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疫病神の誤算  作者: 美作 桂
3/20

2 過去 その2

どのくらいの時間が経っただろう。車のエンジンの音とヘッドライトの光を感じた。コツコツとアスファルトを叩くヒールの音が近づいてくるのがわかった。急に足音が止まり、一呼吸おいて駆け足で近づいてきた。

「所長代理?」

土屋の冷たい手が腫れて熱を帯びた頬や首筋に触れた。痛みに思わず顔を顰めた。

「どうしたんですか? 何があったんです」

「ああ。心配ない。大丈夫」

「大丈夫じゃないでしょう! 大怪我ですよ」

「あなたこそ、こんな時間にどうしたんです」

多恵子はそれには答えずに治夫のネクタイを緩め、首の後ろに手を入れて自分のバッグを押し込んだ。携帯電話を取り出し電話し始めた。

「おい、どこに電話するんだ。やめろ。大事になる」

彼女を止めようとしたが、背中から腕に激痛が走り痺れて動けなかった。

「もう、なってます。一体何があったんですか」

彼女は着ていたジャケットを脱いで掛けてくれた。怒っているように見えた。灯りが点いてガラスのドア越しに傷ついた治夫を照らした。冷たい濡れタオルが治夫の顔を拭った。

「念のために警察も呼びます」

「止めてくれ。本当に、何でもないんだ」

「これだけの怪我です。救急車呼べばどうせいろいろ聞かれてそうなります。入ったばかりですけど、所長代理がどういうお立場か少しは判るつもりです」

美しい奥二重が瞬きを忙しくしながら治夫を見下ろしていた。後で束ねた長い髪、おくれ毛が微風に揺れていた。小さくて柔らかな掌が頬に置かれた。リンスとファウンデーションとデオドラントの香りに重なって微かな柔らかい女の匂いが鼻腔をくすぐった。

治夫は、気を失った。


診察とレントゲン撮影に続き警察の事情聴取を受けた。第一発見者である多恵子が現場検証のために一度事務所に戻っていった。治夫も、治夫の意図を察した多恵子も、心当たりについてはわからないで押し通した。警察もそれ以上追及せず、退院したら署まで来て下さいと言って帰っていった。医師からは、打撲は酷いが脳波にも骨にも異常はない事、明日か明後日には退院できるとの説明を受けた。

病室は個室だった。担ぎ込まれた時間が遅かったからだろう。頭上の白色灯に照らされた白い壁と日焼けしたアイボリーのカーテンだけの部屋がよそよそしい静寂をくれた。

灯りが眩しかった。明るさを落とそうと首を巡らせてそれらしきコントローラーを探そうとしたが背中と腕の激痛に断念した。蹴られていた間も痛かったが、時間と共に持続性の痛みが大きくなっていた。痛み止めの注射はさっぱり効いていなかった。

日本海から静岡まで流れてきて、他人の言うままにただひたすら機械のように動き回り、挙句身動きも出来ず病院のベッドにただ寝かされているとは。

俺は一体何をやっているのだろう。

病室のドアがノックされた。血相を変えた松谷が多恵子を伴って入ってきた。

「松任君。いやいや、大変だったなあ」

松谷はベッド際の椅子にどっかりと腰を下ろした。

「ご迷惑をお掛けしました」

体を起こそうとしたが、やはり無理だった。寝巻から露出している部分は全て包帯や湿布だらけになっていた。

「おい、じっとしてなくちゃいかん」

多恵子はレジ袋を下げていて、治夫の足元にあるベッドテーブルの上に中身を出して一つひとつ包装を剥がしていった。

「まだ痛むか」

松谷は大きく息を付いた。

「今当直の医者にも会ってきた。大事なさそうで良かった。仕事の事は心配するな。明日は俺が一日東遠州に居るようにする」

「はあ・・・。いろいろすみません。明後日には退院させてくれるみたいですので、甘えさせていただきます」

「まあ、いい。焦らずゆっくり養生することだ。・・・ところで」

松谷は身を乗り出して来て声を落とした。

「やったのはまさかウチの連中じゃないだろうな。そうなると聊か面倒なことになる」

「暗くて顔は確認できませんでした。いずれも若い奴のように感じました。恐らく違うんじゃないかと思います」

まるで他人ごとのように淡々と話した。松谷はそんな治夫をじっと見下ろした。

「そうか。あいつらもそこまでバカじゃないだろうしな。だが動機からすれば十分有りうる話だ。誰か、人を使ったとかな」

そう言いながら席を立った。

「すまんな。とにかく今日明日は仕事のことは考えずにゆっくり治療に専念することだ」

松谷は土屋君帰るかと声をかけた。

「所長代理のお世話をしたいので」

彼女は松谷の顔も見ずに買って来たコップや箸を整えていた。

「そうか・・・。土屋君。今日は本当にありがとう。君が来てくれなかったら、大切な人材を失うところだった。じゃあ松任君、大事にな」

松谷の後ろ姿に礼を言った。閉じたドアを見つめながら、ふと沸いてきた疑念を吟味し始めた。

何故彼はこんなにも早くここへ来たのだろう。偶然だとしてもタイミングが良すぎる。彼は直接病院へ来たのだろうか。それとも事務所で彼女と落ち合って来たのだろうか。そんなことはどうでもいいことだ。あらためて自分に言い聞かせる反面、モヤモヤとしたものが胸に渦巻いた。。

多恵子の表情が険しくなっていった。彼女は下着の替えまで用意してくれていた。それらをベッドサイドの物入れの中に仕舞いながら事務的な口調で言った。

「お気に召さないかも知れません。おろしたてですから気持ちが悪いでしょうけどここに置いておきますから」

「そんなことまで。いろいろ申し訳ありませんでした」

多恵子は目礼で応え、立ち去りかけた。立ち止まって治夫を睨んだ。その視線に気圧され目を反らした。彼女は先刻まで松谷が座っていた椅子に腰を下ろした。

「所長代理」

鋭い目が真直ぐに治夫を射た。

「邪推かも知れませんが、もしかして所長代理は私と所長の間に何かあると疑っていらっしゃるのじゃないですか?」

いきなり核心をついてきた。

大人同士の関係をあれこれ詮索するつもりは無い。そもそも、興味が無い。それに女なんて一皮めくれば何を考えているかわからない生き物だ。諦めて多恵子に向き直り、当たり障りのない言い方を探した。

「まあ、あんなことがあってそこまで気にする余裕は無かったけど、でも言われてみればそうだね。どうしてあの時間に事務所に来たのかな」

「代理には申告していませんでしたが、この一週間、一度保育園へ娘を迎えに行き、友人の家に預けてから戻って残業していました」

「残業?」

「面接の時、残業なんてしなくて済むようにしますなんて大見得切ってしまったので恥ずかしくて言えなかったんです。今のシステムに納得が行かなかったので、既存のソフトをベースにして作り替えてみました。恐らく効率は今よりも良くなるはずです。完成したらご覧いただこうと思っていました」

意外な展開に治夫が沈黙していると彼女は言葉を継いだ。

「もう一つ。所長は私を営業に連れ出す度に食事にご一緒させてくださいました。一度だけお酒に誘われましたがきっぱりお断りさせていただいています。そういう態度を取ると今後仕事に差し支えるのかも知れませんが、そんな会社なら辞めてもいいやと思っていました。でも・・・」

