第一幕 出会い
「ん…ふぅ…」
その女性は、目を覚ました。
寝台の上で徐に体を起こし、眩い雪白の敷布に片手を衝いてしなだれる。
午後二時の陽が部屋を照らしていた。
その面立ちは麗しきこと天女の如し。艷やかな肉体は陽光に煌めく金剛石。
「もう二時、か…」
その高貴なる声は雲の切れ目より差し込む天からの光。今まさに飛び立たんとする鶴。
腿ほどまで伸ばせしめた濡れたような碧の黒髪は、一縷の細河と流れ流れて敷布の上を揺蕩っている。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、眠る姿は燕子花、いとし面影の沈丁花…といった塩梅の空前にして絶後たる傾城の美女である。
名を、松花堂幕之内 静と言った。
りりりりり……
書斎机に備え付けられた電信用黒電話が鳴った。市価にして一台数千圓、庶民の年収数十年分もの代物である。
静は体を起こしたまま絵画のように停まっている。
気だるかった。
八釜しい音を立てる電話に手を伸ばそうとして…また再びごろり、とベッドに横になった。
ここは凍狂都血夜蛇区悲々嫌の一等地に位置する大似本帝國旅館。
まさしくその名の通り、世界に冠たる大似本帝國随一の高級旅館である。
その最上階屋上邸宅の特級帝國賓客室を、静は定宿にしていた。
静は七回目の鈴で受話器をがちゃり、と取った。
「…」
しかし相変わらず無言のまま。
高貴な特権階級たる静は声など必要最小限しか発さない。本来であればこの絶望的な面倒臭さを押さえて受話器を取ってあげただけでも感謝して欲しいくらいのものだ。
「特賓客接遇係の鈴木で御座います。松花堂幕之内様」
「…」
静は寝台に横向きに寝そべったまま枕を下に受話器を耳の上に置いて、流れてくる声を無言で聞いている。
低層労働階級の声に返事をする義理はない。
本音を言うと低血圧である静は、寝起きの今は呼吸をするだけでも面倒臭い。
「広間に本日の饗宴に出席される御客様が御見えになっておられます。静様におかれましては宜しく御準備の程御願い申し上げます。差し出がましいようでは御座いますが御連絡を入れさせて頂きました」
「…」
帝國随一の旅館の特賓客接遇係長だけあってこの男の接遇と言葉遣いは執拗なくらい完璧だが、それは当然の日常ではあれど静にとってはなんら感動を齎すものではなかった。
…ぷつっ
受話器を置く音が立たないよう、そっと通話が切れた。
「…」
静は寝台の上で涅槃像の如く半身になったまま身じろぎもせず半眼で横たわっている。夢から半ばほど覚めていない。
「…」
もう一度寝入りたいが…眠気はなかった。ただすべてが面倒臭いだけだ。そして二度寝したところでまた起こされるだろう。
「…ん」
あきらめて、立ち上がることにした。
部屋の片隅に備え付けられている小部屋ほどの大きさの瑞西製化粧台に腰を下ろし、いつもの日課として只でさえ美しい容貌に紅と白粉を入れて整えることにする。
もうここ何年かはずっと、「眠い」「お腹すいた」「面倒臭い」の3つの感情が立ちあらわれるだけ。
………。
……。
…。
時は東歴二◯二二年。
迫りくる欧米列強の脅威から政体の変換と改革を断行し世界史上の奇跡と呼ばれた明治維新より大凡百六十年経った年。皇暦で言うと令和四年のことである。
明治維新にて回天の偉業を成し遂げた大似本帝國は、富国強兵、殖産興業、産めよ増やせよ、打ちてし止まん…の大号令の下、清、露西亜と近隣の大国を破ってからもその軍國的動物の如き貪婪な征服欲を剥き出しにして亜細亜諸国に襲いかかった。
上官から「全滅か切腹か」を迫られた兵隊たちによる戦国時代の荒武者さながらの捨て身の抜刀突撃の破竹の勢いは、交趾支那、印度、中東諸国を順調にその軍門に下した後、土耳古、希臘を端緒として独逸、伊太利亜、仏蘭西といった古来よりの強国をも打ち破り、さらに海峡を超えて大英帝国を征圧し欧羅巴全土までをもその掌中に収めた。
それでも飽き足らないのか帝國軍の軍勢はさらに征西を敢行し、米州、加奈陀、墨西哥さらには伯剌西爾、亜爾然丁にまで至り、南北亜米利加大陸各地にその旭日旗を打ち立てるまでに至った。
