掃除の上手くいかない日
「クッソ……ッ! 聞いてないんだけど!」
聞いてない。
本当に聞いてない。
「チッ、やっぱ完全に壊れてるか……! ああもう、どこだよここ!」
相手を追い詰めるための複雑な構造の建物で自分が追い詰められるなんて事態も聞いてないし、相手が真っ先にインカムを壊しにかかるなんて話も聞いてない。
「ッ、やべ──」
気付いた時にはもう遅く、適当に置かれていた木箱が爆発して俺はその衝撃をモロに食らう。
爆発の威力はかなり加減されているらしく、俺が木っ端微塵にされることはない。だけど衝撃はそれなりのもので、吹っ飛ばされて近くの障害物に派手にぶち当たる。
背中を強打して、「カヒュッ」と自分の中にあった空気が漏れていく音がした。
「ああ、そこにおりましたのね」
聞いてない。
全く聞いてない。
「やぁっと見つけましたわよ、蜂様?」
掃除対象の女が俺のことを知っていて、逆に俺に対して罠を張って待ち構えてるなんてそんな話聞いてない。
どう考えても明紀が情報戦で負けてる。全く、なんてことしてくれるんだ!
「お顔は……傷ついて居なさそうですね。うふふ、絶対にその綺麗なお顔だけは傷つけたくなくて、爆弾を作るのに注意しましたのよ? 万が一、飛び散った破片が蜂様のお顔を傷つけてしまったら大変ですもの」
深い青と淡い水色のグラデーションのワンピースに、白いゆったりとしたカーディガン。長い黒髪は内側だけ青く染められている。
顔立ちはかなり綺麗で美人だと思う。歩けば男が寄ってきそうな感じだ。
まっさか、そんな可愛い顔しておいてこんなにエグく人のことを追い詰めてくるなんて夢にも思わなかった。
どうやらこいつは俺の顔のことを大層気に入っているらしく、顔だけは絶対に傷つけまいとしてくれている。その分身体はどうでもいいらしく、容赦無く痛めつけてくる。でも殺す気は無いようで、ただただ俺が痛い思いをするだけだ。
手持ちの液体は早々にやられてしまって、今はもう何も持っていない。そういう時のために熊に作っておいてもらってた粉も全部やられた。お陰で丸腰だ。おいおい、どこまで俺たちのこと知ってるんだよ。
あとはもう手当たり次第に穴を開けることしか出来ないわけだが、そんな暇すら与えてくれないのが悲しい現状だ。その辺の壁をぶち抜いてさっさと逃げ出したかったが、俺が通れるだけの穴を開ける前に捕まる。俺ってば、なんで手のひら大の穴しか開けられないんだろうなぁ!
女の様子を伺う。
右に動けば右に、左に動けば左に動いてきて、俺の進路を塞いでくる。背を向けて逃げ出すこともできなくは無いが、背を向けた瞬間に捕まるだろうな。こいつ、恐ろしく足が速い。というか身体能力が恐ろしく高い。
逃げるには不意打ちしかない。
手持ちの武器はゼロ。さっきの爆発で足元にはいろんなものの破片が転がってる。ここは倉庫らしく、棚が多い。棚以外にも物が置いてある。ギリギリいけるか?
「さて蜂様。そろそろ観念してわたくしのモノになって頂けませんこと? 大丈夫、悪いようには致しませんわ。ただ、ちょっとだけお外に出る機会が減るぐらいですの」
「いや、それどう考えても悪いだろ。誰が好き好んで監禁されにいくんだよ」
女が少しずつにじり寄ってくるので、俺もそれに合わせて後ろに下がる。そろそろ棚が背中にあたる。そうなるともう下がれないので向こうは好機と捉えるだろう。その一瞬を狙う。
「わたくしのモノになっていただければ、もう痛いことはしないと約束いたしますわよ? それよりも、沢山気持ちいいことを致しましょう?」
「残念だけど、俺にはそんな趣味ないんだよね」
「釣れないところも素敵ですわ。そのお顔が歪むところを是非特等席で見せて下さいまし」
会話が成り立ってるようで噛み合ってない気がする。というかなんで俺こいつにこんなに愛されてるんだよ。愛の形をもう少し変えてくれ。変えたところで応えないけど。
「そもそも俺、アンタには興味ないから、さ!」
「!」
背中が棚についた。
と、同時に棚にあったボロ布を素早く引っ張り出して広げながら投げる。女の視界を少しでもふさげばそれでいい。
くるりと反転して力任せに棚を倒す。背の高い棚なので、俺も一緒に押しつぶされかねないがそこはスライディングで回避。倒れきる前に棚の下を滑り抜けて脱出。まだ女は棚の向こう側。今の内に全速力で──
「いけませんわ」
「がッ!?」
後頭部に強い衝撃。続いて腹を蹴り上げられて、俺の目論見は無残に砕け散った。
容赦無く腹を蹴られたからか、胃からせり上がってきた酸っぱい何かを思わず吐き出した。
瞬間移動でもしたのか?