そこまで一気に喋った。吐き出してスッキリしたのか、張り詰めていた気持ちから解放されたのか、初めて多恵子の瞳から挑戦的な色が消えた。

「所長代理の御側で働かせていただいているうちに、何か私でお手伝いできることは無いかと考えるようになりました。でも代理は最低限の事しか私たちにやらせてくれません。いつもお一人で何もかも抱え込んでいるように見えます」

涼し気で凛とした目元に癇が走っているのがよくわかった。彼女は怒っていた。

「どうしてもっと私たちを使ってくださらないんですか!」

ドアがノックされて、若い看護師がはいって来て消灯時間を過ぎていると注意された。多恵子は立って看護師に頭を下げた。そして治夫に手を差し出した。

「所長代理のお部屋の鍵を貸して下さい。スーツ持ってきます。今日着てらしたのはボロボロになっちゃいましたから。退院の時に必要ですよね」

治夫は戸口のコートハンガーに掛けられた泥まみれのスーツを見た。

「あ、ああ」

それしか言えなかった。

多恵子は勝手に治夫のセカンドバッグを開け、これですねと目当ての鍵束を取り出し自分のバッグに仕舞った。

「明日また来ます」

そういって踵を返した。

「あ、あの・・・」

口が上手く開かず、舌を噛んだ。

「今日は、本当にありがとう。助かったよ。お子さんにも悪いことをした。申し訳ない」

何とかそれだけ言うことが出来た。

「大丈夫です。ご心配なく。お大事に。お休みなさい」

彼女の残り香が病室の孤独を惹きたてた。


事件は呆気ないほど簡単に解決した。

襲撃してきたのは鋳物工場の若い工員たちだった。

病院から仮事務所に直行した。松葉杖をついてタクシーから降りると、鋳物工場の社長と三人の若者、それに事務室の赤堀が仮事務所の建屋の前で待っていた。

「申し訳なかった」

開口一番、社長はそう言って頭を下げた。

「本当に申し訳ない。この後コイツラを自首させるつもりだで」と社長は言った。

「今回の事は自分の監督が至らなかったせいだ。本来社員の行く末つけてやる責任はオラにあっただ。あんたに任せっきりにしていたもんで、こうなっちまった。社長として然るべき責任を取らせてもらうつもりだで」

「とにかく、中で」

治夫が勧めた応接のソファーを社長は謝辞した。首を垂れる三人を憮然と見下ろす社長の後ろで赤堀が俯いてハンカチを目に当てていた。事務所の中にいたサチエや多恵子も皆、治夫の言葉を待っていた。

「足がまだ辛いので失礼します」

治夫は自席の椅子に座った。

「事の成り行きで被害届を出さざるを得なくなりました。これから私も出頭しなければなりません。届を出してしまった以上、詳しい事情を聞かれることになるでしょう」

ここで一人がさめざめと泣き始め肩を震わせた。無理もない。まだ高校を出たばかりのひよっこが自分たちの短絡的な判断で早くも人生にミソをつけてしまったのだ。

「ひとつ、君たちに訊いてもいいかな」

病室で松谷が懸念していた点をここで払拭しておく必要があった。松葉杖を机に立てかけ、俯いている三人を覗き込んだ。

「変なことを言うけれど、これ、君らだけで決めたのかな。他に誰か君らを唆した人間がいるんじゃないのかい。例えば、僕さえ潰せば全て解決するとか、この事務所さえなくなれば今まで通りだとか・・・。そんな風に君らに吹き込んだ人間が、いるんじゃないのかい」

大柄な、髪を茶髪に染めた少年が顔を上げた。

「工場が無くなって放り出されるって噂になってて、そのうちに工事が始まって、この事務所が出来て・・・。俺らの部活の小柳津先輩が勤めてる会社だって・・・。したら、先輩から電話があったんです。それで、先輩にいろいろ相談してたんス。したら、先輩もリストラされそうなんだって・・・。それで・・・、俺らもムカついてるんでヤキ入れますか、って言ったら、先輩から叱られたんス。『やめとけ』って。そんなことしても何も解決しないぞって。

それなのに、俺ら先輩の忠告を無視してしまって・・・。先輩にも合わせる顔、ないっス」

茶髪の少年はまた泣きだした。

治夫は、苦渋をにじませた表情で俯いている老人を振り返った。

「社長、被害届ですが、これは取り下げます。怪我も大したことありませんでした。こうして謝罪もいただきましたし」

「いや、願ってもないけん、いいんかね」

社長は老人班の浮き出た頬を輝かせた。

「こいつらの親に必ず一人前にすると約束しただ。それも果たせねえのに前科モンにしちまうこんになっちまってよォ。親たちに合わせる顔ねえって思ってただ。ありがとう。

お前らも感謝しろ! ちゃんと頭下げるだっ」

三人が黙っていると後ろに立っていた赤堀が彼らの頭を順番に引っ叩いた。

「この人はなあ、毎日一生懸命お前らの身の振り先を探してくれていただに。

それを・・・。恩を仇で返すようなことしやがって!」

その権幕は社長をも凌駕するほどだった。

治夫は三人に向き直り、優しく声を掛けた。

「ごめんね。県内ではちょっと無理だったんだが、名古屋のメーカーの下請けに社員寮付きで受け入れてくれそうなところがある。そこでよければ面接受けてみるかい」

「それでいいよ、松任さん。コイツラに四の五の言わせん。いいな、お前ら」

三人は泣きながら頷いた。

彼らが引き取っていった後、赤堀が一人で再度事務所を訪ねてきた。彼女は分厚い封筒を携えていた。

「何ですか、これ」

「あの子たちの親から預かってきたものと会社からです。本当に申し訳ございませんでした」

治夫はしばらく黙って彼女の顔を見つめていた。

「一つ、お伺いしていいですか」

「はい」

「この一件、彼らが最初に打ち明けたのは社長に、ですか」

「私が問いただしたんです。ちょっと前からあの子たち様子がおかしかったので。もしやと思って」

実質的に破綻していた工場の経営をここまで支えてきたのが誰か、初めて理解した。

治夫は満足してテーブルの上の封筒を彼女に押し戻した。

「このようなことは結構です」と治夫は言った。

「ところで話は変わりますが、工場が廃業した後の建屋は取り壊さずに倉庫に改造する予定なんです。鋳造や金属加工業に関わるアイテムに詳しい倉庫管理責任者が必要になります。赤堀さん」

ハイ、と彼女が意外な風で顔を上げた。治夫は続けた。

「ご家庭に戻られるの、もう少し後にしませんか」


警察署で調書を取られる際、多恵子の運転する車で事務所に戻った。

幸い右足は何ともなく、両腕も動かせるのでその必要は無いと断ったが、付いて行くと言い張り、半ば強引に営業車のキーと松葉杖を取り治夫の腕を抱えた。

彼女が運転する車に揺られながら、建て替えさせていた種々の清算を忘れていたことを思い出しスーツのポケットから封筒を取り出して遅ればせながらの謝辞を口にした。

「あの・・・。これ。いろいろありがとう。遅くなっちゃって申し訳ない」

リアシートを振り返り彼女のバッグのポケットに封筒を入れた。事務所では他の目もあり渡し辛かった。

「それは結構です」と彼女は言った。

「いや、そういうわけにはいかないよ」

狭い車内に気まずい沈黙が流れた。

破ったのは多恵子の方だった。

「松任さんは、ご家族は?」

彼女が一瞥した先を辿って左手を見た。営業灼けが結婚指輪の痕を際立たせていた。

「ああ」と治夫は言った。

「妻と息子がいました。けど、失敗でした」

普通の男なら笑い話にするところなのだろう。それをまともに返していることに我ながら呆れた。再び沈黙が訪れた。

「今夜、食事に付き合ってくださいませんか」

彼女は涼し気な目でそう言い放った。

サチエや営業たちが帰っていった後、事務所に残って溜まっていた書類を片付けていると、多恵子が子連れで戻ってきた。

「由梨です」

その小さな女の子は彼女の後ろから目だけぎょろりと出して治夫を睨んでいた。母親のスカートを握りしめた小さな手が震えていた。多恵子は娘の頭を撫でながら申し訳なさそうにこう付け加えた。

