第三話 仙境縦断
見上げる天井は常に光を放ち続けている。
足元には草木が一面に生い茂り、
せせらぎが水音を響かせている。
その空気はたくさんの匂いを含んでいた。
匂いの発生源の一つである植物の死骸は、
次の世代の苗床だ。
その中では多様な姿の小型生物が、
騒々しく活動している。
そこは鋼の墓所に住まう者が夢見る異界、
永遠の真昼を謳歌する地下の楽園だ。
仙境――
迷宮の中で稀に遭遇する植物の大群落を、
この世ならざる異界の一種として、
探索者たちはそう呼んでいた。
仙境は多数での攻略に向いていない。
こういった豊かな領域には、
多くの魔物が生息している。
貴族なら根絶やしにもできるだろうが、
戦力の限られた商人には無理な話だ。
戦闘は避けるしかない。
穏やかな魔物の縄張りを縫う細道を、
少数で通行するのが探索の掟だった。
しかし掟は今、完全に破られている。
大荷物を背負った二十人の一団は、
がさりがさりと音を立てて歩む。
隊列を守る五人の傭兵は静かだが、
それ以外は戦闘職ではない山師に、
探索さえ不慣れな運び屋で、
足音にも経験不足が滲み出ていた。
ひっそり逃げ出す魔物もいるが、
苛立ちつつ寄ってくる魔物もいた。
足を止めれば囲まれる。
僕たちは無言で急ぐ。
目的地までには急な崖や谷、
幾つか難所があるらしい。
起伏の激しい道をよじ登り、滑り降り、
最初にたどり着いたのは巨大な亀裂。
谷には橋がかけられていたはずだが、
その痕跡は見当たらず、
魔物がたむろしている。
妙に膨れた四肢を持つ小型の黒熊だ。
傭兵が囮になり魔物を遠ざけると、
身軽な斥候が跳んでロープをかけた。
ロープを伝い進んだ先にあるのは水路。
深く、流れが速い。
透明度が高く水底の魔物がよく見えた。
長い尾と複数の触手を持つ蛙だ。
捕まったら終わりとすぐに分かる巨体。
浮き橋があったらしいが、
流されたらしい。
傭兵が魔物を牽制しながら、
荷物持ちを渡らせていく。
最後に抜けるのは沼地の森だった。
泥沼は背の高い草に覆われて、
何が隠れているか分からない。
しかし枝の上は上で、
色々なものが僕たちを窺っている。
羽を持つ爬虫類に小さな獣。
まとわりつかれ、
体勢を崩せば真っ逆さまだ。
樹上を行くルートは無事だったが、
やはり身軽な戦士が通る前提の道。
組みつけられたロープを握り、
おっかなびっくり進んでいく。
道なき道を、休憩を挟みつつ、
半日かけて通り抜けた僕たちは、
遂に目的地が見える位置まで辿り着く。
その先で待っていたのは魔物の群れだった。
先行部隊が拠点とした城砦は、
水路の傍に配置された複合的な設備で、
高層建築が幾つか並んでいる。
最も目につくのは巨大な三つのビルで、
三角形を形作るように配置されている。
その周りは低層の設備に囲まれており、
最外周には高い防壁が巡らされていた。
その周囲を魔物の群れが取り囲んでいる。
まだ距離がありよくは見えないが、
あの数と動きを見れば山師ならすぐ悟る。
(これは厄介だな)
(あの大柄なミンクのような、
かわいらしい姿の生物が、
そんなに危険なのですか)
フレアは三人分の荷を背負って、
軽い足取りで歩き続け、
疲労を欠片も見せていなかった。
(かわいらしいとは思わないが
弱そうな外見に騙されるのは、
初心者がはまる罠だ)
貪狼――
この群れなす魔物は、
地球時代にいた群れなす狩人の名に、
悪徳の名を冠してそう呼ばれていた。
地球時代の資料を見る限り、
その形状は確かに、
狼というよりはミンクだが、
大陸の生態系の設計者はこの箱船に、
ミンクを連れて来なかった。
大陸に現存する生物で、
最も似ているのは犬や狼の類だった。
それほど打たれ強くはなく、
慣れれば狩ることは難しくないのだが、
うまく武器を命中させるためには、
それなりの技術が必要になる。
狭い森や遺跡ではかなりの強敵で、
探索者の間の口伝えでは、
初心者殺しの魔物として名高いものだった。
だがその評価は、駆け出しの探索者が、
彼らが潜るような迷宮で遭遇するのが、
ほとんどの場合、はぐれ者の個体だからだ。
本領を発揮するのは群れを作る時である。
開拓初期の探索者が狼の名を与えたのは、
その連携能力の高さからだった。
四、五匹の群れでさえ、
下位の探索者では手も足も出ず、
やられてしまうだろう。
そして群れの密度が高まるほど、
危険度は更に増していき、
大きな群れには熟練者も近寄れなくなる。
駆除には大部隊が必要になった。
(厳しい状況なのですか?)
