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疫病神の誤算  作者: 美作 桂
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3 現在

由梨は風呂桶の中でスポンジを握りしめて毒づいていた。

「早く帰って来たなら風呂ぐらい洗えっつーの。あんのクソオヤジ。ムカつく!」

「何か言ったかー」

キッチンから間延びした父の声が応えた。

「何でもないよー」

ふん。悪口だけは聞こえるんだ。

電話が鳴りだした。治夫が何か叫んでいる。

「由梨、出てくれ。今手が離せん」

「無ー理ー」

わざと間延びした声で言ってやった。

「ったく。フザケンなよ、あんのクソ娘!」

治夫はキッチンで秋刀魚に切り込みを入れて塩を振っていた。風呂場からのんきな声をあげる娘に舌打ちをし、小声で悪態をついた。

「何か言ったー?」

すかさず風呂場から返答が来たのには面喰らった。

「何でもありませんよー」

何故悪口は離れていても聞こえるのだろう。悪口伝播の法則みたいなものがあるのだろうか。仕方なく手を洗いタオルで拭きながら小走りに電話に駆け寄った。

「もしもし」

受話器の向こうの相手は、懐かしさを覚えるにはいささか冷たすぎる声で「義兄さん?」と呼びかけてきた。

「康雄か?」

「長いこって。元気そうやね」

久方ぶりの故郷の言葉が体内に染み透った。別れた妻、律子の弟の康雄だった。

万事シニカルな男で人の神経を逆撫でするようなことを平気で言った。律子と付き合いだした頃から彼の高校受験の勉強を見てやったりもしたのに、いざ結婚する段になると、

「なんや、姉さん。片親の人と結婚すんのけ」

それでも未だに治夫を義兄さんと呼ぶ。律子と別れて十五年も経つのに。ここ数年は年賀状のやりとりだけで直接の行き来や電話も疎かになってはいたが。

「おう。ほーやわなあ。長いこってなあ」

治夫は親しみを込めて応じた。

「今、電話しとって邪魔ないけ?」

「おう、どした?」

「今日、晃がそっちへ行ったやろ」

まるでいつも行き来のあるような口ぶりで康夫は言った。十五年ぶりに突然実の息子の来訪を受けた父親に何の忖度もせずに。

「・・・何で知っとる。そうながや。いきなりびっくりした。でも何でや。律子の事も知らんかったがや」

「わざと知らせんかったさけな」

悪びれもせずにそんな言い方をする。

根は悪い奴では無かった。律子と別れる際、妻の係累たちは頻繁に家を空け家族を顧みないと治夫を非難した。その中で康雄だけがただ一人治夫を庇った。

「確かに義兄さんは甲斐性なしかも知れん。けど、姉さんには勿体ないぐらいの男や」

金沢の老舗の呉服屋の長男『あんさま』としてプライド高く育てられ、早くに両親を亡くし家を継がねばならなかった。そのせいか、康夫は筋を通すことを尊び家を守ろうとする気概が強かった。家格を汚した姉を家の守護者として受け入れることができなかったのだ。彼は男を作り不貞を働いて離婚した姉を許さなかった。

そんな、古風で律儀な男だけに律子の訃報をくれなかったことは意外に思った。

「言えるかいな、義兄さんに。あれは・・・、自業自得がや」

自嘲の混じった声が受話器から聞こえた。

晃のことでまだ聞きたいことがたくさんあった。が、後からかけ直すとだけ言い、電話を切って秋刀魚に戻った。由梨に聞かせる話ではなかった。


「治夫?」

風呂から上がり頭にタオルを巻いたまま、由梨は秋刀魚を毟りながらテーブルの向かいの父に呼び掛けた。食卓の向こう側でさっきからぼーっとしてあらぬ方を向いているのが気になっていた。

ビミョーに、キモイ。

明らかに今日の治夫はいつもと違った。どこかおかしかった。

「治夫ってば!」

疲れているのだろうか。ちょっとこれは重傷だと思い、向う脛を軽く蹴ってみた。

「痛っ。何すんだ! 親に向かって」

治夫は痛みに顔を歪ませながら脛を擦った。

「何ぼーっとしてるだか・・・。あのさ、さっきの電話、誰?」

「なんでもないの。しかしお前、だんだん母さんに似てきたな」

由梨は大袈裟に舌打ちをした。本当に人をイラつかせるオヤジだ。

「まさか、美奈と何かあったじゃないらね」

サイドボードの上の二つの写真立てに目が留まった。一つは今は亡き母と一緒に撮った最後の家族写真。

そしてもう一枚が今年の夏に遊びに来た美奈と一緒に海に行って撮った記念写真だった。由梨が真ん中。両側に治夫と美奈。ナイスバディーで派手な水着の美奈に気が引けて慌ててラッシュガードを身に着けた。治夫はこの写真がお気に入りで由梨が伏せておいてもいつの間にかきちんと立てていた。

