1.訃報
春もまだ浅い日、第二王子カイル殿下の婚約者である侯爵令嬢の突然の訃報がもたらされた。
令嬢と同じアカデミーに通っていたユリアンヌの妹ジャスミンは帰宅するなり号泣した。
長い赤毛を振り乱し、大きな緑の瞳から止めどなく涙を滴らせている。
「あのイナンナ様が亡くなったなんて···!」
不慮の事故で亡くなったという令嬢は、アカデミー卒業後、結婚が控えていた。
イナンナ·ルーベンス侯爵令嬢は、女神のような完璧な美しさと存在感でアカデミーだけでなく社交界では憧憬の的だった。
ジャスミンの姉ユリアンヌも、彼女の訃報に衝撃を受けた。
「······なぜお亡くなりに?」
「王宮の階段から転落したみたい。王宮に招かれていた人気の吟遊詩人が見つけたらしいわ」
イナンナ様が王宮内で亡くなったということに、ユリアンヌはゾワリと恐怖が込み上げて青ざめた。
王族の婚約者や元婚約者などが病気療養中に自邸で亡くなることは稀にあっても、王宮内でというのは初めて聞いたからだ。
それは本当に事故だったのかという疑念が否応なしによぎり、ユリアンヌはそれを口にするのを必死で押し止めた。
王宮で文官として勤める兄アルバートも、帰宅するなり沈痛な表情でイナンナ様の訃報について知る限りを語った。
王宮内は騒然として、婚約者のカイル殿下はあまりのショックで茫然自失の状態だという。
ジャスミンとユリアンヌは夜会で目にした仲睦まじい二人の姿が思い起こされた。
カイル王子殿下はどれほど落胆されたことだろうか。
葬儀の際の王子殿下の放心し、憔悴しきった有り様に参列者の哀れを誘った。
イナンナ様の遺族の方々も同様に、かける言葉を失ったという。
季節は巡り、猛暑続きの夏がようやく過ぎ去ろうとしていた頃、カイル殿下の新たな婚約者候補を早くも見繕う動きが王宮では起きた。
その一人としてユリアンヌが抜擢されることになった。
「······そんな、まだイナンナ様の喪が明けていないではありませんか!」
「王妃殿下のご意向だ。誰も逆らえないのだよ」
現王妃殿下は第二王子殿下の義母で第三王子殿下の実母だ。
王子それぞれに派閥が出来上がっていて、王妃は王太子殿下とは犬猿の仲と噂されているが、恐らく第二王子殿下ともそうなのであろうことが推測できた。
「父上、どうして私なのでしょうか?」
「王妃殿下は黒髪で碧眼の令嬢をご所望だ」
黒髪碧眼は亡きイナンナ様もそうだった。
「いくら私が黒髪碧眼でも、イナンナ様の代わりなど務まるわけがありません」
イナンナ様の絹糸のごとき濡烏の髪、磁器のように白い肌、黎明の青い瞳、均整の取れたまるで動く彫刻のような美麗なプロポーション、見る者を虜にする微笑は唯一無二のものだ。
誰がそれをあの女神と比べようというのか。
ユリアンヌは王妃殿下のあまりの浅慮と無謀さに憤りを覚えた。
イナンナ様とカイル殿下に大変失礼であると。
「ダメ元で構わないから、行くだけ行ってくれまいか。この通りだ」
困り顔で娘を拝むように頼む父にユリアンヌは苦笑した。
ユリアンヌにとって、父であるウィルバート·デフォー伯爵は養父だ。
六歳の時に両親を馬車の事故で失い、親友の忘れ形見である自分を引き取ってくれた恩人でもある。
その恩人に報いるため、養父の顔を立てるためだけに、ユリアンヌは不承不承受け入れた。
「私も黒髪だったら良かったのに!」
「まあ、何を言っているの?あなたには素敵な婚約者がいるじゃないの」
「だって······」
ジャスミンは口を尖らせた。
ジャスミンには三年前に婚約したソノマ伯爵令息がいた。
「あなたの燃えるような赤毛も緑の瞳もとても素敵よ」
父も兄もジャスミンと同じ髪と瞳の色だ。ユリアンヌはことさらこの色が好きだった。
自分がもしも父の実子だったら、自分も彼らと同じ色だっただろうか。
母は淡い金髪で青い瞳だ。どちらにしても、実子だったらカイル王子殿下の婚約者候補にならずに済んだ筈だ。
(私も赤毛緑目だったら良かったわ······)
ユリアンヌはほんの少しだけ悔やみながら、慣れ親しんだデフォー伯爵家を後にした。