(目標次第だ。あの規模の群れを追い払って、
拠点を取り戻すのは難しいだろう。
奴らはしぶとい。
だが貪狼の戦術の根幹は相手を疲労させ、
動きが鈍ったところをなぶり殺しにするものだ。
一撃で仕留める力は乏しい。
単に突入して生存者を救出するだけなら、
今ある戦力でもできないことはない)
僕たちは拠点を遠望する高所に陣取ると、
いったん荷物を下ろして、策を確認した。
「聞いていたほどの数ではないようだけど、
これは油断できない数だね。君はどう思う?」
エンリックが長身の傭兵に尋ねる。
鍛え上げられているが、
余計な肉はついておらず細身の姿。
切れ長の細い目には威圧感がある。
男は傭兵組のリーダーのようだった。
彼は拠点を見遣りながら言う。
「貪狼だけなのが救いでしょう。
あれは噛む力が強くないので、
防具で十分受け止められます。
準備していた策でよいのでは?」
運び屋たちや山師たちはぼんやりとしている。
ここまで僕たちは詳細の説明を何も受けず、
何に使うのかもわからない大荷物を背負って、
ここまで行軍してきたのだ。
「みな、聞いてくれ。作戦を説明しよう」
エンリックが説明したのは堅実な策だ。
貪狼の素早い爪と牙を避けて戦うのは、
熟練の傭兵でも簡単ではない。
運び屋にそんな芸当は無理だ。
では、どうするか。
貪狼は確かに恐ろしい魔物だが、
その戦略は意外に単純だ。
翻弄され姿を見失ったところで足をやられ、
動きが鈍くなったら死角から急所をがぶり。
分かればすぐ防げるというものでもないが、
対策は立てられる。
「陣形を組む。円陣を組んで、
仲間の死角を守り合うんだ。
攻撃はこの鎧で受け止める」
僕たちが背負ってきた荷物の一つを開ける。
入っていたのは全員分の鎧だった。
厚布の服に、鋼線を編んだ上着と、
要所を守る金属防具がつけられている。
着てみると両手は思ったより自由に動く。
だが重量はかなりのもので、
確実に足は遅くなるだろう。
「避けずに手足で受けるんだ。
安心しろ。
奴らの牙は鉄を貫通しない。
そして受けたら押さえ込め。
そうすれば俺たちがすぐ仕留める。
自分が動ける時は周りに注意して、
動けないのがいたらとりあえず刺す。
そして押さえた奴に追撃が来たら牽制だ。
とにかく安全第一でゆっくり進んでいこう」
傭兵が怖気づく山師たちに言った。
その隣のエンリックは、
道中では僕たちを無視していたが、
そこでやっと僕たちを見た。
何事もなかったかのように微笑む。
「やあ、ラッカード。荷物運び、ご苦労様。
短い時間だが体力の回復に集中してくれ」
エンリックは悠揚と笑いフレアを見る。
「そこのかわいらしい君は、
随分と活躍したようだね。
あの量の荷を担いで疲れもしていないとは、
さすがは二つ名持ちだ。
君の名前を聞かせてもらってもいいかな?」
エンリックの声音は少し和らいでいる。
この強行軍の中、他の数倍の荷を担ぎ、
フレアは軽々と歩き続けた。
その姿を見て考えを改めたのだろうか。
フレアは僕をちらりと見る。
(このまま進めていいのでしょうか)
(奴がお前を探索者として扱う限り従うべきだ。
人に慣れていない小娘のふりでいこう。
少しでも油断させたい)
(難しい注文ですね)
それから向き直る。
「私はフレア……
フレア・スティールマンです」
エンリックは人懐っこく微笑む。
「美しい名前だ」
少女はそのお世辞に、