由梨は再び写真を伏せた。

そのせいで先週の祭りの日の一件を思い出した。未だにムカつく事件だった。


祭は突き抜けるような秋晴れの好天に恵まれた。

去年は部活が忙しいことを口実に出なかった。今年渋々ながら祭りに出たのは、はるばる大阪から親友の美奈が遊びに来たからだった。

ご丁寧にも股引や腹掛けまで持参し、おまけに美容院の予約まで既に取ってあった。そこまでされれば断れなかった。交友は広い由梨だが、やはり一番の、唯一無二の親友と言えば小学校からのこの、古くて深い友達だった。

美奈そのものは放っておいてもよかった。会う度に美しくなる美少女だから。祭装束を鯔背に着こなしキリリと髪を結い上げた彼女は、予想通りたちまち青年衆に囲まれていた。中老や大老のオジサンまでもが口々にあれは誰だと由梨に訊いた。

「前は隣の区に住んでただよ。中二のとき転校して今は大阪の高校行ってる友達。メッチャ可愛いら。しょっちゅうナンパされるし、モデル事務所とかにもスカウトされるらしいに。ウザいから全部断ってるって。ちなみに胸、デカイに。Fカップだに」

訊かれるたびに一々そのように説明した。出来るだけ多くの男が美奈に付き纏うように少し話も盛った。しかし相手がどんなイケメンであれ金持ちであれ、美奈が決して靡かないのもわかっている。美奈が、正月だ夏休みだGWだ祭だと頻繁に、まるで帰省先でもあるかのようにこの東遠州に帰ってくる本当の目的を知っていたからだ。

美奈の視線の先にはいつも治夫がいた。

彼女がこれほどに足繁く遠路はるばるやってくるのは、由梨の父に、治夫に会いたいがためなのだ。こいつは親友なのだが、自分の父に恋をしている。

「部活忙しいなら無理して祭付き合わなくていいでね。ウチおじさんと一緒にいるもんで」

来るなと言っても美奈は来る。由梨と旧交を温めるためと言う。そんな見え透いたウソを言うときの美奈はきまってニヤニヤ笑っている。

治夫に美奈が祭に来ることを話した。その時の父の態度がまた癪に障った。

「そうかあ。また美奈ちゃん来るのかあ」

父は相好を崩して手を叩いた。

「じゃあ俺も土日で出るかなあ。法被とか肉襦袢とか、どこにしまったっけなあ」

「次の日から出張じゃん。最近忙しいから祭はパスして骨休めしたいなって言ってたくせに」

「お前の友達だろう。折角来てくれるのに、可哀そうじゃないか」

そう言いながらウキウキいそいそと箪笥をかき回し始める父がどうにも許せなかった。美奈のアホ。治夫のバカ。娘の自分を差し置いて。娘の前でイチャイチャしやがって。本当に頭に来る。

「いいじゃん別に。おじさん独身なんだよ。ウチらもう十七だし。立派に結婚できるんだから。あんた娘でしょ、ム・ス・メ。ヤキモチ妬くの、おかしくね?」

そう言って揶揄う美奈の顔を見ていると殴ってやりたくなる。まったくこんなどこにでもいるオッサンのどこがいいんだか。とりたててイケメンでも金持ちでもなく、地方の、ごく普通の会社の営業所を任されているだけの中年男に過ぎないのに。

「じゃあ、そのどこにでもいるオッサンに年がら年中ベタベタ付き纏っているウザイ娘は誰?」

美奈にそう言われると何も言えなくなる。

昼間町内の練りを終えた屋台と呼ばれるヒノキ造りの巨大なリヤカーのような山車は、夕闇が迫るとぶら下げた無数の提灯に灯が入れられた。男女の若衆が増え練りが勢いを増す。提灯を揺らしながら右に左に激しく舞う山車は祭囃子の笛太鼓や掛け声に合わせて前後にも大きく躍動する。

