10.イナンナ
ユリアンヌ·マーロウが、ユリアンヌ·イナンナ·ルーベンスになって三年の年月が過ぎた。
カイルが辺境の修道院へ去ってからすぐに、ユリアンヌはルーベンス侯爵夫妻から、養女になって欲しいと懇願され、ありがたく受け入れた。
養女になるにあたって、イナンナの名も受け継いだ。
自分が女神イナンナ様の身代わりなど務まりはしないけれど、イナンナという名をこの家に残すこと、その名を呼ぶことで慰められる人達が望むならば、喜んで協力しようと思えた。
今まで誰にも言ってはいなかったが、ユリアンヌの母方のメレディアン伯爵家(現在は絶縁している)の亡き祖母も実はイナンナという名前だった。
両方の名を受け継ぐようで誇らしくもあった。
「まあ!そうだったの」
そのことを告げると侯爵夫人は「こんなご縁もあるのね」と歓喜した。
「本当にイナンナと呼んでいいのか?」
「ええ、名前ぐらいいくらでも、お安いご用ですわ。それにとても光栄です」
兄となったハーベイにユリアンヌは屈託無い笑みを返した。
「私がイナンナなんて。私、もっと立派なレディになりませんと!」
拳を握り締めながらながら明るく決意表明をする新生イナンナは、沈みきったルーベンス侯爵家に再び春の陽射しを呼び戻した。
新国王クオレの治世は順調だったが、夫婦になって数年が経過した王妃に子ができなかったため側妃を迎えることになった。
カイルの婚約者候補の一人だったアドリアナ·エスター公爵令嬢が昨年側妃となり、無事第一王子を出産した。
王妃に敬意を全く示さなくなった側妃は、我が物顔で権勢をふるい、王妃とは犬猿の仲となっていった。
そこへ宮廷にふらりと現れた吟遊詩人トリスタンと、王妃が良い仲になったという噂が流れはじめた。
美声と魅惑の流し目で令嬢や夫人達を悩殺し、男色家までも虜にしてゆく有り様は、往年のパーシヴァルを凌ぐと評された。
その年の暮れ、新年を祝う準備が進む中、それは起きた。
離宮に退いた王妃が服毒死したのだ。
クオレは、他殺か自殺か調査中という理由で王妃が死亡したのを伏せて、彼女は療養中という体で新年を祝うことにした。
年明けから半月後、ようやく王妃の死亡が発表された。死因は病死ということにされた。
いつの間にか王宮ではトリスタンの姿が見られなくなっていた。トリスタンもまた王家に使役され利用される身だった。
側妃の依頼を受けた彼が、王妃と関係を持ち油断した彼女に毒を盛ったのが真実だったが、王クオレは黙殺した。
盛大な葬儀を取り行い、クオレは愛妻の死を嘆く王を名優のごとく見事に演じた。
喪明けと共に、側妃が正妃となった。
そんな万事順調な国王夫妻を、隣国王家は許しはしなかった。
トリスタンは自分が殺したということは伏せた上で、隣国の王家へ元王女の死因を密告したからだ。
トリスタンはパーシヴァルの実兄だった。
弟の無惨な死を知った彼は、王家へ復讐する機会を狙っていた。
トリスタンは、得意のリュートの繊細な音色に乗せてこんな歌を民衆に広めた。
“ 我らの女神はどこへ行った?
邪なる者どもが血濡れの玉座を得んがため、恋人から引き離された
恋人は都を追われ、聖なる地に身を隠した
あの女神は、今どこに?
それは冷たき土の下、ただ鎮魂の祈りを聞いている
女神を殺めた詩人は今では暗い土の中
妃を殺した血濡れの王に頼まれただけなのに
ああ、女神の名は今も忘れはしない
美しき我らの女神よ永遠に ”
この歌を聞いた王クオレは激怒し、トリスタンの行方を探させたが、隣国の王家に匿われていると知り愕然とした。
隣国との同盟は破棄され、そのうち国交まで断たれてしまうのではないかと危惧されるまでに悪化してしまった。
察しの良い人間ならば、歌詞の登場人物が誰なのかすぐにわかる筈だ。
王家の黒い噂が広まってゆくにつれて、王家への求心力が衰えてゆくのを誰も止められなかった。
北部の辺境で俗世と距離を置いていたカイルにまで、この歌が届いていた。
そんな中で、先の王が病死し、王家の不幸が続いた。
「お前は退き、カイルに王位を」
それが父の遺言だった。