僅かな迷いと警戒を示しつつ答えた。
「ありがとうございます」
エンリックは微笑みを絶やさず、
本題に入った。
「折り入って相談があるんだけど、
少し時間をもらっていいかい?」
「どのようなお話でしょうか」
「そろそろ力を見せてはくれないだろうか。
荷物運びとしても十分活躍してくれたが、
今は一人でも陣形外の戦力が欲しいんだ」
フレアは答えず、僕に目を向ける。
(あんなかわいらしい子たちを殴るのは
気が進みませんが、仕方ありませんね)
(そんなにかわいらしいか?)
貪狼のどこかバランスを欠いた体躯は、
恐怖を感じる程ではなかったが、
心地よい造形とも思えなかった。
(昔友人が飼っていたペットに、
あんな胴長の犬がいたんです)
(あんなのを身近に置くなんて、
そいつの気が知れないな)
「これはジョセフにも了解を得たことだが、
フレアに依頼する際は僕を通してほしい。
彼女はお前たちとは契約していない」
僕の要求にエンリックは苛立ちを見せる。
「どちらでも構わないだろう!
で、どうしてくれるんだ?」
僕を避けて与しやすそうなフレアだけと、
話を進めたかったのだろう。
「今回はその依頼を受ける。
この突入戦に限り、フレアの力を貸そう」
彼は余計な条件に苛立ちを隠すことなく、
しかし話す時間さえが惜しいのだ、
そのまま同意する。
「いいだろう!」
そうして準備が始まった。
僕たちは防具で身を固めると、
槍と重石付きの網を持つ。
総重量はかなりのもので、
身軽には動けそうにない。
正面から来る爪と牙は確かに防げるだろうが、
体勢を崩した状態で側面から襲われれば、
どうしようもない。
傭兵たちは逆に最小限の防具で、
弓と小剣を準備していた。
攻撃は避ける前提の決死の姿だ。
フレアはその中で武器を持つことを拒んだ。
「このままで十分です」
「本当に大丈夫なのか?」
傭兵たちが僕を見た。
僕も同じ気持ちだ。
彼女は人間を殺そうとしていなかった。
襲われた場合でも止めを刺さなかった。
彼女の腕力なら、殺す方が簡単なのに、
死なない程度に反撃の力を抑えていた。
意図的にそうしているのだ。
(貪狼に手加減しても意味はないぞ。
群れになった貪狼は死を恐れない。
傷ついても死ぬまで向かってくる。
殺すしかないんだ。
後ろから襲われる訳にはいかない)
(そんなつもりはありません)
フレアは表情を変えずに言う。
(私には、銃や爆弾ならともかく、
剣や槍を使う技術はありません。
素手が一番慣れています)
決意は固いようだった。
(それならそれで構わないが、
確実に仕留めきってくれ。
群れを相手にする時には、
手負いの貪狼が一番怖い)
(分かっています)
僕は傭兵たちに告げる。
「武器は練習していないんだ。
だが安心してほしい。
貪狼なら一撃で殴り倒せる」
一撃で、と言ったところで、
フレアがぴくりと反応したが僕は無視する。
不本意だろうがやってもらうしかないのだ。
傭兵たちは半信半疑のようだが、
それ以上に何かを言う気もないようだった。
準備を終えた僕たちは、
陣を組み進軍を始める。
斜面を下り、拠点の門に近づくと、
貪狼の姿がよく見えるようになる。
全身は茶色っぽい毛皮に覆われ、
四肢や尾の先端だけが黒かった。
体長はおおよそ一メートルほど。
胴体は長く太く、足は短く細い。
のろくさそうな見た目だが、
あれで身のこなしは俊敏だ。
