おじいちゃん」
私は話しかけた。
届いているのか分からない。
これは私の想像だけなのかもしれない。
でも、確かに感じるこの温もりを信じた。
「私、おじいちゃんと同じみたいに、不思議な体験をしているの」
言葉を一つ一つ、ゆっくりと紡いでいく。
「怖いこともあるけど、助けてくれる人たちが居てね」
おじいちゃんがそうしてくれたみたいに。
「私、きっと大丈夫だから」
私は強く言った。
ちゃんと届くように。
「今はまだ寂しいけど、きっと大丈夫になるから」
想像でも、ちゃんと届くように。
言い終わると、おじいちゃんは私から手を離し、にっこりと笑った。
「それは良かった」
そして、光が消えた。
目の前の天邪鬼は未だ光に怯んでいた。
「香織さん!」
壱灯さんの声がした。
気の抜けた私の元へ駆け付け、私を庇うように前に立ちはだかる。
『諸々の禍事、罪、穢を有らむをば』
「手前じゃ無理だ!」
左甫さんが怒りも含めた声音で制止する。
しかし壱灯さんは唱えるのをやめない。
『祓へ給へ、清め給へと白す事を!』
天邪鬼が私たちを見た。
足元から淡い光が現れる。
しかし、それは弱々しく、今にも消えてしまいそうだ。
助けて、おじいちゃん…!
私は手を握り合わせて祈った。
『聞食せと、恐み恐み申す!』
そして。
天邪鬼の後方に、線を残す程黒い何かが真横に飛んだ。
その黒い何かは天邪鬼を囲むように頭上でぐるぐると回り始める。
壱灯さんは詠唱に集中しているようで、それに気付いてはいないようだった。
その黒い何かが回り始めると、天邪鬼の足元の光が次第に強く光り出す。
天邪鬼はその光に怯み、動きを止めた。
壱灯さんが言い終わるのと同時に、眩い光が天邪鬼を包む。
天邪鬼は森全てに響くほどの悲鳴をあげて、やがて黒い靄となって消えた。
光が潰えると、壱灯さんは音を立てて座り込んだ。
「終わった…んでしょうか」
未だ夢心地のような私はぼんやりと呟いた。
「うん…何とかなったみたい」
壱灯さんはへたり込んだまま言い、私を見上げ疲れた顔で微笑んだ。
「大丈夫ですか?」
私は頷きながら、壱灯さんに手を差し伸べる。
「ありがとう」
壱灯さんは柔らかく笑うと、私の手を取り立ち上がる。
「壱灯、無事か?」
「うん、ちょっと疲れたけど」
「壱灯ぃー!!」
左甫さんが駆け寄るより先に、智迅さんが壱灯さんの胸に飛び込んできた。
その反動を受けきれず、再び倒れ込む壱灯さん。
「良かった!良かったぁ!」
智迅さんは本当に心配してくれてたようで、今にも泣きそうな顔で壱灯さんに抱きついている。
「うん、大丈夫だよ」
智迅さんを宥めるように優しく返事をする。
「しかし…」
左甫さんは何か言いかけて、そのまま深く考え込んでしまった。
「?」
私は疑問に思ったが追求するより前に、先ほどの黒い正体を探した。
しかし森の中はすっかり暗闇を取り戻していて、今見つけることは難しそうだ。
何だったんだろう…
悪いものには感じなかった。
壱灯さんに力を貸していたような…
あれも祓い屋さんの特殊な力なのかな…
などなど一人思案しながら、私は壱灯さんたちを見る。
未だ智迅さんは壱灯さんから離れない。
不思議な人たちだ。でも、私を助けくれた。
おじいちゃんにも、会えた。
さっき会えたばかりで、それがより一層自分が寂しいことを自覚させた。
でも、それと同時に、勇気ももらえた。
この寂しさを抱えて、歩いていく勇気。
きっと大丈夫になる。
私は思った。
おじいちゃん。
私は優しい心で呼びかける。
鞄につけた絵馬を撫でた。
森の中には優しく柔らかな暗闇が広がっている。
でも、足元はちゃんと見える。
胸に灯る温かな希望を感じる。
私、おじいちゃんに話したいことがあるの。