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疫病神の誤算  作者: 美作 桂
9/20

6 過去 その2

一体こいつは何を言い出すのか。そう言いかけた由梨を遮るように達也は続けた。

「俺、この前な、ツレと浜松行ってさ、ゲーセンで遊んで出てきたら美奈いただよ。どっかのオヤジと腕組んで歩いてたに。飲み屋街の方に消えてった」

「見間違いだら」と当然のように言った。

「その後九時頃か。駅の前でダベってたっけな、同じオヤジと美奈が駅ン中入ってくもんで後つけただよ。したら、オヤジと別れてコインロッカー入って行って出て来てすぐトイレ入っただ。オレ前で待ってたらさ、知らん高校生っぽい制服に着替えて出て来た。アイツ、俺に気付いて、あっ、て顔してダッシュで改札入ってったに。浜松のツレいたもんで追っかけられへんかったけん。ツレがな、あの女エンジョしてるだら、ってさ」

どういうことだ。

公民館の壁に凭れて胸を押さえた。そんなこと一言も聞いていない。美奈が自分に嘘をついているというのだろうか。しかも、いかがわしい事をしていると。

「考えたよな。最初チャラいカッコしてたけん、そういう制服着てたら高校生ぽく見えるもんな。八時九時なら部活の帰りってゴマかせるしな」

何でも相談し合おうね。美奈とそう約束した。困ったことがあれば助け合おうねと。達也がウソを吐いている。そう思いたかった。

太鼓の音が変わった。異なる地区の山車同士が道中で出会うと「鉄火」と呼ばれる魅せ所がある。巨大なリヤカーのような山車の双方の車軸を合わせ、拍子木を合図に太鼓が乱れうちのようなビートを始め、大太鼓が空気を震わせる。双方山車を激しく前後させて若い衆のイキの良さを競うのである。その「鉄火」のフレーズが由梨の胸騒ぎを余計にかき立てた。

「もっと教えてやらっか」

気が付くとすぐ目の前に達也がいた。口臭を嗅いだ。

「アイツ、たぶん今日エンジョ終わったら俺に電話してくるに。アイツさ、次の日ソッコーで電話してきて『ヤラしてあげるからその代り内緒にして』ってさ」

何だこれ。

達也が唇を重ねて来た。手慣れていた。その手慣れた風が逆に由梨を覚ました。

本当のキスはこんなもんじゃない。

気が付いたら達也を殴って突き飛ばしていた。

「バカ! 何のマネだこれ。てめー、調子乗ってんじゃねえ」

呆気にとられて地面に尻もちをついている達也。たまらないほど惨めで汚らしく見えた。

闇雲に駆け出した。不快な感触が残る唇をゴシゴシ擦りながら、公民館に備え付けのバスの時刻表を確かめた。この時間帯は一本しかない。自転車に跨り公民館を飛び出した。夢中で漕いだ。全力で走った。

今自分は何をしようとしているのだろう。

美奈を止める。やめさせる。親友だから。悪いことだから。だから助けなくては。

それだけか?

何でそんな事を? 何で相談してくれなかった? 何で自分に嘘をついた? しかも口止めしようと達也なんかに! 本当に、それだけか? 純粋な正義感で、なのか?

心の中のモヤモヤが明確な形にならない苛立ちを何かにぶつけたかった。赤信号を当然のように無視した。急ブレーキで避ける車に「気を付けろバカ!」と悪態をついた。舗道を全速力で突っ走り歩いていたオッサンにぶつかりそうになった。何か文句を言われたが「うるせー、ハゲ!」と怒鳴り返した。呆然としているオッサンを尻目に、とにかく走った。お城の石垣の下を疾走し、商店街を抜けた。駅のコンコースを目の前にした時、一台のバスが交差点に入って来た。駅前通りは交通量が多くなかなか横切れなくて焦った。行き交う車の向こうでバスが停まった。少ない乗客が降りて来た。

いた。

ヒールの高いサンダルに黒いタイトなデニムを履き、黒地に金色の刺繍の入った派手な大人っぽいノースリーブのシャツを着た女。キャップを目深に被って隠しているが、濃い化粧をしているのがわかる。不釣合な黒いスポーツバッグを抱えていた。