貪狼の側も僕たちの接近に気付き、
門の周りにゆっくり集まってくる。
「集まりきる前に門を抜けるぞ!」
傭兵たちが小走りになる。
重い防具を着た僕たちは、
がしゃりがしゃりと音を立て後に続く。
この速度は長くは続けられない。
貪狼が短い警戒の鳴き声を上げ始める。
大きな群れの一員になった貪狼は、
鳴き声で広範囲の仲間と連携する。
最初の一撃は傭兵の一人が放った矢だ。
走りながら射た矢は貪狼の胴に当たる。
貪狼は痛みに怯む。
怯んだ貪狼の前に最初に到達したのは、
身軽なフレアだ。
ほとんど追加の武具を着ていないため、
加速の鋭さが違う。
僕が気づいた時には、貪狼は吹き飛び、
腰に構えられた拳は振り抜かれていた。
その跳ね飛ばされた貪狼が落ちるより先に、
次の貪狼が跳ね飛ばされる。
群れを抉るフレアの左右に貪狼が降り始める。
その拳速は人の目に捉えられるものではない。
まるで、踊るフレアの周りで、
貪狼が自ら跳んでいるようだ。
傭兵たちは驚きに身を固めるがすぐ調子を戻す。
細く小柄な少女の容姿に惑わされただけで、
ドラゴンレイス級の変異持ちなら当然の動きだ。
彼女が作った空白地帯に僕たちも突入する。
貪狼は次々とフレアに打ち上げられていく。
ほとんど抵抗できていない。
それはおそらくこの群れが、
人との戦い方を知ってしまっているからだ。
群れになった貪狼は、獲物を取り囲む時、
攻撃が届く範囲のぎりぎり内側に身を置く。
これは獲物に手を出させるための挑発だ。
実際そこは安全でもあった。
もし獲物が攻撃に踏み込んできたとしても、
ぎりぎりの位置なので、狙われた貪狼は、
一歩後ろに下がるだけで攻撃を避けられる。
狙われなかった貪狼は、
隙ができた獲物に安全な方向から近づき、
軽く噛みついて、また距離をとればいい。
この戦略は射程を学習することで可能になるが、
フレアに対してはそれが仇になった。
フレアの間合いは完全に人を超過している。
貪狼も少しずつ距離を広げて、
計測しなおそうとしているが、
まだフレアの間合いから脱出できていない。
しばらくはこの状況が続くだろう。
僕たちは及び腰になった群れを駆け抜ける。
門の中には立体構造の迷路が広がっていた。
周囲の建造物の中へと続く足場が、
至るところから立ち上がり、
交差するように空中に伸びていた。
通路状のものもあれば、
単なるパイプやケーブルもある。
繁茂した蔓草も混じって、
迷路の構造を複雑に見せていた。
だが道に迷う心配はない。
「情報通りだ! 案内があるぞ!」
木々の幹や壁の出っ張りに引っ掛けるように、
赤い紐が巻かれている。
目印は広いエントランス広場を横断して、
三つのビルに囲まれた空間に続いていた。
建造物は貪狼の住処になっているようで、
続々と増援が駆け出してくる。
その総数はおそらく百以上。
「聞いていたより多いじゃねえか!」
狭くなると、一騎当千の戦士も、
縦横無尽には活躍できなくなる。
広場では圧倒的な機動力で、
まとめて薙ぎ払えていたが、
さすがに障害物の多い通路では、
フレアも手足の届く範囲しか倒せない。
僕たちが相手にする貪狼も増えてくる、
投げ網で貪狼の動きを止めて、
槍で間合いの外から刺し殺す。
潜り抜けてきた貪狼は受けてから殺す。
網の数には限りがあるので、
死骸から外して再利用する。
進むうちに集団は血の匂いに包まれる。
