平民育ちだからなんだっていうんですか
ある学園の昼休みのお話。
「ミリア様、少々よろしいでしょうか。」
呼び止められたのは学園でも少々問題視されている男爵令嬢である。ミリア・カイエン男爵令嬢は、詳細は不明ながら平民として育ち、1年ほど前に男爵家に引き取られた。現在は学園の1年次に所属している。本来であれば貴族にとって"平民育ち”などということは隠すべきことだが、本人が
「ミリア、平民育ちだからぁ、貴族のマナーとかぁ、わからなくってぇ」
「ミリアはぁ、平民育ちだからぁ、難しいお勉強はぁ、わからないんですぅ」
「ミリアがぁ、平民育ちだからってぇ、みんながいじめるんですぅ」
などと大きい声で、高位貴族の令息方にしなだれかかって言うのである。男爵は何のためにこのような娘を引き取って学園に通わせているのかと良識ある者は眉をひそめている。
だが、天真爛漫でかわいらしく、無邪気に見える女性に頼られるという状況に、己が正義感を刺激され、ほだされてしまう令息も一定数いたのである。その筆頭が第二皇子のヴェルムとその側近たちである。
冒頭の会話を聞いたヴェルムは、
「ミリア嬢に何か言いたいことがあるなら、私も一緒に聞こう」
と口をはさんできた。呼び止めたターニャはため息をこらえるような表情を見せて
「ミリア様がよろしいのなら」
と、投げやりな様子で応えた。
「このような人目につく所で話すことでもないので、移動したいのですが、よろしいでしょうか?」
と続けた。
「人目については困るような話をするつもりなのか?」
ヴェルムは気色ばんで尋ねたが
「私はミリア様がお困りになるのではないかと思いましたの」
と、静かに答えた。周りの人間も、まあそうだろうな、という雰囲気である。ミリアについての苦情であれば、聞かれて困るのはミリア本人である。それをわかっていないのはミリア本人とその周囲の方々だけである。
「ミリア嬢は後ろ指をさされるようなことは何もない。ここで話すがいい」
「ミリア様もそれでよろしいのですか」
「ミリアは人目のないところの方が怖いですぅ」
令嬢はとがめるように一瞬視線を鋭くしたが、あきらめたように話し始めた。
「まず、このような所で呼び止めた無礼をお詫び申し上げます。私、ミリア様と同じ淑女科の1年次に所属しておりますターニャと申します。」
「それで何の用なんですかぁ」
名を名乗られたら名乗り返すのがマナーなのだが、ミリアはそれを無視して先を促した。ヴェルムもミリアがマナーを守らないことに、もう慣れてしまったのか何も感じていないようである。
「ミリア様は常々、ご自分にできないことがあると、平民育ちであると言い訳なさっているようですが、はっきり申し上げて、迷惑なんです。」
周りの人間の中にはターニャの言葉に頷く者が多い。だが、
「迷惑なんてひどいですぅ」
「迷惑とはひどいだろう。本人が努力してもできないのであれば、仕方がないだろう」
ヴェルムが非難するように反論するが、ターニャは更に
「ミリア様がきちんと努力しているとは思えません」
と言った。ヴェルムは苛立った声を上げた。
「ターニャ嬢は平民育ちの者の苦労を知らないのではないか」
ターニャはため息交じりに
「ヴェルム様。貴方様はこの学園が優秀な平民にも広く門戸を開いているということをご存知ないのですか」
と言った。
「当然知っている。ターニャ嬢こそ、どちらの家の令嬢か知らぬが、平民のことをもっと学んだ方がいいのではないか」
「私がどちらかの家の令嬢だとおっしゃるのですか」
ターニャの落ち着いた様子に、ヴェルムは更に苛立ったように言いつのった。
「そのような落ち着いた物腰、所作、幼き頃より貴族としてのマナーを学んで来たのであろう。ミリアは実家に引き取られてからの1年しか、貴族としての所作を学んでおらぬのだ」
ターニャは呆れた様子をもう隠そうともしなかった。
「私がこのようなマナーを学び始めたのは半年前でございます」
ヴェルムとミリアは何を言われたか一瞬わからなかったようだった。
「は、半年?」
「はい。令嬢のようだとおっしゃって頂き、ありがとうございます。私はもともと農民の出身でございます。この半年のマナーの講義で、貴族の方の御前に出ても恥ずかしくない程度の所作を学びました」
「そ、それは、其方は特別に優秀なのだろう」
「そのようにおっしゃっていただくのはうれしゅうございます。ですが、私、申し上げましたよね。この学園は“広く”平民に開かれていると。この学園では、実に3割近くが平民の出身です。ですが、ミリア様と同じような振る舞いをしている者がおりますでしょうか。また、かつていたという話でも聞いたことがおありですか?」