「すみません。何故か大人、特に男の人が苦手なんです」

車が向かった先は事務所から十分ほどの彼女のアパートだった。

部屋に着くとすぐ、多恵子は買って来た食材を手際よく調理し始めた。その間、治夫は所在無げにTVを見ていた。リンゴやレモンの着ぐるみが、踊りながら聴き慣れない子供向けの歌を歌っていた。

部屋の一面には由梨が描いたのだろう、クレヨン画が何枚か貼られていた。

一見して驚いた。

三才に満たない幼児が書いたとは思えないほどの巧みな筆致と色使い。構図も大胆で、オレンジや黄色いチーズにあまたの穴をあけながら食い散らかしているかわいい芋虫が活写されていた。自らも絵心のある治夫は食い入るように絵に魅入った。

小さな女の子は玩具箱からクッキーの缶を取り出した。おもちゃの指輪を彼女のコレクションに加えようとした。指輪が入ったカプセルを開けてくれるよう母にせがんだ。

「おじさんに開けてもらいな」

母親に突き放されても治夫を見るどころか近寄ろうともしなかった。多恵子は調理を中断しカプセルを治夫に差し出した。

「すみませんが、お願いします」

それだけ言ってキッチンに戻ってしまった。

カプセルを開けようとすると、自分の大切な指輪を追って居間に戻った由梨と目が合った。が、やはり治夫には近づこうとしない。カプセルを開けて差し出しても受け取ろうとしなかった。仕方なく座卓の上に置いた。小さな手が目に留まらぬほど素早く伸びてそれを取った。

何かの心の傷なのではないか。

夫婦間の諍いが子供の心理に影響を及ぼすことがあることを何かで読んだことがある。

治夫は小さく首を振った。

キッチンから食欲をそそる香りが漂い始めた。テーブルに呼ばれた。数品の料理が並べられた。白身魚の焼き魚、鶏ささみの煮凝りとか醤油風味の海老のマリネやほうれん草の和風サラダ。中には長時間煮込まなければならないようなシチューまで。手際の良さに感じ入った。

「却って気を遣わせてしまった。短い時間にすごいね。助けてもらいながらこんなごちそう戴くなんて、恐縮してしまうよ」

「そんなに褒められると却って恥ずかしいです。ポワレ以外は全部作り置きしたものですから。お誘いしておきながらこんなもので・・・」

多恵子は娘と隣り合わせにテーブルの向こう側に並んだ。由梨は背の高い小さなテーブルの付いた子供用の椅子にチョコンと座った。多恵子がキャラクターの描かれた幼児用のプレートに料理を取り分けるのを大きな目をして追っていた。どうやら鶏のささみが好物のようだった。

「差し出がましいと言われるかもしれませんが、所長代理のお部屋を見てしまってから、どうしてもこうしてあげたくて仕方がなかったんです。・・・ごめんなさい。どうぞ、召し上がれ。由梨、いただきますするよ」

勧められるままスプーンを取り、目の前の湯気の上がるシチューの皿から一口すくって飲みこんだ。

それは発作のように突然治夫の奥底から湧き上がった。

父と弟がいた頃の夕飯の風景は覚えていない。覚えているのは母と二人きりで冷えたご飯に白いトレーのままのスーパーの見切り品の総菜を食べていたことだった。いつもラップを剝がすのは治夫の役目だった。母は昼間電子基板のコネクターを作る工場でラインにつき、夜はスーパーで品出しと総菜作りのアルバイトをしていた。

「売れ残ったお惣菜タダでもらえるんよ」

目を合わせることなく疲れ切った表情で笑う母に文句は言えなかった。

別れた妻との暮しも同じだった。家族でテーブルを囲むのは週に一度か二度ほどしかなかった。それすら結婚生活の終わりごろにはレジ袋に入ったままの冷え切った弁当が置かれているだけになった。

「こんなに早く帰ってくると思わなかったから晃と外で済ませてきちゃった」

妻が晃の手を引いて早々に寝室に去った後の食卓で一人既に固まった飯に箸を突いた。弁当を買ってきてくれるだけまだマシだ。そう思い込もうとしていた・・・。

体内に孕んでいた黒い塊。その表面に裂け目が出来た。そこから何かが噴き出して治夫の中に充満し、目頭を直撃した。嗚咽が漏れるのを必死に堪えた。せっかくの好意を無にしないためにも穏やかに食事を続けたかった。が、できなかった。ついには両手で膝頭を掴み奔流のように湧き出る激情を抑えなければならなかった。流れ出ようとする涙を抑えるために天井を仰ぎ瞬きを我慢した。

多恵子が何事もなかったように由梨に話しかけながら平然と食事を続けてくれているのが救いだった。こんな醜態を曝している男を前に理由の追求もせず、硬直している由梨を促すようにスプーンで口に運んでいた。

「ほら、由梨。好きなものばかりじゃダメ。これもおいしいよ。おじちゃんもね、おいしいって。だから由梨も食べな、ね?」

「すみません。無様なところを・・・」

なんとか激情を堪えた。

「今、お茶淹れますね」

多恵子がキッチンに立つた。その場を取り繕おうとハンカチで鼻を押さえていると、痛いほどの視線を感じた。それは強く治夫を射た。

大きな瞳。それに、眉毛の上で切りそろえられた前髪に隠れてはいるが、額の広さが印象的な女の子だ。丸い鼻と尖った顎の作りは母親には似ていない。恐らく別れた父親に似たのだろう。仕事以外で他人と目を合わせることが億劫だったはずなのに、見つめ合っていた。視線を重ねていると不思議に心が落ち着いた。

トレーに急須と茶碗を載せて席に戻った多恵子に先ほど居間で見た絵のことを尋ねた。

「あれはみんな由梨ちゃんが?」

「ええ」治夫の示した方を見やり、彼女は答えた。

「放って置けば一日中描いてるんです」

「へえ。由梨ちゃんはお絵描きがじょうずなんだね」

やはり何も喋らなかった。それでも、唇をギュッと結んだままウンと言うように頷き、初めて反応を見せた。思い立ってポケットから手帳を取り出し、いつも手慰みに描いているマンガのキャラクターを描いてページを破り由梨に示した。

