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疫病神の誤算  作者: 美作 桂
8/20

6 過去 その1


その年は目まぐるしい年になった。


三月に東北で大地震が起き、治夫の会社も少なからず被害を被った。帰宅が極端に遅くなり、玄関のドアを開けるのが日付が変わってからになることが増えた。

しかし時間が経つにつれ、所謂復興支援に伴う「特需」が治夫の会社に被害を大幅に上回る恩恵をもたらす可能性があることがわかってきた。復興を後押しする政府の莫大な支援策である。

機械設備の構築や設営に関わるノウハウを持った営業職と技術職全員に召集命令が下った。会社は仙台に対策本部を設置し、数十名の増援社員を一ヶ月交代で常駐させることにした。治夫も無論例外ではなかった。ほどなく待機準備の指示が出た。

中学の入学式の日。記念写真を撮ろうと多恵子が誘うと、由梨は無表情に呟いた。

「何で赤の他人と一緒に写真撮らにゃいかんの」

俯く父と強張る母の顔。いい気味だ。

由梨は鼻の穴を膨らませた。


あんなにも自分を慕ってくれていた娘。

その由梨の態度は百八十度変わった。

目も合わせない。治夫が触ったドアノブや手すりもウェットティッシュで拭く。多恵子も小言を言った。しかしまったく意に介さなかった。小さい頃から由梨が書き溜めていた絵がビリビリに破かれてゴミ袋に詰まっていたのを思い出し、心が沈んだ。

もうしばらく様子を見よう、あからさまに否定し刺激するのは止そう。それが夫婦の合言葉になっていた。

「あなたがいろいろ考えてくれてるのはわかってる。でも食べるものは食べてるし学校にも行ってる。中学生になったもんでいろいろ不安になることもあるじゃない? もうちょっと様子を見よう。ごめんね、仕事大変な時に心配かけちゃって・・・」

「お前が謝ることはないさ。俺の方こそ忙しくて力になれなくて、済まんなあ」

寂しかった。いつも自分と一緒に居たがった娘が急に遠い存在になってしまった。それまで由梨の異常なほどの自分への接近に頭を痛めていたからこれで丁度いいだろうぐらいに軽く捉えようとした。たとえ血が繋がっていても、男親なんてどこもこんなものなのだ。どうせこのまま成長して行けば、いずれは誰かいい男が現れて自分から去って行ってしまうのだ。それがちょっと早めに来ただけなのだ。そう思うことにした。

今まで通り由梨と向き合う努力を続けることだ。たとえ血が繫がっていなくても由梨は自分にとって命よりも大切なかけがえのない存在なのだ。それを態度で示し続けることだ。そう心掛けた。

震災から四か月が経った夏。第三次復興支援要員として現場の技術職三名と共に仙台に赴いた。

他の支社や営業所からの支援要員と共にブリーフィングを受けた。会社は全国から可能な限りの機材と資材をかき集めた。ガソリン、軽油、ディーゼル発電機、フォークリフト、投光器、交換部品、多種多様な資材。それらを満載した十数台のタンクローリーやトレーラーと共にチャーターした観光バスに乗った。

報道にはつぶさに目を通したし、会社が独自で相当程度現地の情報を収集していた。飲食料品に関係する製造業を除いては概ねどの製造業種でも被害の程度の差はあるものの二か月ほどで生産を再開しているようだった。

営業本部長の松谷はこのキャラバンを強力に推進した。

「これが本当の『禍を転じて福と為す』だ」

他人の難儀で金儲けしている。同業他社からはそんな揶揄が漏れ聞こえていた。

「何を言ってやがる。わが社に先を越されて悔しいくせに。客が必要としている時に必要なものを提供するのが真のビジネスだ」

松谷は破顔一笑してそのような雑音を吹き飛ばした。

ただ一つ、由梨のことが気掛かりだった。

「由梨は大丈夫だでね。一学期も終わって少しは大人になったら。頭では判ってるんだよ、きっと。でも私に似ちゃって頑固だもんで。だもんで、気にしないでがんばって来て」

妻は笑って送り出してくれた。

被災地の状況は出発前の予想よりはるかに深刻だった。報道と、現実に惨状を目の前にするのとでは全く違った。サプライチェーンがどうとかいうレベルではなかった。全てが不足していた。

派遣された治夫たちは、その期間の半分を仙台市内のホテルで宿泊したが、訪問する地域によっては道路事情が許さず日帰りが出来なかった。バスの中やプレハブ小屋やトラックの荷台に寝袋を延べて寝泊りしなければならない日も一再ではなかった。