そして進路を南に向けて阿弗利加、大洋州、濠太剌利亜までの南洋征服航海に乗り出し、果てはどこまでいくのか南極大陸にまでその勢力圏を伸ばした大似本帝國は、いまやこの地球上の悉くをその軍靴によって蹂躙せしめていた。
午後八時。
大似本帝國旅館七階の饗宴会場「龍桜の間」には、多くの政財界関係者、高級官僚、将校、華族の名士などが集まっていた。
この饗宴は、明治維新より令和に移り変わるこの時代までこの大似本帝國の財界の表も裏も端っこも隅から隅までずずずいっと牛耳り続けてきた松花堂幕之内財閥の第六代目当主、松花堂幕之内弥太郎つまり静の父君が主催している。
静は竜虎と鳳凰の屏風の前に敷かれている羅紗の絨毯の上の丁抹製の高級椅子に独りぽつねんと座り、仏蘭西舶来の葡萄酒を回している。
目はすでに死んでいた。
部屋の三面は床から天井まで全面硝子張であり、そこからは西に富士ヶ嶺、東に筑波、花は上野よ柳は銀座、月は隅田の屋形船…そして正面の凍狂湾が一望できるというまさに華の都大凍狂のど真ん中。
しかし、静の目は死んでいた。
「これはこれは松花堂幕之内様の御息女様。御機嫌麗しゅう」
「…ええ、御機嫌よう」
時折、父の知人であろう名士の誰かが話しかけに来る。
招き猫の置物のように座り、その美貌を振りまくことによって父・弥太郎が誇る松花堂幕之内家の華麗なる一族としての名声に華を添えるのが静の仕事だからだ。
「倫敦から来た楽団がいま全國行脚をやってますが、もう参加されましたかな?私は楽祭で鑑賞しましたが、あの生演奏は凄いですぞ」
「…そうですね」
静にとって興味も好奇心もそそらない何かを誰かが話している。一応、相槌だけは瞬間を合わせて返しておく。どうせ自分の顔が近くで見たいだけだろう、と思いながら。
封建的軍國主義國家である大似本帝國には『公ノ場ニ於イテ植民国語ヲ用イル事此レヲ固ク禁ズ』との法律があるが、大体において皆、亜米利加語を主とした植民国語を織り交ぜて使っている。
帝國文化庁の官僚たちは世界中から送られてくる植民国産品・産物にいちいち帝國標準語の訳語をせっせと作っているが、面倒なので日常生活では誰も使ってはいない。
「それでは私はこれにて。どうぞゆるりとお楽しみください」
「…ええ、ありがとうございます」
静は、類まれな美貌を持って生まれてきた。
英才教育を受けて、社交を学んだ、花も恥じらう御年二十三歳。
名門魔屡脳血女学院を卒業した後、亜米利加西部の加利福尼亜南部の都市、羅府に留学してつい先日船旅を終えて帰國したばかりである。
自由奔放天衣無縫、天真爛漫月卿雲客であったはずの静はこの國に帰ってきてから、とみに疲れ切っていた。
無言で饗宴会場を眺める静。
勢力圏が地球規模に膨れ上がった帝國の軍事費は、いまや國内と植民国からの税収を併せた臣民総生産の約九割を占め、その財政を破綻寸前にまで圧迫している。
それもそのはず、支配地域の管理維持に必要な経費は文字通り地球規模で膨れ上がっているのに加え、その苛烈を極める植民国での圧政は世界各地で帝國に反逆する反帝國勢力の決起を招いており、そちらのほうの鎮圧にも膨大な人員と金がかかるためだ。
それに加えて、残った一割の金はその殆どを皇族華族政治家軍人政商といった超特権的上流階級の雲上人からなる世襲の閨閥一族…銀の匙を咥えて生まれてきた者達がこのような酒池肉林の宴で浪費して、一般の臣民は身を粉にして働いた血税の恩恵を受けることなく発泡葡萄酒から垂れる雫を這いつくばって舐めるようにして暮らしている。
静は父・弥太郎と政治家との会食でこのような衝撃的な事実を知ってしまったが、もちろん極秘中の極秘であり、弥太郎から固ク口外ヲ禁ジられている。
ーーつまらないわ…。
静は羅府で過ごした日々を思い出す。
広大な大地、荒野に吹く風、ジリジリと焼け付くような太陽、そして陽気でさっぱりとした亜米利加人…。
もし逆に、彼等がこの國を打ち倒していたらこの世界はどうなっていたのか。今よりは良くなっていたのではないか。