「これね、はるおくんていうんだ。こんにちは、由梨ちゃん。よろしくね」

場を和ませようとして何気なくしたことが由梨の興味を惹いたようだった。スプーンを持った手を止めもう片方の手で紙片を掴み治夫の顔と交互に見比べている。

多恵子は娘を驚いたように眺め「すごい」と言った。

「初めて会った男の人にこんなに慣れるなんて」

「こんなもので良ければいくらでも描けるよ」

その言葉に気を良くして別な絵を描き始めると、改まった口調で「所長代理」と呼ばれた。

「あの、お伺いしたかったことがあるんですが」

「はい」手を止めて向き直った。

彼女は箸を置いた。

「こんなことを尋ねてはとは思いましたが、代理を見ていると何かご自分をワザと追い込んでいるように見えるんです。時々ぼーっとなさってたり苦しそうにされているのが気になるんです。私も別れた夫との間でいろいろあって苦しかった時期がありました。だから、何となくそう感じるのかもしれません。

代理の日頃の私たちや鋳物工場の皆さんへの態度と、異動していった営業の人たちへの性急な、時には淡白すぎる対応がどうしても嚙み合わないんです。理解できないんです。本当はそんな人じゃないのに、わざわざ人の恨みを買いたがっているようにしか見えないんです。どうしてあんな・・・」

治夫は黙って目を落とした。やがてペンを動かして絵の続きを描き上げてしまうと由梨の前に置いた。

「皆さんにそんな心配を掛けてたなんて。そうか。そんな風に見えますか」

「屈託がおありなんでしょ。出過ぎているのは承知していますけど、よろしかったら話してくれませんか」

「この白身魚、イケますね。絶品です」

そう言って魚の残りを毟り続けた。

食事を終えると由梨は食卓を離れ窓際に置いた小さな机に向かっていた。幼児用の椅子に腰かけ小さな細い指でクレヨンを握り締め無心にスケッチブックを塗り込んでいる。タクシーを呼んだ治夫に多恵子はコーヒーカップを差し出しながら語りかけた。

「今日はありがとうございました。私も由梨も久しぶりに他の人と楽しいお夕飯が出来てうれしかったです」

「こちらこそ、ありがとう」

治夫は改めてこの二三日の手間と晩餐に礼を言った。

「代理」と彼女は言った。

「さっきの話は気にしないでください。申し訳ありませんでした。誰にでも言いたくないことの一つや二つはありますよね。詮索なんかして、すみませんでした」

「そんな。部下に心配かけるような上司なんて失格です。こちらこそ申し訳なかった」

多恵子の気遣いに応えるべきだという気がした。思い切って打ち明けることにした。

「去年離婚したんです。妻に男を作られて逃げられました。五才の息子にも見放されてしまって。ダメな夫、ダメな父親でした。その時の思いがこみ上げてしまってさっきはつい・・・。未だにそれを引き摺っているんです。女々しすぎますよね。自分が、情けないです」

気まずさに耐えられなくなった。タクシーが来るまでの時間を待つに忍びなくて席を立った。

「今夜はありがとう。明日からは心配掛けないように努力します」

深く頭を下げ部屋を出ようと背を向けた時、「代理」と呼び止められた。

「一昨日の晩、事務所の前で倒れていたあなたを見た時、自分の気持ちを知りました。所長代理、いえ松任さん。私、あなたを見ていてもいいですか」

あまりにも突然の告白に、咄嗟に応えることが出来なかった。明日もよろしく。それだけ言うのが精一杯で逃げるように部屋を出た。

アパートの前で多恵子の部屋の窓の灯りを見上げた。

「あなたを見ていてもいいですか」

今でさえ仕事以外に生き甲斐を持たずに生きている。もう一度裏切られ子供に捨てられることを考えると耐えられない気がした。仕事にさえ意欲を失いそうだ。そうなることを恐れた。

新しい事務所の運営が軌道に乗ったら転属を願い出よう。幸い、自分には家庭を犠牲にして得た国内外の知己とスキルがある。どこでだろうと生きて行ける。新しい土地でまた最初からやり直せばいい。

しかし、そうまでして何故自分は生きようとするのか。

ふいに子供の甲高い声が聞こえた。それに重なるように先刻まで耳にしていたアルトが笑い何か叱るような声が遠ざかった。近寄って確かめようとした時、目の前にタクシーが停まりパワーウィンドがスルスルと下がった。「松任さんですか?」と運転手は言った。


事務所棟が完成した。

仮事務所が取り払われ、数台分の営業車と来客用の駐車スペースが整備された。三名の営業と赤堀を加えた三名の事務員たちの仕事の内容も、営業方法の変化に伴ってこれまでの予備的なものから次第に戦略的なものへと変わっていった。

とりわけ最も大きな比重を占める設備建設と、それまで各営業所単位で行っていた経理業務の統合に関しては、多恵子が構築していたシステムが業務効率を飛躍的に高め、有効に機能することが実証された。これが「東遠州に業務を統合すれば売上と効率はむしろ今までより上がる」という目論見を裏付ける結果となり松谷も治夫も大きく胸を撫で下ろした。多恵子が他の社員たちに構築したシステムの習熟を熱心に指導してくれたことも大きかった。

赤堀はごく自然に事務所に馴染んでいった。彼女の家は兼業農家で、度々野菜や自家製の漬物や煮物を持参して営業マンや事務員達にふるまった。昼時になるとタッパーウエアが行き来し、毎日旨そうな香りが新築の事務所に立ち込めるようになった。事務員たちは母親のような年齢の赤堀を尊敬を込めて「ミヨシさん」と呼ぶようになり、いつしか男性社員の間にもそれが浸透していった。

多恵子は以前と変わらない態度で振舞っていた。治夫も努めて平静を装った。あと一年。そうすれば体制も落ち着くだろう。それまではこのまま何事もなく過ごせればいい。心からそう願った。

そんな中、東京の本社に出張していた松谷から急な呼び出しを受けた。

全国で最も早く再編成を完了する静岡地区の業績を披露するためだった。本来なら松谷一人が報告すれば済む話なのに、彼は治夫の存在を上層部に印象付けようと居並ぶ役員たちの前で松谷の代りを務めさせた。

会議は無事済んだ。終了後、二人は社長と専務に呼び止められ親しく言葉を掛けられた。直接会社の経営幹部と言葉を交わしたのは初めてだった。上昇志向のない治夫には特に感慨は無かったが、松谷との親し気な話ぶりから彼が今出世への階段を驀進しているのを実感した。

帰りの新幹線に意外にも松谷が乗り込んできた。彼の自宅は名古屋だからいつも本社からの帰りはのぞみに乗る。旧事務所の残務が若干残っているのだろうと思い、明日はどこの営業所に行くのかと尋ねた。

「いや。今日はこのまままっすぐ家に帰る。ここのところ出張続きだからな。家に帰って女房に煩がられないと忘れられちまう。たまにゃあこだまもいいかなと思ってな。君とゆっくり話もしたかったし」

松谷は豪快に笑いながらコートのポケットから缶ビールを取り出し治夫に勧めた。

週末の自由席はいつもより混んでいた。車内は治夫たちと同じように東京で仕事をこなして家に帰る勤め人が吐く灰色の吐息で充満していた。

「今日はご苦労さん。チト気が早いが計画の成功を祝して乾杯だ。本当によくやってくれた。これで君に対する上の覚えは確実になったぞ。俺は腹黒いと自他共に認める男だが約束は必ず守る。間違いなく君が次期所長だ。目障りな桑田一派も全て大掃除したしな。これからは君の自由な手腕を思う存分発揮してくれ。おめでとう」