治夫の隊が行った時期には被災した製油所に変わり日本海沿岸の港へタンカーを回航させ奥羽山脈越えで陸送するルートが整備され燃料不足は大幅に緩和されていた。それでも道路の復旧が遅れていたりして、アプローチに時間がかかる地域も少なくなかった。持参した炊飯道具で食事を作りながら、被災した工場や施設を訪ね歩き応急処置と中期的な復旧についてニーズを纏めていった。

しかし治夫たちの関わりは生産設備のハード面だけだ。モノは人がいなければ作れない。どんなに産業用ロボットが優れていても最終的に人が関わらなければモノは出来ない。

被災前まで工場で働いていた人々の中にはいまだに避難所での生活を余儀なくされている人もいた。その日の衣食住にもこと欠く有様の人もいた。家も職場も無事なのに遠く離れた場所で生活しなければならない人もいた。いつになれば元の生活に戻れるのかわからない中で、時間だけが悪戯に過ぎて行く。そういう状況に耐えきれずに職を捨て今まで生きて来た場所を離れてゆく人が後を絶たなかった。

「機械や建屋はカネでなんとでもなる。でも人だけはどうにもならんね」

訪問先で会った経営者の一人は疲れ切った表情で笑った。娘さんとまだ三つだった孫娘はまだ行方不明のままだという。それでも従業員のため、自分のため、モノを作り続けようとする。

彼は言った。

「でもね、何とか仕事続けようと考えてると気が紛れるんですわ」

予定されていた一か月で、治夫の参加した第三次キャラバンは投資に見合う十分な成果を上げた。

文字通り、心身ともに擦り減って帰宅した。

由梨は相変わらずだった。むしろ状況は悪化していた。母娘での口論が増えていた。

「あんた! 大変な思いしてお仕事してきたお父さんにお帰りなさいの一つも言えないだ?」

「へえ。帰って来たんだ。どうせなら津波に吞まれちゃえばよかったのに」

腕を振り上げた多恵子をすんでのところで押さえた。由梨が二階の部屋に上がって行った後、治夫はゆっくりと首を振った。

「しばらく様子を見るんだろ? いいさ。無視されてないだけマシだ」

そうは言ってみたものの、治夫自身、一体いつまでこの情況が続くのかを思い暗澹とした気分になるのは否めなかった。

「ごめんなさい、あなた。でもくれぐれも思いつめないでね。これは夫婦の問題だからね。私たち家族の問題だからね。あなただけが気に病むことじゃないでね。一緒に乗り越えるだでね。約束だに」

唇を噛み治夫の手を白くなるほど握りしめる妻だった。それだけで有難いと思った。

由梨が問題を起こし、多恵子に問題が起こったのはその最中のことだった。


由梨は美奈と共に女子バスケットボール部に入部した。登下校はいつも一緒だった。

徒歩通学の美奈に合わせて自転車を押して歩いた。あと少しで美奈の家に着くというところで、美奈が口を開いた。

「由梨坊」

「ん?」

中学に上がり、さらに大人びた美少女に成長した美奈は、家の中に安らぎを見いだせない由梨にとってなにものにも代えがたい存在になっていた。二人とも同じような問題を抱えていたことが結びつきをより深めていた。つまり、親の。

「達也ね」

「達也? 何、アイツがどうしただ。また何かバカやっただ?」

相変わらず腰の据わらないやつだった。部活に入らず毎日ブラブラ遊び歩いていて早くも生徒指導の教師に目を付けられていると聞いていた。

「てゆうかさ、アイツサイテーだよ。今日さ、昼休みにあんたと付き合いたいから話しつけて的なコト言われた」

「えー、マジで? キモッ」

「マジ」

「ありえねー。やっぱキモいわ。うえ~。だって、エミさんと付き合ってるんじゃん?」

「言ったよ。『あんたと由梨の間でそれはないでしょ』って。そしたら『それもそうだな』って。何かアイツ、キョーレツに盛ってるに」

由梨は身震いするような仕草をしてお道化てみせた。

「まあ、あんたがそうなら別にいいや。達也が何かカラんで来たら、そういうことだから。アイツと口利いたり、相手にしないほうがいいよ」

美奈と別れ、仕方なく家に帰った。

玄関を開けるとカレーの匂いがした。母はいなかった。

お帰り、とキッチンから父の声がした。それには応えずに自分の部屋に籠った。着替えをしていると階段を上がってくる足音がした。ドア越しに父が言った。

「お母さん、用事で出掛けてる。お父さんこれから迎えに行ってくるから。カレー作ったから食べなさい」

由梨は黙っていた。

「今、何か学校で困っていることあるか」

何も言わずにいると、遅くなるかもしれんから先に寝ていなさい、そう言いながら足音が階段を降りて行った。ドアの音に続き車のエンジン音が遠ざかっていった。ちょっと胸が痛んだ。余計に気分が落ち込んだ。

