8.五番隊補佐官
ーーー王立獣騎士団、五番隊。
優秀な人材が揃った王立獣騎士団の中でも一目置かれた、一際異質な存在。
諜報活動を主な任務とし、情報収集や捜索のエキスパートが集う精鋭部隊である彼らは、日夜外で張り込み諜報活動を行う部隊と、収集された情報の統括や分析のために塔内に留まる部隊の二手に分かれ、ありとあらゆる情報を手中におさめ管理していた。時には国王からの直命で、一国を揺るがすような超機密情報の捜索にあたることもある。この国の繁栄も彼らなしでは成しえなかっただろう。
そんな五番隊で隊長補佐官を務めるアネッサは、今宵も書類の山に終われながら上司の帰りを待っていた。
アネッサは狼の獣人だ。
背中まで伸びた豊かな髪。神秘的なロイヤルブルーの瞳。
立ち姿も美しく、常に姿勢を正し崩さない。顔立ちもハッキリとしたパーツで構成され、見る者を圧倒するような美人だった。
五番隊が美男美女の集まりだと有名なのも、間違いなく彼女がその役の一端を担っているだろう。
外見だけでなく仕事ぶりも有能で、多忙を極める上司のサポートを完璧にこなしていた。また彼女の主務は補佐官ではあるが、時と場合によっては上司に同行して彼女自身も諜報活動にあたることがあるくらい強くもあった。
ーーーただ、そんな完璧な彼女ですら、どうにもならないことがひとつだけある。
ヴェルキンの塔、十三階。このフロアはすべて五番隊の管轄で、隊長の執務室となる部屋もこの十三階にあった。
こなさなければならない業務を一通り終え、アネッサは執務室の片付けをしていた。部屋の主はほとんど姿を見せることはないが、久々に戻ると先刻知らせを受けたためだ。
塵ひとつ残らないよう掃き掃除、拭き掃除を行い、デスクの上を片付け、承認をもらわなければならない書類を一纏めにする。
ほぼパーフェクトと言える仕上がりになった時ーーー執務室の重厚な扉が、ガチャリと音を立てた。
アネッサの心臓が小さく跳ねる。
ーーー姿を現したのは、長身の美丈夫だった。
サーベルナイフを腰に携え、仕立ての良いシャツに黒いパンツとシンプルな軽装が、逆に彼の肉体美を引き立たたせている。肘まで捲り上げたシャツの袖から覗く筋肉質な腕。肩ほどまで伸びた黒く艶やかな髪が、ラフに後ろで一括りにされ、少し残った後れ毛がやけに艶かしい。
何度も目にしているはずなのに、何度も格好良いと胸がときめいてしまう。
アネッサは目を伏せ、男に向かって敬礼した。
「お帰りなさいませ、隊長」
「ああ、ただいま。待たせて悪い」
「いえ、とんでもごさまいません。任務からこちらに直行されて…?」
「いや、一回自室に寄って着替えた」
男ーーーフォルクス・バルコットは、アネッサの横を通り、立ったままデスクに置かれた資料に目を通し始める。
なるほど、だからそんな格好なのかとアネッサは合点がいく。
最近、フォルクスは輪をかけて多忙だ。
こまめに連絡は入るものの、塔にはほぼ不在。どうやら今引き受けている極秘案件にかかりっきりのようで、補佐官であるアネッサすらその実態を把握できていないが、あのフォルクス自身がここまで動いているということは相当厄介な件なのだろう。それが何なのか、把握しているのはフォルクス以外に副隊長のマルコと上層部数名だけだ。
フォルクスの諜報能力は、どの騎士よりも長けている。
標的となってしまった相手は、言葉巧みに誘い出され、いつの間にか洗いざらい吐かされ、それはまるで傀儡のように踊らされてしまう。一ヶ月間、十人の騎士が束にもなって聞き出せなかった情報を、たった一日ーーしかもフォルクス一人であっという間に吐かせた、なんてこともざらにある。
しかし、恐ろしいのはそれだけではない。
時には、貧民街に住む常に飢えた乞食のように。
時には、優雅で傲慢な貴族の息子のように。