「治夫さん、手木入ってや」

中老の世話役の声に屋台を引く綱を曳いていた由梨は振り向いた。最も激しく揺さぶられる把手の部分は手木と呼ばれ青年衆を終えた四十から五十代の中老が担う習わしになっている。ふるまい酒でほろ酔い加減の治夫が加わり、横に並んだ四人の法被姿が雪駄が飛ばされるほど激しく右へ左へ揺さぶられる。隣にいた筈の美奈がいつの間にか手木に最も近い綱の根元にいた。屋台を大きく左右に揺らす役目で主に青年衆が当たる。美奈を追って数人の若衆が彼女を取り囲んだ。屋台と人が一体になって田舎道の道幅いっぱいに蠢く。揺れる提灯の灯りの下で大勢の若い男女が熱気と汗を散らす様は華やかで淫靡な感じさえした。

終盤、屋台は神社の参道を曳き上げられて境内に据えられる。大勢の若衆が口々に囃子を喚きながら屋台に群がる。祭のクライマックスを迎え、由梨も自然に屋台に押し上げられた。ドサクサに体のあちこちを触られた。それでも抗わなかったのは美奈から目を離せなかったからだ。ところが肝心の美奈と治夫をいつの間にか見失ってしまった。揉みくちゃになり手木から滑り落ちそうになりながら、やっとの思いで抜け出して急いで家に戻った。

案の定、玄関には二人の雪駄が脱いであった。嫌な予感がしてリビングに通じるガラスの嵌った格子戸を勢いよく引いた。まだ肉襦袢姿のままの父と美奈が、ダイニングテーブルで額をくっつけるようにして向かい合っていた。

「治夫さん、アーンして」

「お! 美奈ちゃん気が利くねえ。飲まされ過ぎちゃってさ、こういうさっぱりしたもん食いたかったんだあ」

十七歳の女子高生に棒付きアイスを咥えさせてもらって、鼻の下を伸ばし蕩けまくっている父。このスケベ親父が! 一気に頭に血が昇り、癇筋がブチ切れた。

「おい! なにイチャイチャしてるだ! 離れろ。ひとの親父勝手に名前で呼ぶなや」

「いいじゃん別に。ねー治夫さん♡」

「そうだぞ。何怒ってるんだ。ヘンなヤツだなあ。しかし美奈ちゃん。祭装束もキマってるねえ。カッコよかったよ。アレ、もしかしてしばらく見ないうちにまたオッパイ大きくなったかあ」

「やだーあ。それ、セクハラー。治夫さんのえっちぃ♡」

由梨を横目で見ながらワザと品を作る美奈。明らかに自分を揶揄い、挑発して楽しんでいるのがわかった。

「黙れ酔っ払いがあ! 美奈、お前も嬉しそうにしてるんじゃねえよ! 変態かっつうの。いいから離れろ。離れろって言ったら、離れ、ろーォ!」


あの悪夢のような祭の記憶も覚めやらないのに・・・。まさかとは思うが、この治夫の「ボー」に美奈が絡んでいるのだとしたら絶対に許せん。治夫はまだわざとらしく脛を擦り続けていた。念のために問い詰めてみた。

「治夫、もしかして、まさか、出張とかウソついて美奈と大阪で・・・」

「バカ野郎! あるわけないだろそんなの。アレか。祭の事まだ根に持ってるのか。アレはさ、美奈ちゃんと一緒にちょっとお前を揶揄っただけじゃないか」

「あの子に思わせぶりなことしちゃって。ウチ知らんでね、どうなっても。あの子、もしかすると一生結婚しないかも。そうなったら治夫のせいだでね。責任とってとか言われるでね」

