北の森
北の森
昼下がりの風はまだ冷たかった。
春のはずなのに、森の空気はどこか乾いている。
ヴィーナたちは、分家館を出て北の街道を進んでいた。
同行はクラウス、ゼノ、レナ、カイル、ミル――うさたん団の面々。
目的は、国境の森の視察。
アルディナとの境に広がるこの森は、いまや戦の噂が絶えない。
⸻
「……静かね」
ヴィーナが呟く。
森の奥から、鳥の声も虫の音も聞こえなかった。
ただ、風が梢をかすめる音だけが耳に残る。
クラウスが馬を止め、地図を広げた。
「この先がアルディナとの国境線。
前線の砦までは、森を抜けて半日の距離です」
ゼノが辺りを見回し、低く唸る。
「妙だな。匂いが重い。……煙か?」
レナが盾を背負い直す。
「まるで森が息をひそめてるみたいね」
⸻
進むほど、空気が変わった。
焦げた木、折れた枝、斜めに倒れた木々。
数日前に火が走った跡がある。
カイルがしゃがみ込み、地面を指でなぞった。
「足跡がある……。三日以内。
しかも、人間のじゃない」
ミルの耳がぴくりと動く。
「この音……何かが、逃げてる……?」
ヴィーナは前を見据え、
短く息を吐いた。
「警戒して。……森の中へ入るわ」
⸻
森の中は薄暗く、
光が枝葉に遮られて地面に届かない。
しばらく進むと、
かすかに水の流れる音がした。
小さな沢。その向こう――。
ヴィーナは思わず足を止めた。
木陰の向こうに、
泥にまみれた荷車がいくつも転がっていた。
焦げ跡、裂かれた布、散らばった干し肉の袋。
まるで、逃げる途中で襲われた跡。
⸻
「……遅かったか」
ゼノが剣の柄に手をかける。
その時、ミルが耳を立てた。
「待って。何か、聞こえる」
彼女の声に全員が止まる。
風が止まり、森の奥から――
かすかな、泣き声が聞こえた。
ヴィーナが声を潜めて言う。
「……人の声?」
クラウスが頷く。
「方向は北東。距離は百メルほど」
ヴィーナが剣を抜き、命じた。
「行くわ。警戒を崩さないで」
⸻
木々を抜けた先。
そこにいたのは――
小さな耳を垂らした幼い子どもたち。
そして、それを囲むように立つ十数人の異種族。
長い耳。白や茶の毛並み。
警戒の目を光らせた者たち。
ミルが息を呑んだ。
「ラビット族……!」
⸻
最前にいた若い男が、
槍を構えながら低く叫んだ。
「止まれ! これ以上近づくな!」
ヴィーナは剣を下げ、
両手を見せて歩み出た。
「私たちは敵ではありません。
この地の領を預かる者――ヴィーナ=ヴァルトニアです」
その名を聞いた瞬間、
周囲がざわめいた。
「ヴァルトニア……? あの貴族の……?」
若者の目に、一瞬、迷いが走る。
⸻
老いた女が前へ出た。
毛並みに混じる灰色、金の瞳。
明らかにこの群れの長だった。
「……ヴァルトニアと言ったな。
ならば問おう。
この森を焼いたのは、人間の軍か?」
ヴィーナが首を横に振る。
「いいえ。
アルディナから押し寄せたゴブリンの軍勢です。
この森も、すでに侵入されています」
老女は目を細め、息を吐いた。
「……やはり、あの火は奴らの仕業か。
我らは北の村から逃げてきた。
王の兵も砦も、皆飲み込まれた」
⸻
ミルが小さく声を震わせた。
「じゃあ、あなたたちは……避難民……」
老女は頷く。
「追われたのさ。
森を越えねば、生き残れなかった」
その言葉を聞いた瞬間、
ヴィーナの中で何かが決まった。
「クラウス、ミル。後方に避難路を確保して。
ゼノ、レナ、カイルは前方を警戒。
――この人たちを守ります」
⸻
老女が目を見開いた。
「……我らを? 人間が?」
ヴィーナはきっぱりと答えた。
「この森にいる限り、あなたたちは私の客です。
