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女神が消えた日  作者:
11/14

11.帰還

「私は本物のイナンナではありませんが、偽物でもございませんわ」


ユリアンヌが侯爵家の養女になったことは知られされていたが、イナンナの名を引き継いだことは王都に戻って来るまでカイルは知らなかった。


「私のおばあ様もイナンナという名だったのです。私のイナンナは女神のイナンナ様ではなく、祖母のそれです。ですから私が侯爵家でイナンナと呼ばれても、どうか怒らないで下さいませ」

「なぜ私が怒ると思うのだ?」

「カイル様にとってイナンナ様はお一人だけですから、カイル様は私を無理にイナンナと呼ばなくても良いのです」

「······君は本当に優しいのだな」


四年近く禁欲清貧生活を送って来たカイルは、かなり体重が落ち風貌すら別人のようになっていた。

痩けた頬がイナンナが亡くなった時のやつれ具合とはまた違って、修道生活によって深く刻まれた皺と鋭い眼光が、苛烈な印象を与えた。


「君のイニシャルとも同じなら、心置きなくこれからも使えるな」


カイルは使い込まれたブランケットをユリアンヌに見せた。

修繕してある箇所はカイル自身の手でしたのだという。


「ビュードでは肌身離さずいつも持ち歩いていたほどの、私の相棒だったからな」


北部の夏は短く、夏でも朝晩は冷え込むため一年中手放せなかった。

纏って暖を取るためだけではなく、時には荷物をくるんで運んだり、日除け風避け、托鉢や野宿をする際も、洞窟に籠って瞑想をする際にも役に立っていた、まさに万能のアイテムなのだ。



カイルは、即位してからも修道士の着衣を身に纏った。

そして愛用のブランケットもいつも側に置いた。


そのため彼は在位中も後世でも「僧衣の王」と呼ばれた。


「私は完全に還俗したわけではなく、繋ぎの王に過ぎない。早急に次の王を育成して欲しい」


カイルの五歳下の弟エイモスが王太子となり、次期王となることが既に決まった。早ければ数年で交代する筈だ。

昨年結婚したばかりの王太子妃はまさかのマッシーモ侯爵令嬢だったのでカイルは驚いたが、弟がベタ惚れしたらしいので、人の好みは人それぞれであるから、それはそれでよしとすることにした。



兄クオレは王位剥奪後、妻のエスター公爵家に臣籍降下した。

妻アドリアナは王族を殺害したため毒杯を与えられた。嫡男は縁戚に養子に出された。

クオレには常に監視がつき、領地運営以外にも投資や貿易、彼が外出する際には王の許可が必要になるなど、行動の自由が制限される立場になった。


クオレは母サイベルの悪行も妻の愚行も黙認という立場を取り、自分は直接手を下していない、母を密告で断罪に導いたということを盾に取り、自身の罪からは辛くも逃げた。


だが、知っていて止めないという在り方が最も非道であるということは、たとえこの国では罪に問えなくても明らかだ。

この先失墜した信頼を回復するのは至難の技ということだ。


エイモスが即位する頃には法が改められ、不正や悪事の黙認は逃げることのできない罪になって行くだろう。


カイルの即位と同時に隣国との同盟は復活し危ぶまれていた国交断絶も無事回避された。


王カイルの朝は誰よりも早く、そして放っておくと寝食を忘れて際限なく仕事に勤しむのは、数年後の退位を見越しているからでもあり、厳しい修道生活ですっかり染み付いてしまったからだ。


周囲の者には「私に合わせなくても良い」と申しつけていたが、その勤勉ぶりに皆舌を巻いた。

カイルの健康面を心配した側近によりユリアンヌ·イナンナ·ルーヴェンス侯爵令嬢が専属侍女に抜擢された。



「陛下、残さずにお召し上がりください」

「昨夜はちゃんとお休みになりましたか?」

「もう少し休憩をお取り下さいませ」

「その業務は部下にお任せ下さい」

「本日はここまでになさって下さいませ」

「陛下、こちらは明日にいたしましょう」


乳母のような世話焼き侍女の言うことなら、陛下は素直に受け入れるため、側近らは胸を撫で下ろした。

侍女は特に根を詰め過ぎる彼をよく制止していた。


ユリアンヌが後のカイルの伴侶となるのはまだ先のことだったが、二人の間には誰も入り込む余地がなかったという。


なぜなら、カイルは()()()()ではなくてはダメだったからだ。



「二度も妹を陛下に奪われた!」


ハーベイは冗談混じりにそう言ったが、彼の婚期はまた延びそうだ。



僧衣の王カイルは在位四年で弟に王位を譲り、還俗して北部の辺境でマーロウ侯爵として余生を過ごした。


ユリアンヌ·イナンナ·マーロウ侯爵夫人は、多くの人に親しみを込めてイナンナ夫人と呼ばれた。



「イナンナ···」

「旦那様、それはどちらのイナンナでしょうか?」

「女神じゃない方のだよ」


女神じゃない方の······と夫のカイルが答えると、ユリアンヌ·イナンナは心なしか頬を染めることがあった。


カイル·アングリッド·マーロウ侯爵とその細君であるユリアンヌ·イナンナ·マーロウ侯爵夫人が、そんなやり取りをするのを家人達は今日も温かく見守るのだった。



(了)

最後までお読み下さってありがとうございます。

まさかのラブシーンゼロの恋愛ものでした。

個人的には気に入っております。これはこれでご容赦を?!

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