ーーいや、特に変わらないのかもしれない…。
憂鬱な気分を振り払うように静は立ち上がった。
「…もう戻るわ。部屋まで案内して」
「かしこまりました」
静は傍らに侍る特賓客接遇係長の鈴木にそう告げて、会場を抜けようとする。すでに一通り愛想を振りまき終わって宴もたけなわ、客寄せ熊猫の静もお役御免である。
そして、実際、氣持ちが悪い。
会場にひしめいている権力を守ることしか考えてなさそうな金持ち親爺どもの発泡葡萄酒で濡れた髭面を見ているとその汚らしさに吐き気を催すのだ。
…と、同じく特権階級のしかも筆頭格である自分を棚に上げて静はそう思いながら宴を後にした。
会場からでる扉を鈴木に開けさせるために静が立ち止まった時。
「もし。もし」
不意に足音が聞こえて誰かが近寄ってきた。
「…え?」
それは少女だった。
「もし。あいすみません。松花堂幕之内 静様」
女性から話しかけられたのはいつぶりのことか。
「あ…」
ーーどく、んーー。
その少女の顔を見た途端、静の心臓が窮と脈打った。化粧っ気こそないが、素朴でかわいらしい顔立ちの美少女といっていい娘。
少女は、女給仕の制服を着ていた。恐らくこの旅館に雇われている奉公人だろう。それもそのはず徹底的な封建主義的男尊女卑を貫く帝國財界主催のこの饗宴の参加者は、いわゆる名士で鳴らしている男どもだけだ。
女は、静を除いては給仕しかいない。
「なんだね。君は」
特賓客接遇係の鈴木が、静に見せる顔とは真逆の横柄極まりない権威的な態度を振りかざす。
「申し訳ございません…!あい申し訳ございません」
静の権威を盾にした鈴木に、少女は畏まっている。
「身分を弁えろこの奉公人が。この御方を誰だと」
「鈴木。黙れ」
静の一言で鈴木は一瞬にして物言わぬ人形と化した。
「…なんの御用かしら?」
少女に向き直り、その顔をまじまじと見る。
心の清廉さと純真さがにじみ出ているような愛らしい顔立ち。吸い込まれそうな黒く輝く透明な瞳を持っている。
ーーどくん、どくん、どくんーー。
静の心臓が八拍子の律動を刻み始める。
「嗚呼。申し訳ございません。私はこの会場にて奉公をさせて頂いております。田中カヨと申します」
白粉が溶け落ちそうなほど、自分の頬が火照り返っているのを静は感じている。
「…私は、松花堂幕之内静よ」
「はい!存じ上げております…!憧れの松花堂幕之内様のお美しいその御姿、僭越ながらカヨは給仕の度に遠くから見惚れておりました…!まさかお声を掛けて頂けるなんて…」
少女カヨは、静から返事を貰えた感激にうるうると瞳をうるませながら満面の笑みを浮かべた。
ーーどく、どく、どく、どく、どくーー。
静の天から舞い降る光輝の声とは対照的な、カヨの鈴の鳴るような可憐な声。静の心臓の律動は十六拍子にまで跳ね上がった。
「ふ、ふうん…。礼を言っておくわ。…貴女、普段はいつもここで給仕として働いているのかしら?」
「はい。昼間は学生をしながら。夜はここで給仕として雇われております」
「そ、そう…。ちなみにあなた故郷はどちらなの?」
「はい。カヨは蒼母里の出でございまして…」
ーーどっどど どどうど どどうど どどうーー。
カヨのころころとした声を聴く度に、静の心臓の拍動が加熱してゆく。それが最高潮の三十二拍子にまで達しようとした時。
「はいはいはいはいはい。もういいだろう。…静様。周りの目もございますので」
鈴木がこれ以上は時間の無駄だと言わんばかりに二人の間に割って入る。静は鈴木の無駄に長く伸ばしている山羊髭を毟ってやろうかと思った。
…が、確かに主催側の自分が来賓の環視がある中で勝手な行動をするわけにはいかない。
「…私は、行くわ。あなたも給仕に戻りなさい」
「はいっ!貴重な御時間を頂きありがとうございました…!松花堂幕之内様…!」
深々と頭を一一◯度下げる最敬礼をするカヨ。そのまま「つ」のような体勢で固まる。
「また今度、ね…」
静は最後に一言だけ声を掛け、その長い後ろ髪を引かれる思いでカヨに惹かれる心を押し殺して会場を後にした。