普段の美貌からは想像できないような姿にまで擬態し、標的の懐にスルリと潜り込み、警戒心を解かせる。表情、仕草、立ち振舞いまで変幻自在ーーーそして畏怖を込め、ついた二つ名が『化け狐』。王立獣騎士団というバックグラウンドを思うがまま利用し経歴まで完璧に詐称することもあるため、彼が一国の隊を率いる隊長だと誰も見破れないだろう。
諜報能力において、彼ほど秀でた者は他にいなかった。そして今や二十四歳という若さで隊長という地位まで登り詰めた。
フォルクスは一枚の報告書に目を留め、僅かにその眉間にしわを寄せた。
「ーーーこれは?」
「東地区での被害報告です。モンク黒蝶の群れが突如大量発生したらしくーー鱗粉が撒かれ被害は複数軒に及んでいます。既に近隣の住民は街の役場に避難済みですが、未だモンク黒蝶はその場にとどまっているようで至急駆除と援護にあたってほしいとのことでした」
「なんでこれをウチが?一番隊か二番隊の管轄じゃないのか」
不機嫌そうにその美しい顔を歪め、吐き捨てる。
「グノア総隊長の直命です。なんでも王政反対派の一部民衆が暴徒化している件で、一番隊、二番隊共に借り出されてしまっているらしく。総隊長からは『不服だろうがよろしく頼むよ。例の件に何か繋がるかもしれない』と隊長宛てに伝言と、手紙をいただいています」
「……………ハァ」
重々しくため息をつき、そういや東地区は貴族街だったな、とフォルクスは呟いた。アネッサには何の話か検討がつかなかったが、きっと今対応にあたっている極秘案件なのだろうと予測をつける。
フォルクスは手紙の封を開けさっと目を通すと、アネッサに言い渡す。
「アネッサ、お前も同行しろ。あとマルコにもそう伝えといて」
「……っ、承知しました」
フォルクスと久々に同行。その命に、不謹慎ながらアネッサは高鳴る気持ちを抑えられなかった。少しでもこの人の傍にいられる。それがどれだけアネッサにとって幸せなことか、この男は知らないだろう。
任務と分かっていても、男が女を鮮やかに口説き落とす姿を何度焼けつくような嫉妬にかられながら見守ってきたか。なんとか平常心を保てているのは、男にとってそれがただの「任務」であり、美しい仮面の下には何の心もないと知っていたからだ。
補佐官について三年弱。アネッサには、自分ほどフォルクスに近い女はいないという自負がある。少なくともフォルクスにこの三年間「恋人」という存在はいないはずだ。
しかしアネッサのような美女が近くにいても、男女の関係に発展するような気配は微塵もない。一度だけそれとなく好意を出してみようと試みたこともあったが、無自覚なのかあっさりと躱されてそれっきり。心が折れ、別の男何人かとデートしてみたこともあったが、結局自分の上司に勝る人などいないという事実を突き付けられただけで終わった。
補佐官として、大事にされているという自覚はある。
でもそれだけではもうとっくに満足できていない。アネッサが求めているものは、その先にあるのだ。
口が悪く、何を考えているか分からない、飄々とした男。
けれどその美貌に、その強さに、嫌というほど惹き付けられる。
何度この手に抱かれてみたいと思ったかーーー承認印が押された書類の束を受け取るときに目に入る、骨張った男らしい手。この人はどんなふうに女性に触れるのか。何度想像したか分からない。こんなにも自分の雌が刺激される相手は、後にも先にも現れないだろう。
椅子にかけられていた上着をとり、どこかへまた出掛けていこうとするフォルクスに、アネッサは思わず声をかける。
「隊長、この後はどちらへ?」
「ーーーーーーちょっと洗濯屋に」
うっすら笑みを浮かべそう宣った上司に、アネッサは「はっ?」と聞き返してしまう。ーー洗濯屋?こんな時間からなぜ?
「任務で使用された衣服の洗濯でしたら、私の方で出しておきますが…」
「いや、個人的なモノだから大丈夫。じゃあアネッサ、書類の方ヨロシクな」
それだけ言い残すと、あっという間にパタンと扉が閉められる。
アネッサは言葉を失って、その後ろ姿を見送る他なかった。