本当は美奈に愚痴を聞いてもらいたかった。でもまた叱られそうで言えなかった。

去年、美奈の家でお菓子をたらふく食べさせられた日。由梨の話を聞いた美奈はこう言って怒ったものだった。

「だから? だから何? お前さ、ぜいたくだよ。由梨が要らないなら、おじさんあたしにちょうだい。あたし、あんなお父さんが欲しいって言ったでしょ?」

美奈の言葉がまだ胸に突き刺さったまま残っていた。

風呂が沸いていたから入った。湯に浸かり美奈の言葉を思い出しさらに落ち込んだ。お腹が鳴った。踵で床を踏み鳴らしながらキッチンへ行き鍋を開けた。湯気が顔を包んだ。仏頂面で冷たいご飯を盛りカレーをかけてテーブルに着いた。一口食べた。悔しいことに、今までで一番おいしかった。母が作ったカレーよりも、はるかに美味しい。

「血が繋がってない。だから何? 

世の中にはね、血が繋がってても、実の子でもほったらかして顧みない親だっているんだよ。虐待して殺しちゃう鬼みたいな親だっているんだよ。子供そっちのけでフリンにウツツを抜かしてるバカな親だっているんだよ。

あんな立派なお父さん、世界中どこ探したって他にいないよ」

ルウに涙のしずくがポタポタ落ちた。

酷いことを言った。津波に呑まれちゃえだなんて。母だって父の事を説明してくれようとしたのに。自分を叱らない父に腹さえ立てた。逆ギレ。素直じゃない自分に苛立った。達也もバカだが素直じゃない自分よりもまだマシに思えた。

酷いことばかり言ったのに、父は何かにつけて自分を気遣ってくれていた。あんなに忙しいのに自分の我儘を見守ってくれていた。もう何で反抗しているのかさえわからなくなってきた。悪いのは自分の方だ。意地を張るのに疲れていた。

やっつけるようにカレーを食べ部屋に逃げた。机の奥にしまい込んでいたペンダントを取り出した。握りしめて布団に潜り込んだ。

父に関係するものを全て捨ててしまったのに、その父から買ってもらったこのペンダントだけはどうしても捨てられなかった。何度も捨てようと思った。父親でもないくせにこんなもので騙して。何度もそう思った。でも、それを捨ててしまうことは自分の今までの時間全てを捨てるような気がした。父と過ごしたあんなにも楽しい幸せな時間全てを捨てることは由梨にはどうしてもできなかった。いくら膝を抱きしめてもその淋しさを埋めることは、できなかった。


受付で清算を済ませ待合室のソファーで一人、カラフルなオイルタイマーを見ていた。

「ありがとうございました」

診察室のドアの灯りが廊下に射した。多恵子が春色のウィンドブレーカーを羽織りながら出てきて診察室の中に向かって頭を下げていた。

「紹介状もらっちゃった」

治夫は無言で妻の背中に手を添え内科医院を出た。二人の退出を待っていたかのように待合室の灯りが消えた。

「由梨は」

助手席に乗り込むや多恵子が口を開いた。

「カレー作って来た。食うかどうか、わからんけど」

ヘッドライトを曳いて走る車をニ三台見送り公道へ出た。もう七時を回っていたが、空はまだ薄明るく、帰り道のはるか向こうに南アルプスの稜線が見えた。

「まったく。頑固だよ、由梨も、お前も。そっくりだ」

「ごめんなさい」

「頑固で、意地っ張りでさ・・・」

治夫の出張中に何度か気分が悪くなり微熱も出た。事務所でも貧血を起こしかけたという。出張から帰って来てはじめてそれを聞き、急いで医者に見せた。

胃癌の疑いがある。先刻、多恵子と一緒に診察の結果を聞き眩暈がした。数年前に義父をやはり癌で喪っていた。

他の二人には口止めまでしていた。そのことで二人には謝られた。絶対に言わないでって言われたもんで。ミヨシさんは気の毒なほどに弁解し、サチエは涙ぐんでさえいた。

「ミヨシさんやさっちゃんにも気を遣わせてさ。謝っといたけどさ。とにかく」

赤信号で止まった。フロントグラスに細かな水滴が落ちて来た。ワイパーで払うと街の灯りが滲んだ。

「もう由梨にも話さなきゃな。これ以上内緒にはできない。検査入院だって、立派な入院なんだから。いろいろ、しばらくお預けだな。とりあえずは検査の結果が出るまで大人しくしてるしかないだろ」