――ヴァルトニア領の民を、敵とは呼びません」
レナが微笑む。
「いいですね、それ」
ゼノが肩をすくめる。
「ま、当主殿が言うなら動くしかねぇな」
クラウスが静かに笑みを浮かべた。
「まさに“ヴァルトニアの矜持”ですな」
⸻
老女は槍を下げ、
深く頭を垂れた。
「……恩に着る。
我らは戦えぬが、逃げる足くらいはある。
どうか、子どもたちを頼む」
ヴィーナは頷き、剣を抜いた。
「森を抜けるまで、誰も死なせません」
その瞬間、
北の方角から、低い咆哮が響いた。
地が震える。
風がざわめき、枝葉が揺れた。
クラウスが叫ぶ。
「敵影接近! 数……多い!」
ヴィーナの瞳が鋭く光った。
「全員、配置につけ!」
――北の森が、牙を剥いた。
咆哮が止まない。
森の北端がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立った。
木々の奥で、何かが這う音。
枝を折り、地を蹴る。
それはもう、自然の音ではなかった。
クラウスが短く告げた。
「距離二百。――数は二十、いや三十ほど」
レナが盾を構える。
「前衛展開。避難民を後方に!」
ヴィーナは息を吸い込み、
剣を抜いた。
刃が陽を受けて、細く光る。
「ミル、子どもたちを下げて。
クラウスさん、斜面の方へ誘導を!」
「承知しました。当主殿」
⸻
地面が揺れた。
木々の隙間から、
黄緑の影が飛び出す。
ゴブリン。
粗鉄の槍と棍棒を握り、涎を垂らしながら突進してきた。
ゼノが低く笑う。
「来やがったな、下種どもが」
ヴィーナが叫ぶ。
「前衛、盾で受けて! ――ゼノ、右から回り込んで!」
「了解!」
レナの盾が火花を散らす。
金属音が森に響いた。
⸻
カイルが左翼を支え、
盾の縁で敵の棍棒を弾き返す。
「くっ……重いな!」
レナが咆哮する。
「耐えろ! 盾を割らせるな!」
ゼノがその隙を突き、
背後に回り込んだゴブリンを切り伏せる。
刃が赤く染まる。
ヴィーナが短剣を握り、前線へ駆けた。
「倒したら間を詰めて! 囲まれたら負ける!」
冷静な声が、戦場を引き締めた。
⸻
ミルが斜面の上から叫ぶ。
「まだ五体! 右側に回ってる!」
ヴィーナがすぐに反応する。
「カイル、レナ! 右へ一歩ずつ寄せて、角を潰して!」
レナが頷き、盾を突き出した。
ゴブリンの突撃が弾かれ、
その隙にゼノが横から切り込む。
喉元を裂かれたゴブリンが倒れ、
血が土に染み込んだ。
⸻
息を合わせた連携。
うさたん団の初陣は、
ぎこちながらも確かな秩序を持ち始めていた。
ヴィーナが後方へ叫ぶ。
「避難は終わった!?」
クラウスの声が返る。
「子どもと老人は安全圏です! あとは持ちこたえるだけです!」
ヴィーナが頷く。
「よし――ここで終わらせる!」
⸻
最後の一体が、
唸り声を上げてレナに飛びかかった。
レナが盾を旋回させて弾き飛ばす。
カイルがすかさず突撃、
盾の縁で顎を砕いた。
そのまま地に沈む。
静寂。
風が戻り、
木々の間を小鳥の影がよぎった。
⸻
ヴィーナは剣を下ろし、
荒い息を吐いた。
「……みんな、無事?」
ゼノが剣を肩に担ぎながら答える。
「こっちは軽傷だ。盾のほうが持たなかったけどな」
レナが割れた盾を見下ろし、
苦笑した。
「どうやら、修理が必要みたいね」
ヴィーナが息をつき、
森の奥を見つめた。
「これだけの数が散らばってるってことは、
……まだ本隊がいる」
⸻
クラウスが静かに頷いた。
「ええ。戦線は崩れている。
もはやアルディナの防衛線は、ここまで下がっています」
ヴィーナの拳が震えた。
「だったら――ここで食い止めるしかない」
彼女の目に、
もう迷いはなかった。
「うさたん団、再編!