素人の集まりだから失敗は多い。
槍を刺し損ね、足元を抜けられ、
体当たりに態勢を崩して、
貪狼に首を差し出してしまうこともある。
そのたびに傭兵たちが飛び出して、
立ち直る時間を稼ぐ。
まともな神経ではやってられない仕事だが、
正直、あまり気にならない。
視界は真っ赤に染まり、
体はかっかと火照って、
ぶるぶると震えていた。
骨を砕きながら押し込む槍の感触も、
鎧の上からがちりと噛まれる感じも、
体当たりでふらついてしまった時の焦りも、
全てが闘争心に塗り潰され高揚感に変わる。
どこに向かっているのも分からない。
先頭が切り開いた方角に進むだけだ。
気づくと僕たちは小さな門扉の近くにいた。
赤い紐のルートからは外れている。
少し高台になっていて扉の前へは、
階段で上がるようになっている。
傭兵が下を守る間に僕たちは駆け上がった。
中は広い部屋だ。出口は奥にもう一つある。
「お前たちは奥の扉を固定しろ! 急げ!」
僕たちはロープと槍を使い侵入口を塞ぐ。
三十秒で何とか固定が終わった直後、
扉の向こうから何かがぶつかってきた。
貪狼が体当たりをしているようだ。
だが扉は壊れず、ほとんど軋みもしない。
安全が確保できたと分かった瞬間、
がくがくと膝が揺れ身体から力が抜ける。
傭兵たちも肩で息をしていた。
まだ脱落者は出ていないが、
確かに限界が近かったようだ。
僕も外せる防具は外し、
壁にもたれて一息つく。
「誰かが使っていた痕跡があるな」
傭兵たちが部屋の奥を調べている。
かなり広い部屋だ。
二十人が身体を伸ばす余裕がある。
外した鎧をばらまいても平気だ。
奥には少量だが資材が残っていた。
「先行部隊が使っていたのかもしれねえな」
「おいおい、まじかよ。
ここが拠点なら仕事も終わりだったのに」
「守りにも向いてるよ。
資材かき集めりゃ一週間はやれるぜ」
「使ってないんだから、仕方がない。
帰り道もここで休憩すればいいさ」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
「フレア、無理をさせているが大丈夫かい」
休憩中の僕たちに近づいてきたのは、
長身の赤毛の青年、エンリックだ。
彼も鎧と槍で傭兵についていく側だ。
といっても陣形の中心にいたから、
そこまで疲れてはいないようだが。
「汚れているじゃないか、拭こう」
エンリックは取り出したのは新品の白布だ。
フレアは血まみれの土まみれだ。
エンリックは惜しげもなく少女の顔を拭く。
「ありがとうございます、すっきりしました」
その軽い感謝に、エンリックは目を細める。
フレアは織りたての布が貴重であることを、
知識としては知っていても実感がないのだ。
それが態度に表れている。
「気にしないでくれ。
できることはこのくらいなんだ。
調子はどうかな?」
フレアは微笑む。
「まだまだいけます」
「元気で何より。
でも先は長い。
君は十分以上に活躍してくれている。
のんびり余力を持っていこう」
「はい」
「何か気づいたことがあれば、
いつでも教えてほしい」
エンリックは微笑むと、
傭兵たちの間に戻って、
次の戦略を練り始めた。
(思っていたよりもいい人なのでしょうか)
フレアが首を傾げる。
(ジョセフに重用されるだけはある)
そう見せたいからそう見せている。
そういうところもあるだろう。