治夫の顔が気の毒なほどに蒼褪めたのが面白かった。ちょっと溜飲が下がった。

「ウソウソ。冗談に決まってるじゃん。すぐ本気にするもんで」

治夫はすぐに顔に出る。だから扱いやすい。

これでどうやら美奈は関係ないことがわかった。ほっとして、父のビールグラスを奪い一気に飲んでみた。

「あ、このヤロウ! 未成年のくせに」

グラスをドンとテーブルに置いてげっぷをした。

「前から思ってたけんさあ。治夫ってさあ、お母さんいなくなってからなんか・・・」

「なんだよ」

「やっぱ、いいや」

「おい。言い出しかけて止めるなよ。気になるじゃないか」

「いいよ別に。下んないこん・・・」

「あのな、由梨。俺も前からいつかは言おうと思っていたがな」

「げっぷ。あ?」

「お前は俺の何?」

「恋人」

つまらなそうに爪の甘皮をチェックしながら、由梨は答えた。

「おい!」

「じゃあ、げっぷ。愛人?」

「お前なあ・・・」

「わかったよ。内縁の妻でいいよ。げっぷ」

治夫はテーブルを叩いた。

「娘だろ、俺の!」

治夫は吼えた。

「もう何万回も何億回も言ってる。お前は俺の娘。俺はお前の父親。それ以上でもそれ以下でもないの。ただそれだけなの!」

「秋刀魚、うまいねー。さすが旬。脂がのってるっつーの?」

「誤魔化すな」

「いいか、よく聞け。いつかお前にいい人が出来て、お前と一緒にバージンロード歩くんだ。そいで、一番遠くの席から高砂のお前を眺めるんだ。あちこちのテーブル回って、娘をよろしくお願いしますとか言っちゃうんだ。それでしこたま飲まされたりもするけど、全然酔えないんだ。そいでお前が今までありがとうお父さんとかいう長い長い手紙を読み聞かされて涙腺崩壊するんだ。そいで花婿のお父さんがまだ未熟な二人ですが暖かく見守ってなんちゃら言うの聞きながら目頭抑えるんだ。そいで、二次会に行くお前ら見送って幸せになるんだぞとか言っちゃうんだ。そいで折り詰めぶら下げて誰もいない暗い家に帰って来るんだ。そいでもって礼服のままレンジで熱燗チンしてアルバム見ながらチビチビやって。可愛かったな、あの男にゃ勿体なかったな、とか母さんの仏壇の前で言ってうるうるしながら寝ちゃうんだ。そういうのが、俺のささやかな望みなんだ」

「長っ。キモっ。チンケな望み。げっぷ」

「ちんこが望み?」

「ちんこじゃなくてチンケ! オヤジギャグつまんな過ぎ」

「あのなあ、女子高生が大声でそんな言葉言うんじゃないよ。はしたない」

「イマドキ女子高生はそんなの平気だよ。ウチのクラスの女子なんかほとんど経験済みだもんで」

「・・・マジか」

「ウソだよ。げっぷ」と由梨は言った。

治夫は深い溜息を付いた。

「いずれにしても、お前には関係のないこと。早く食って寝ろ。それからこの事、美奈ちゃん以外には言ってないだろうな。言ったら即叩き出すからな。美奈ちゃんにもしっかり口止めしとけ」

「この事って? ウチが治夫の内縁の妻だっつうこん?」

「だ、か、ら」

父は苛立ってまたテーブルを叩いた。

「迂闊にそういうこと口に出すなってこと!」

由梨は腕組みしてテーブルに身を乗り出した。

「ねえ・・・あのさ。父一人娘一人の家族じゃん。そんなにウチ、信用できない? 頼りない? 仕事で何かあっただ? 何か心配事あるなら話してや。今日の治夫、なんか変だに」

治夫はズーッと音を立てて味噌汁を啜った。

「やっぱ、これだなあ。日本の味はいいなあ」

再び脛を蹴ろうとしたが、それより先に気配を察した治夫が両足をテーブルの下から抜いた。おびえたように膝を抱えている。急にバカバカしくなった。

「なにやってんのいい歳して・・・ばっかじゃねえの」

決して美男ではない。でも他人を構えさせない柔和な表情と穏やかな目。ちょっと鷲鼻気味の鼻とダンボのような大きめの耳。子供の頃、父のこの耳を触りながら寝に着くのが大好きだった。今でもはっきりと覚えているし、出来るなら今でもそうしたいと思う。

母を喪ってもう三年になる。いつか勝負に出てやる。そう思うと少しは気が晴れた。

「・・・あ、それよりお前」

「何?」

「志望校の提出まだしてないって本当か。担任の、なんてったっけ?」

「ああ、ハゲ山?」

「春山先生!」

治夫は教師を綽名で呼ぶ娘を窘め舌打ちをした。

「その春山先生から電話があったぞ。進学希望じゃないんですかって」

「うん」

治夫はまたまたテーブルを叩いた。

「おいー。テーブル壊れちゃうにぃ」

「何でだ。何のために進学校入ったんだ。同じクラスの子で他にも出して無い子いるのか」

「ううん。多分、ウチだけだら」

「何で。大学行かないのか」

「ウチ、ここで就職する」

何を言い出すかと思えば。思わず由梨! と怒鳴っていた。

「何? コワいに」

「あのな、由梨。今のままの成績ならいいとこ入れるんだ。もう今は昔とは違うんだぞ。女性でもキャリアを持ってどんどん世間に出て行くべきだ。お前にはその力が十分にある。お父さんはそう思ってる。それだけ人生の幅が広がる。

