第二幕 寝室にて
「はぁぁ……」
静は、燃えるような溜息を吐いた。
自室である屋上邸宅の特級帝國賓客室に戻ってから此方、化粧も落とさずに寝具の上にうつ伏せながら物思いに耽っている。
その目線の先、眼下に観えるのは眠らない都。大凍狂。
寄せて返して返して寄せるその人の波の如く、静の心は千千に乱れている。
羅府留学より帰國してから抑鬱気味の過眠症患者となっていた自分は鳴りを潜め、今宵は不眠に苛まれている。
ーーあの小娘のせいだ。
「田中…カヨ…」
あの瞳。黒い勾玉のように私のこゝろを映し込んでくらくらと惑わせる。
あの声。透んだ炎となって私の身體をちろちろと焦がす。
眠られやしない。
魅入られてしまった。
この私が人に惹かれることなんて…ありはしないと思っていたのに。
ーーなぜ?どうして?
生まれて已来静は自身以外の人間という存在に興味も好意も抱いたことはない。
楊貴妃、妲己、虞美人…古の佳人も沓を脱いで裸足で逃げ出すほどの美貌を持つ自分が、霊長類の求愛に蹌踉めく事など有り得ない。そう思っていた。
美しいものを見たい時は鏡を見ればそれで良かった。
その自分が心を乱されるなんて。
その相手が同じ女だったなんて。
ーー嗚呼、カヨ、カヨ、カヨ…。
「どうしてあなたはカヨなの…?」
ーーせめてカヨが私と同じ夜魔ノ手の社交階級の息女だったら…なぜ天使のようなあなたが低層労働階級に生まれ落ちてしまったの…。
ごろりと寝返りを撃って、御八つとして枕元に置かれている伊太利亜産の麝香葡萄をもぎって紅い口の中に入れる。
その一粒でカヨのような奉公人の一ヶ月分の給金くらいはするが、恋愛性肺炎の後遺症真っ只中で味嗅覚障害に陥っている静にはなんの味も香りも感じられなかった。
「でも、どうすればいいのよ…」
この國で…否、この世界で身分も性別も飛び越えた愛なんて成就するわけがない。
ーーこんな世の中で。
横向けに崩折れた静の目線の先の桃花心木の書斎机には、父から毎日目を通すよう言われている新聞の束が堆く積まれている。
『天晴!帝國軍馬尼剌ニテ反帝國勢力ノ大部隊ヲ撃滅ス』
『制覇!陸軍探検隊ノ軍靴ハ珠穆朗瑪ノ山頂ヲ踏ミシメタ』
『快挙!二◯二一年度ノ臣民総生産ハ目標ノ六千億圓ヲ達成』
どの紙面にもそのような景気の良い見出しが踊っているが、一体どこからが真実でどこからが大本営発表なのだろう。
書いている記者すら分からないに違いない。いや、帝國政府の高官でさえ全ては把握していないのではないか…。
大似本帝國の武力による世界統一。それは兵卒の命を捨て石にした全滅前提の抜刀突撃一本槍の暴挙によって為された。
死線から遠く離れた後方にいる年老いた指揮官の手の一振りで、軍刀ただ一振りのみを持った若者たちが死ぬために突っ込んでいく。読んで字の如しの『無鉄砲』な突撃によって。
この人命軽視の人海戦術であれよあれよという間に世界の覇権を握ってしまったため、戦争指導部はとにかく戦線の維持と支配地域の鎮圧に必死、政治家や商人貴族は保身と金儲けに必死、一般の兵士と国民はとにかく生き延びるのに必死で科学技術や文化面での学術的な発展が進む余地がなかった。
文明も文化も未だ百六十年前の明治時代に毛の生えたようなものだ。まるで歴史がその時点から止まってしまったかのように。その「吃驚するくらいの社会の変わらなさ」は庶民の意識に深く浸透して、人生観にある種の昏い諦念を植え付けさせていた。
軍隊は未だに軍刀と昔ながらの大砲を使って棍棒とかヤリで武装した反帝國勢力との紛争に明け暮れているし、繊維衣服といった軽工業に至ってはまったく進歩していない。
庶民の着物はぼろぼろにすり切れたものが普通で、カヨが属している給仕のような低層労働者階級の日々の食事は沢庵漬けを惣菜に麦飯を鱈腹食べられればむしろ良い方で、食うや食わずの生活をしている者たちも少なくない。
しかし、それでもまだ帝國臣民はかなり恵まれている。植民国で行われているのはもはや生かさず殺さずの苛烈極まりない植民支配である。収穫の時期になれば決まってどの集落にもムチを持った酷烈な帝國官吏が現れて徴発の名目で作物を略奪し、ついでにめぼしい女を拐っていくのだ。
ーーこの國は腐っている。
帝國の崩壊は近い。誰しもが気付いている。
皆どうすれば良いのかわからずにただ日々を過ごしているだけ。
「じゃあ私は、どうすればいいのよ…」
國の未来と、想い人との未来を思うと、胸が押しつぶされそうになる。
ーーせめて、誰か相談できる人さえいれば…。
「…そうよ!」
がば、と静はその瓜実顔を起こした。
跳ねるように飛び起きて桃花心木の書斎机に近付き、せわしげに電信用黒電話を引き寄せる。
静の白魚のような指が艶めかしく動き、黒電話の数字盤を回し始めた。