セリスとの出会い
Ⅰ 聖泉での出会い
朝の光に包まれた聖泉の広場。
巡礼者たちが列をなし、杯を泉に沈めては祈りの言葉を口にしていた。歌声が風に乗って漂い、石畳にこぼれる水滴が陽光を反射してきらめく。
その中を歩いていたレイクスは、不意に足を止めた。
――香草の匂い。
夢の中で嗅いだ、あの温かな香りと同じだった。
香りを追って視線をやると、泉のほとりを通り過ぎる少女の姿があった。
白と水色の巡礼衣に身を包み、胸元には小さな香草袋。淡い金の髪が陽光を受けてきらりと光り、蒼に翠を帯びた瞳は伏せられている。
レイクスは思わず声をかけた。
「……その香草袋、どこで学んだ?」
少女が足を止め、驚いたように振り返る。瞳が潤み、胸の袋を両手でぎゅっと抱きしめた。
「これは……誰かに教わったわけじゃないんです」
小さな声で言い、視線を落とす。
「でも、なぜか記憶の中に、この作り方が残っていて……まるで、心に刻まれていたみたいで」
言葉を区切りながら、息を整えるように瞬きをする。
やがて、さらにぽつりと続けた。
「……夢を見るんです。炎に包まれて、苦しくて……息ができなくなる夢。
でも、その中で必ず声が呼んでくれるんです。その声が……」
少女の瞳が、恐る恐るレイクスを映す。
「あなたと、そっくりで」
そこで言葉が途切れ、頬に涙がつっと落ちた。
「夢の中の人に、まさか会えるなんて思っていませんでした」
香草袋を抱きしめたまま、唇を噛んで俯く。
その肩がかすかに震えているのを、レイクスは黙って見ていた。
泉を離れ、二人は街路を並んで歩いた。露店からは香辛料の匂いが漂い、商人の呼び声や子供の笑い声が午後の空気を賑わせていた。巡礼の群れから離れたせいか、通りにはどこか落ち着いた雰囲気が漂っている。
途中、小さな食堂に立ち寄った。木の扉を押すと、焼きたてのパンと温かなスープの匂いが迎えてくる。
セリスはおずおずと席に座り、差し出されたパンを小さくちぎって口に運んだ。
「……あたたかい」
思わずこぼれたその言葉には、味以上の意味が込められていた。孤児として日々を過ごしてきた彼女にとって、安心して食べる温かな食事自体が胸を満たすものだった。
しばらく沈黙が続いたが、セリスは勇気を振り絞るように問いかける。
「レイクス様は……好きな食べ物、ありますか?」
意外な質問に、彼は少し考えてから答えた。
「……甘い果実だ。子供の頃からずっと好きだ」
セリスは目を瞬かせ、ふっと笑みを浮かべる。
「甘いものがお好きなんですね。……なんだか意外です」
今度は彼女が自分のことを話した。
「私は……香草の匂いが好きです。食べ物というより、安心できる匂いで。だから、こうして袋を作って持ち歩いていて……」
胸元の袋を指先で持ち上げる。その仕草に、レイクスは静かに頷き、外套の内から同じように小さな袋を取り出した。
「……奇遇だな。私も香草の匂いが好きだ。ずっと持ち歩いている」
セリスは目を見開き、すぐに笑みを浮かべる。
「本当なんですね……。なんだか、不思議です」
レイクスは袋を軽く握りしめ、短く言葉を添えた。
「香りは心を温める。私は大事にしているよ」
その一言に、セリスの胸の奥が温かく満ちていった。
「……はい」
食事を終えて外に出ると、昼の光は傾き始めていた。石畳に伸びる影は長く、露店はひとつまたひとつと店仕舞いを終えていく。街の喧騒はゆるやかに静まり、夕暮れの赤い光が世界を染めていった。
丘を登ると、遠くに高い石壁と黒鉄の門を構える大きな館が姿を現した。夕陽を受け、門柱の紋章が赤金に輝く。
その荘厳な光景に圧倒されながら、セリスは足を止め、胸の香草袋を抱きしめた。
「もし、よろしければ……またお会いできますか?」
声は小さく震えていた。
「私は孤児で……居場所がないんです。だから、巫女見習いとしてここに身を寄せているだけで……」
自分の言葉に不安を覚え、視線を落としたそのとき、レイクスが穏やかに答えを返す。
「……セリスが望むなら」
一呼吸おいて、さらに続けた。
「私のところに来ないか?」
セリスの瞳が大きく揺れ、頬を伝う涙とともに微笑みが咲く。
「……はい」
夕暮れの空にその声が溶け、赤く染まった街並みに温かな余韻を残した。
丘を登りきったとき、夕陽に染まる巨大な館が視界いっぱいに広がった。
高い石壁、黒鉄の門。その門柱に刻まれた紋章――雷に翼と指輪が赤金の光を返す。
セリスは思わず足を止め、息を呑んだ。
「……ここはヴァルトニア家……」
名は何度も耳にしてきた。伝説の家、誇り高き騎士団を抱える一族。
だが実際に目の前にしたその威容は、想像をはるかに超えていた。
胸の香草袋を握りしめながら、隣を歩くレイクスに小さく笑みを向ける。
「すごい屋敷ですよね……。こんな場所に、どんな方が住んでいるのかなって……ずっと思っていました」
レイクスは答えず、ただ静かに館を見上げる。その沈黙が、彼の答えのように感じられた。
次の瞬間、重厚な門がゆっくりと開かれる。
そこに立っていたのは、灰銀の髪を持つハーフエルフの執事セバスと、竜鱗を思わせる黒銀の甲冑を纏う騎士アルトミュラーだった。二人は恭しく頭を垂れ、主の帰還に礼を尽くす。
レイクスは隣の少女へと視線を向け、落ち着いた声で告げた。
「セリスだ。今日からこの屋敷に迎えることになった」
その一言に、セリスは目を大きく見開いた。
「え……!? きょ、今日から……この屋敷に……?」
思考が追いつかず、胸の香草袋を強く握りしめる。
自分のような孤児が、伝説の名を持つ家に受け入れられるなど、ありえないことのはずだった。
混乱で声を失いかけたその時、セバスが一歩前に出る。
完璧な所作で深く礼をし、柔らかく微笑んだ。
「セリス様、ようこそお越しくださいました。私は執事のセバスと申します。主人よりあなたのお世話を仰せつかっております。どうぞご遠慮なく、どのようなことでもお申し付けくださいませ」
その声音は静かで揺るぎなく、パニックに傾きかけた心を自然と落ち着かせていく。
続いて、騎士の甲冑がきしむ音と共にアルトミュラーが一歩前へ。
「私はアルトミュラー。ヴァルトニア騎士団を預かっております」
短い自己紹介でありながら、その声音には揺るぎない威厳と誇りが宿っていた。
セリスはしばらく言葉を失っていたが、二人の態度に背中を押されるように胸に手を当て、深く一礼する。
「セリス=アルフェリアと申します。……ど、どうか……よろしくお願いいたします」
夕陽に照らされた黒銀の門。その荘厳な光景に包まれながら、セリスの胸にはまだ信じられない思いが渦巻いていた。
――けれど同時に、不思議なほどの安心感が静かに湧き上がってくる。
自分の居場所などないはずなのに、この門をくぐれば、なぜか心が受け入れられる気がする。
胸元の香草袋を握りしめながら、セリスはそっと息をついた。




