表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レイクス戦記  作者: ゆう
ゴブリンの襲来
71/99

ヴァルトニア分家領

ヴァルトニア分家領


 朝靄の中を、馬車の車輪が静かに転がっていった。

 澄んだ空気に鳥の声が混じり、遠くで鍛冶場の槌音が響く。


 ヴィーナは窓の外を見つめながら、小さく息を吐いた。

 昨夜の喧騒が嘘のようだ。


 クラウスが隣で帳簿を閉じ、穏やかに口を開いた。

「これより西へ二刻。そこが分家領の中心、《ベルハルトの丘》です。

 ここから北は森が続きますが――あの森の向こうはアルディナ王国との国境線です」


 ヴィーナは眉をひそめる。

「……じゃあ、戦が起これば真っ先に巻き込まれる場所なんだ」


「はい。

 もっとも、今はまだ静かですがね」

 クラウスは苦笑を漏らした。

「“静けさ”というのは、得てして嵐の前に訪れるものです」


 ゼノが外を見ながら低く呟いた。

「木々の揺れ方が違うな。風が重い」



 馬車が丘を登りきると、

 一面に広がる田畑と、谷間を走る川が視界に飛び込んできた。


 クラウスが指をさして説明を続ける。

「北を《グランディスの森》、南を《エルム・ライン》川、

 西を《黒鉄山脈》、東を湖に囲まれた谷地です。

 領地面積は約三百二十平方キロ、人口はおよそ二千。

 主な産業は小麦と果樹、それから木材と炭です」


 ヴィーナは馬車を降り、風の中に立った。

 朝の光を受け、谷が金色に輝く。


「……こんなに広いなんて、思わなかった」


 クラウスが静かに頷く。

「この土地は小国ひとつ分の価値を持ちます。

 ですが、守りを怠れば、すぐに飲み込まれる。

 北の森を越えればアルディナ軍の補給路が通っていますから」



 丘の上に立つと、

 眼下に点々と農村が見えた。

 白い煙がいくつも立ちのぼり、人々が働く姿が小さく動いている。


 ヴィーナはその光景を見つめ、

 両手で外套を押さえた。

「……あの人たちが、私の治める民なのね」


 クラウスが軽くうなずく。

「はい。当主殿の采配ひとつで、彼らの冬が変わります。

 武器よりも、今年の麦の収穫が、ここの命を左右するのです」


 ミルが風の中で耳を揺らしながら言った。

「風の音が優しい。でも……ちょっと寂しそう」


 ヴィーナはその言葉に小さく笑い、

 遠くの村を見た。

「そうね。

 もっと賑やかにしてあげたい。

 ――この場所を、ちゃんと見ていこう」



 クラウスが懐から書類を差し出した。

「農地の区画整理、橋の補修、伐採許可、税の改定。

 これらが今季の課題です。

 数字は正直ですが、そこに生きる人の顔を見れば、答えは変わる。

 それを忘れぬことが、領主の務めです」


 ヴィーナは書類を受け取り、

 ページをめくる。

 数字が並ぶ紙の向こうに、人々の暮らしが見える気がした。


「……思っていたより、戦うことって多いんだね」


 クラウスが目を細める。

「剣を振るうだけが戦いではございません。

 今日から当主殿が挑むのは、“生かす戦い”です」



 谷を抜ける風が頬を撫でた。

 ヴィーナはその風の中に立ち、

 遠くの森――アルディナとの国境線を見つめる。


 そこに見えたのは、

 戦場ではなく、守るべき“静けさ”の境界だった。


「……クラウスさん。

 この地を任された意味、少しわかった気がする」


「それを理解なさった時点で、

 当主殿はすでに立派な領主です」


 クラウスの穏やかな声に、

 ヴィーナは小さく頷いた。


 ベルハルトの丘の館――

 分家の大広間には、十数名の人々が集まっていた。


 壁の燭台が灯を落とし、

 長い楡の木の卓の上には村の地図と帳簿が並べられている。