これより北側斜面に陣を張る!」
レナが頷き、
ゼノが刃を拭い、
ミルが耳を立てて森の音を探る。
クラウスが短く笑った。
「……立派になられましたね。当主殿」
ヴィーナは笑わずに答えた。
「立派になるのはあとでいい。
――今は、守るだけ」
⸻
森の奥で、再び咆哮が響いた。
数は、さっきとは比べ物にならない。
風が凍る。
木々がざわめく。
レナが盾を構え、
ゼノが前に出た。
ヴィーナは剣を掲げ、
声を張り上げる。
「全員――構えっ!」
次の瞬間、
地面が揺れ、木々が倒れた。
黒い影の群れが迫る。
北の森の本戦が、始まった。
森の空気が濁っていた。
焦げた匂い、血の鉄臭、そして何より重い沈黙。
ヴィーナは深呼吸し、剣を握り直した。
背後には、避難民を守るうさたん団の仲間たちがいる。
彼女が下がれば、全てが崩れる。
「……もう逃げ場はない。
――ここで止める」
その言葉に、誰も反論しなかった。
⸻
やがて地鳴り。
木々がざわめき、
無数の影が地平の奥から現れた。
小鬼の群れ――ゴブリン。
粗末な鉄の武具を身につけ、
喉を裂くような雄叫びを上げながら突進してくる。
その奥には、
鉄仮面をかぶった巨体。
黒い呪符を腕に巻いた、将軍格――ホブロード。
⸻
「前衛、構えっ!」
ヴィーナの声に、レナとカイルが同時に盾を突き立てる。
レナの筋肉がきしむ。
「下がるな、押し返すぞ!」
カイルが横から応じる。
「おうっ!」
二枚の鉄盾が重なり、地面を抉った。
敵がぶつかる。
轟音。火花。
盾の裏で、腕が震えた。
ゼノがその隙を縫って飛び出す。
「突破口、取る!」
剣が閃き、敵の首を断つ。
レナが吠える。
「まだ押せる! ここで止めるっ!」
⸻
ヴィーナは短剣を抜き、
自らも前へ踏み込んだ。
剣が肉を裂き、血飛沫が舞う。
誰も、もう領主だとは思っていなかった。
彼女はただの“戦士”として前線にいた。
しかし――敵は止まらない。
数で押し寄せる波が、陣形を飲み込む。
⸻
やがて、轟く咆哮。
ホブロードが一歩、前へ出た。
足を踏み出すたびに地面が割れる。
鉄仮面の奥で、赤い光がぎらついた。
レナの盾がその剣を受ける――
瞬間、金属が悲鳴を上げて砕け散る。
「ぐっ……ぅあ!」
衝撃でレナが吹き飛んだ。
カイルが庇い、腕ごと地面に叩きつけられる。
ゼノが叫ぶ。
「下がれヴィーナ! こいつは――」
「いいえ!」
ヴィーナの目が燃える。
「今、下がったら終わりよ!」
⸻
彼女は前に出た。
短剣が閃き、
ホブロードの腕を縛る黒い呪符を狙う。
鋭い刃が布を裂く。
だが、次の瞬間――
呪符が爆ぜた。
眩い光と衝撃。
地面が波打ち、木々が軋んで倒れる。
ヴィーナは弾き飛ばされ、地に叩きつけられた。
⸻
耳鳴り。
世界が白くかすむ。
立ち上がろうとした足が、震えた。
レナは盾を失い、
ゼノは剣を欠き、
カイルは腕を押さえてうずくまっている。
クラウスが叫ぶ。
「撤退を――!」
ヴィーナはそれを振り払い、
血の混じる声で叫んだ。
「まだ……終わってないっ!」
その瞬間。
⸻
風が止んだ。
葉のざわめきが、ぴたりと消えた。
ホブロードが動きを止め、
赤い目をゆっくりと横に向ける。
――そこに、灰銀の影が立っていた。
長いコートの裾が風に揺れ、
深い瞳が戦場を見渡す。
ヴァルトニア家執事、セバス=グレイウィンド。
⸻
「……セバスさん……」
ヴィーナが震える声で呟く。
彼はゆっくりと歩み出し、
杖を軽く地面に突いた。
風が動いた。
地が震えた。
ホブロードが吠え、突進する。
セバスは静かに言葉を紡ぐ。
「――地を鎮め、風を裂け」
空気が震えた。
足元の土が巻き上がり、
巨体の脚を絡め取る。
ホブロードの動きが止まった瞬間、
目に見えぬ風の刃が走る。
音はなかった。
ただ、
仮面の下から血が一筋、流れ落ちた。
⸻
巨体が崩れ、
地に沈む音が森を震わせた。
誰も動けなかった。
セバスは杖を払って、
戦場の塵を風で散らした。
「……この地で命を落とした者たちよ、安らかに」
彼の声に呼応するように、
土が静かに波打ち、倒れた者たちを包み込んだ。
⸻
ヴィーナは立ち上がり、
ゆっくりと剣を鞘に戻した。
「……また、助けられてしまいましたね」
セバスは穏やかに首を振った。
「いいえ、お嬢様。
“助けた”のではございません。
あなたが“守った”戦場を、私が整えただけです」
その言葉に、ヴィーナの目がかすかに揺れた。
⸻
彼女は深く息を吸い込み、
戦場を見渡した。
「……次は、私たちの力で守ります。
誰かが来る前に、誰かを救えるように」
セバスは微笑んで頷く。
「ええ――その日が来るのを、楽しみにしております」
⸻
風が森を抜け、
血の匂いを運び去っていった。
陽が差し込み、
戦場に影が戻る。
ラビット族の子どもが、
ヴィーナの背を見上げて呟いた。
「……あの人が、この森を守った人だ」
クラウスが小さく笑う。
「そうとも。――あれが、ヴァルトニアの名だ」
⸻
こうして北の森の戦いは終わった。
けれど、その風の静けさの奥で、
新たな戦いの鼓動が、確かに始まっていた。