信号が青になった。由梨は駅舎に向かって走りだした。木造の駅舎の前の石段で向こうから歩いてくる美奈を捉えた。

由梨は叫んだ。

「美奈!」

彼女が立ち止まる。由梨と目が合う。

次の刹那、石段を駆け上がり駅舎に逃げ込もうとした。それを自転車を放り出し追いかけた。自動改札機にカードを差し、向こう側に抜けた美奈のを腕を間一髪、掴んだ。

「美奈!」

もう一度大きく叫んだ。

目を覚ませ。そう願いを込めた。

強張っていた美奈の腕から力が抜けるのがわかった。いつもはポニーテールにしている長い髪が流れ、項垂れた顔を隠した。スポーツバッグを奪い取って中を見た。達也の言った通り、見知らぬ制服が入っていた。

「何で?・・・どうして?」

荒い息を押さえつけ問いかけた。

美奈はその場にへたりこんだ。二人を遠巻きに人だかりができた。改札機から飛び出したカードが、引き抜かれないままいつまでもチャイムを鳴らし続けていた。


こんなことは初めてだ。

反抗を始めてからでさえ、一度もなかった。心配になって学校に電話した。職員室に残っていた先生から折り返し連絡があり、今日は祭りの練習があるので部活を早退したと聞いた。美奈の家にも連絡した。留守だった。知っている友達の家にも電話をし、車で公民館にも行った。練習はすでに終わっていて青年たちの姿しかなかった。学校までの通学路を流してもみた。どこにも由梨はいなかった。独りなのか、美奈も留守なら二人一緒なのか、事故か事件か、あるいは単なる気まぐれか。様々な想像が頭の中で渦を巻き、居ても立ってもいられなくなった。心配かけたくなかったが多恵子にも電話した。すぐに出た。状況を説明した。

「美奈ちゃんちは?」

「留守なんだ」

「うーん」

多恵子は電話の向こうでしばらく考えていたが、

「あの子は多分、大丈夫。様子を見よう。朝になっても帰って来なかったら警察に言おう」

「あのな、女の子だぞ! それにまだ中一だ。もし何か事件にでも巻き込まれていたら・・・」

過去の様々な事件の報道が頭を過った。反駁する治夫を遮り多恵子は「大丈夫だよ」と言った。

「あの子はね、大丈夫」

「どうしてだ。何でそんなことが言える?」

「もし、由梨が戻ったら絶対に叱らんで。落ち着いてからでいいもんで、ここに寄こして」

何故そう落ち着いていられるのか。

治夫には全く理解できなかった。母親とはそういうものなのだろうか。万が一ということもある。多恵子に黙って警察署に出向き捜索願を出すことも考えた。

しかし、よくよく考えて結局妻の言う通りにした。娘を信じ耐えることにした。夜も遅かったがミヨシさんにだけは相談した。彼女も多恵子と同じことを言った。朝まで待って帰って来なかったら町内会に協力してもらい、手分けして車で見回ってくれることになった。


どれくらいの時間が経っただろう。

駅から延々歩いた。美奈の家に着いてもお互い一言も喋らなかった。

部屋に上がり、すぐにエアコンをかけたがどうにも蒸し暑かった。ベッドの上で膝を抱えた。絨毯の上で同じように膝を抱え顔を埋めたままの美奈を見下ろしていた。足の長い彼女にはタイトな黒いデニムがよく似合っていた。素足の爪先には綺麗に赤いペディキュアが塗られている。その大人の装いに余計に腹が立った。頭の中でグルグル回る思いが家の電話の呼び出し音で途切れた。

「出なくていいだ?」と由梨は言った。

「いい。どうせママ。一回しかかかって来ない。『ご飯は温めてね。早く寝るのよ』それだけ。めんどくさいから、出なくなった。出なくても何も言われない。だから、いい。多分今夜も帰って来ないよ。このごろは朝になっても戻って来ないもん」

電話は十回鳴って止んだ。

「ママじゃなかったかも。いつもこんなに鳴らさない。きっと、由梨んちだよ。心配して心当たり探してるんだよ、きっと」

「いいら、ほっときゃ」

吐き捨てるように由梨は言った。

灯りは点けなかった。二人とも明るい光に照らされるような気分ではなかったこともある。レースのカーテン越しに防犯灯の淡い光が差し込んできていた。それで十分だった。

このまま朝までこうしていても仕方がないのはわかっていた。でも答えをもらわないうちはどこへも行けない。

「家、電話しなくていいの?」

由梨は何も答えなかった。

カーテンを閉めベッドサイドのスタンドを点けた。柔らかいオレンジ色の光なら許せるような気がした。携帯のバイブが響いた。美奈のブランドもののポーチの中で小さな光が明滅を繰り返していた。美奈は手を伸ばして振動を続ける携帯を取った。表示を確かめて電源を切り長い溜息を付いた。

