表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/69

第十六話 人質救出



 ソーマ製造者の正体は黄衣派である。


 そんな独立派の宣言から三日――


 教会は来客が絶えず、

 ナイジェル・コールドブラッドは、

 その応対に追われ、気付けば昼を迎えていた。


 だが忙しさには波がある。

 ふとした空白が生まれることもある。

 時間が空くたびにナイジェルは、

 思考の迷路に取り込まれていた。


 ラッカードに頼まれた仕込みも終わっている。

 方々の子供たちの世話にはなったが、

 レイミアの安全も何とか確保した。


 トビーの願いは果たされ、

 ソーマが生産されることはもうない。


 やっと重荷から解放された。

 そんな気がした。


 己の行いを振り返る。

 これは復讐だったのだろうか。

 復讐だとすれば、誰に対するものだったのか。


 ナイジェルは道を違えた故郷を思う。


 冷血のナイジェルが、

 まだアブラハムの戦士であった頃――


 当時のアブラハムは辺境に隠れ住み、

 律法を守り続ける偏屈な集団だった。


 先代アブラハムもその典型で、

 細々と生き続けることだけを目的に、

 保身を図り続ける慎重な男だった。


 外向きには低姿勢の曖昧な態度をとりながら、

 内向きには威圧的で厳しいルールを敷いた。

 内政では失敗も多く名君ではなかったと思う。

 だが危険を避けることに関しては、

 独特の嗅覚を持っていた。


 スワルガのあらゆる場で、

 あらゆる勢力に媚を売りながらも、

 常に騒乱とは一定の距離をとることで、

 彼は完全な平和を維持していた。

 外交の手腕に関しては、

 ある種の天才だったのだ。


 しかしそれは理解されなかった。

 未然に回避された危険に、

 人々が気付くことはなく、

 ただ日々の暮らしの苦しさに、

 不満を溜め込むばかりだった。

 確かにアブラハムの暮らしは貧しかった。


 その中で台頭してきたのが、

 先代の従兄弟であるシモンだ。

 シモンは内政と人心掌握の天才だった。


 彼の頭脳は創意工夫に富んでおり、

 彼が関わった仕事は、

 以前とは比べ物にならないほど楽になった。

 その言葉は未来への展望に富んで、

 人を惹きつけた。


 先代とシモン、二人が並び立ち、

 お互いを補完し合っていれば、

 アブラハムは繁栄の時を迎えていただろう。


 だがそうはならなかった。


 先代は独断専行しがちなシモンを潰そうとし、

 あらゆる機会を使って、

 暗黙の圧力でシモンを追い詰めた。


 シモンはそれに反発し、

 先代に正面から自分の主張をぶつけた。


 先代の行いとシモンの行いを見比べれば、

 どちらに非があるのかは明確だった。

 いつしかアブラハムの中には、

 シモンが当主となることを望む一派が生まれた。

 その中にはアブラハムで、

 重鎮と呼ばれるような家系も含まれていたのだ。


 両者の争いはアブラハムを二分した。


 そしてシモンは外の勢力の介入を許した。

 今考えてみれば、おそらくシモンは、

 自ら積極的に黄衣派に取り入ったのだろう。

 利益を得るためなら、

 邪魔なルールを簡単に無視する男だった。


 そして、シモンはアブラハムの長となる。


 その時点でナイジェルはアブラハムを抜けた。

 だからナイジェルは、その後のアブラハムを、

 実体験としては知らないが、

 常に情報は集めていた。


 実際のところ――

 シモン治下のアブラハムは、

 よいことばかりではなかったらしい。


 シモンは積極的に新しいものを取り入れる男だ。

 しかし、それは慎重の反対の、

 迂闊という側面も備えていた。

 変化の現場には常に軋轢があった。


 確かにアブラハムは豊かになり勢力は拡大した。

 だが拡大に伴い周囲との摩擦は増え、

 騒乱に巻き込まれる機会も増えた。

 そのたびに死者が出た。

 十五年の間に戦士の数が増えていき、

 気付けば生産力は逆に下がっていた。


 自ら生産するものを消費し、

 生産できないものは交換で手に入れるという

 安定した生活は不可能になり、