このような至近距離で松谷と差向うのは気が引けた。が、治夫はあまり酒が飲めない。頭を下げて缶ビールを取り、形だけ口を付けた。勝利の美酒は治夫にはいささか苦かった。

桑田たちの大半は全国に散らされた。桑田自身も無錫の現地法人に転籍させられた。そこを退職してもハカマダが受け入れることはない。増田常務は顔色一つ変えずに馬謖を切って捨てた。

小柳津だけはもう一度現場を勉強させたうえで残したい。治夫はそう思っていた。桑田のやり方が全て間違っていたわけではない。復讐などという考えは治夫の中には全くなかった。しかし、松谷がそれを許さなかった。それに小柳津自身が残留を望まなかった。

「俺は松任さんの元に残る資格はありませんから」そう言って会社を去って行った。

品川駅を出てしばらくは松谷の雑談に耳を傾けた。松谷は車内販売でビールやつまみを買い足し、熱海に着くころにはすっかり酔いが回ってさらに饒舌になっていた。

「まあ、仕事の話だから事務所でもよかったんだが、ここんとこ忙しいだろ。最近は土屋君がかなり遅くまで頑張ってるようだし。中々落ち着けんしな」と相手の手札を探るような目を治夫に向けた。

「言っておくが、最初書類選考で君は彼女を落とそうとした。拾ったのは俺だからな」そう言ってスルメを齧りながら嬉しそうに治夫の膝を叩いた。

「所長の慧眼にはいつも敬服しています」

松谷は三人掛けの窓際に頬杖をつき、溜息を付いて流れる夜景にちらと視線を向けた。

「あのなあ。そろそろ、もう少し、何ていうか、その、砕けようや、な?

俺は今、一人の男だ。正直に言う。土屋君を採用したのは彼女をモノにしたかったからだ。結果論だが、俺たちはいい人材を得た。それは君も同意するだろう。もう一つ。彼女が最初から松任君、君を狙っていたのも知っていた」

彼はまだ酩酊するほどには飲んでいない。空になった缶を握りつぶし、別のプルリングを引いて煽った。無理やり酒の力を借りて喋ろうとしている。そんな風にも見えた。もっと飲め、と迫られた。

「あまり飲めないんです」たまらず頭を下げた。

彼はそれ以上勧めようとはしなかった。しょうがねえな、と言っただけだった。

「狙っていた、なんて言い方するのは彼女に悪いな。彼女は普通に入社してきて君と出会い、俺など眼中になく君に惚れたんだと思う」

「あの、誤解があるようなんですが私と土屋さんとは別に・・・」

「隠さなくてもいいさ。俺は咎めてるんじゃないんだ。俺は妻子持ちだが君たちはいい大人の独り身同士だ。誰にも誹られることはないさ」

松谷は今まで見せなかった柔和な表情を浮かべた。それは人生経験豊富な兄がカタブツの弟の面倒を見るようなものだった。

「所長代理に指示されている仕事がありますから・・・。所長代理が戻られるまでに仕上げておきたいんで・・・。あれだけ言われりゃ馬鹿でもわかるさ。彼女は君にゾッコンなんだ。俺は彼女から手を引くぞ。後は君に任せた」

「おっしゃる意味がわかりません」

松谷は再び大きな溜息をついた。

「俺とお前は水と油みたいに性格も違うし考え方も違う。俺はお前が俺を嫌っているのを知ってたし、俺もお前とはどうにもソリが合わないのを感じていた。俺は見ての通りで欲の塊だ。だがこれが結構いいコンビだったと思わないか」

ここで松谷はぐっと表情を引き締め、いつもの野心満々のヤリ手の顔に戻った。

「俺はお前がやりたい様にやらせることで結果的に会社に利益をもたらし、それなりの評価も得た。俺たちは、勝ったんだ。全てお前のお陰だ」

治夫は黙って頭を下げた。

「俺は再来月東京本社に戻ることになった。総務部の副部長だから同期では一番の出世だ。だがお前にも何かで報いたい。この後、お前は何がしたい? 俺はなあ、お前を腹心にしたいんだよ。お前ぐらい仕事が出来るヤツはなかなかいないからな。だがそのためにはお前のハラの中を知っておかなけりゃならん」

連れていきたいならそうすればいい。そこが東京だろうとどこか別の地方だろうとインドネシアだろうと構わない。飽きたら打ち捨ててくれればいい。そう思っていた。だから黙っていた。松谷は唇を噛んだ。ネクタイを寛げ後ろを気遣いながら座席を倒した。

「お前は俺の部下として配属されてきてすぐに、俺が以前から感じてきたことを見抜き、あっという間に計画を立案して実行に移した。俺は素直に喜んだ。俺が今までやろうとしてもやれなかったのは、いろんな柵があったし血を見る結果がわかっていたからだ。俺は返り血を浴びたくなかった。だから全てお前にやらせた。正直に言おう。マズいことになったらお前に責任を負わせて逃げることさえ考えていた。そんな俺のハラなんてとっくに見抜いてたろ? それなのにお前は嫌がりもせず、愚痴も言わず、進んで鉈を振るい血を浴び続けた。一体こいつは何なんだと思った。お前が鋳物屋のガキから襲われたとき、それみろと思った。これでお前も少しはビビッて慎重になるだろうと。しかしその予想は外れた。お前はそんなことなど無かったように淡々としていた。

俺は嫉妬した。同時に猛然とお前のウラが知りたくなった。お前には悪いと思ったが同業の知人や人を使って調べさせた。それでやっとお前の強さの秘密がわかった」

缶の残りを飲み干して握り潰し、松谷は一息ついた。

「大変だったんだなあ。会社が潰れた上に間男に嫁と子供を取られたら俺だって狂う。自暴自棄になるのもわかるよ。だがな、今のままではお前はいつか折れてしまうぞ。

俺はそんな下らんことでお前を失いたくない。俺は今まで心底他人を尊敬したことも信頼したことも無い。だが、お前に出会って見方が変わった。俺はお前に惚れた。もっとお前を使いたい。お前を縦横無尽に駆け回らせたい。だがそのためにはお前にもっと強くなってもらわねばならん。人としてな。

俺は能力ではお前に数段劣る。だが人としては数倍デカイし強い。何故かわかるか? 生きているのが楽しいからだ。俺が楽しいから、人が集まってくる。男も女も皆おれを慕ってくれる。俺自身は何の能力もないのに俺の周りで皆が勝手に力を発揮してくれる。だから俺は上に上がって来れた。勢い余って妻以外の女に手を出したりもしたが、妻を愛しているし子供も可愛い」

松谷は身を乗り出した。そして真直ぐに治夫に訴えた。

「敢てお前のために言う。俺と同じように生きろとは言わん。ただ、過去に拘りすぎるのはお前にとってマイナスだ。一日も早く忘れろ。それが出来れば苦労は無いと言うだろう。でも出来るぞ。早く嫁を貰え。お前のすぐ傍にお前を待っている女がいるじゃないか。また裏切られたらなんて考えるな。見返りを求めるな。そうすれば自然に自分が与えた以上のものが帰ってくる」

松谷の脂ぎった暑苦しい顔が余計に熱を帯びていた。

「赤堀さんに変わらなければ生き残れないと言ったそうだな。だがな、一番変わらなければならないのはお前自身じゃないのか。違うか?」

自分の事をそこまで調べ上げていたことに驚いた。豪放にして細心。全て人任せにしているようでいて、細部に気を配ることのできる人物。治夫は漸く松谷という人間を真正面から捉えてみる気になった。

