エデンの丘
エデンの丘
朝靄の森がまだ薄く光を帯びていた。
枝の隙間から差す陽光が、土を掘り返すラビット族の手元を照らす。
小さな丘の上には、かつて砦だった石の残骸。そこに新しい木材と布が並び、
人と兎人族が入り混じって笑い声を上げていた。
その中心で、ヴィーナは髪を結い直し、息を吐いた。
「……これで、仮の屋根は全部かかったね。次は――」
丘の下から駆け上がってきた少女が叫ぶ。
「ヴィーナ様っ! 北の森の向こうで……煙が!」
「煙?」
振り向いた瞬間、風が頬を撫でた。
遠くの木々の隙間に――黒い筋がいくつも立ち昇っている。
まるで空を焦がすように、灰がゆらめいた。
ゼノが隣に立ち、片目を細める。
「方向は……アルディナ方面だな。距離は十リーグ(約四十キロ)ほどか。」
レナが盾を抱えたまま険しい顔をする。
「昨日まで煙なんてなかった。急だね……」
ヴィーナは小さく息をのんだ。
――あの国境の先、アルディナ南部。
今まさに、戦が始まったのかもしれない。
⸻
丘の会議用の天幕の中。
丸太の机を囲んで、クラウス、ゼノ、レナ、ナツキ、エリカ、クロエ、
そして新たに合流したリオ・カイル・ミルの姿があった。
地図の上に置かれた石が、各砦と街の位置を示す。
クラウスが杖で北西を指した。
「現在、国境線上の砦群の一部が沈黙しています。
煙の方向から考えると……アルディナ領南部の第二防衛線が破られた可能性が高い。」
「ゴブリンどもが動いたか……」ゼノが低く唸る。
「先月の報告では、五千規模が北へ流れていたはずだ。」
「五千……」
ヴィーナは唇を噛む。
「この森を越えたら、すぐにうちの領地なのに。」
「エデンの丘は、まだ防壁も未完成です。
今は焦って動くより、情報を得ることが先決でしょう。」
クラウスの声は冷静だった。
「まずは偵察隊を派遣し、煙の原因を確かめるのが筋です。」
リオが剣の柄に手を置き、真剣な顔を上げる。
「偵察なら、俺とミルで行きます!」
「ミルも、行く!」
白い耳がぴょこんと立つ。ミルが胸を張った。
「風が知らせてくれる。近づけば、何が起こってるか分かるよ。」
ゼノが苦笑を浮かべ、肩をすくめた。
「……お前たち、やる気だけは一流だな。だが、行くなら三人だ。
レナ、お前も同行してくれ。状況次第では即撤退。」
「了解。」
レナの声が短く響く。
ヴィーナは机の上の地図を見つめ、静かに頷いた。
「……わかった。偵察許可を出す。
だけど、絶対に無理はしないで。誰も欠けたら意味がない。」
外の風が少し強くなり、天幕が揺れた。
ヴィーナはその音を聞きながら、ふと空を見上げる。
――黒い煙が、まだ消えていなかった。
森は息を潜めていた。
鳥も鳴かず、風も吹かず、ただ木々が血のような沈黙に包まれている。
「……嫌な空気だ」
リオが剣の柄を握りしめ、周囲を警戒する。
「風が止まってる。……ミル?」
レナの問いかけに、ミルの白い耳がぴくりと立った。
彼女は目を閉じ、微かな空気の流れに意識を集中させる。
「……風が逃げてる。森の奥に、何かいる」
次の瞬間、焦げたような匂いが鼻を刺した。
リオが顔を上げ、北を見た。
木々の向こうに、黒い煙が立ちのぼっている。
「アルディナの方角だな」
レナが盾の縁を地に突き、低く言う。
「昨日までは何もなかった。……誰かが焼かれてる。」
三人は足を速めた。
焼け焦げた道。砕けた荷車。地面には新しい血の跡が続いている。
空気が重く、息をするたび鉄の味がした。
「戦闘の痕跡。半日も経ってない」
リオの声は沈んでいた。
「アルディナの防衛隊か?」
「……いや、違う」
ミルが剣を抜き、震える声で答えた。
「この匂い、血の中に瘴気が混ざってる。普通のゴブリンじゃない」
その言葉と同時に――森の奥で、低い唸りが響いた。
獣とも人ともつかない、不気味な声。
「来るぞ!」
茂みを割って飛び出した影。
黒い牙を持つゴブリンたち。
皮膚は灰色に焼け、眼は赤く光っている。
血を吐きながら笑い、傷口から黒い蒸気を上げていた。
「黒牙氏族……!」
レナが唸り、盾を構える。
リオが前へ躍り出る。
「下がるな!」
剣が閃き、敵の首を断ち切る。だが倒れたはずのゴブリンが、笑いながら立ち上がった。
その目はさらに赤く、身体が一回り膨れ上がっている。
「なっ……」
「傷を負うほど、強くなる……!」
ミルが跳び、風を蹴る。
剣が閃光のように走り、黒牙の頭部を両断。
瘴気が霧のように舞い、残りの群れが狂ったように吠えた。
「退くぞ! ここで粘っても無駄だ!」
レナが叫び、盾で押し返す。
地面が震えた。
遠くで、無数の咆哮が重なる。
それは戦場そのものがうねるような、地獄の音だった。
空気が赤黒く歪み、視界が霞む。
まるで空そのものが血を吸っているようだった。
「……これが〈狂咆陣〉か」
レナが息を詰まらせる。
瘴気の波が押し寄せ、森の生気を奪っていく。
「リオ、ミル! 撤退だ!」
三人は息を合わせ、瘴気の壁を抜けた。
背後ではまだ、狂笑と咆哮が混じり合っている。
振り返ると、遠くの空が炎のように揺らめき、煙が丘を覆っていた。
「報告だ。エデンに戻るぞ!」
リオが叫ぶ。
ミルは振り向きざま、空を見上げた。
「……あんなの、人の手じゃない。戦場が……生きてる……」
灰の風が吹き、彼女の耳を撫でた。
その風は、血と煙と――狂気の匂いを運んでいた。