 戦いで得た金で豊かさを享受するようになる。

 それが更なる戦力の強化に結びついていく。

 アブラハムはそんな歪な社会になっていた。


 そして、シモンの死でそれも崩壊する。


 この歪な社会は、

 シモンの稀有な才能によって維持されていた。

 その才能は誰にも受け継がれなかった。

 彼を失ったアブラハムは急速に没落した。

 それに輪をかけたのがトビーの物語だ。

 最初は独立派の被害者のはずだった。

 だが数日後、一気に広まったトビーの物語で、

 アブラハムの役回りは

 救世主を謀殺したユダそのものとなっていた。


 アブラハムは追い詰められていく。


 残されたシモンの部下たちは

 混乱を収拾することができず、

 己の保身を図るだけで、

 アブラハムの民との溝を広げていた。


 アブラハムの民は

 シモンの治世をそれなりに評価していたが、

 その欠点にも気付いていた。

 そしてそれは今、

 看過できないものになっていた。

 そのことに気付いた者たちは、

 先代の子をアブラハムに引き取り、

 新たな当主に据えることを願った。

 ここにシモンの時代と決別し、

 アブラハム存続を図ろうとする一派が生まれる。

 その中心はシモンと距離をとっていた集団で、

 シモンの部下を嫌う者たちだった。


 シモンは基本的には能力主義をとっていたが、

 質の劣るイエスマンも一定数囲っていた。

 己の賛同者を増やすことで数の優位をつくり、

 周りの声に耳を傾ける姿勢を維持しながらも、

 結果として己の意志を通しやすくするためだ。


 そのイエスマンたちは、

 主の黙認もあり欲望のままに振舞った。

 彼らはシモンの汚れた部分をも担当しており、

 トビーを直接殺したのも彼らだった。

 彼らの切り捨てが静かに始まろうとしていた。


 もちろん、

 切り捨てられようとしている者たちの中にも、

 その動きに気付く者はいた。

 彼らは自分たちの存在が、

 アブラハムにとって害にしかならないことも

 理解していた。


 だがだからと言って、

 従容と消えることなどできようか。


 彼らは追い詰められていた。

 主要構成員は既に暗殺の危機に瀕していた。

 もうほとんどの責任者が死んでいた。


 何者かに暗殺されたのだ。


 アブラハムから弾き出されれば彼らは無力だ。

 今の立場と力を手放してはいけない、

 そう考えた彼らは生存を図るべく策を練った。

 そしてたどり着いたのが、

 反シモン派と同じく、先代の子の確保だった。



 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇



 ナイジェルの元に、

 反シモン派の誘いは既に来ていた。


 ナイジェルは迷っていた。


 先代の願いは、二人の子供が、

 望むままに生きることだった。


 先代は本当に臆病な人間だった。

 いつも重責を担うことを怖れていた。

 子供にはそんな暮らしをさせたくない。

 死に際の彼はやせ衰えた身体を震わせ、

 正気に戻った一瞬にそう言った。

 その姿を今も覚えている。

 若きナイジェルはその願いを叶えようとした。


 だがトビーは自ら戦場を選び、そして死んだ。


 もう一人は先代の子でもあるが、

 赤子の頃から育てた彼自身の子供でもあった。

 見目麗しい子ではない。

 トビーほどに賢くもなかった。

 だがその分、愛情を注いだ。

 彼女だけでも幸せな一生を送らせてやりたい。

 ナイジェル自身そう望んでいた。


 アブラハムの困窮も分かっていた。

 だが、シモンに従ったのは貴様らではないか。

 先代の死を看過したのも、貴様らではないか。

 そんな怒りも残っていた。


 使者には、答えは保留させてほしいと伝えた。

 それが昨日のことだった。


 今日の昼近くになっても、

 まだ考えはまとまっていない。

 無法者が訪れたのはそんな時だった。


 彼らは白昼堂々と武装して押し寄せてきた。

 あっという間に教会を包囲した彼らは、

 子供たちを捕まえ始めた。

 教会は不文律の中立地帯となっている。

 そうあるためにナイジェルは非武装を選んだ。

 それ故ルールを無視した直接的な暴力には弱い。