静岡を過ぎ乗り込んでくる客も少なくなった。車内はいつの間にか空席が増えていた。松谷は鼾を掻いていた。その手から飲みかけの缶を取ってごみをまとめた。

一番変わらなければならないのは自分自身。それは判っている。判っているのだ。しかし変わるには力がいる。その力を自分はとうに失っていた。自分一人では、無理だ。だから、もう一度信じてみろと。でも、もしまた裏切られたら・・・。思考が堂々巡りから抜け出せなかった。

減速し始めた車両に腰を浮かしかけた時、眠っていたはずの松谷が目を閉じたまま口を開いた。

「いいな。出来るだけ早く新しい営業所を固めるんだ。俺は二年で営業に戻る。その時はお前を本社に呼ぶぞ。じゃあ、後は頼むな」

治夫は一礼して乗降口に向かった。


社内のイントラネットで一連の人事が公開された。

松谷の言葉通り、治夫は統合なった新営業所の所長を命ぜられた。静岡全県とその周辺をエリアにする新静岡営業所クラスの場合、本来本社か支社かで課長職を経てから任命されるのが社内の慣例だったが、予め伝えられていたこととはいえ言わば二階級特進のような異例の措置に驚いた。明らかに松谷の力が影響していた。営業マンや事務員たちから祝いの言葉を贈られたが当の治夫本人が、

「うん。まあ、そういうことだから、よろしくね」と応えただけで、ついに所員を集めての訓示だとか、これからの方針を伝達するための会議だとかの儀式めいたことは一切しなかった。机も今までと同じ、事務員達と同じシマの隅っこでいいと言った。

「所長になるだもんで。もうちょっと貫禄つけんとかんに」

次第に事務所に馴染んだミヨシさんが両手を腰に当てて遠州弁丸出しで真顔で諭すと、

「面倒だし、自分には似合わないから」と頭を掻いた。

元々松谷が所長を務める前提で特別に作らせた所長ブースさえ、いつの間にか様々な工場から送られてくる試作品や試験試料、商品パンフレットの入った段ボール箱などで埋め尽くされていった。それまでの業務の中で営業も営業事務も治夫の方針なり仕事の進め方を皆熟知しているので改めて伝達する必要もなかった。部下たちは皆、寡黙で控えめではあるが凄まじいまでの実質本位な若い上司に次第に染まっていった。

事務員には四半期毎の決算期を除いて極力残業をしないように指示していた。与えられた仕事は与えられた時間内に完遂することを求めた。ただし治夫自身は所長という立場上出張以外は極力事務所に出勤し、どんなに遅くなっても事務所に帰る。そして上げられたり上げねばならない報告や稟議や決済やらを処理する。

その日も八時ごろに事務所に戻るとまだ二階の灯りが点いていた。

多恵子は自分の机の上だけの灯りでPCに向かっていた。

「お帰りなさい」それだけ言って、依然キーボードを打ち続けている。

治夫は無言でフロア全ての照明を点け、自分の机の上にワザと乱暴にカバンを置き立ったままでいた。それでも多恵子は仕事を止める気配を見せなかった。

仕方なく口を開いた。

「土屋さん。やりすぎだよ。ここのところ毎晩じゃないか。もう状況も落ち着いてきてるし、そんなに頑張ることもないだろ。由梨ちゃんだって待ってるんだろうし。すぐ帰りなさい」

「済みません。もうすぐ終わりますから」

「だめ。いますぐ帰って。そんな残業は指示してないし、俺のやりかたに反する」

多恵子は漸く手を止めて治夫に向き直った。

「でも、所長お一人でたくさん抱え込んで。それなのに・・・」

「俺は管理職だし、それが俺の仕事だから君が心配する必要は無い。君は十分給料以上の仕事をしてる。感謝してる。上にも君の昇進を打診しておいた。気持ちだけもらうから、もう帰ってくれ」

「所長は、松任さんは・・・」

多恵子はそう言いかけて席を立とうとして机に手をつき、再び椅子に座りこんだ。座り込んだというよりは倒れ込んだ。

「土屋さん!」治夫は慌てて駆け寄った。

「・・・大丈夫です。済みません。最近時々こうなるんです。少しすれば落ち着きますから」

額にうっすらと汗が浮き頬が紅潮しているように見えた。

「熱があるんじゃないのかい。だから言ったじゃないか。無理するからだよ」

「・・・すみません」

「帰りなさい。業務命令だ。君一人の体じゃないだろ。由梨ちゃんのことも考えなきゃ。送るよ」

「そんな、いいです」

「帰りに事故でも起こされると面倒だ。送るよ」

家に送り届ける前に預けている由梨を迎えに行かなくてはならない。多恵子を彼女の軽自動車の後部座席に押し込み、道を聞きながら友人の家に向かった。

「出来れば今夜は由梨ちゃんをそのお友達に任せてゆっくり体休めるといいんだけどね」

「大丈夫です。私が一緒にいたいんです。由梨は連れて帰ります」と多恵子は答えた。

友人宅の前に車を停めて待っていると、由梨が多恵子に抱えられて車に戻ってきた。

治夫を発見してちょっと驚いた様子だったが、赤い子供用のコートを着たまま助手席のチャイルドシートに大人しく括り付けられた。それから多恵子のアパートに着くまでずっと、由梨の痛いほどの視線を感じ続けた。

由梨を抱えた多恵子を戸口までエスコートした。

「ありがとうございました。・・・すみませんでした」

「明日は有給にしとくから、ちゃんと病院に行ってしっかり休んで」

「はい・・・。あの・・・」

何かを言いかけた多恵子を振り切って帰ろうとした。ジャケットが何かに引っ掛かった。

小さな手が袖を掴んでいた。

何も言えず、その手を振り解くことも出来ずに立ち止まっていた。多恵子も無言で由梨の顔を見ていた。由梨は治夫を見上げていた。大きな目を見開いて何かを言おうと口を動かしているように見えた。

両手を擦り合わせ息を吹きかけて温めてから由梨の手を包んだ。

「あはは。由梨ちゃん。おじさん、もう帰らなくちゃ。またね?」

「ダメ」

由梨ははっきりとそう言った。

「おじちゃん、かえっちゃダメ。ゆりのうちにいる」

治夫の親指をしっかり握りしめて離そうとしなかった。おじちゃん、いるゥ。駄々をこね泣き出した。

多恵子が漸く助け舟を出した。

「こら。わがまま言わないの。おじちゃん、困っちゃうでしょ? すみません、ほんとに」

「・・・いや。その・・・」

絵本など、実の息子にさえ片手で数えられるぐらいしか読んでやったことがなかった。六冊目の絵本を読み終わっても、由梨は彼の袖を放さなかった。

部屋に入るとすぐ、由梨に誘われて壁に貼られたそのクレヨン画を見た。鳥肌が立った。自分のキャラ画がそこにあった。描線こそ拙いが絵の特徴が全て描き込まれている。細かい要素、細部を書き込む力が画に命を吹き込む。しかも色遣いや濃淡の表現が巧みで遠目で見ればそれなりに見えてしまう。

