夜の散歩
夜の散歩
夜風が、焦げた木々の匂いを運んでいた。
アルカディア城塞を包囲する一万の黒牙氏族。
その海のような群れの前に、たった数名の影が立っていた。
先頭は外套を羽織った一人の男――レイクス。
その隣に、月光を背に佇む執事セバス。
そして、彼らの後方には五人の老兵たちが控えていた。
皆、かつてマルターレス家の軍を支えた歴戦の猛者。
「……まさか伯爵様ご自身が来られるとは」
老兵の一人が呟いた。
「暇つぶしだ」
レイクスの声は淡々としていた。
「寝る前に少し、散歩をな」
老兵たちは顔を見合わせ、
肩をすくめながら槍を構える。
その表情に恐れはなく、むしろ懐かしさのようなものがあった。
⸻
黒牙氏族――
皮膚に黒鉄の文様を刻み、血を浴びるほどに狂暴化する部族。
月光を浴びて、獣の咆哮が響いた。
「旦那様、数はおよそ一万。どうなさいます?」
セバスが淡々と報告する。
「一列に並べ」
「承知」
次の瞬間、風が止んだ。
森の影が凍る。
老兵たちは息を飲み、誰もが理解した。――これが“戦場の空気”だ。
⸻
セバスが地面に指先を立てた。
地が低く唸り、草が波打つ。
黒い土の中から石槍が突き上がり、最前列のゴブリンを串刺しにした。
「これで百」
「数えるな。キリがない」
「習慣です」
レイクスが前に出た。
剣を抜く音は静かだった。
だが、その一歩で――視界が裂けた。
斬撃の軌跡が、夜気を切り裂き、
数十の影が一斉に崩れ落ちる。
⸻
老兵の一人が呻く。
「……あれが、伝説の剣か」
「伝説じゃない。訓練の延長だ」
セバスが淡々と返す。
「旦那様の“本気”ではありません」
「おい、余計なことを言うな」
「事実です」
次の瞬間、森の奥で黒煙が上がった。
セバスの土魔法が地脈を揺らし、
崩れた丘ごと敵陣を押し潰す。
「……三千は減りました」
「残り七千。面倒だな」
「では、分担しますか?」
「いい。運動の続きだ」
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レイクスが剣を構え直す。
その姿を、老兵の一人がじっと見つめた。
瞳の奥に、二百年前の“雷光の英雄”の影を見た気がしていた。
次の瞬間、地が鳴る。
踏み込みと同時に、空気が変わった。
斬撃が風を裂き、光のような軌跡を描く。
ゴブリンの咆哮が消える。
圧倒的な速度と精度。
一太刀ごとに、十体、二十体と地に伏す。
⸻
セバスは静かに目を閉じ、
地を踏みしめた。
「……これで終いです」
地面から噴き上がる風と土の奔流。
それは嵐のように広がり、
残る黒牙の群れを一気に飲み込んだ。
砂煙が晴れたとき――
丘の下は、静寂に包まれていた。
立っているのは六人だけ。
⸻
老兵のひとりが息を吐く。
「……化け物ですな」
「褒め言葉として受け取っておく」
レイクスは剣を軽く払って鞘に戻した。
セバスが背筋を伸ばす。
「掃討完了。――今夜はよく眠れそうです」
「そうだな。紅茶を貰おう。
ミルクは要らん」
「甘味抜き、ですか?」
「娘どもで十分甘い」
老兵たちは思わず吹き出した。
「ははっ……相変わらずですな、伯爵様!」
笑い声が夜風に溶けた。
戦場に残るのは、焦げた草の匂いと、
久しぶりに訪れた“静けさ”だけだった。