なんで俺は逃げる前に追いつかれて殴られてるんだ。
「うふふ、やっと捕まえましたわ」
倒れ込んだのが災いして、女は俺の上に馬乗りになってくる。押し退けようと暴れてみるが、女はビクともしなかった。ゴリラかよ。
聞いてない。マジで聞いてない。
別に油断したわけじゃなかった。
確かに、人生リセットしたいとかふざけたことは言ってたけど、本気で人生をゲームに置き換えられるなんてこと思っちゃいない。死んで転生できるとも思ってない。死んだらそこまでだ。
だから、今回の仕事も舐めてかかってるわけじゃなかった。ゲームみたいにふざければ痛い目を見ることは重々承知していた。死にたいと思っていたわけでもなかった。
なのに、なんなんだこれは。
なんなんだこの有様は。
「ああ、いいですわぁ……そのお顔。そんな目を向けられると、ゾクゾクしてしまいます」
「本っ当に気持ち悪いなお前」
「軽口を叩かれるのもたまりませんが……そんなことを言うお口はこうして塞いで差し上げますわ」
抵抗虚しく女の顔はゼロ距離。顎を掴まれて唇と唇が触れた。それどころか舌が閉じた口を無理矢理こじ開けて侵入してきた。
「んんッ!? んーッ!」
待てって。マジで冗談じゃないって。なんなんだこれ。なんなんだよこれ!
なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだよ! なんで俺はこんなやつと濃厚なキスをかましてるんだよ!
別にキスは初めてじゃない。初めてじゃないけど、初めてを奪われてないからセーフとかそんなわけあるわけ無いだろう!
口内に侵入してきた舌はありとあらゆる場所を蹂躙してくる。手は手首をがっちり掴まれて動かせない。足をばたつかせることはできるが、膝で攻撃してもなんの抵抗にもならなかった。ディープキスはまだまだ続く。
徐々に力が抜けてくる。なんだか身体の奥底が熱い。やめろ、頑張れ俺の身体。雰囲気に流されてそういう気になるんじゃない。
「ッはぁ……ごちそうさまでした」
満足したのか女は突然俺の口から口を離し、俺の上から退いた。退いてくれたのならいつまでも寝ている理由はないので俺も立ち上がり、後ろに飛び退く。が、跳んで着地した瞬間にガクンと力が変な抜け方をして体勢を崩し、俺は膝をついた。
今度はなんだ……? 身体に上手く力が入らない。まさかディープキスをかまされて腰が抜けたわけじゃあるまい。
「……っ、なにを、した」
頭が重い。身体も鉛のように重い。ズキズキとこめかみの所が痛んで、目が霞みたまに視界が歪む。身体は熱いのにどうしてか凍えそうなくらい寒い。胸に何かが詰まってるのか、息が苦しくて喘ぐように酸素を求めて呼吸が荒くなっていく。端的に言えば、酷い風邪をこじらせた気分だ。
「キスをさせていただいたついでに、ちょっとした毒を差し上げただけですわ。大丈夫、命に別状にありませんのでご安心下さいな。ちょっと辛いかもしれませんが、一日もすれば楽になりますわ」
なるほど。毒を盛りやがったってわけだ。
これは本格的に不味い。こちらの動きを毒で封じて、暴れる気力も無くなったところで持ち帰る算段ってところだろう。今のままだと本格的にそうなりかねない。次捕まったら最後と考えるべきだろう。なら、なんとか逃げてここから脱出するしか俺には道がない。
「あらあら、そんなお身体でどこに行きますの? あんまり無理をしても蜂様が辛いだけですわよ」
後ろからそんな声が投げかけられるが無視して走る。視界が歪むせいか、上手く真っ直ぐに走れない。
