聖戦の影
迫る聖戦の影
エルムガルド歴873年。
レクシア神聖国が「聖戦」を掲げ、隣国エルディナ聖王国への侵攻を開始する――その噂は、南の街道を通じてアルディア王国の王都オルデアに届いた。
「エルディナの村が焼かれた」
「女神に祈っただけで捕まるらしい」
「次は国そのものが落ちる……」
市場の広場はざわめきで満ち、人々の顔には恐怖が色濃く浮かんでいた。
◇
「……本当なのかな」
エリカが立ち止まり、不安そうに声を漏らす。
「聖戦って言ったって、ただの侵略だろ」
ナツキは苦々しい顔をする。
クロエは腕を組み、冷ややかに言った。
「難民も増えているし、王都の空気はもう戦を意識してる。時間の問題ね」
レナは小さく頷いた。
「……マルターレス騎士団も援軍の準備に入ったらしい。数日中に出立するはずよ」
◇
その言葉に、ヴィーナの胸が大きく揺れた。
(……お父さん。エルディナへ行ったまま、戻ってない……)
戦火の中にいるのなら――。
考えるだけで胸が締めつけられ、広場のざわめきが遠のいていく。
気づけば、ヴィーナは仲間に向き直っていた。
「……わたし、マルターレス騎士団にお願いする。同行させてほしいって」
「えっ、同行!?」
ナツキが声を裏返す。
「理由は?」
クロエが鋭い目を向ける。
ヴィーナは小さく唇を噛み、正直に答えた。
「……お父さんが心配だから」
その一言に、仲間たちは言葉を失った。
エリカがそっと頷き、レナは「……そう来ると思ったわ」と静かに呟く。
◇
石畳を踏みしめ進むマルターレス騎士団の列が広場を横切る。
翻る旗、重なる甲冑の音。
その光景を見つめながら、ヴィーナは胸の奥で強く願った。
(どうか――お父さんへ繋がる道になりますように)
こうして少女の決意は、思いもよらぬ運命の渦を呼び寄せていくのだった。
マルターレス騎士団本部の門前。
鎧の音と怒声が響き、遠征準備に忙殺される空気が広がっていた。
ヴィーナは衛兵の前に進み出て、はっきりと言った。
「……お願いがあります。今回の遠征に、私も同行させてください」
衛兵たちは一瞬言葉を失い、やがて冷ややかな視線を向ける。
「……娘、何を言っている。ここは遊び場ではない」
「出立は国の一大事だ。軽々しく口にするな」
周囲の騎士たちも足を止め、ざわめきが広がる。
「ただの少女が……」
「不敬ではないか……?」
兵士の手が柄にかかり、緊張が走った瞬間――
「――その方に手を触れるな」
重い声が響いた。
群衆が割れ、銀黒の鎧に身を包んだ壮年の騎士、ゼノが姿を現した。
「ゼ、ゼノ隊長……!」
兵たちは慌てて直立する。
ゼノはゆるやかに歩み寄り、ヴィーナの前で深く頭を垂れた。
「……お待たせいたしました。――ヴィーナ様」
その一言で、空気が凍りついた。
「ヴィーナ……様……?」
ざわめきは恐怖に変わり、兵士たちは慌てて武器を下ろす。
◇
仲間たちはその光景を静かに受け止めた。
ナツキが「やっぱり“様”呼びは堅苦しいな」とぼやき、クロエが「仕方ない。ここでは当然」と応じる。
エリカは「でも誇らしいよね」と笑みを浮かべ、レナは「名を呼ばずとも、立場は揺るがない」と言った。
◇
ゼノは静かに問う。
「ご用件は、遠征への同行――でよろしいのですね」
ヴィーナは緊張しながらも頷いた。
「……はい。お父さんが、エルディナに行ったまま戻っていないのです。
だから……確かめたい」
ゼノは短く息を吐いた。
「……承知しました。ただし遠征は戦場。危険は避けられません。
――ゆえに、私が護衛を務めましょう」
兵たちは目を丸くし、ざわめきが広がった。
「ゼノ隊長が直々に……!」
ゼノは背筋を正し、低く告げた。
「これは騎士団の決定ではない。私個人の責務だ」
その瞬間、ヴィーナの遠征への道は固く結ばれた。
ゼノに導かれ、騎士団本部の石造りの廊下を進む。
人目のない回廊に差しかかると、ゼノはふと足を止めた。