 また子供たちを預かっている時点で、

 巻き込む可能性のあることはできない。


 ナイジェルは教会に飛び込む。

 キリーンの姿を探す。

 少女たちと一緒に洗濯をしている。

 ラッカードへの伝言を教えて、

 一つだけ用意していた脱出口に放り込む。


 直後、教会内まで荒くれ者が押し寄せてくる。

 彼らは捕縛した子供たちとナイジェルを、

 アブラハムの領域まで連行した。



 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇



 安全な場所まで撤退し、

 一息ついたところでならず者たちは悩んだ。

 集まっていた子供たちのうち、

 誰が先代の子供か、分からなかったのだ。


 全員殺してしまえばいいじゃないか。


 そう主張する者もいた。


 殺してはならない。

 生かして捕らえるべきだ。

 そうでなくては意味がない。


 そう諌める者もいた。

 まともなリーダーはいなかった。

 方針は混乱したままだった。


 ナイジェルは考えていた。

 キリーンにはラッカードを頼りにせよと伝えた。

 あの男ならば、うまくやってくれるだろう。

 あとは子供たちの安全をどう確保するか。

 ナイジェルには打つ手がない。

 奴らの気紛れ一つで彼らの生死は決まる。

 そういう状態だった。

 ナイジェルにできることは、

 男たちの興味をひきつけることだけだった。


 その時だった。

 ならず者たちが騒ぎ出す。

 外から何か連絡があったらしい。

 ラッカードが動いたようだ。

 かなりの人数がそちらに割かれたのか、

 ここに残ったのは最低限の人数のようだ。


 今がおそらく唯一の脱出のチャンスだ。

 だが今のナイジェルは自由を完全に奪われ、

 動きが取れなかった。

 彼には手錠を抜けるような技術はなかった。

 いや手足が自由になっていたとして、

 何ができただろう。


 ナイジェルの身体は、

 数時間に渡る拷問で、

 既にまともな人間のものではなくなっていた。


 その姿は子供たちに晒されている。

 子供たちはすすり泣いていた。


 泣くな、子供たち。


 ナイジェルは鎖で吊り下げられたまま、呻く。

 声を出すこともできないナイジェルの眼前で、

 更なる悲劇が幕を開けようとしていた。


 ここに先代の子がいないことは知られていた。

 ラッカードが取引材料に使ったようだった。

 子供たちの価値は大幅に下落している。

 人質は生きていればそれでいいのだ。


 無事である必要はない。


 牢に残ったのは五人の見張りだけだった。

 連れて行っても役に立ちそうにない屑ばかり。

 数少ない理性的なメンバーは、

 ラッカードとの交渉のためか席を外していた。


 最初に狙われたのは少女たちだった。

 男たちは見張りすら残さず、

 少女たちが監禁されている部屋に向かった。



 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇



 ハルカ・アブライラは震えていた。

 そこは鋼壁に囲まれた狭い部屋だ。

 年頃の女の子が六人集められている。

 小さな子は男の子と一緒にされている。


 ハルカは少女たちと目を合わせる。

 自分たちだけが別にされたことの意味を、

 少女たちは敏感に理解していた。

 人質なら一まとめの方が管理しやすいだろう。

 彼女たちだけに別室をあてがっているのには、

 明らかな意図があるに違いない。


 それぞれ恐怖と戦っていた。

 ハルカは少女たちとただ身を寄せ合っていた。


 その時だった。


 粗野な喚き声と、

 酔っ払いのように乱れた足音が近付いて来る。

 鋼鉄の扉が乱暴に開けられる。

 荒々しい勢いで男たちが部屋に踏み入る。

 その目は血走って息も荒い。

 身体の線を舐めるようになぞる視線。

 両手は手首で縛られていて、

 まともに抵抗することもできない。

 男の一人に腕を掴まれる。

 ごつごつとした指が痛い。

 すえた体臭が鼻をついた。

 顔が近付いてくる。

 腐った生ごみのような息だ。

 目を落とす。

 男のズボンの前が膨らんでいた。


 欲情しているのだ。

 吐き気がした。


 ここで?