もったいないじゃないか、こんな田舎で埋もれるなんて。金の心配ならするな。お前ひとりぐらい余裕で私立の大学にだって行かせられるぐらいはある。大学に行って、見聞を広めて、いろんな人と交わって、良い伴侶を見つけて、子供を作って、幸せな家庭を築いて、豊かな人生を送って欲しいんだ。そういうふうになってもらいたいんだ俺は!」

「クサいセリフ。余計なお世話」

由梨はお茶を啜った。

「何だと!」

「自分の将来は自分で決めるよ」

「お前、もしかして誰か好きな人いるのか? その子と将来を考えてたりするのか。それなら話は別だぞ。それならそれでいい。でも大学だけは行っておけ。必ずお前のためになる。結婚するならその後でもいいじゃないか」

「何でそういう話になるかやあ。いないよ、そんなもん。マジありえんわ。気分悪い。寝るし」

「あのな、由梨。この際だからお前に言っておこうと思う。俺な」

「何」

「俺、二月から本社へ転勤になる」

それまでの対決モードが一変した。

「うそ・・・。マジ?」

「マジ」と治夫は言った。

「俺ももう四十五だ。所長として十三年も同じ営業所に勤務して来た。今まで再三本社からの内示を断り続けてきたが、もう、無理だ。これ以上断り続けることは出来ない。そうなるとお前のことも色々考えなきゃならん」

「ウチ反対! 何で二月? 急すぎるに!」

「しょうがないだろ仕事なんだから」

「だったら就職は無し。東京の大学に行って治夫と一緒に住む」

「なんだそれ」

「なんでそんな大事なこん急に言うだ!」

由梨は自分の食器を荒々しく流しに放り込み、ドスドスとダイニングを出て行った。

結局由梨と喧嘩になってしまった。昼間かつての息子と会ってからなんだか調子が狂いっぱなしだ。もう少し飲みたくなって冷蔵庫を開けて思い出した。

「あ。康夫に電話しなきゃ」

風が冷たかった。

玄関前のカーポートにある車に乗り込みエンジンをかけた。夜中ではあったが風の音であまり目立たない。隣家は伸ばした腕の手のひらくらいにみえるほど離れているので不都合は無い。康雄は電話の前で待っていたらしくすぐに出た。

「びっくりしたやろ」

事もなげに彼は言った。

「でかなったなあ」

治夫は内心の葛藤を悟られないよう、殊更大袈裟に実の息子に会った感想を言った。

「立派な男になっとったじー。様子もじまんらしーなったがいに。あの時、まだ幼稚園児やった」

沈黙で過ぎ去った一五年間を回想した。

「まず、一応謝っておく。晃の事、姉貴の事、黙っとってかんにん。でもな、多恵子さんと由梨ちゃんと幸せに暮らしてる義兄さんに知らせるんは辛かったんや。かんにんな」

「お前の事やからいろいろ考えてくれての事やと思うとった」

治夫としてはそう言わざるを得ない。

「けど、正直、ショックやったがや。突然現れたことも、その話の内容も、お前が俺に黙っていたことも。教えてくれるのやろ? どうも今日は面喰ってしまったさけ、頭が混乱しとるがや」

「ほりゃー、ほーやわな」

謝るだけ謝ってしまうと、康夫はもう以前の厚顔不遜な彼に戻り他人事のようにそう言った。

康雄の話はこうだった。

東北で大震災があった日、男の親戚の法事のために夫婦で仙台へ車で出かけ、遭難した。晃は同行しなかった。それが運命を分けた。遺体は一ヶ月ほどして車と共に見つかった。葬儀は他の犠牲者と合同で行ったが青柳の親族は元々不倫の末に律子と一緒になった男に冷淡だった。それでも男の遺骨は引き取ったが、律子の遺骨と晃を引き取ることに難色を示したので康雄が晃を金沢へ連れ帰った。

晃は当初グレた。手の付けられないほどに荒れた。康夫も持てあますほどだったというが、辛抱強く接し無事に高校に入学させることができた。それから晃は徐々に康雄に心を開くようになっていった。治夫の存在も認識していた。律子が治夫との離婚について事実を曲げて伝えていたこともわかった。母は治夫の浮気で離婚し自分は本当の父から捨てられた。なかなか帰ってこなかったのはママよりも好きな女の人の所へ行っているからだ。そう教えられていた。