「今日会う筈だった人。あたしが来ないもんで連絡してきただら・・・。達也から聞いたんだよね。怒ってる? 怒ってるよね」

「あたりまえだら!」

ありったけの怒りを言葉に込めた。

「・・・うん。・・・ごめん」

美奈は再び項垂れた。

それからまた二人とも黙った。

膝に顔を埋め、俯いている美奈。

いつも凛とした雰囲気を崩さない彼女の、こんな憔悴しきった姿を見るのは初めてだった。

「ねえ、そばに、行っていいかな」と美奈は言った。

赤い爪先がスタンドの光の中に入って来てベッドに座った。その赤い爪先を見ていたら、自分がどうして美奈を止めようと思ったのかやっとわかった。

自慢の友達、大人びた憧れの対象だった美奈。化粧を施し長い髪に軽くウェーブをかけ大きくあいた胸元には高価そうなネックレスが光っている。艶めかしい大人の魅力を放っていた。高校三年生といっても通りそうだった。

それに比べると、どこからみても平均な中学生の自分が恥ずかしかった。童顔に丸鼻。身長と学校のネームの入ったジャージのせいで小学生には見えないけれど、どうがんばっても高校生には見えない。そのまんまの中学生。

親友だからとか悪いことだからとか。そんなの、こじつけだ。自分は美奈に嫉妬している。どうしようもないほど。自分の知らない世界を知っている美奈にヤキモチを妬いているだけだ。大切なはずの親友に嫉妬し、自分を愛してくれている両親に反抗している。ただのガキだ。達也を笑う資格は無い。

余計惨めな気分になった。

美奈はスタンドの灯りにシルエットになった。消え入りそうな声で「ゆりぼ」と言った。

「手、握ってもらってもいい?」

黙って右手を出した。美奈はその手を握りしめた。ぽつりと言った。

「あたし、由梨坊が羨ましかった」

「なんで? だからエンジョするだ? だからあたしにウソついただ? わけわかんないよ」

「由梨坊にはあんなにいいパパとママがいる。自分を心配してくれるパパとママがいる。あんたに言ってもわかってもらえないと思った。あたし、由梨んちに生まれたかった」

今までも何度か聞いた言葉を繰り返した。その目は爪先のさらに先の暗い部屋のある一点を見つめたまま身じろぎもしなかった。

美奈が自分をそんな風に見ていたなんて。素直には信じられなかった。気遣いだと思っていた。だから聞き流していた。

自分よりはるかに恵まれている。自分に比べ全てに秀でている。そう思っていた。美奈みたいになれたら。何度そう思ったか知れない。その美奈が自分をそんな風に思っていたなんて。そこまで思いつめていたなんて。

親友の肩にそっと触れ、撫でた。

それを待っていたかのように美奈はわあーっと声を上げて泣き出し抱きついてきた。

抱き締めた。何故だか、自分も泣けてきた。二人して泣いた。気が済むまで、泣いた。散々泣きはらしてお互いにぐちゃぐちゃになった顔を見せあった。

「わかってた。最低のことしてるって。だから言えなかった。由梨は大事な友達だから。だから由梨を巻き込みたくなかった。大事な由梨を汚したくなかった。由梨に嫌われたくなかったんだよ」

「彼氏いるじゃんね。彼氏いるのにそんなこと・・・」

「彼氏が!」

美奈は声を荒げ由梨を遮った。歪んだ顔を掌で隠しながら、吐き出した。

「彼氏から頼まれたんだよ。最初はね」

息を、呑んだ。

「お金が要るんだって。付合いとかあるからすぐ無くなるからって。最初はお小遣いから貸してあげてた。でもすぐ足りなくなった。『じゃあ家から持って来いよ。それが出来ないなら、稼げよ』って。稼げないならもう会えないって!」