 足が震えた。

 鋼鉄の床の冷たさを感じた。


 いやだ。

 こんなの、いやだ。


 男たちがハルカと少女たちを立ち上がらせると、

 部屋の外に連れ出した。

 そのまま牢屋の奥の部屋まで引いて行かれる。

 そこは、たぶん、拷問をする部屋だ。

 壁際には誰かが吊られていた。


 ナイジェルさんだ。


 その身体は真っ青に鬱血している。

 両腕は傷だらけで、

 ぽたりぽたりと血が垂れ続けている。

 その爪は全て剥かれていて、

 指は今も痙攣している。

 だがその視線にはまだ意思が残っている。

 僅かに唸り、身体を震わせる。

 でもそれ以上は何もできない。


 男たちはそのまま女の子たちを、

 拷問室の中に放り込む。

 ハルカたちは身を寄せ合わせる。

 男たちはその様子をにやにやと笑う。


 そう怖がるなよ。

 みんな、そこにいるじゃねえか。


 その言葉に気付く。

 子供たちが閉じ込められている牢からも、

 ここはよく見えた。

 子供たちは泣いていた。


 見られながらするってのも乙なものだぜ。

 癖になるかもしれねえな。


 男たちが下卑た笑みを浮かべる。

 全身が冷えていく。

 足が震える。


 いやだ。

 こんなのは、いやだ。


 無理やり泣き叫ぶのをやるのがね、

 たまらねえのさ。

 暴れてくれる方が嬉しいんだ。

 ははは、諦めるなよ。


 彼らはそれぞれ決めていたらしい獲物に向かう。

 ハルカに向かってきたのは二人だった。


 もったいないが手早くやらせてもらうぜ。

 あんたは上玉だからな、予定が詰まってるんだ。


 男は舌なめずりしながらベルトを外す。

 脳が沸騰しそうだった。

 身体は冷えているのに、

 頭の中だけが真っ赤に染まっていく。

 ハルカは悟っていた。

 こんな奴ら、死んで当然だ。

 生きている価値がない。

 存在しているだけで害悪だ。

 視界にいるだけでも許せない。

 こいつらの吐く息を吸っているのかと思うと、

 自分の呼吸を止めたくなる。

 男が掴みかかってくる。

 男の手が服にかかる。

 脱がすのではなく破ろうとしている。

 男の指に力がこもる。


 その指を――


 ああ、そうだ。


 止めてしまおう、何もかも。

 何もかも、私の視界から消えてしまえばいい。


 そうすれば――













 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇



 ナイジェルは歯噛みしながら状況を見ていた。

 吊り下げられた身体は全く動かなかった。

 彼にできることは見届けることだけだった。

 男たちは興奮していた。

 それは雄の性、狩人の本能だった。

 男たちは怯える少女たちに襲いかかる。

 ナイジェルは視線を背ける。

 少女たちの小さな悲鳴が上がる。

 その時だった。



 ああああああアアアアアアアッ!



