階段
会談
マルターレス家本邸、司令室。
壁一面の地図には、赤と黒の印が幾重にも重ねられていた。
油の匂いと血の気配が混じり合う中、
リストール伯は机に手を置き、報告書を広げていた。
「……セレーネが沈黙しました。王都陥落。魔導院は壊滅とのことです」
「ヴァルドラは?」とレイクス。
「防衛を継続中。ただ、補給線が凍結すれば持ちません。
冬を越せば、雪原ごと封鎖されるでしょう」
報告するリストールの声は低く、
その瞳の奥には焦燥と責務が同居していた。
⸻
「つまり、北東が崩れた。次は中央だな」
レイクスは地図の上、黒牙氏族の印に指を滑らせた。
「奴らの目的は略奪じゃない。『支配』だ。
人を喰うためではなく、土地を奪うために来ている」
「……確証を?」
「この二百年、奴らの動きを見てきた。
戦いのたびに残す焼け跡が違う。今回は、残す場所がある」
リストールは黙った。
老練な戦略家の言葉は、理屈ではなく経験に裏打ちされている。
⸻
「アルディアは南部を維持していますが、王都オルデラは既に包囲されつつあります。
――ヴァルトニア家からの支援要請があれば、王国の方針も変わるでしょう」
「動けば越権行為になる」
レイクスは短く言い切る。
「王家の命を待て。
俺が動けば、秩序が壊れる」
「……それでも、戦場は待ってはくれません」
「だからこそ、冷静にだ」
その声音は淡々としていたが、
部屋にいた兵士たちは思わず背筋を伸ばした。
⸻
「お前の娘、リリナはどうしている?」
唐突に、レイクスが話題を変えた。
「避難民の指揮を。南街の収容を任せています」
「よく育ったな。昔のリースバルトを思い出す」
リストールは小さく笑みを浮かべた。
「恐れ多い。……ところで、ゼノの件を伺いたい」
「エデンの分家に移した。あの娘のところにな」
「ヴィーナ殿に、ですか」
「ああ。あいつの眼はよく見ている。
ゼノも、それを見抜いて仕えると決めた。
もう俺が手を出すことじゃない」
⸻
「……英雄殿らしからぬ、静かな語り口ですな」
リストールが少しだけ笑う。
「歳を取った。それだけだ」
レイクスは椅子を離れ、窓際へ歩く。
外では、夜風が戦の煙を運んでいた。
「リストール。
この戦は、お前たちの世代のものだ。
俺ができるのは――見届けることだけだ」
静かな一言。
その中に、かつて大陸を焼いた男の影が確かにあった。
「……ならば、我々の誓いは生き続けます」
リストールは深く頭を垂れた。
「あなたが見てくださる限り、アルカディアは決して沈まない」
⸻
沈黙のあと、レイクスがわずかに息を漏らした。
「見届けるだけじゃ、退屈でな」
「まさか、また夜の散歩を?」
「察しがいい」
レイクスが口の端をわずかに上げる。
その表情に、リストールは二百年前の“あの若者”を見た気がした。
「……まったく。今夜もまた、誰かが肝を冷やすでしょう」
「構わん。退屈が一番の敵だ」
レイクスは外套を羽織り、
背後からセバスの穏やかな声がかかった。
「……まったく、旦那様。風に当たるだけとは言わないでしょうね」
「行くぞ、セバス。夜は静かだ」