多恵子が教えてくれた。

「あの後、松任さんの描いた画がひどく気に入ったみたいで、ずっと描き続けてたんです。それも毎日」

サイズが大きい。トレースしたものではなかった。どれも治夫の描いたものとは違う表情の画になっていた。驚くべき才能だと見惚れた。由梨は得意げに治夫を見上げていた。

「すごいね、由梨ちゃん。とっても上手だよ。おじさん、ビックリした」

由梨は治夫の賛辞を聞くと満面の笑顔を浮かべた。

片時も治夫から離れようとしなかった。

一冊読み終わるととまた次の絵本を持って来た。目が虚ろになり時折こっくりと首を落としても由梨は睡魔と闘いながら絵本の交換を繰り返した。スウェットシャツに着替えた多恵子がすみませんでしたと由梨を抱きあげた。由梨の小さな手が手放さないので自然に治夫の腕が上がった。三人で顔を見合わせた。

「あの、すみませんけど、ジャケット脱いでもらえませんか?」未だ袖を掴んで離さない由梨にそのままジャケットを預け、治夫は漸く解放された。

「寝かしつけたらお返しします。寒いですから失礼ですけど代わりにこれを着ていて下さい。お茶淹れときましたから」

多恵子は彼女のものだろう、茶色のダウンジャケットを羽織らせてくれた。仄かに彼女の香りが染みついていた。

結局それから三十分ほど由梨が深い眠りにつくまで独りぽつねんと待たなければならなかった。待っている間に不覚にも居眠りをした。ジャケットを持って続きの和室から出て来た多恵子の気配で目を覚ました。

「お待たせしてしまいました」受け取ろうとした治夫の手を迂回して彼女は背後に周りジャケットを着せてくれた。

「・・・ありがとう」と治夫は言った。

「・・・お茶、冷めちゃいましたね」

「あ、いいよ。もう行くよ」

「ご飯、まだですよね。急いで何か作ります。召し上がって行って下さい」

「悪いよ。体調が悪いから送ってきたのに。この上ご馳走になってしまっては・・・」

「あの・・・」多恵子は治夫の言葉を遮って言った。

「この前のご返事の催促、したらいけませんか。やっぱり、子持ちの女じゃ、嫌ですか。嫌ですよね。そうですよね」

「そうじゃないんだ!」

不覚にも大声を出してしまった。誤解を与えたくなかった。

「大丈夫です。由梨は寝つきは悪いんですけど、一度寝ると朝まで起きませんから」

「そうじゃないんだよ。・・・そういうことではないんだ」

治夫は観念した。

「悪いけど、俺はそういう風に思ってもらう価値のない人間なんだよ。そういう言葉をもらう資格なんかないんだ」

目を合わせているのが辛かった。それでも潤んでゆく瞳から目を背けることができなかった。もうおざなりな言葉で済ませられないところまで来ていた。他人には言いたくなかったが、自分の正体を知れば彼女も諦めるだろう。

治夫は言った。

「俺は『疫病神』なんだそうだ。別れた女房がそう言ってた。俺の傍にいたせいで次々と不幸が舞い込んだと。一緒に居ると運気が逃げてしまうと。

その男は俺よりも収入も魅力も遥かに上で俺など足元にも及ばないと。息子にまで、お父さんなんかつまんないし要らないと言われた。仕事は忙しかったが一日だって女房や息子を思わない日は無かったんだけどね・・・。

時々どうしようもない無力感に襲われる。今でも昔を引き摺ってくよくよしてばかりいるんだ。かつての妻や息子の幸せを願うことさえも出来ない。情けない男なんだ。

そんな自分が嫌で、ただひたすら忘れるために仕事に打ち込んでるだけなんだ。本当は全てがどうでもいいんだ。どうなろうと構わないんだ。そんないい加減な、自滅的な男と一緒に居ても君も由梨ちゃんも絶対幸せになんかなれない」

自分が笑っているのがわかった。気が狂っていると思われるかもしれない。しかし、狂わなければ言えなかった。諦めてもらうためには、狂わなければならなかった。

「俺ね、小さい頃公園の遊具から落ちて大怪我したんだ。そのせいで、俺の父親だった人が弟を連れて家を出て行った。母はO型、父がA型。俺はB型だった。母が父だった人と結婚する直前に飲み屋で知り合った、どこの誰とも知れない行きずりの男。俺の本当の父親はその男だったんだ。母は俺と心中しようとまでした。海でね。でも死ねなかった。そのお陰で今も海が怖い。だけど、まだこうして生きてる。

高校に上がる前に母が教えてくれた。ショックだった。でもたった一人で俺を育ててくれた母を責めることはできなかった。

前の妻には結婚する前に全て話した。そこまで知って俺を受け入れてくれた。そう思ってた。この世で唯一人の俺の理解者だと。だからこいつと息子だけは絶対に幸せにしようと思った。

それなのに裏切られた。あんたが疫病神になったのはそのどこの馬の骨かわからない男の血のせいだって。蔑むような目で俺を見ながらそう言われた。でもね、息子にまで同じ目で見られたのが一番堪えたよ。

それからすぐ母が首を吊った。俺を不幸にして済まないと。母はいつも言ってた。俺は父だった人にも、弟にも妻にも息子にも、実の母親にさえ殺されかけて捨てられた哀れな男なんだ。

なんで裏切られたんだろう。俺は随分考えた。そこまで裏切られて捨てられるには何か理由があるんじゃないのか。そう思ったから悩んだ。そして気が付いた。

俺は楽しかった事を何一つ覚えていないんだ。

そんな母親でも、何か一つは俺を楽しませようとしてくれたはずだし、海にはもう怖くて行けなかったけど山や遊園地やデパートや、誕生日とか、美味い料理とか。何でもいい。一度ぐらいは俺が心から嬉しかったこと、笑ったことがあったはずなんだ。でも覚えていない。覚えているのはイヤなことばかり。いつも母親の顔色ばかり窺っていた。何か粗相をすればまた一緒に死のうとするんじゃないかといつもビクビク。怯えながら暮らしていたんだ。だからまともに母親と目を合わせられなかったし、母親も俺を見ようとしなかった。もしかすると妻にも知らずに同じような態度をとっていたのかもしれない。

そもそもそんな風に育った人間がまともな結婚生活なんか送れるわけがなかったんだ。きっと別れた妻の言う通り、俺に憑いてる疫病神の仕業なのかもしれない」

もうこれ以上話したくなかった。

落胆して欲しかった。冷笑でもいい。とにかく、嫌われたかった。自分はそんな風に思われるのが相応しいのだ。

「正直に言う。俺はもう何も背負いたくないし、関わりたくない。特に女とは。俺なんかと一緒にいると君も由梨ちゃんも不幸にしてしまう。絶対に、そうなる。そして多分、君もいつか俺から離れてゆくよ。だからもう、諦めて欲しい。同じ事務所で気まずいなら、俺が転属願いを出すか会社を辞める。君は残って頑張ってくれ」

席を立ちかけた治夫の手を多恵子が取った。

「なりませんよ。私と由梨は」

もう片方の手も握られた。治夫は多恵子の華奢な手に拘束された。何よりも、多恵子の瞳が治夫を捉えて離さなかった。

「不幸になんかなりません。あなたのように過去に囚われてないから。私は未来に生きたい。由梨の未来のために生きてゆきたいです。それが私の幸せだから」

多恵子が突然着ていたスウェットシャツを脱ぎだした。目を背ける間もなく、多恵子の白い肌が痣と火傷の痕と思われる変色した無数の傷で覆われているのを見た。

「私は逃げて来たんです。幸せになるために、由梨と逃げて来たんです。あなたと同じなんです、松任さん」

首筋の痣がチリチリ痛んだ。その耐え難い痛みが次第に内奥に巣食う黒い塊に伝わり、治夫を揺さぶった。まるで黒い塊から発せられる陽電子が治夫の脳や心筋を構成する細胞の原子に直接作用しているかのように、治夫は体内から焼かれた。