だがあれは気分そのものを切り替え、
本心から信じた状態になっている。
(敵に回すと怖いな)
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
三十分後――
休憩を終えた僕たちは部屋を出る。
扉の前には貪狼が粘っていたが、
開いた扉に弾き飛ばされ、
階段を転がり落ちていく。
「群がってやがる!」
「突っ込むぞ!」
僕たちは再び戦いを続け、
拠点の奥を目指して進む。
高低差の大きい中庭のような空間を、
飛び石のように連なる高台を辿っていくと、
二つのビルの間を抜ける道に入った。
三つのビルの中には、
少しばかり背の低い、
しかし大きな建造物がある。
目印はそこに向かっていた。
数を増やす貪狼を押し分け、
巨大な建造物の下まで来る。
建造物の開口部の一つに、
赤い紐がついている。
その広くはない門には、
周囲から貪狼が集まり、
内部へと流れ込んでいた。
「おいおい、あれに入っていくのか」
「中の奴ら、何匹相手にしてるんだ。
こりゃあ死んでるな」
「逆だよ。中の奴らが生きてるから、
ああやって集まり続けてるんだ」
「しゃーなし、行くぜ」
踏み出そうとする男を、
リーダーが止めた。
「正面からでは無理だ」
「爆薬の使いどころじゃねえか」
「爆薬なしじゃ抜けようがない」
リーダーがエンリックを見る。
「どうします?」
「できれば残しておきたいが、何か策はないか」
傭兵たちの足が止まってしまう。
僕たちは次々と襲ってくる貪狼をいなしつつ、
彼らの相談がまとまるのを待つ。
「吹き飛ばせないなら自分で動いてもらうしか」
「囮か。できるのか?」
「戦える者が三人なら」
「二人では?」
「もちません」
「三人抜けて最後まで進めるか?」
「難しいでしょう」
「彼女は考慮に入れているのか?」
「最初から。そもそも貪狼の数が想定外です。
彼女を失えば戻ることもできないでしょう」
エンリックは迷った後、
気乗りしない声で言う。
「ここで使おう」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
大陸において火薬は貴重品だ。
精製法こそ再発明され、
長年伝えられているが、
貴重な有機物を浪費するため、
技術規制を受け、あまり広まっていない。
ただセントラルからは銃弾の一部として、
また工事用の爆薬として、
一定量が輸入されていた。
彼らの持つ爆薬もおそらく、
その正規品が横流しされたものだ。
僕たちの接近に気づいた貪狼たちが、
ちらりちらりと目を向けてくる。
飛び出してくるのはまだ一部だが、
もう数歩踏み込めば、
全体が動き始めるだろう。
だがその一瞬の余裕がありがたい。
僕たちは全速力で駆ける。
傭兵の一人が爆薬に点火する。
思いっきり投げた。
遠投された爆薬は放物線を描いて門前に、
そして空中で爆ぜた。
貪狼たちが吹き飛ぶ。
僕たちは爆風を恐れずそのまま飛び込む。
僕たちの仕事はここからだ。
傭兵たちが門前に陣取って、貪狼を睨む。
貪狼たちが混乱していたのは十秒ほど。
立ち止まって作業する僕たちに気づくと、
激しい勢いで襲いかかってくる。
吹き飛んだ貪狼も半分は気絶しただけで、
しばらくすれば復帰してくる。
五人の傭兵とフレアが食い止めているが、
間を抜ける個体が出るのは時間の問題だ。
技師たちがハンマーと楔で作業を始める。