美奈の父の単身赴任は三年目になる。

父が不在になった半年後くらいから母の様子がおかしくなった。昼間のパートのはずなのに残業と言ってしばしば美奈が帰宅しても家にいないことがあった。最初は週に三日ほどのことだったがすぐに毎晩になった。寝る時間になっても帰って来なくなった。独りで母が作った夕食を温めて食べた。寂しくて父に電話してもいつも留守電になる。返信は無かった。

母は次第に家の中の事をしなくなっていた。掃除も、洗濯も、美奈の食事さえテーブルの上に置かれる千円札に変わった。コンビニで適当に買いなさい。最初はメモがついていたが、そのうちにそれすら無くなった。朝帰りが毎夜になり、一日の間に母の顔を見るのは朝学校へ行く前だけ。見たことも無い派手な服のまま化粧も落とさずに居汚く口を開けた母の寝顔を見て登校した。ここ最近はそれさえ見ていない。学校へ行く時間になっても帰って来ない。相変わらず父からも電話がなかった。

外に見えるところだけは自分でしなくては。最低限の洗濯とアイロンがけと掃除やゴミ出しはした。他人にだらしないと思われたくなかった。転校を繰り返すうち、少しでも他人と懸け離れた存在とみなされた友達がイジメられるのを何度も見て来ていた。

部活や塾で忙しい合間を縫って独りで家事をした。それなのに、学校から帰ると母がリビングや台所にやたらと服や下着を脱ぎ散らかし、タバコの匂いのするビールの空き缶やワインのボトルを転がしていた。ごみ箱からは異臭もした。洗濯籠には明らかに父の物ではないとわかる派手な男性用の下着さえあった。母は美奈の留守中に父以外の男性を連れ込んでいた。ゴミや汚れ物を拾い集めながら、ぽろぽろ涙をこぼした。情けなくて。淋しくて。心細くて。

心の隙間を塾で知り合った中学生の彼が埋めてくれた。すぐに体の関係になった。もちろん美奈は初めてだった。彼は最初、優しかった。

美奈が中学に上がり部活で忙しくなると彼氏の態度が変わった。

「何でもするから嫌いにならないで」

彼はお金に困っていると言った。嫌われたくなかったからお小遣いから貸してあげた。

「オヤジとエンジョすればもっと稼げるぞ」

そんなことは嫌だった。断ると、付き合って欲しいならやれと言う。彼のために我慢した。出会い系の携帯サイトの使い方は彼から教わった。最初の相手は彼が見つけた。

怖くてたまらなかった。

最初の相手との初めて行為に及んだ時、ベッドの上で吐いた。相手は怒って帰ってしまった。彼から叱られた。そんなことじゃ稼げない。嫌なら別れよう。そう言われたくなくて我慢して相手を募っては会うことを繰り返した。彼から教わったことをすると喜ぶ相手もいたが、何も知らないフリをするほうが楽だったし相手も喜ぶのを知った。

稼いだ金は全て彼にあげた。彼は美奈がお金を渡すととても喜んだ。そして一晩中頭を撫でてくれた。彼が喜ぶから我慢もできた。それでも幸せだった。

しばらくして彼に裏切られていることを知った。美奈が彼に上げたお金は別の女とのデート代になっていた。幸せは一転して絶望に変わった。美奈は彼を詰った。

「お前みたいなズベ公と真面目に付き合うわけねえだろ」

彼は薄笑いを浮かべながらそう答えた。

彼とは連絡がつかなくなった。何処にも心の安らぐ場所が無くなった。

何度も由梨に打ち明けようとしては思いとどまった。そんなこと大切な友達に相談できない。内心の不安と虚無を押し隠して過ごした。

「オヤジらさ、みんなアホばっかりだった。わかってた。嘘の優しさだって。悪い事してるってわかってた。でも、それでも嬉しかったんだよ。嘘でも、可愛いね、綺麗だね、って言われながら抱きしめられると嬉しかったんだ。やめられなかった。彼氏にフラれてからは気に入った優しい人としかしてない。同じなんだけどね、体目当てなのは。それでも嬉しかった。

達也に見つかって、アイツ馬鹿だから皆に言いふらすと思った。もう終わりだって。そう思ったら自分でも知らないうちに達也に持ち掛けてた。そんなことすればもっと苦しくなる。絶対由梨坊にバレる。由梨坊に嫌われるって。