 その中に一際鮮烈な叫びが混じった。

 魂を削るような悲鳴である。

 苦痛に歪む敗北の咆哮である。

 あり得ないはずのことに虚を突かれた驚愕だ。

 それは一人の男の悲鳴だ。


 ナイジェルは視線を向けた。

 そこには倒れ伏し、

 激痛にもがく男の姿がある。

 彼に何が起きたのか分からない。

 その両目は抉られ滝のように血を流していた。


 男の傍らには一人の少女が立っていた。


 少女は手錠で自由を奪われたままだ。

 だがその手と指は血に染まっている。

 濡れた黒い瞳は艶めいて神秘的に輝いている。

 血に濡れたその姿は惨たらしくもなお美しい。


 ナイジェルは息を呑む。


 少女はゆらりと上体を揺らす。

 残る男たちに目を向ける。

 少女は微笑んでいた。

 凝然と立ちすくんでいた男たちは我に返る。


 だが少女は既に駆けていた。

 最も近くにいる男に向けて獣のように迫る。


 巨体の男だ。


 受ける男は一瞬戸惑うように動きを止め、

 それから両腕を広げた。

 彼からすれば単純な突撃に見えたかもしれない。

 両手を縛られた小さな少女の苦し紛れの策。


 だが、そうではない。

 粗雑な動きは見せかけだ。

 その奥にあるのは冷徹な観察だ。


 男は覆いかぶさるようにして圧し潰そうとする。

 その瞬間、少女の姿勢が変化した。

 沈み込むように膝を落とし、

 男の懐の奥深くに踏み込んだ。

 伸ばされた男の片手に少女の手が伸びる。

 くるりと少女が身体をねじる。


 巨体が宙を舞った。


 これは!

 少女は己の力を使っていない。

 男の力の向きを変化させ、

 自ら飛ばせたのだ。


 男は頭から落ちる。

 その時には既に少女は踏み込んでいる。

 男の後頭部に強烈な蹴りが入る。

 首の骨が折れたかのように、

 頭があらぬ方向に跳ねる。

 一撃では終わらない。

 受身も取れず地に落ちた男の頭を、

 角度を変えて執拗なまでに蹴りつける。

 男は痙攣するだけだ。

 最後に鋼鉄の床に落として踏みつける。

 男の頭は変形していた。

 もはや声一つ上げない。


 死んでいる。


 少女は微笑む。そしてゆらりと歩む。

 残る三人の男は顔を見合わせる。

 犯そうとしていた少女を抱き上げ、

 長髪の男が叫ぶ。


 止まらないと、この女を……!


 最後まで言えなかった。

 長髪の男の顔が跳ね上がる。

 少女が蹴り飛ばした何かが命中したのだ。

 そして少女は駆ける。


 男が戻らぬ視界のまま、

 腰を引いて両腕を大きく振り回す。

 少女は低空に滑り込むと、

 全身で飛び込むように男の足を刈った。

 そのまま倒れる男の上体側に回り込み、

 手錠をかけられた両手で男の髪の毛を握る。

 そして頭を鋼の床に叩きつける。


 男の動きが止まる。

 その一瞬に少女は抉った。


 目に指を深く差し込んだ。


 残虐非道な技だ。

 だが何の躊躇もない。

 長髪の男は甲高い悲鳴を上げる。


 長髪の男の頭を投げ捨てた少女は止まらない。


 飛びかかる残り二人の男に目をやることもなく、

 片方の股を潜り抜ける。

 小柄な体躯あっての技だ。

 そして背後に立ったかと思いきや、

 後ろから男の片腕を取る。

 全身の力を使ってひねる。


 投げるつもりだろうか。


 だが体格の差がありすぎる。

 その程度では崩しきれない。

 いや、少女はすぐに手を離した。

 男は悲鳴を上げて動きを止める。


 何をした?