僕たちは網を広げ、綻びを鋼線で補強し、
ロープを切断し、必要な数を揃えていく。
爆薬で開いた亀裂に打った楔をフックに、
ロープで網を固定するのだ。
狙いは封鎖だ。
爆薬で門を突破できても、
追いつかれて前後から挟まれれば、
最悪の場合、全滅の可能性もある。
無理をすることになるとしても、
完全に通行不能にしておきたい。
それがリーダーの意見で、
エンリックも受け入れた。
傭兵たちは完全に囲まれている。
道中、彼らは避けながら戦ってきたが、
守りながらの戦いではそうもいかない。
僅かだが血を流し始めている。
動きが鈍ってきているのが、
目に見えて分かるようになる。
「まだか!」
「後少し!」
楔を叩くハンマーが緊張で外れていた。
想定よりも時間がかかっている。
「できたぞ!」
「全員後退!」
残された隙間から傭兵が次々に入っていく。
追ってくる貪狼は僕たちが槍で迎撃する。
最後にリーダーが戻って隙間も閉ざされる。
完全に固定された網に貪狼が突撃してくる。
ロープは伸びたが、楔は軋まない。
よく固定されている。
しばらくは大丈夫だ。
僕たちは荷物をまとめ通路を奥へ急いだ。
道中に貪狼の姿はない。
たまに遭遇する貪狼は全て負傷していた。
おそらく中で反撃を受けて、
戦意喪失した貪狼が戻ってきているのだ。
「間に合うぞ!」
「おう!」
傭兵たちの表情が明るくなる。
「息を乱すな、でかい群れがいるはずだ!」
リーダーが意図的に速度を緩める。
「挟み撃ちにして、後顧の憂いを断つぞ!」
貪狼は押し込めて、
逃げ場をなくせば一気に弱体化する。
本隊に戦力が残っているなら、
殲滅の好機になる。
かすかに貪狼の鳴き声が届き始めた。
もう方角に迷うことはない。
階段を昇り、廊下を走り、辿り着く。
廊下から首を出したリーダーが
すぐに首を引っ込めて隠れる。
追いついた僕たちは止まりきれず、
廊下の先まで頭を出してしまう。
吐き気を催す腐臭と血臭が充満していた。
眼下には貪狼の死骸が山と積もっている。
そこは吹き抜けの大空間だ。
その中心――
宙空に浮かんでいるのは、
テーブルのようなフロア。
その上には人の姿が見えた。
フロアへ向かう傾斜のついた一本道には、
数えきれないほどの貪狼が群がっている。
「くそ、なんてこった」
傭兵が毒づく。
その声は震えている。
「いやがるぞ、女王が」
貪狼の群れの中に巨躯が一つが混じっている。
四つの目をもつ異形の貪狼、貪狼女王だ。
その毛皮は血に濡れているように赤黒い。
独特のさえずるような鳴き声を上げている。
身体つきは他と変わらないが全てが巨大。
その周囲には他より一回り大きな衛兵個体が、
複数付き従っていた。
「前線に出て来てくれて逆に好都合だぜ。
奴をとれば群れは崩れる」
女王個体は群れの貪狼の知力を高めるが、
それは弱点にもなる。
女王を失った群れは一時的に混乱状態に陥り、
鳴き声での連携さえもできなくなるのだ。
「この装備でできる訳がねえだろ」
だが女王は衛兵個体よりも強靭だ。
群れが本気で戦う時には、
最大戦力たる女王個体を、
先頭に押し出してくることもある。
その状態の貪狼はもう逃げなど考えない。
(女王? 貪狼の王属ということですか?)
フレアが僕を見る。
(貪狼女王には権能がないから、
王属と呼ばれることはないが、
まあ、その通りだ)
(話はできるのでしょうか?)