でも、多分、もう由梨に、バレたかったんだと思う。もう疲れた。助けて欲しかった。終わりにしたかったんだよォ!」

悲痛な叫びが由梨の耳を弄り、揺さぶった。親友の背中に回した掌に力が籠った。

自分が単なる我儘で両親に甘え反抗している陰で、美奈は甘えることはおろか孤独を耐え、地獄を舐めていたのだ。美奈の家でお菓子の山を前にしていた時、既に彼女は深い苦悩の底にいたのだ。だから自分を「羨ましい」と言ったのだ。だから父を、治夫を「ちょうだい」と言ったのだ。

恥ずかしかった。後悔しかなかった。

体の中に凝り固まっていたどす黒い憎しみが潮が引くように消えていった。自分は一体何に拘っていたんだろう。なんてバカだったんだろう。

「バカなやつ」

由梨は小さく呟いた。自分の事か、美奈の事か。多分、両方だ。

「ごめんね、美奈。ごめんね」

小刻みに震える美奈の背中を抱いているうちに、沸々と沸く怒りと無力感とが交錯した。由梨もまた、誰かに縋りたかった。しゃくりあげる美奈の髪を撫でながら、それはごく自然にというより、当然のように浮かんだ。

この世界にたった一人だけ、この事態を解決できる人間がいる。

この一年余りの間すぐ身近にいながら嫌い、邪険にしてきた。本当は赤の他人のくせにとバカにしていた。あんなに酷い仕打ちをしてきながら、心の奥底で絶対の信頼を置いてきた。頼ってきた。

けれども、彼なら必ず助けてくれる。

治夫なら絶対助けてくれる。無条件で受け入れてくれる。そこに山のように動かしがたい確信があった。

そう思ったら由梨の行動は素早かった。立ち上がり美奈の手を取った。

「ウチに行こう。お父さんに話してみよ」

「そんな・・・。だって迷惑だし、無理だよ。もうあたしの家はどうにもならないよ。手遅れなんだよ」

「大丈夫。お父さん、そんな話聞いたら絶対ほっとけない人だから。必ず美奈を助けてくれる。だから、行こ」

黎明の北風は冷たかった。それでも黙々と自転車を漕いだ。時折後ろを走る美奈を気遣いながら、家を目指した。

家の窓には煌々と灯りがともっていた。

父は起きている。自分を心配して寝ずに待っていてくれているのだ。胸が痛んだ。カギはかかっていなかった。どきどきした。勇気を出してドアを開けた。深呼吸して、叫んだ。

「ただいま!」

すぐにドカドカと足音が近づいてきた。心臓が口から飛び出るかと思ったが、拳を握りしめて堪えた。会社の作業着を着たままの父が出て来て目の前に立った。父は今までで一番恐ろしい顔をして自分を見下ろしていた。

「どういうことだ」

地獄の底から響いてくるようなその低い声に身が竦んだ。父が腕を振り上げた。思わず目を瞑った。一瞬。眼を開けると美奈が父にしがみついていた。

「おじさん! ごめんなさい。由梨を叱らないで。悪いのはあたしなの。あたしが付き合わせちゃったの。連絡もさせずに、ごめんなさい」

肩を強張らせながら振り上げた腕を下ろしかねていたが、しばらくして優しく美奈の手を解いた。

「美奈ちゃん。悪いけど、何があったのかは後で聞く。でも、これはウチの問題なんだ。親と子供のケジメの問題なんだ」

父は再び由梨に向き直った。

「由梨。目を瞑れ。歯をくいしばれ」

観念して言われた通りにした。時間がとてつもなく長く感じられた。そうして頬に来るだろう激痛を待った。でもそれはいつまで待っても来なかった。

いきなりガッシリと抱き締められていた。今まで父に抱かれたどの記憶よりも強く、暖かく包まれた。体の奥からじんわりと温かいものが溢れだし、あっという間に奔流のようになって空になりかけていた由梨の心を満たした。

「この、大馬鹿野郎! どんだけ心配したと思ってるんだ!」

激しい電気が体を走り抜けた。力が抜けた。あの日、寝ている治夫に悪戯して抱きしめられた時の感覚が蘇った。

これなんだ。これを待っていたんだ。

「ごめんなさい!」


                    ≪つづく≫


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