この細い腕のどこにそれ程の力があるのかと思うほどに強く抱きしめられた。治夫の頑なも解けた。


何度かの昂まりの交換の後、多恵子は漸く治夫の体から降り、その腕の中に納まった。

仕事では真面目で優秀な人材だが、床の中では別人のように治夫の身体を貪った。別れた妻以外に女を知らない治夫には、多恵子は遥かに経験豊富に映った。

彼女の息が落ち着くまで待った。

「どうして。どうして俺なんかに」

腕の中の多恵子の瞳に治夫がいた。

「逃げて来た」

そう告白した折の切実さはなくなっていた。激しく求め合ったせいで、相手の瞳の中の何かをまだ感じようとしていた。やがて探していた答えを見つけたのか、伸びあがって治夫の唇を求め髪を撫で頬に触れた。愛しさが溢れた。

「猫背で撫肩だったから。淋しそうに目尻で笑ってたから。撫肩の男がたまらなく好きなの。あなたがいつも背中を丸めて淋しそうにしてるのを見せられたから。初めてあなたの何もない部屋に入った時、切なくて溜まらなかったの」

カーテンの隙間からやわらかな、それでいて明るすぎる光がカーペットの上に落ちていた。裾を少しだけ開いた。満月が目に痛いほど明るかった。月の光がこれほどにも眩しいものだということを初めて知った。

「そして、由梨があなたを選んだから。だから、どうしても、あなたが欲しかった」

そう言って多恵子は治夫の腕に口づけた。柔らかな後れ毛が汗で濡れた白い肌に張り付いていた。

「もう一度、君の体が見たいんだ。いいかな」

カーテンを引いた。月の光がおずおずと這入りこんできた。静かに上掛けを下ろした。淡い光に緩やかな起伏を繰り返す多恵子の青白い肌が浮かび上がった。

その傷のひとつひとつに口づけをしていった。痛みを共にするつもりで。過去の自分の至らなさを謝罪するつもりで。今までの多恵子が生きた時間を共有するつもりで。

「ねえ・・・」と多恵子は言った。

「傷の事、訊かないの? 気にならない?」

「言いたいなら聞く。言いたくなければそれでいい」

体中に古傷を纏った子連れの女が逃げて来たと言っているのだ。非常な勇気が要ったはずだ。根掘り葉掘り尋ねるような愚は犯せなかった。

「逆に、いいの?」と治夫は言った。

「こんなのでも、いいの? 疫病神だよ。それでもいいのかい」

多恵子はそっと手を差し伸べて治夫の顔を挟んだ。

「そんなのは、私が退治してあげる。あなたがいいの。あなたじゃなきゃ、だめそうなの」

「君は、強いな」

多恵子は恥ずかしそうに顔を伏せた。

「呆れてるでしょ」

「いや」

多恵子は低く忍び笑いをした。

「嘘。やっぱり、呆れてる」

「あのさ、もしかして、演技してなかった?」

多恵子を求めている間、漠然と抱いていた違和感が、冷めるとともに次第に大きくなっていた。別れた妻に比べてあまりにも違い過ぎる反応がその違和感の素だった。言わなくてもいいことなのに、言わずにはいられなかった。裏切りの年月が治夫をそこまで卑屈にしていた。

「本当は満足してないんじゃないかい」

多恵子はサッと睨みつけ無言で胸を抓った。

「痛っ」

「何で? どうしてそんなこと言うだ」

初めて彼女の口から遠州訛りが出たのを聞いた。

「疑うにもほどがあるに。相性バッチリだったら。わかんないだ?」

「いや、その・・・」

「ひどい!」

優し気な女神が、たちまち般若に変わった。どうすればいいのか。しばらく考えて、取り合えず素直に謝った。

「ごめんよ・・・。ごめんなさい」

多恵子はしばらく治夫を睨みつけていたが、やがて表情を和らげて、言った。

「わかれば、いいだよ」自分が抓った跡に唇を寄せた。

「痛かった? ごめんね。

あなたって昼間とは別人。仕事ではあんなに自信たっぷりな人なのに、なんでこんなに捻てるだか・・・」

治夫の手を取って自分の背中に回した。促されるがまま、その汗ばんだか細い背中を抱き、撫でた。そして自分が抓った辺りに再び掌を当てた。

「引っかかってるだね、ここいらに。深いだね、傷が・・・。これ、私が治すで。絶対、治してあげる」

ふいに隣室から泣き声が上がった。多恵子は、あちゃーと言いながら夜着を羽織り鳴き声のする方へ消えた。しばらく布団をポンポン叩く音と低い子守歌の声が聞こえていたが、やがて諦めたのかうーんという唸り声に変わった。

トトトトと軽やかな足音がやってきた。その主は薄暗がりの中で治夫を認めるや、おじちゃーんと言いながら真直ぐに飛びついてきて隣に潜り込んだ。

「あーあ、盗られちゃった」

多恵子は笑いながら後を追ってきて三人で川の字になった。

由梨の爛々と見開かれた大きな瞳が僅かな月明や冷えた室内の微弱な灯りを吸い込んでキラキラ光っていた。温かく甘い息を治夫に吹きかけながらグイグイと小さな体を押し付けてきた。思いがけずに治夫を見つけ、興奮しているのかもしれない。

「いつもなら絶対起きないのに。何か、ちょっと妬けちゃうかも」

治夫が黙っていると、多恵子はまた低く笑った。

「あなたって、すぐ顔に出るだね。あなたが今何を考えてるか、当ててみましょうか。責任取らなきゃ、とか思ってるら」

何も返せずに天井を見上げていた。

「急に仕事の顔になってるもの。わかりやすい人だわ。思った通りだに」

多恵子は由梨の身体をどっこいしょと治夫の胸の上に載せた。喜んだ由梨は小さな手のひらでぱちぱちと治夫の頬を叩き、満足げに治夫を見下ろしていた。

「ねえ、気にしないで。私があなたを奪ったんだから。あまり重く考えんで」

「いや、しかし・・・」

「少なくても今は何も考えないで。朝になったら、一緒に考えましょう。事務所のみんなにはそのうちバレちゃうかも知れんけん」

そう言って多恵子は笑った。

「それとね、さっき演技って言ったら。実はそうなの」

「え?」治夫は驚いて首を上げかけた。

「事務所で、具合が悪いって言ったでしょ。あれウソ。私、残業しながらずっとチャンスを待ってた」そう言って彼女はもう一度治夫にキスをした。

「ああでもしんと、なかなかあなたと時間作れんもんで・・・」

由梨は治夫の胸の上で安心したのか再び寝息を立て始めた。

「そういうわけだから、むしろ私があなたを嵌めちゃったの。だから、気にしないで」

女は恐ろしい。

由梨は治夫の胸の上でふっくらした頬を枕に眠ってしまった。柔らかくて小さな体重を愛でているうちにそのようなことはどうでもいいように思えてきた。甘い寝息が治夫の乾いた胸の中に潤いをくれた。

多恵子が言った。

「ねえ。一つだけお願いがあるの。新しい事務所の前に苗木を植えてもいいですか。金木犀を植えたいの。仕事中もあなたが見ていられるように」


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