放浪のラビット
森の静けさの中で
風が戻ってきた。
血の匂いと焦げた木の臭いを運び去り、
森の空気が少しだけ澄んでいく。
ヴィーナは剣を鞘に収めた。
腕は重く、呼吸も荒い。
けれど、その顔には確かな安堵があった。
「……全員、無事ね」
レナが壊れた盾を立てかけながら頷く。
「ええ。なんとか形にはなったわ」
ゼノが地面に腰を下ろし、
刃を拭いながら息をついた。
「ふう……久々に数で押される戦いだったな」
ミルが木の根元から顔を出し、
耳をぴくりと動かす。
「避難した人たち、まだ丘の上にいます。
みんな……無事です」
⸻
その報告に、
ヴィーナはゆっくりと頷いた。
「行きましょう。
……この目で、確かめたい」
彼女の言葉に、誰も異を唱えなかった。
⸻
丘を登ると、
まだ幼いラビット族の子どもが一人、
焚き火のそばで眠っていた。
母親らしき女性がその傍らで、
ほつれた布を直している。
ヴィーナの姿を見て、彼女は驚いたように立ち上がった。
「……あなたが……」
「戦いは終わりました。
森の奥にはまだ危険が残りますが、
ここまでは安全です」
ヴィーナがそう告げると、
母親の瞳が揺れた。
信じられない、というより――ただ、安堵の色。
⸻
老いたラビット族の女が前に出た。
槍を杖代わりにしながら、
ヴィーナをまっすぐ見据える。
「……あれほどの数を、
ほんの数人で退けたというのか」
ヴィーナは小さく首を横に振った。
「勝てたのは……みんなが諦めなかったからです。
それだけです」
老女はしばらく沈黙し、
やがて、静かに頭を下げた。
「我らを救った者の名を、忘れぬ。
――ヴィーナ=ヴァルトニア、感謝する」
その声は低く、しかし力があった。
⸻
その後、
避難民たちは負傷者の手当てに移り、
子どもたちが焚き火の周りで眠りについた。
ミルが毛布を掛けながら、小さく呟いた。
「……同じ耳を持ってるのに、
話す言葉も、生き方も、全然違うんですね」
ヴィーナはその横顔を見て微笑む。
「あなたがいたから、彼らも助かったの。
――同じ耳だからこそ、伝わった言葉があるはずよ」
ミルの耳がぴくりと動き、
照れたように俯いた。
⸻
クラウスが焚き火の向こうから歩み寄る。
「当主殿。
北の森は、もはや国境線ではありません。
完全に戦場です」
ヴィーナが顔を上げる。
「援軍を……出せる状況ではないんですよね」
「ええ。
王都の命令を待つには時間がかかります。
この地を守るのは、
実質的に当主殿の判断に委ねられるでしょう」
⸻
ヴィーナは少しの沈黙のあと、
焚き火の炎を見つめた。
「……なら、この地は私が守る。
ここで暮らす人も、逃げてきた人も、
誰一人、また追われるようなことはさせません」
レナが静かに頷く。
「団長、頼もしくなったわね」
ゼノが笑いながら立ち上がった。
「そろそろ“うさたん団”の名前、
笑い話じゃなくなってきたな」
ミルがくすっと笑う。
「本気で呼ばれる日が来ましたね」
焚き火の火が、
夜風に揺れた。
⸻
その夜、
北の森の丘では、
人とラビット族が並んで眠った。
戦は終わっても、
守るべきものはこれから増えていく。
ヴィーナは星空を見上げ、
小さく呟いた。
「……お父さん。
私は、少しは近づけたかな」
風が静かに吹き、
髪飾りの小さな鈴が、
ひとつだけ鳴った。
夜明けの風は、やさしかった。
焼けた木の匂いを運び去り、森の奥から鳥の声が戻る。
丘の上に立つヴィーナの視線の先で、
百名のラビット族が小さな焚き火を囲んでいた。
疲れ果て、目を閉じている者。
子どもを抱いて泣く者。
そして――まだ武器を離せずに立ち尽くす者。
⸻
クラウスが静かに報告した。
「確認しました。
生存者、総勢百名。うち戦える者は三十。
皆、北の村の者だそうです」
ヴィーナは短く頷いた。
「……この森の北。アルディナとの国境村ね」
ゼノが腕を組み、低く唸った。
「ラビット族がこれだけ一度に逃げてくるなんてな。
普通なら、あいつら群れを散らして姿を消すもんだ」
レナが盾の縁を撫でながら呟く。
「“国に居場所を持たない民”……だっけ?」
クラウスが答える。
「ええ。どの国も、彼らを正式な民としては認めません。
狩人として雇うことはあっても、土地を与えることはない」
⸻
ヴィーナは静かに彼らを見つめた。
幼い子の耳が寒さに震えている。
年老いた者が、焦げた槍を杖代わりに立っている。
――この人たちに、“居場所”を与えられない世界。
その現実が、胸に痛かった。
⸻
やがて、ラビット族の長老が進み出た。
毛並みは灰色、瞳は金色に光る。
「……ヴァルトニアの娘よ。
なぜ、我らを助けた?」
ヴィーナは答える前に、
そっと剣の鞘に手を当てた。
「――この森に踏み入った時から、
あなたたちは“私の民”でした」
老女は目を細め、首を振る。
「我らを民と呼ぶ貴族はいない。
どの国も我らを忌む。
土地を与えられぬ者は、風と共に消えるだけだ」
⸻
ヴィーナは一歩踏み出した。
「なら、私が初めてになればいい。
――あなたたちの村を、ヴィーナ領に造る」
その一言に、周囲がざわめいた。
ミルが息を呑み、ゼノが目を見開く。
レナが小声で呟いた。
「……本気なのね、団長」
ヴィーナは頷く。
「戦で守るだけが騎士じゃない。
居場所を作るのも、領主の戦いよ」
⸻
ラビット族の長老は黙ってヴィーナを見つめ、
やがて、ゆっくりと膝をついた。
「我らは放浪の民。
国にも、王にも仕えぬ者。
……だが、あなたの旗の下に集うなら、
それはきっと“居場所”になる」
槍を杖に立ち上がり、
低く頭を垂れた。
「――ヴィーナよ。
我らの槍を、あなたに預けよう」
⸻
その言葉と共に、
三十の戦士が前に進み出た。
彼らの槍が地に突き立てられる音が、森に響く。
朝陽が差し、槍の先が黄金に輝いた。
ヴィーナは小さく息を呑み、
微笑みながら応えた。
「ようこそ――ヴィーナ領へ。
あなたたちは今日から、この地の民です」
⸻
ミルが目を潤ませながら呟く。
「……団長、本当に……すごいです」
ヴィーナは小さく笑って答えた。
「すごいことじゃないわ。
ただ、あの人たちの耳を見てたら――
放っておけなかっただけ」
レナがにやりと笑う。
「まったく、うちの当主はお人好しね」
ゼノが肩をすくめる。
「……だが、そういうとこがヴィーナなんだろ」
⸻
朝日が高く昇り、
森に光が満ちていく。
かつて放浪しか知らなかった民と、
新しい領を背負う若き当主が並び立った。
風が旗を揺らし、
髪飾りの鈴が小さく鳴った。
それは、新しい誓いの音色だった。