康雄は思い切って真実を晃に伝えた。治夫と律子の仲介役だった康雄は、当時の治夫や律子からの手紙を保管していた。それらの証拠を示しながら、康雄は、いかに治夫が律子と晃を愛していたかを説いた。全てを、何一つ加えず何一つ隠すことなく伝えた。心を鬼にして晃の母を、自分の姉を糾弾した。

「それであの子は、晃はどういう反応をしたのや」

治夫はそれが一番聞きたい。

「意外や冷静だったわいね。父や母の日頃の態度から薄々わかってました、本当のことを言ってくれなかったから気に入らなかったんですみたいなこと言っとったさけ。義兄さんの息子は、はつめいな子やな。旦那もあまり晃を構ってなかったようやさけ。再婚してからは忙しかったらしてなあ。エリート銀行マンいうんもだいばらやな。小さいころこそ、玩具買ってやったり遊園地連れてってやったりしたそうやが、それは懐柔するためやったんや。旦那にとっては姉貴が全てで、そのコブについてはどうでもよかったのやろな。それも計画通りに義兄さんと離婚が成立するまでの話。実際に引き取ってからは素っ気なかったのやろ。姉貴もそれ判ってて見て見ぬふりをしていたようやさけな。どっちもどっちや。因果応報やな」

康雄の毒舌は健在だった。あっさりした溜息がアルプスを越えて冷たく流れて来た。

「俺は言ったんや『今からでも、本当のお父さんのところに戻るか?』て。そしたらあの子は『いえ。叔父さんさえ良ければこのまま』って。ほう言いよったさけ。

なんでやわかるか、義兄さん。改めて本当のこと知ったんが一つ。それからな、姉貴結局また浮気しよったのや」

思わず目を閉じた。

「晃にしてみりゃそりゃ恥ずかしわ。物心つかん歳やったとはいえ自分自身が実の父親である義兄さんを捨ててパパを選んで、さらにまたママが別の男と浮気しとったんやさけ。今更どの面下げて、て思いやったのやろ。義兄さんには絶対言わんでくれと泣きよった。そやさけ晃のことは黙っとった。かんにんに、義兄さん」

蔑みを込めた晃の眼差しと、両親を失いさらに母親の嘘と度重なる不貞を知らされて失意に沈む青年の姿との整合がどうしても出来なかった。十五年という年月の間に晃が歩んだ苦悩を思った。可哀そうとか不憫だとかいう普通の言葉では表せぬほどの思いが胸を刺した。治夫は鼻を啜った。

「康雄」

まさに青天の霹靂でまだ気持ちの整理がつかなかったが、ひとまずは実の息子を長期にわたって養育してくれたことへの礼を尽くさねばならない。

「そんな重い荷物を背負わせてしまっていたんやな。こっちこそかんにん。あんやとな、康夫」

「なーんも。気にせんでええわいね」

康雄は鼻で笑った。

「そんなこと言ってもらうために電話したのやないのやさけ。金もかかっとらん。姉貴達多少金持っとったさけ、住んどったマンションの残債やら生命保険やら整理して、今までの学費やら何やら差し引いてちゃんと信託にしてあるさけな。子供はいらんが銭寄こせ言いよった仙台の旦那の親戚も弁護士入れて黙らした。そやさけなーんも後腐れ残っとらん」

そこで康雄は声をあらためて続けた。

「で、どうや? 結婚式、出てくれるけ」

「それなんやが・・・、今日聞いたばかりでまだ・・・」

「晃から彼女とのいきさつは聞いたけ?」

「いや、まだ」

「要するにな、『できちゃった』がや」

康雄は言い切った。

「そこまで言わんかったけ? 今四か月目や言うとった」

「子供け?」

「彼女、いいとこのお嬢さんでな。俺も一緒に挨拶に行って頭下げてきたんや。この父親いうのが関東一円で手広く不動産会社経営してる御仁でなあ、叩き上げのカタブツみたいな人やった。最初は婚前交渉をえらい怒っとったんやが、そのうち晃の素性を知ったら大学休んでうちで働けて。しばらく様子見て判断するて言われたそうながや。そしたら、晃の奴、さっさとそのオヤジさんの会社で働きだしてなあ。オヤジさんから結婚のOKもらったのがつい先週の話でな。『逆玉』いうヤツやな」

「それで?」

「条件としては、子供が生まれて落ち着くまで仕事を続け、それから復学して必ず卒業すること。卒業したら仕事に戻ってゆくゆく経営者になるための勉強をすること。もう一つが義兄さんのことや。是非式に出てもらいなさいと。晃、しばらく悩んでたようやけど、今朝急に電話がきて『今東遠州についた』て。もう、俺も何やあいつのペースについていけんわ」