 少女は男の小指を取り容赦なく折っていたのだ。

 同時にその手に握っていたナイフを奪っている。

 背中から腎臓目がけて、

 身体ごと突進するようにナイフを突き立てる。

 ひねるようにして抜く。

 血が吹き出す。

 男は呻くと崩れ落ちた。

 そこで少女は動きを止める。


 その手からナイフがこぼれる。


 最後の一人になった男が、

 遂に彼女を捕まえたのだ。

 細腕をがっちり握る男は、

 そのまま地面に引き倒す。

 馬乗りになろうとするが少女の対応が早い。

 自ら地面に身を投げ出すようにして、

 男との間に隙間を作る。

 素早く四肢を丸めながら背を地に着けると、

 男の腰、両足のつけねに両の足裏を当てた。

 同時に男の伸ばされた右腕を両手で確保する。

 男は残った片腕で少女を殴ろうとするが、

 その腕を少女は蹴り飛ばす。

 同時に壁を駆け上がるように、

 男の胴体の上を走る。

 そして合わせるように上体をひねる。

 次の瞬間、型は完成していた。

 今や少女の肢体は男の右腕に絡みついていた。


 腕ひしぎ十字固めである。


 てこの原理で肘の関節を外す技だ。

 簡単に決まる技ではない。

 男も筋力で抵抗する。

 背中へ折られようとする右腕を左手で引っ張る。

 そして上体を起こし、少女を持ち上げ、

 鋼の床に叩きつけようとする。

 だがそれより早く少女は動いていた。

 目の前にあった右腕の肉を噛み千切ったのだ。

 その痛みに男が叫ぶ。

 男の動きが止まる。

 力が緩む。

 その一瞬に少女は躊躇なく全力をかける。

 背を大きく反らし、腹部を前に押し込む。

 肘が曲がってはいけない方に曲がり、

 靭帯の引き千切れる音が響く。


 男の悲鳴が上がる。


 男はすすり泣く。

 だが少女は容赦しない。

 折った右腕を更に捻り上げて、

 肩の靭帯を破壊する。

 そして後は単純な作業だった。

 泣き叫ぶ男の顔を蹴り飛ばす。

 鼻が潰れ耳が裂ける。


 だが終わらない。


 命乞いの声に耳も貸さず、

 顔面が原型を留めなくなるところまで殴り続け、

 そして少女は動きを止める。


 既にその場に敵の姿はない。

 部屋の空気は血の匂いに染められていた。

 五名の男たちは死んでいるか死にかけているか。

 どちらにしても、もう助からない。


 少女の全身は血に濡れていた。

 僅かな呻き声以外、何の音もなくなる。

 思い出したように少女の息が乱れ始める。

 足が震え始める。

 そして膝から崩れるように、座り込んだ。


 我に返ったように不安げな表情で、

 人間の肉の欠片に塗れた両手を見つめる。


 そして、

 天井を見上げる。


 ふ、

 ふふ、

 ふふふ


 堪え切れないというように笑い始める。

 少女は全身を震わせながら、

 しばらくの間、笑い続けた。

 そして、口を閉ざす。


 少女は立ち上がると、

 他の少女たちに声をかける。


「大丈夫ですか?」


 少女たちは安堵し虚脱したように、

 しかしいまだ何かを怖れるように、

 おそるおそる頷く。

 その視線の意味を血塗れの少女は

 気付いているのか、ただ一言呟く。


 怖がらないでください。

 私は死んで当然の屑、しか殺しませんから。


 その口元には微笑みが浮かんでいた。



 ◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇



 僕にフレアからの通信が届いたのは、

 取引場所での戦闘が決着した頃だった。


(そちらは落ち着きましたか?)


 静かな声音だ。


(ああ、問題ない。

 シモン派のリーダーらしき男も確保した)


(計画通りですね)


(そっちはどうだ?)


(こちらも全員の安全を確保しました。

 ハルカさんも無事です。

 ナイジェル氏がかなりの怪我ですが、

 応急手当は済ませています。

 命に別状はないでしょう。

 子供たちは、

 ナイジェル氏への拷問を見せつけられたようで、

 精神的にかなり不安定になっているようですが、

 怪我はありません。

 シモン派にはわずかばかり犠牲は出ましたが、

 地位の高い人物はいなかったように思います。

 ああ、それに、トランスポーターの部品も、

 確保しています)


(そうか。

 それはよかった)


 安堵する。

 やっと緊張が解けたような気がした。

 もし遙花に何かあったら、

 僕はまともでいられる自信がなかった。

 遙花を危険に晒したのは、

 僕の予測の不足が原因だったからだ。


(少々の死人は仕方がない。

 仕掛けてきたのはシモン派からだ)


(それは気にしていませんが)


 フレアは少し口ごもる。


(何かあるのか?)


