ヴァルトニア分家領
ヴァルトニア分家領
朝靄の中を、馬車の車輪が静かに転がっていった。
澄んだ空気に鳥の声が混じり、遠くで鍛冶場の槌音が響く。
ヴィーナは窓の外を見つめながら、小さく息を吐いた。
昨夜の喧騒が嘘のようだ。
クラウスが隣で帳簿を閉じ、穏やかに口を開いた。
「これより西へ二刻。そこが分家領の中心、《ベルハルトの丘》です。
ここから北は森が続きますが――あの森の向こうはアルディナ王国との国境線です」
ヴィーナは眉をひそめる。
「……じゃあ、戦が起これば真っ先に巻き込まれる場所なんだ」
「はい。
もっとも、今はまだ静かですがね」
クラウスは苦笑を漏らした。
「“静けさ”というのは、得てして嵐の前に訪れるものです」
ゼノが外を見ながら低く呟いた。
「木々の揺れ方が違うな。風が重い」
⸻
馬車が丘を登りきると、
一面に広がる田畑と、谷間を走る川が視界に飛び込んできた。
クラウスが指をさして説明を続ける。
「北を《グランディスの森》、南を《エルム・ライン》川、
西を《黒鉄山脈》、東を湖に囲まれた谷地です。
領地面積は約三百二十平方キロ、人口はおよそ二千。
主な産業は小麦と果樹、それから木材と炭です」
ヴィーナは馬車を降り、風の中に立った。
朝の光を受け、谷が金色に輝く。
「……こんなに広いなんて、思わなかった」
クラウスが静かに頷く。
「この土地は小国ひとつ分の価値を持ちます。
ですが、守りを怠れば、すぐに飲み込まれる。
北の森を越えればアルディナ軍の補給路が通っていますから」
⸻
丘の上に立つと、
眼下に点々と農村が見えた。
白い煙がいくつも立ちのぼり、人々が働く姿が小さく動いている。
ヴィーナはその光景を見つめ、
両手で外套を押さえた。
「……あの人たちが、私の治める民なのね」
クラウスが軽くうなずく。
「はい。当主殿の采配ひとつで、彼らの冬が変わります。
武器よりも、今年の麦の収穫が、ここの命を左右するのです」
ミルが風の中で耳を揺らしながら言った。
「風の音が優しい。でも……ちょっと寂しそう」
ヴィーナはその言葉に小さく笑い、
遠くの村を見た。
「そうね。
もっと賑やかにしてあげたい。
――この場所を、ちゃんと見ていこう」
⸻
クラウスが懐から書類を差し出した。
「農地の区画整理、橋の補修、伐採許可、税の改定。
これらが今季の課題です。
数字は正直ですが、そこに生きる人の顔を見れば、答えは変わる。
それを忘れぬことが、領主の務めです」
ヴィーナは書類を受け取り、
ページをめくる。
数字が並ぶ紙の向こうに、人々の暮らしが見える気がした。
「……思っていたより、戦うことって多いんだね」
クラウスが目を細める。
「剣を振るうだけが戦いではございません。
今日から当主殿が挑むのは、“生かす戦い”です」
⸻
谷を抜ける風が頬を撫でた。
ヴィーナはその風の中に立ち、
遠くの森――アルディナとの国境線を見つめる。
そこに見えたのは、
戦場ではなく、守るべき“静けさ”の境界だった。
「……クラウスさん。
この地を任された意味、少しわかった気がする」
「それを理解なさった時点で、
当主殿はすでに立派な領主です」
クラウスの穏やかな声に、
ヴィーナは小さく頷いた。
ベルハルトの丘の館――
分家の大広間には、十数名の人々が集まっていた。
壁の燭台が灯を落とし、
長い楡の木の卓の上には村の地図と帳簿が並べられている。
クラウスが一歩前に出て、静かに声を上げた。
「――これより、ヴァルトニア分家領の会合を始めます」
その声に、ざわめきがぴたりと止まる。
机の向こう側には、
村長の老農夫、
衛兵長、
商人組頭、
そして炭焼き職人や薬草採りの代表たちが座っていた。
⸻
クラウスが振り返り、ヴィーナを示す。
「新たにこの地を治める、当主――ヴィーナ=ヴァルトニア様です」
その名を聞いた瞬間、
会場がどよめいた。
「ヴァルトニア……? 本家の……!」
「まさか、あの雷光の一族の……?」
「若いな……十代か?」
好奇と不安が入り混じった視線。
ヴィーナは深呼吸をして一歩前へ出た。
赤い髪飾りが燭光を受けて揺れる。
その小さな仕草で、空気が静まった。
⸻
「初めまして。
ヴィーナ=ヴァルトニアです。
今日から、この地のことを……みんなのことを、見守らせてください」
言葉は素朴で、少し震えていた。
けれど、目だけは真っすぐだった。
クラウスが隣で小さく頷き、
議題を開く。
「まずは現状の確認から。
北の森――アルディナ国境での警戒。
農地の水路の老朽化。
そして、今年の税率についてです」
⸻
衛兵長のグレンが腕を組んで言う。
「北の森では見慣れない煙が何度か上がってます。
アルディナ側の斥候か、もしくはゴブリンの残党。
巡回を増やしたいが、人手が足りません」
商人ベイルが続ける。
「それに物資の流通も問題ですな。
道が荒れてて、王都までの荷馬車が一日に十台も通れん。
税を上げられたら干上がりますよ」
老農夫ハロルドが静かに口を開く。
「若いお方に無礼を申しますが……
冬が長ければ、わしらはどうにもならん。
麦の種を守らせてくだせぇ。それが願いです」
重たい空気が広間を満たした。
⸻
ヴィーナは、しばらく黙ってみんなを見回した。
どの顔も、風に焼けた手も、
昨日まで名前も知らなかった“この地の現実”だった。
「……わかりました」
彼女はゆっくりと口を開いた。
「道の整備は私たち――うさたん団で引き受けます。
北の森の巡回も、団の訓練を兼ねて行いましょう。
農地の水路については……クラウスさん、調査班を出して。
村ごとに状況を確認したいです」
クラウスが恭しく頭を下げる。
「承知いたしました」
⸻
ヴィーナは卓に両手を置いた。
指先が少し震えていたが、
声はしっかりと通っていた。
「私は戦うことなら少しはできます。
でも、みんなの暮らしのことは、まだ何も知らない。
だから――教えてください。
この地をどうすれば良くなるのか。
一緒に考えたいんです」
静寂。
最初に笑ったのは、老農夫のハロルドだった。
「……はは、素直なお方だ。
あんたみたいなのが上なら、まだ何とかなるかもしれん」
商人ベイルが腕を組んでにやりと笑う。
「王都の役人よりはずっと話が早い。
俺も荷馬車の件、協力しようじゃありませんか」
衛兵長グレンが頷いた。
「巡回には俺の部下を回します。当主殿に恥はかかせません」
⸻
クラウスが小さく笑みを漏らした。
「……どうやら、上々の滑り出しのようですな」
ヴィーナは照れたように笑い、
両手を後ろに回した。
「みんなの顔を見られて、少し安心しました。
この地のこと、ちゃんと覚えます。
――私の名前が、みんなの生活を守る力になるように」
その言葉に、広間のあちこちで
静かに頭を下げる音がした。
会合の終わりを告げる鐘が鳴り、
窓の外には、柔らかな陽が差し込んでいた。