「重ねてヴェルム様にお伺いします。ヴェルム様は平民出身であれば、ミリア様のような態度をとることが普通だとお考えなのでしょうか」
ヴェルムは戸惑いながら
「それは仕方がないと思っていたのだが…」
「では平民出身の者が王宮で働きたいと考えたとしても、相応のマナーができないであろうから採用できないということになりますが、その点についてはどうお考えになりますか」
ヴェルムは全く考えたことのないことを言われ、目を丸くした。
「わ、私はそのようなことは…。そう、王宮勤めを
考える位の者ならば優秀なのだからマナーも問題なかろう」
「ヴェルム様、この学園に来ている平民の大部分は王宮勤めを目指しております。この学園にはそれなりに優秀でなければ入れないのですから」
「ならば、ミリア嬢は平民出身でも、貴族として入学しているのだから、そこまで優秀ではなかったということだろう。それは仕方がないことであろう」
「はい。私もそう思います。ですから、ミリア様が平民出身だからできないのではなく、ミリア様がミリア様だからできていないのだ、と皆様に認識していただければ、私としてはそれ以上申し上げることはありません。平民出身だからできないのだ、と言われますと他の平民出身の者も皆同じように見られてしまいますので」
ミリアはこのままではまずいと思ったのか、何とか反論しようとした。
「でも、でもぅ、ミリアはぁ、みんなにひどいこと言われてぇ」
ターニャはもう呆れ顔である。
「それは普通にマナーを注意されていただけでございましょう」
ヴェルムも必死に反論しようとする。
「だが、確かにできない者にあまり厳しく言うのもどうかと思うのだが…」
「ヴェルム様、仮に貴方様の婚約者様やお身内の女性に、平民の男性がなれなれしく話しかけ、あまつさえ手を握ったり髪に触れたりしていたら、どうお思いになりますか。あげくに何度注意しても『オレ、平民出身だから貴族のマナーとかわからないんですよ』などと言われたら」
これにはヴェルムも呆れたように
「いや、いくら何でもそれはないだろう。1度でも注意されればその位理解できるはずだ、と、だが、その、」
ターニャはこれを聞いて、にっこりと微笑むと
「ええ、私もそう思います。ヴェルム様が公正な判断をされる方でようございました」
ヴェルムはターニャとミリアを見比べるようにしながら、しばし考え、
「ミリア嬢、貴女との付き合い方には少々問題があったようだ。今後はマナーに則った関係を心掛けてもらいたい。ターニャ嬢、忠告、感謝する」
「もったいないお言葉です。私はただ、平民出身だからできなくて当然だと言われるのが、我慢できなかっただけですから」
「そうだな、私も無意識のうちに平民を見下していたのかもしれない。今回のことはいい勉強になった」
ヴェルムはもともと素直な性格なのだ。だからこそミリアの手管に簡単に引っかかったとも言える。
それで収まらないのはミリアである。
「ヴェルム様、何言ってるんですかぁ。ミリアはぁ、ミリアなりに頑張っているんですぅ」
ヴェルムは客観的にミリアを見ることができるようになり、嫌悪感をも感じ始めていた。
「ミリア嬢、貴族ならば5才の子供でもできることが、貴女は1年頑張ってもできないのか」
「え、そんな」
つい先程まで優しかったヴェルムの反応にミリアはとっさにどうしていいかわからなかった。そこにターニャが
「ミリア様、私には貴女が頑張る方向を間違えているようにしか見えませんわ。いい嫁ぎ先を見つけるために努力するのならば、貴女は優秀になるべく努力すべきなのです」
ミリアは思いがけないことを聞いたというように反論した。
「なんでよ、女は可愛がられるように努力すべきでしょ」
「それは愛妾となる場合です。いい嫁ぎ先を見つけるためには、その家の奥向きを采配し、かつその家を支えていくための社交性が求められます。そうした方面で優秀な成績をとられれば、いくつも縁談が持ち込まれますよ」
「え、うそ」
つぶやくようにミリアが言った。本当に知らなかったのだろう。ミリアが落ち着いたのを見て取るとターニャは周囲に向けて
「皆様、お騒がせいたしました。お蔭様で私の懸念も払拭されました」
と、優雅に礼をした。ヴェルムも、
「そうだな、まもなく午後の講義の時間だ。皆の足を止めさせてしまったな。皆、午後も励んでくれ」
と言い、立ち去っていった。周囲の人間も皆午後の講義に向かった。ミリアはしばらく呆然としていたが、午後の講義の鐘の音にはっとして急ぎ立ち去った。
この後ミリアは努力を重ね、卒業後には伯爵家との縁をつかむまでになる。ヴェルムは兄王の優秀な補佐になり、ターニャは王宮で王妃を支える侍女となる。それはまた、別のお話。