 その様子に僕は不安を覚える。


(……ハルカについてです)


(何かあったのか)


(ハルカさんに怪我はほとんどありません。

 無事なことは無事なのですが……

 どうもちょっと興奮状態が続いているみたいで)


(すぐにそちらに向かう)


 話を続けるより、直接会った方が早い。


(分かりました)


「リディア、

 まず子供たちと合流する。

 リーダーを担いでもらっていいか」


『はい』


 リディアは気絶していた男の一人を、

 操作腕で抱え上げる。


「キリーン。みんなと合流するぞ」


「おう」


 キリーンは不安げな顔だ。


「大丈夫。皆、無事に決まっている」


 僕は励ました。


「最悪の覚悟はできてるよ」


 少女は気丈に頷く。

 僕は既に状況の連絡を受けているため、

 それが取り越し苦労であることを知っていた。

 もう不安はないのだ。


「急ごう」


 僕たちは砲塔跡へ向かった。

 十分もかからず、門に着く。

 開けっ放しのまま、誰もいない。

 そのまま通り抜けて、階段を登る。

 広場に着く。


(フレア、どこにいる?)


(奥の壁に通路が空いているでしょう)


 僕はそのまま進む。

 薄暗い通路の先は廊下が続いている。

 ところどころに明り取りの窓があり、

 そこからはスターライトが入り込んできている。

 両側の壁には、個室への入り口が連なっていた。

 そのまま奥まで進むと牢屋のような場所に出る。

 子供たちが輪になって座り込んでいる。

 その中心にはナイジェルが横たわっていた。


「ナイジェルさん!」


 キリーンが走る。

 フレアはその姿をちらりと見て、答える。


「命に別状はありません。

 ただし治療中ですので、無闇に触らないでください」


「おう……大したことはねえぜ」


 ナイジェル自身も意識はあるようだ。

 傍に座り込んだキリーンに、億劫そうに答える。


「ラッカード、いるのか」


「ああ」


 僕も歩み寄る。


「お前はやっぱり天才だな。

 こんなに短時間でけりがつくとは思わなかった」


「シモンの部下が役立たずだっただけだ」


「そいつは厳しいお言葉だ」


 ナイジェルが微かに笑い痛みに呻きを漏らした。

 僕はナイジェルに現状を突きつける。


「アブラハムの中で、

 後継者争いが起きているようだな。

 ここまで僕は、

 アブラハムの手は一切借りていない。

 お前の動きを縛るようなしがらみはない。

 ナイジェル、療養している暇はないぞ。

 今回の作戦は対症療法に過ぎない。

 お前たちの安全を最終的に確保するには、

 アブラハムの混乱自体を解決する必要がある。

 そして、この先の交渉は僕ではできない。

 一応シモン派のリーダーは確保している。

 どう利用するか、どこを目指すか、

 全てお前次第だ」


「分かっている。

 そこまで頼る気は最初からないさ」


 ナイジェルは答えた。

 その答えに僕は頷く。


「では、詳細を詰めよう。

 ここはまだ敵地だ。まず脱出する必要がある」


 段取りを確認した後、僕はフレアに尋ねる。


(遙花はどこだ?)