「いろいろって、仕事と子作り?」

「当たり前だろ! それ以外に何がある。状況考えろよ」

「ごめんなさい」

自分の仕事に支障をきたしてはと考えての事だろう。あまり責めるのも可哀そうだ。そう思ってはいてもつい、口調が荒くなるのを抑えかねた。

信号が青になった。

「でも、嬉しかった」と多恵子は言った。

「あなたがそんなに怒るの、初めてだもん」

「お義父さんに約束したんだ。必ず多恵子と由梨を幸せにしますって」

「ありがとう。あなた」。

死の床でわざわざ多恵子を遠ざけて言われた義父のその言葉だけは死ぬまで多恵子に言うつもりはなかった。

「こんな傷物の娘を・・・。申し訳ないが、どうか、頼みます」

あの弱々しい、涙ながらの義父の言葉が治夫の心に残っていた。


夏休みに入ると祭りの準備が始まる。

夕方になると小学生が近所の公民館に集まって踊りや太鼓の練習をする。祭り当日は屋台と呼ばれる山車を曳き、それに乗って太鼓を叩いて練り歩き、辻々で踊りを披露するのだ。昔に比べ子供が少なくなっているから中学生にも出番がある。由梨は小さい頃から年に一度のこの祭りが大好きだった。

一つ気がかりなのは、同じ地区だから達也とも顔を合わせることだった。仕方がない。面倒だが、美奈から言われた通り無視するに限る。

部活が終わり、その足で公民館に寄った。「屋台下」と呼ばれる山車を曳き回す時のスタンダードのフレーズ。その太鼓の音が聞こえて来た。既に小学生達が太鼓の練習を始めているのだ。由梨たちもかつてこれを叩いた。

とんとことんとん、とんとことんとん。

これを聞くといよいよお祭りだと子供たちは浮き立つ。

駐輪場に自転車を停め玄関に入ると土間は子供たちの靴で埋め尽くされていた。その隙間を見つけて靴を脱ぎかけた。聞き覚えのある声で呼びかけられた。

「よお、由梨」

派手で卑猥ですらある柄もののTシャツに中学の青いジャージを穿いた達也は先に来ていた。

「おう」面倒だが、一応挨拶は返しておいた。

「・・・相変わらず、ブスだなあ」

「お前にだけは言われたくねえよ」

口なんか利きたくなかったが、急に先日の美奈の話が気になった。ここは釘を刺しておくかと向き直った。

「お前さあ、誰彼かまわず声かけるんじゃねえよ」

「あ?」

「美奈だよ。あの子ちゃんと彼氏いるだもんで。チョッカイかけんなっつうだ」

「はあ? 何言ってるだ、お前」

向かって来られてたじろいだ。ちょっと前までは由梨よりも背が低かったのに。それがいつの間にか目の高さが拮抗していた。加えていかにも女慣れした迫力に気圧された。自分と同じ、まだ中学一年生なのに。伊達に年上の、高校生の女の小間使いをしているわけではなさそうだった。

「ちょっと来い」

他の子供や祭りの世話役の青年たちの目を憚り達也を外に連れ出した。公民館の裏の川に面した桜並木の陰へ引き込んだ。

「あたしの親友をヤンキーの世界に引き込むなっつってるだよ」

しつこい藪蚊を追い払いながら由梨は口火を切った。

「親友か」

鼻で笑う達也。ムカついた。

「お前、親友っていうわりに美奈のことなんも知らんだな」

「何だよ」

彼はジャージのポケットに手を突っ込み、薄笑いを浮かべてこう言った。

「先週、美奈部活休んだら」

「あの子毎週木曜日塾だもんで」

「あーなるほど。そういうことかあ」

思わせぶりな態度にイライラした。

「お前、美奈に騙されてるに」

「はあ? 何言ってんの。わけわかんないこと言ってるとぶっとばすに!」

由梨が昂奮するのが面白いらしく、達也はさらに続けた。

「お前、アイツがエンジョしてんの、知らんだら」

「エンジョ?」

どういう意味だ。


                     ≪つづく≫


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