遠き守り 第三話
一日中ぼーっとしていた気がする。
放課後になり、生徒たちが流れるように自宅へと向かっている。
靴を履き替えながら、私はため息を吐いた。
昨日あんなことがありながら、今日も普通に学校に来て、一日が終わろうとしている。
残酷だと思った。
おじいちゃんがいなくなってから、ずっとこの理不尽さを思い知らされる。
いつまでも、いつまでも続いている日々。
止まることがない。
こんなに悲しいのに。
「……」
私は足元に転がる自分の靴を眺めていた。
ううん、駄目だ。こんなこと考えてちゃ。
私は重くのしかかるものを振り払うように、よし、と言いながら靴を履く。
校門を抜けて家へと続く細い道に入ると、優しげな声に足を止める。
「香織さん」
「壱灯さん」
壱灯さんはどこにいたのか、ひょっこりと私の背後から出てきた。
「この格好でうろうろしていると怪しまれるから…」
驚いた表情の私に説明するように、恥ずかしそうに壱灯さんは言った。
「確かに、怪しいですものね…」
「ぼくたちは妖怪達と同じような感じで、普通の人からは認識されにくくはなっているんですけど…」
「へえ!不思議な力ですね」
「この服にそういう加護をつけているみたいだよ。左甫からの受け売りだけど…」
「左甫さんって色々知っているんですね」
「左甫は古神道の生まれらしくて、生まれた時から妖怪のこととか、祓い屋のこととか知ってたみたい」
「古神道って、壱灯さんたちがいる場所なんでしたっけ。此処は確か、現世って呼んでいるんですよね」
「あれ、香織さんも知ってるの?」
「おじいちゃんからの受け売りですけど…」
先ほどの壱灯さんのような返しを真似して、私は微笑んだ。つられて壱灯さんも柔らかく微笑む。
「左甫や智迅に助けられてばかりじゃなくて、ぼくも二人の力になれてあげられたらなあ…」
壱灯さんは遠い目をして呟いた。
しかし、その言葉に私はきょとんとする。
「壱灯さんだって、二人の力になれているんじゃ…」
言いかけて、壱灯さんが私の前で立ち止まり、止まって、というように手で制した。
私ははっとして歩みを止める。
壱灯さんが険しい顔をして前方を見つめていた。
「天邪鬼だ」
壱灯さんがいって、懐から紙のようなものを取り出した。
「香織さん、下がって」
「は、はい」
私は身を固くしながら、壱灯さんの後ろに隠れる。
夕暮れに照らされた道に、もやもやと黒い霧のようなものが広がっている。
その霧の中に、鋭い鉤爪を持った足が見える。人の足と似ているが、大きさが明らかに違うことが、離れていても解った。足を辿り目線を上に移動させていくと、所々みすぼらしく破けた簡素な服が見える。そして、ぎざぎざとした歯をちらちら見せながら、口を横に引いて笑っているかのような顔が見えた。鋭い目つきに、頭には昨日見たのと同じ……角がある。
未だ信じられないその存在に、私は確信した。
やっぱり、夢じゃなかった。
その確信にはやはり、安堵感も、見え隠れしていた。
ギャ、ギャ、と天邪鬼は嬉しそうに鳴いている。今までの仇を見つけて喜んでいるように。
私を、おじいちゃんと勘違いしている。
天邪鬼は明らかに私しか見ていなかった。
天邪鬼と目が合って、私は壱灯さんの服の裾を思わず掴んだ。
こわい。
そう思った。
「大丈夫です」
私の恐怖心を受け取った壱灯さんが、天邪鬼から目を離さずに、優しく左手で私の手を握る。
札を持っていたはずの右手には、いつの間にか剣が握られていた。
そして、壱灯さんはゆっくりと剣を両手で握った。
瞬間、天邪鬼が跳ね上がる。
私たちの背より遥かに高く跳び、私達は空を見上げた。
天邪鬼は私だけを見て向かってくる。
「香織さん!」
壱灯さんは足がすくんでいる私の肩を押し、私はその勢いにその場から自然と離れた。
私がいた場所に壱灯さんが立ち、頭上から降ってきた天邪鬼を一閃した。
胴に一つの光の線が浮かび上がり、天邪鬼は悲鳴をあげながら黒いモヤとなって消えた。
「ここは人も通る。危険だけど…他の人もいると戦いづらいし、人通りが少ない道を選ぼう」
「は、はい」
私が頷くと、
「もう来やがったか」
頭上から声がした。
その冷ややかで落ち着いた声色に、私は聞き覚えがあった。
「智迅も向こうで掃除中だ」
「うわっ」
声の主が左甫さんだと分かっていても、突然真横に現れないでほしい…