僕は笑う。
(犬と会話できると思うなら、
試してみるといい)
状況は睨み合いになっている。
貪狼も攻め疲れているのか。
一時休養をとっているようだ。
「……燃えてきた。いこうぜ」
武器を担いで走り出そうとする傭兵たちを、
リーダーが止める。
「挟み撃ちは止めだ。合流を優先する。
届けるものも届けられなかったじゃ、
話にならない。
奴への対処はその後だ。突っ切るぞ」
それから僕たちに言う。
「衛兵に殴られたら鎧は役に立たない。
だが外せば小さな貪狼にもやられる。
疲れているだろうが、
体力を使いきるつもりで逃げてくれ」
運び屋たちは表情を歪める。
その気持ちは分かった。
疲労は限界に近い。
「俺たちが生きてるうちは、
死ぬ気で走ってもらうぜ。
まあ俺たちがやられたら、
それこそ本気で逃げないと死ぬけどな!」
傭兵の一人が笑う。
全く笑えない冗談だった。
「爆薬を温存していれば……」
山師の一人がふと呟く。
傭兵たちが動きを止め、
ひりついた空気になる。
エンリックが微笑んで言う。
「温存するためには、囮に何人かを、
あそこに置いて来る必要があった。
君はその囮になりたかったか?」
「それは……」
「せっかくここまで無事に来れたんだ。
私たちもあそこで待っている彼らも、
皆が生き残れるように力を尽くそう」
山師はまだ不満そうだったが、
それ以上は何も言わなかった。
その時だった。
長い貪狼の鳴き声が響く。
階下、警戒の声だ。
音か匂いか分からないが、
見つけられたのだ。
階段下を覗き見ると、
貪狼が集まり始めている。
「くそ! 行くぞ! 足を止めるな!」
補給物資を担いで槍はもう構えない。
一匹ずつ狩っていく時間はもうない。
傭兵たちがこじ開けた道を駆け抜け、
足が止まる前に辿り着くことを祈る。
できることはそれだけだ。
階段を一気に駈け下りる。
開けた平地に降りる。
テーブルの上に繋がる坂道を目指す。
傭兵たちは武器だけでは手が足りず、
貪狼を蹴り飛ばしながら走っている。
前列の傭兵の一人が貪狼三匹に噛みつかれ、
引き倒されて転ぶ。
助ける余裕もなく傭兵の上に貪狼が群がる。
傭兵たちは既に救出を諦めている。
「私が! やります!」
その山にフレアが飛び込んだ。
小型の貪狼が見る間に跳ね飛ばされ、
血塗れの男が戦列に復帰した。
少し片足を引きずっていたが、
まだ動けるようだ。
「女王に追いつかれます!」
踏み止まったフレアが叫ぶ。
「先に行ってください!」
「馬鹿なことはするな、無茶だ!」
傭兵たちは足を止めずに叫び返す。
その瞬間、凄まじい激突音が響く。
振り返った傭兵は呆然としている。
「早く!」
フレアが叫ぶ。
「済まない!」
僕も一瞬だけ背後を見返す。
フレアの前には女王個体が相対し、
その前足と拳が衝突していた。
衝突のたびに女王個体は僅かにのけぞるが、
後退することなく打ち合いを続けている。
逆にフレアの方が打ち合うたび、
押し込まれているようだった。
女王個体ほどの重量と筋量があれば、
超人たる上位変異持ちとも渡り合えるのだ。
しかしその均衡は一瞬――
先行していた女王に衛兵が追いつく。
フレアの腕は二本だけ。
女王の相手で手一杯だ。
その無防備な側面に衛兵個体が襲いかかる。
貪狼たちが太ももとふくらはぎに噛みつく。
一応刺さっているのだろうか。
フレアの体勢が崩れる。
そこに女王が追撃を叩き込む。
跳ね飛ばされたフレアは、
そのまま貪狼の洪水に落ちた。
稼げた時間はたった十秒程度。
稼げた距離は十数メートル。
だがそれが決め手になった。
彼らの救援を間に合わせたのだ。
「待たせやがって! さっさと中に入るんだ!」
テーブルから飛び出してきた戦士たちが叫ぶ。
全員傷だらけだがその技術はあまりに的確だ。
無駄のない動きで小型の貪狼の追撃をいなす。
共に来た傭兵たちの技術も
なかなかのものだったが、
それが色褪せて見えるほど、
生存者の力は圧倒的だった。
彼らが押し上げた防衛線はもう間近だ。
僕たちはその隣を走り抜ける。
そこからはもう惰性だ。
足は止まり膝が崩れる。
「うちの馬鹿を頼む!」
傭兵のリーダーが叫ぶ。
「大丈夫! 見えていた! あいつが行く!」
その瞬間、僕の横を深緑の風が駆け抜けた。