「……ひとつ、申し上げておきたいことがあります」
振り返ったゼノの眼差しは鋭くも誠実だった。
「今回の出征――王命に従ったものではありません。
マルターレス家は国の命を受けていない。これは、我らの独断による援軍です」
「じゃあ……勝手に?」
ナツキが驚きに眉をひそめる。
ゼノは静かに首を振った。
「勝手ではありません。我らにとって必然。
――ヴァルトニア家に対する大恩を、果たすための出征です」
その名が出た瞬間、空気が張り詰めた。
仲間たちが互いに顔を見合わせ、エリカはヴィーナを見つめる。
ゼノは深く頭を下げた。
「このことは団長、リストール様から直接お話があるでしょう。
ただ一つ確かなのは――貴女は、我らが剣を振るう理由そのものだということです」
広間の前に立ち、ゼノは告げる。
「リストール団長がお待ちです」
ヴィーナは懐から小さな短剣を取り出した。
「……これを、団長に見せなきゃ」
その刃は静かに光を反射していた。
広間に入ると、銀の髪を束ねた威厳ある男が立っていた。
マルターレス家当主にして騎士団団長、リストール。
「よく来られたな。……ヴィーナ様」
◇
リストールはゼノから事情を聞き、ヴィーナに向き直った。
「遠征に同行したいと」
ヴィーナは強く頷く。
「……はい。お父さんが、エルディナに行ったまま戻っていないんです。
だから……少しでも近づきたい」
リストールの視線が鋭く光った。
「これは国命ではない。我らの剣は、ヴァルトニア家への恩義に応えるために振るわれる」
◇
ヴィーナは懐から短剣を取り出す。
「……これを、渡さなきゃと思っていました」
その瞬間、リストールの瞳が見開かれる。
「……リースバルトの血に連なる者へ返すべきもののはず……。
なぜ、あなたが……」
「……お父さんに、託されたんです。リースバルトの一族に返してほしいって」
リストールの声が震えた。
「……ヴァルトニアの娘は本物だった。一族の念願が叶った……」
「あなたは紛れもない、ヴァルトニアの姫君」
◇
ヴィーナは首を横に振る。
「……わたしは、ただのヴィーナです。お父さんの娘で……それ以上でも、それ以下でもない」
言葉は震えていたが、瞳は揺らがなかった。
リストールは深く頷いた。
「……よかろう。同行を許す。ヴァルトニア家の恩義に報いるための遠征。好きにするがよい」
それは――ヴィーナが父を知るための、新たな扉が開かれる音のようだった。
本部を後にし、石畳の道を歩く。
夕暮れの光の中、前を行くヴィーナの背は小さくも大きく見えた。
短剣を託し、遠征同行を許された彼女は、もう以前の旅人ではない。
◇
「……ほんとに行くことになっちゃったんだね」
エリカの声には不安と誇らしさが混じっていた。
「まさか許可されるとは思わなかったぜ。ゼノ隊長が護衛まで引き受けるなんてよ」
ナツキは苦笑しつつも驚きを隠せない。
クロエは淡々と答える。
「大物じゃない。“特別”なの。最初から分かってたことよ」
レナは小さく頷く。
「リストール様が認めた以上、ただの旅人でいられるわけがない」
◇
「でもよ……戦場に行くんだぜ。命がけだ」
ナツキは顔をしかめる。
「分かってる。でも放っておけない」
エリカは真剣な眼差しで言った。
「ヴィーナは私たちの仲間だから」
クロエは肩を竦める。
「命を賭ける覚悟がなきゃ隣には立てない。……でも、もう決めたんでしょ」
レナは静かに結ぶ。
「――結局のところ、私たちは“巻き込まれる側”じゃない。彼女と共に歩む者として選ばれたのよ」
◇
前を歩くヴィーナが振り返る。
「……みんな?」
仲間たちは慌てて笑って取り繕った。
「な、なんでもねぇって!」
「うん、気にしないで!」
ヴィーナは首を傾げ、すぐに柔らかく微笑み、再び歩き出した。
その背を見守りながら、仲間たちは胸の奥でそれぞれの決意を固めていた。