多分屋根を伝ってここまで来たのであろう左甫さんは、私の隣で壱灯さんに報告する。
「智迅は一人で大丈夫かな」
「戦力的にはお前の方が不安だろ」
「うっ…」
痛いところを突かれたのか、壱灯さんは押し黙った。
「智迅さんは一人で何処に…?」
「智迅は他に天邪鬼たちが集まってるところを見つけてそいつらを祓ってる所だ」
左甫さんは言いながら、私の腕を掴んできた。
突然の行動に、私は思わず顔を赤くした。
「えっ」
「避けろ」
短くぴしゃりと言うと、左甫さんは空に向かって何かを投げた。
私が振り返ると、いつの間にいたのか…天邪鬼が黒い靄となって消えるところが見えた。
一瞬だが、その天邪鬼の丁度こめかみにクナイが刺さっているのが見えた。
「あ、ありがとうございます…」
何も知らず照れていた自分をひどく悔やみながら、私は左甫さんにお礼を言った。
「親玉を祓わねえと、こんなのいつまでも続くぞ」
「でも、先輩達は結界を貼れば大丈夫だって…」
「結界を貼る前にこっちが食い殺されるかもな」
「食い…!」
私は左甫さんの言葉にゾッとした。
「壱灯ー!」
そこで、元気に満ちた女の子の声が飛んできた。
「智迅、無事だったんだね!」
壱灯さんは私たちの後方を向いて笑顔になった。
私たちが振り返ると、そこには金髪に赤い着物の女の子、智迅さんがいた。
「壱灯ー!」
智迅さんは壱灯さんに駆け寄り、そのまま壱灯さんにダイブする。
それを受け止める壱灯さん。
仲が良いんだなぁ……
横で見ている私はしみじみ思った。
「向こうの方の妖怪は倒してきたよ!」
「無事でよかった。怪我はない?」
「平気!」
智迅さんはにっこりと笑った。
「どのあたりの奴を祓ってきた?」
左甫さんは未だくっついている二人をげんなりした顔で見ながら、智迅さんに聞いた。
「えっとね」
智迅さんは思案するふりをして空を眺める。
「あの時見た地図の……あの……」
言いながら右手を振って空を切っている。
なんの動作だろうか。
私と左甫さんが怪訝そうな表情でそれを見つめる。
「お箸を持つ方の」
「右?」
「そう、右!」
「東な」
智迅さんと壱灯さんの問答に、左甫さんがぴしゃりと言った。
「右も東もおんなじじゃないの?」
「……」
左甫さんが心底面倒くさいというような顔をしている。
「香織さんを無事に家に送り届けてから、次のことを考えた方がよさそうだね」
壱灯さんが険悪になりそうな雰囲気を察知して、慌ててそう挟んだ。
私も便乗してうんうんと頷いた。
辺りはもう暗くなりかけている。
壱灯さんの話からすると、妖怪の時間はこれからだ。
壱灯さんたちの足手まといにしかならない自分は、早く安全なところにいたほうが良いのだ。
「そうだな」
「変なにおいがする」
左甫さんが頷いた瞬間、智迅さんがそう言った。
「変なにおい?」
壱灯さんがすぐにそれに反応した。
智迅さんはこくりと頷く。
「なんだろう、天邪鬼の匂いなんだけど……いつものとちょっと違うというか……」
良い表現が見つからないのか、難しい顔をしてうーんと唸っている。
そこで私は、狭い道の真ん中に立つ、『それ』に気付いた。
先ほどの天邪鬼たちと同じような格好に、同じ牙に角がのぞている。しかし私は顔を真っ青にさせた。
「香織さん?」
私の表情が明らかに一変したことに気付いた壱灯さんは、私の顔を覗き込んだ。
「あ、あの」
私はあまりに頭の中が慌てていて、なんと言葉を紡げばいいのか分からず口をぱくぱくとさせた。
同じような天邪鬼だ。しかし、明らかに違う。
「あ、あれの匂いかな」
智迅さんは呑気に私が見ている方向を指さした。
『それ』を、指さした。
「って」
振り返った途端、流石の飄々とした左甫さんも目を丸くさせた。
「でっけええ!」
「香織さん、下がって!」
壱灯さんが瞬発的に私の傍に寄る。
「無理だ、オレたちで倒せる相手じゃ無ぇ!」
「それじゃあどうするの!?」
「逃げる!」
左甫さんは言うが早いか、私の腕をつかんだ。
「!?」
あまりに乱暴なその行動に、私は目を丸くさせた。
しかし文句を言う隙もなく、強い力で引っ張られ、とにかくそれについていくので精いっぱいだった。
「左甫、もうちょっと優しく!」
四人でとにかく走りながら、振り返れば大きな天邪鬼は私たちを追いかけている。
壱灯さんはその状況の中でも私を気遣って左甫さんに注意した。
「死にたく無ェなら我慢しろ!」
ですよね!