康雄は嬉しそうに笑った。

過去の経緯はともかく、自分の血を引いた息子が大きな幸せを自らの手で掴もうとしていることを素直に喜んだ。意に反して手放した息子だったが、立派に筋を通して独り立ちしていこうとしていることに安堵と誇りと慰めをもらった思いがした。

それはいい。

しかし、それだけに自分がのこのこ出て行っていいものか。息子の成長に何ら寄与も無い生みの親。それに、康雄には言えないが自分という『疫病神』が関わるとうまく行くものもダメになるのではないか。そう思えてならなかった。

それに最も腑に落ちないのは、晃が未だに「青柳」姓を名乗っていることだ。自分を蔑ろにしたという継父の家の姓を何故守っているのか。そして意固地なようだが、その情況で「松任」である自分が親としてしゃしゃり出るのは簡単に甘受できるものではなかった。

そして最大の難関は、今は亡き最愛の妻、多恵子が遺した由梨の存在だった。

今、由梨に治夫の実の息子がいることを知らせてしまうのはあまりにも冒険に過ぎた。ここ三年、母の死を乗り越えてやっと父と娘の生活が落ち着きを見せてきたところだった。それに治夫の転勤も控えている。さっきもそれで一悶着したばかりだ。それだけでも動揺が予想されるのにさらに不確定要素を抱え込む気にはなれなかった。

これは難しい。

治夫が先に沈黙の圧力に負けた。康夫の誠意に応えるにも、ここはできるだけ率直に話すべきだと思った。

「うん・・・。やけどな、実質的に晃をそこまで育ててくれたんはお前や。そのお前を差し置いて一五年も放っておいた俺が父親面して出ていくのはどうも・・・」

「やっぱりな・・・。ほんなら風に言う思とったわいね」

「かんにん。アレなら、お相手の親父さんに会って頭を下げて説明させてもらう。俺は、表に出ない方がいい」

「俺にとってはどっちでもええわいね」と康雄は言った。

「ただな、義兄さんはあいつにとって唯一の、人の血の繋がった親や。相手の親御さんも晃も望んでる。あいつの幸せを思うなら、出てやるのが筋やし、実の子ォへのせめてもの愛情や。違うか」

そこで治夫は今日晃と再会してからずっと抱いてきた疑問を康雄にぶつけた。

「・・・本心なのやろか」

「え?」

「あの子は本心から俺にもう一度父親をやれ言うとんのやろか。結婚の条件だから仕方なくそう言うとんのやないやろか」

アルプスを沈黙が越えてきた。

「ほうか・・・」と康雄は言った。

「ほりゃー・・・、晃から直に聞くしかないわいなあ・・・」

あまりにも意固地だと思われたことだろう。だが問わずには居られなかった。このまま何も問うことなく両手を広げて晃を受け入れる気にはどうしてもなれない。卑しい自分に嫌気がさしたが、それが偽らざるところだった。

康雄にはもう一日だけ考えさせてくれと言って電話を切った。晃ともう一度じっくり話しをする前に、自分自身に問い直さなければ。由梨に知られないように。

車を出た途端、厳しい風が治夫を責めた。思わず首をすくめ早々に温かい家に入ろうと玄関のドアに手をかけた。鍵が掛かっていた。

「あら?」

すぐ戻る心算だったから車のキーしか持っていない。

由梨のヤツ。

高校生にもなってこんな下らない悪戯をするようでは。ここは父親としての威厳を示してビシッと言ってやらねばならない。インターフォンを押し、カメラを睨みつけた。間もなくドアの錠が開く音がした。が、ドアにはチェーンが掛けられている。隙間の向こうに猜疑心に満ちた目がヌッと現れた。

「どちらさんですか」

「由梨!」

ガツンと言ってやるのだ!。自分に言い聞かせた。一際強い風が治夫のジャンパーの裾を殴り、襟を引いた。

寒さに、負けた。

「・・・お願い。開けて」

娘はは哀れな父を鼻で笑いチェーンを外した。パジャマの上に綿入れを着て懐手をし、上がり框の上から治夫を胡散臭そうに見下ろしている。前にも羽目を外し過ぎて連絡もせずに午前様になったことがあった。その時も由梨に締め出され、懇願して家に入れてもらっていた。あれはいつだった? 今年の新年会だったか・・・。