俺がいつか倒れると踏んでいるのか、女は走って追いかけてこない。悠々と歩いて俺の背中を追っていた。舐めてやがる。
「……っは、……はぁッ、」
とりあえず走る。出口がどこなのかなんて全くわからないがとにかく走る。ある程度距離が取れれば出口はいくらでも作れるんだ。迷子なんて大した問題じゃない。
「ッ、う……」
足がもつれて壁に激突した。まずい、足が止まってしまった。一度止めてしまうと、また走り出せるか分からないってのに……。
力の入らない足を拳で叩いてまた走り出す。硬いコンクリートの床のはずなのに、ぐにゃぐにゃと柔らかい何かを踏んでいるような感覚がしていて走り辛い。足元には何もないのに、気を抜けば足を取られそうになる。
また足がもつれた。
今度は近くに壁がなくて、そのまま倒れる。床に激突して肩を強打した。痛い。
立ち上がろうにも力が入らないので立ち上がれない。なんてことをしてるうちに視界が点滅を始めた。ついでにぐるぐると回転しているような感覚に襲われる。相変わらず身体は熱くて、凍えそうなくらい寒い。
「だから無理をしないほうが良いと言いましたのに」
女の声が思ったよりも近くからした。
だめだ、もう逃げられない。逃げる気はあっても身体が言うことを聞かない。
万事休すか──
「やっと見つけたですー」
「なッ……!」
なんとなく聞き覚えのある声と、驚いたような女の声。何度か鈍い音がした後で、誰かが俺を抱き上げた。
「蜂さん見つけたです。でもくもだけじゃ運べないので、熊くん来て欲しいです。それまでに相手は追い返しておくです」
「……くも、ちゃん」
蜘蛛ちゃんだ。いつものゴスロリじゃなくてジャージだけど。
頬に触れてくる蜘蛛ちゃんの手がひんやりとしていて気持ちいい。いや、そうじゃないな。気持ちいいとか思ってる場合じゃないな。蜘蛛ちゃんが来てくれたなら、尚更動いて一緒に脱出しないと。
「蜂さん、すっごい熱です。すぐに帰れるようにするので、もうちょっとだけ待っててくださいです」
「ちょっとアンタ……わたくしの蜂様に気安く触らないで下さいまし! わたくしと蜂様の甘い時間を邪魔してきて何様のつもりですの!」
「蜂さんはあなたのものじゃないです。とりあえず今日のところは大人しく帰れです」
蜘蛛ちゃんが離れる。
そして、俺と女の間に立ちながら、激昂する女に蜘蛛ちゃんはそんなことを言う。頼もしいと感じると同時に、年下の女の子に守られて恥ずかしくなった。
「だいたいアンタは誰ですの!? そんな芋くさいジャージ女に用は無いですわ! アンタがとっとと帰っていただけます!?」
「迎えがきたらそうするつもりです」
「ぐッ──!」
トンッという軽い音に女の呻き声。少し遅れてがシャンという派手な音。蜘蛛ちゃんが女を吹っ飛ばしたのだろう。ああ、本当に頼もしい。
遠くからは「蜂ッ!」という俺の名前を呼ぶかなり聞き慣れた声がした気がした。ああ迎えか。思いの外早かったな。
熊の声も聞けて安心してしまったのか、瞼が重くなっていく。寝てる場合じゃ無いって分かってるのに意識が勝手に遠のいていく。
立ってくれよ俺の身体。脱出した後でいくらでも寝ていいから。
「蜂! ってうわ、熱ゥッ!?」
「よう、くま──」
ああ、なんてタイミングで来るんだよ。
今来られたらもう俺は──
「蜂!? ちょ、ダメだすぐ帰ろう蜘蛛ちゃん!」
「分かってるです。時間を稼いでおくので早く熊くんは行ってくださいです」
そんな二人のやりとり。
気付けば俺は熊におぶられて、熊は「分かった!」と言ってから動き出した。
そこまではギリギリ意識があったけど、そのあとはもう覚えていない。