私はそんな返しをされるだろうと思って黙って聞いていた。
「こっちから綺麗なにおいする!」
「よし、そっちが神社だな」
「先輩たちのところに行こう!」
私たちは森の中へ入った。
振り返る必要もなく、未だあの巨体がついてきていることが気配だけで解る。
「いろんな匂いがこっちに来てる!」
智迅さんがひえーと声を上げた。
左甫さんが小さく舌打ちをする。
私をひく手を強くした。
私も怖くてその手を強く握り返した。
怖い。
私は息を切らしながら、胸を占めるその感情を必死で抑えた。
すごく怖い。
森の中では橙色の光が少しずつ暗闇に変わっていく。足元の土は少しぬかるんでいて走りにくい。冷たい風が無情に頬を撫でて去っていく。
怖い。
鞄を揺らす木札が腕に何度も当たる。
おじいちゃん……!
私は言いえぬ心細さに、目をぎゅっとつむった。
その瞬間、自分の手を強く握る力がふっと消えた。
自分の足を問答無用で動かしていた力がなくなり、私は立ち止まってしまった。
そのあとに起こる恐怖が脳裏にうつり、すぐさま私は振り返った。
振り返ったら、あの恐ろしい存在が目の前にいることを、想像しながら。
「あれ……?」
しかし、私の恐怖は私を馬鹿にしたようにぱちんと弾けて消えた。
「いない……」
背後には何もいなかった。
ただ、暗く口を開けている木々が並んでいるだけだった。
「あれ?」
そして、背後にいた壱灯さんも、横を一緒に走っていた智迅さんも、私の手をひいてくれていた左甫さんさえも、いないことに気付いた。
「さ、左甫さん!?」
恐怖に負けて、私は声を上げた。
「壱灯さん!?」
必死に辺りを見回す。
先の見えない暗闇に囲まれている。不気味なことに、風も吹いていないのか、木々の音さえもしない。
時間が止まっているかのようなこの場所に、足がすくんだ。
「智迅さん……」
泣きそうになりながら、私は呟いた。
急に体が冷えたように思えて、私は両腕をさすった。
「みんな……」
どうしよう。
私の頭の中はある一点の絶望の未来しかなかった。
このまま、ずっと一人なんじゃないか。
このまま、ずっと私は一人で、この誰もいない森の中で、誰にも見つけられないんじゃないか。
そんな未来しか見えなかった。
でも、その感情は、最近の自分の心なのだと、ふと気づいた。
「……ずっと、このまま、一人」
おじいちゃんのいない世界で。
足元を見つめる。
どんどん暗くなってきて、足元さえも見えなくなってきていた。
少しずつ闇が私の身体を包もうと手を伸ばしている。
「……ずっと、このまま一人のままなんだ」
私は呟いた。
おじいちゃんはもういない。
私にたくさんの話をしてくれた優しい人。
あの薄暗くも暖かな書斎で、埃の匂いさえも愛おしいようなあの場所で。
いつまでもお話を聞かせてくれた、かけがえのない人。
からん。
音がして、私はふと我に返った。
音は自分の手元からした。
視線を動かすと、そこには木札があった。
鞄につけていた木札があった。
「……」
私は優しくその木札を撫でる。
おじいちゃんが居なくなった後で、私はこんな不思議な体験をしているんだもんなあ……
私はゆっくりと、優しく触れるように思った。
おじいちゃんがいたら、すぐに話してあげたいのになあ……
その光景を私は想像する。
今度は私がお話をする番。おじいちゃんは、いつものあの優しい微笑で、でも私のお話に度々驚いたような顔をしてくれて。
最後には、それはよかったね、って、言ってくれる。
そう。おじいちゃんはいつもそう言ってくれる。
最後には、いつも優しい終わり方で締めてくれる。
おじいちゃんの優しい物語。
本当は、おじいちゃんが本当に体験した、お話。
「そう……今も私、同じように体験してる」
それはよかったね、で、終わる物語を。
私は前を向いた。
目前には闇があるだけだ。
もうすっかり辺りは暗くなって、一歩踏み出すだけで転んでしまうんじゃないかと思うくらい。
でも、私は一歩進んだ。
進まなきゃ。
私は思う。
ここから抜け出さなきゃ。
私は強く思う。
歩く。
走り出す。
転んでしまうかもしれない、その暗闇の中。
確かな光があると信じて。
私は走る。
からん、からん。
木札が私の呼吸に合わせるように音をたてて弾む。
それが私の背中を押すようで、勇気が少しずつ心に積み重なっていく。
大丈夫。
私は思った。
この先に、必ずある。
私は信じた。
立ち止まらないように、走る速度はそのままで。
からん、からん。
相槌を打つように、木札が音を立てた。