「何時だと思ってるだ? 車の中でコソコソ。誰と電話してただ?」

娘はさらに疑わし気な目を向けていた。

「美奈じゃないなら、どっかの女だら」

「違うよ。ほら、金沢の康夫だよ。毎年年賀状来るだろう」

「見して」

空手の型のように、由梨の突き出してきた手が空を切った。

スマートフォンの画面に康雄との送信履歴を出して示した。そうしておいて由梨を避けるようにして家に上がった。フーンと言いながら依然疑いの目でキッチンまで追いかけて来る娘。何故これほどまでにしつこいのだろう。一体誰に似たんだと思いながら、それでも何とか言い訳を試みた。

「康夫の係累で俺も知ってる人のお子さんが今度結婚することになったの! 式に出てくれっていう、そういう電話だったの。久しぶりに話したから懐かしくてつい昔話に花が咲いちゃったの。金沢弁で。だから長電話になったの。ただそれだけなの!」

「じゃあ、家の中で話せばいいじゃん」

「お前が寝てるから気を使っただけやないか。何疑っとるんや。だらくさー」

「何語、それ」

ついさっきまで故郷訛りで喋っていたせいか、馬鹿々々しいという言葉が出てしまった。言いながら仁王立ちの由梨をすり抜けて寝支度をするべく洗面所に向かった。その後をまだしつこくついてくる。まったく。この態度はどうだろう。まるで古女房が夫の浮気を疑っているみたいだ。半ば苦笑し半ば畏怖した。

「・・・やっぱ、美奈なんだ」

洗面所の鏡越しに目を細めてなおも不信の眼差しを送ってくる。頭を抱えた。

「ウチ、絶対認めんでね。美奈のこん、『お母さん』なんて呼べんで」

「お前さ、全然人の話聞いてないだろ」

「寝るし」

言いたいだけ言って、娘は自室に上がっていった。

勘弁してくれよ・・・。

治夫は鏡の中の自分に助けを求めた。

まったく。なんていう日なんだろう。


由梨は部屋で机に向かった。

何も頭に入って来ない。集中力を全く欠いていた。課題だけは何とか終わらせたものの、もうすぐ始まる期末テストの準備が全く手に付かない。

スマートフォンを取り出してLINEにログインし美奈のIDを呼び出した。放課後からのメッセージは全て未読のままだ。舌打ちをした。あいつ、何してんだよ。彼氏とイチャイチャかよ。通話もできない。最近何人目かの彼氏と交際が始まったばかりでお盛んなのだ。

引き出しを開けて小さな平たい銀色の小箱を開けた。蠍座を示すシンボルマークが象られたペンダントを取り出して身に着けた。指先でペンダントを弄った。アクセサリーが校則で禁止されているために学校には付けていけない。由梨のお気に入りのこのペンダントを身に着けるのは寝るときと休みの日だけ。それを知っているのは親友の美奈だけだ。

 何やってんだよ、話したいのに。

 あーもう今日は止めだ。

 机の長引き出しを開けた。入っている幾冊かのノートを取り除け底板を引き上げると、ケント紙の束と硬度の異なる何種類かの鉛筆、Gペンやインク壺が現れた。

椅子を少し引き、底板を引き出しと机の縁に斜めに寝かせると即席の作画台になった。

 鉛筆を取って描きかけのマンガの続きを描き始めた。

 由梨の密かな夢。

 それはマンガ家になることだった。

 慣れた運筆でキャラクターを描いてゆく。二頭身で大幅にデフォルメされてはいるがモデルの特徴は余すところなく描かれている。一枚の原稿のそこかしこに既に吹き出しが描かれ文字が書かれている。ネームと呼ばれる工程に続き、作画に入っていた。

 二頭身のキャラはちょこまかと動き回り、シリアスな場面では急に八頭身のイケメンに変わる。二頭身も八頭身も、見る人が見れば一発で誰がモデルなのかわかる。

 なにやってんだ、あたし。

 バカらしくなって道具を片付け、羽織っていた綿入れを脱ぐとベッドに潜り込んだ。

 脳裏に先刻の治夫の姿が浮かんだ。不安になった。

 あれは、「ボー」だ。

 母が言っていた「ボー」だ。間違いない。問題は何の「ボー」なのか、だ。

 治夫の言う通り、女ではないだろう。

「あーっ、もう!」布団の中に小さく吐き出した。イライラする。

 何で言ってくれないのか。自分じゃ頼りにならないのか。まだ前の奥さんとの離婚の事引き摺ってるのか。それとも・・・。

 目を閉じた。いつものように治夫の顔を思い浮かべた。そしていつも寝る前にしているように、そっと下着の中に手を入れた。

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