(こちらです)


 フレアは僕を見ると歩き出した。

 脱出の準備をする子供たちから離れたところで、

 少女たちが固まっていた。

 その服は局部を破られ相当に乱れている。

 子供たちが服を貸しているようだったが、

 完全に隠せてはいない。

 僕は少女たちの表情を窺う。

 奇妙なことに彼女たちの表情は

 全く絶望に染まっていなかった。

 不安はあるがどこか明るい顔をしていた。


 見回すと少女たちの中心に遙花がいる。

 その身体は血に汚れていた。

 だがその表情はやはり明るい。

 少女たちと何かを話しながら、

 お互いにスキンシップをとっている。


「遙花!」


 その声に飛び上がるように遙花が反応する。


「兄さん!」


 元気そうな声だ。

 遙花立ち上がると駆けて来る。

 そのまま僕に抱きつこうとして、

 直前で足を止めた。

 自分の手を見て躊躇したようだ。

 両手の肘から先は血の池に浸したように、

 真っ黒になっていた。

 指先の爪の隙間には、

 血と何かが濃厚にこびりついている。


「あ、ちょっと汚いですね」


 ばつが悪そうに微笑む。


「怪我をしているのか?」


 僕の問いに遙花は大きく首を振る。


「全然大丈夫です。

 これ全部、私の血じゃないですから」


 遙花はにっこりと誇らしげに微笑む。


「何があったんだ?」


「ハッスルしちゃいました」


 遙花は僅かに嫌悪を表情に出す。


「ひどい人たちがいたので、

 ちょっと懲らしめてあげたんです」


 遙花は冷ややかに言う。

 流れた血の量を見ると、

 そんな言葉では済みそうにない状況に思えた。

 だが遙花の放つ静かな怒りに、

 それ以上言葉を続けられない。


(何があった?)


 僕はフレアに尋ねる。


(分かっているのは、

 この牢獄を担当していた五人の見張り、

 その全員をハルカさんが、

 単独で打倒したということだけです)


 確かに五人程度なら、

 遙花一人でも倒せる数かもしれない。


(そいつらは何をしようとしたんだ?)


(悪趣味な話ですが、子供たちの前で、

 少女たちを犯そうとしたようですね)


(五人の男はどうなった?)


(先ほど全員死亡しました)


(そうか)


 僕は遙花を見つめ直す。

 遙花は不思議そうに僕を見る。


「どうしたんですか? 黙り込んで」


 僕は微笑み返す。


「大変だったみたいだな」


 そして一歩踏み寄り、

 その茶色の髪に手を伸ばす。

 遙花の身体がびくりと震える。

 無意識的な動きだ。

 僕は手を止める。


 その前に遙花は僕の手から逃れるように、

 一歩下がっていた。


「あ、あれ?

 ち、違うんです。身体が勝手に……」


 自分の反応に戸惑うように遙花は首を傾げる。

 見ると、その手が震え始めていた。


「え、え?」


 それを遙花は不思議そうに見つめる。


「な、何が?」


 震えは次第に全身に伝播していく。

 立っていられなくなったのか、座り込む。


「どうして……

 私、間違ったことなんて何も……」


 誰に言うでもなく、

 遙花は呆然と囁き、そして俯いた。

 遙花は肩を震わせる。


「遙花?」


 しばらくして、

 遙花はのろのろと顔を上げる。

 その顔は流れ続ける涙でぐしゃぐしゃだった。


「に、兄さん、わ、私、違うんです」


「大丈夫」


 僕は微笑む。


「僕は遙花が大好きだ。

 これからも何も変わらない。

 だから無理をするな。

 今は疲れているんだ。

 ゆっくり休めば、いつも通りになる」


 遙花を傷つけないように優しく言う。


「ち、違うんです!」


 遙花は自分の震えに僅かに顔を歪め、

 思い切るように自分から胸に飛び込んできた。


「大好きです、兄さん。

 私が兄さんを怖がるなんてこと、

 絶対にありません!」


 その身体は今も震えているが、

 それさえ押し殺すように強く抱きついてくる。

 手は宙に浮かせたまま、

 顔と胸をこすりつけてくる。

 僕は遙花の浮かんだ手を握る。

 ためらうように震えた後、

 遙花の指は力強く僕の指に絡まる。

 それから遙花は、

 落ち着くまで長い間離れなかった。


 しばらくして全員の準備が整ったところで、

 リディアの護衛の下、僕らは教会に戻った。


 遙花と僕はその間ずっと手を繋いだままだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