 クラウスが一歩前に出て、静かに声を上げた。

「――これより、ヴァルトニア分家領の会合を始めます」


 その声に、ざわめきがぴたりと止まる。


 机の向こう側には、

 村長の老農夫ハロルド

 衛兵長グレン

 商人組頭ベイル

 そして炭焼き職人や薬草採りの代表たちが座っていた。



 クラウスが振り返り、ヴィーナを示す。

「新たにこの地を治める、当主――ヴィーナ=ヴァルトニア様です」


 その名を聞いた瞬間、

 会場がどよめいた。


「ヴァルトニア……? 本家の……!」

「まさか、あの雷光の一族の……?」

「若いな……十代か?」


 好奇と不安が入り混じった視線。

 ヴィーナは深呼吸をして一歩前へ出た。


 赤い髪飾りが燭光を受けて揺れる。

 その小さな仕草で、空気が静まった。



「初めまして。

 ヴィーナ=ヴァルトニアです。

 今日から、この地のことを……みんなのことを、見守らせてください」


 言葉は素朴で、少し震えていた。

 けれど、目だけは真っすぐだった。


 クラウスが隣で小さく頷き、

 議題を開く。


「まずは現状の確認から。

 北の森――アルディナ国境での警戒。

 農地の水路の老朽化。

 そして、今年の税率についてです」



 衛兵長のグレンが腕を組んで言う。

「北の森では見慣れない煙が何度か上がってます。

 アルディナ側の斥候か、もしくはゴブリンの残党。

 巡回を増やしたいが、人手が足りません」


 商人ベイルが続ける。

「それに物資の流通も問題ですな。

 道が荒れてて、王都までの荷馬車が一日に十台も通れん。

 税を上げられたら干上がりますよ」


 老農夫ハロルドが静かに口を開く。

「若いお方に無礼を申しますが……

 冬が長ければ、わしらはどうにもならん。

 麦の種を守らせてくだせぇ。それが願いです」


 重たい空気が広間を満たした。



 ヴィーナは、しばらく黙ってみんなを見回した。

 どの顔も、風に焼けた手も、

 昨日まで名前も知らなかった“この地の現実”だった。


「……わかりました」

 彼女はゆっくりと口を開いた。


「道の整備は私たち――うさたん団で引き受けます。

 北の森の巡回も、団の訓練を兼ねて行いましょう。

 農地の水路については……クラウスさん、調査班を出して。

 村ごとに状況を確認したいです」


 クラウスが恭しく頭を下げる。

「承知いたしました」



 ヴィーナは卓に両手を置いた。

 指先が少し震えていたが、

 声はしっかりと通っていた。


「私は戦うことなら少しはできます。

 でも、みんなの暮らしのことは、まだ何も知らない。

 だから――教えてください。

 この地をどうすれば良くなるのか。

 一緒に考えたいんです」


 静寂。


 最初に笑ったのは、老農夫のハロルドだった。

「……はは、素直なお方だ。

 あんたみたいなのが上なら、まだ何とかなるかもしれん」


 商人ベイルが腕を組んでにやりと笑う。

「王都の役人よりはずっと話が早い。

 俺も荷馬車の件、協力しようじゃありませんか」


 衛兵長グレンが頷いた。

「巡回には俺の部下を回します。当主殿に恥はかかせません」



 クラウスが小さく笑みを漏らした。

「……どうやら、上々の滑り出しのようですな」


 ヴィーナは照れたように笑い、

 両手を後ろに回した。


「みんなの顔を見られて、少し安心しました。

 この地のこと、ちゃんと覚えます。

 ――私の名前が、みんなの生活を守る力になるように」


 その言葉に、広間のあちこちで

 静かに頭を下げる音がした。


 会合の終わりを告げる鐘が鳴り、

 窓の外には、柔らかな陽が差し込んでいた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