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疫病神の誤算  作者: 美作 桂
2/20

2 過去 その1

その日、ハカマダ産業中部支社静岡営業所の面々は、突然所長の松谷から召集を受けた。

「今度新しくここで営業として動いてもらう松任君だ。金沢の四谷工業にいた男だ」

ドアを圧するほどの堂々たる偉丈夫の松谷の背後から、痩せて顔色の冴えない三十がらみの男が自信のなさそうな風情で進み出た。

「松任治夫です」

生気がない。目にも光がなかった。首筋に張り付いている黒い痣のせいで生白い肌が余計に目立っていた。荒波に揉まれ何度も岩に叩き続けられた挙句砂浜に放置されていた流木がそのまま立っているように皆には見えた。

「四谷工業はあの通り残念なことになったが、彼は営業として抜群の成績を残しており、以前から俺も名前を耳にしていた。それでこの際我が社でその手腕を発揮してもらうことになったわけだ」

その独特の脂ぎった風貌で、松谷は周囲を抑えつけるようにして言った。が、当の新人は傍目にも仕事が出来そうには見えず、こんなのに営業が務まるのかとその場にいた誰もが思った。

「さっそくだが、彼にこの地区の実情を見せたいので誰か営業に同行させてもらえないだろうか。桑田さん、どうかな。誰がいいだろう」

一番奥の席にいた男は松谷よりも年嵩で、痩せて営業焼けした顔には深い皺が刻まれていた。彼だけは松谷を出迎える列には並ばず、一人椅子に掛けたままだった。向かいの机の女性事務員が穏やかならない気配を察して、桑田さんと呼びかけるまで松谷を無視するかと思われた。そのいかつい目が面倒くさそうに松谷を一瞥し、次いで列の端にいた青年に声を掛けた。

「小柳津、お前今日アンマプラスチックさんに行く予定だったな」

呼びかけられた青年は、若く爽やかでエネルギッシュな好感の持てそうな営業マン像を体現していて、この得体の知れない新人とは正反対の極にいた。

「小柳津君、いいか」松谷が重ねて訊いた。

野心的な面構えの青年は上長に対しいささか礼を欠く態度で顔を上げた。新人は無表情にゆっくりと頭を下げた。

「別に、構いませんよ」

三人はバイパスで西に向かった。ハンドルを握る小柳津はよく喋った。

「先方の担当がうちの親戚なんですわ。高校時代の友達もそこで働いてますしね」

「わかったから、ちゃんと前を見て運転してくれよ」

笑いながら松谷が応えていた。

小柳津は頻繁にバックミラーを見た。自分の話に興味も示そうとせず、黙ってただ窓外を眺めているだけのこの新人がどこか気に食わなかった。

藤枝市郊外にあるその工場は、大手家電メーカーの子会社で、射出成型機のラインを十数本ほど持っていた。

一行は工場棟の二階に通され構内を見渡せる会議室に入った。商品見本などを保管する倉庫を兼ねているらしく、反対側の壁には天井までの棚が並び、包装のビニール袋がはみ出した段ボールやボール紙の箱がぎっしりと詰まっていた。

担当に松谷と新人を紹介し彼らの名刺交換を待つのももどかしげに、小柳津はここまで来る車内での勢いのまま、その四十半ばぐらいの担当者に親し気に話しかけた。

「今年の中日の開幕戦は野口ですかね山本昌ですかね。星野も五年目ですからね。今年こそは日本シリーズ制して欲しいスよね」

横に居並ぶ上司の松谷や新人を意識してか饒舌に磨きがかかっていた。

しかし、担当者はお茶を供した事務員が部屋を出てゆくと、小柳津の饒舌を遮って言った。

「あのね、小柳津君。野球のことなんかより先月から話してある件、どうなってるだ」

「あー、あの件スか」

急に小柳津の気勢が削がれた。

「先月から言ってるら。サンプルも渡したら? ラインのイメージと概算見積り。今日は持ってきてくれたよな?」

「その件ですがね、ちょっといろいろ手こずってまして・・・」

小柳津は押し黙ってしまった。返す材料を何も持っていないせいなのだということは傍目にもわかった。それなのに松谷も何も言わない。自分の部下が窮地に陥ることが予見出来ていたかのように落ち着いて、むしろその沈黙を楽しんでいるかのように見えた。ただ立場上ここは言わねばならない。

「そのサンプル、まだありますか」

担当は壁際の棚の中の無数の箱の中から迷うことなく一つの小さな箱を引き出しテーブルに戻って来た。ビニール袋に包まれた小さな茶色の薄板が入っている。何かの機器のプラスチックボディーを作る際のモックアップだ。担当は幾組もの中から一つの袋を選んでテーブルに置いた。ビニール袋にはマジックでアルファベットと数字が書き込まれ、それぞれの薄板に同じ文字が印字された小さなラベルが貼ってあった。

「来年の年明けに発売予定の携帯のボディーですわ。今年の秋には納入しにゃいかんのですがまだ金型の設計すら出来ていないんです」

担当者は構内を見下ろす窓を顧みて煙草の煙を嘆息と共に吐き出した。

「御覧の通り、ウチは今まで家電オンリーでしてね。洗濯機のパネルボードとか炊飯器のボディーとかね。だけん、今回の要求仕様がキツくて。材料からして今までのPP、ポリプロピレンじゃ駄目そうだし・・・。それで小柳津君に相談しとったんです。これが仕様書ですわ」

松谷は適当に相槌を打ちながらモックアップと仕様書を隣の新人のほうへ押しやった。

新人はいつの間にか鞄からノートPCとポータブルのDVDデッキ、それとA4のコピー用紙を取り出し、何やら絵を描き始めていた。松谷をチラと一瞥しただけで後はその作業に没頭した。

「子会社って言ってもね、株を幾分持ってもらってるだけだもんでね。実際は普通の協力会社と変わらんのです。今の仕事もだいぶ前から中国やら韓国に持ってかれて以前の半分以下になっちゃったしね。今回、なんとか無理言ってチャンス貰っただけん、うまくいかんかったらもうダメかもわからんのですよ。いや、初対面の方に言う話じゃないけんね。おたくの桑田さんとは先代からのお付き合いだから何とかしてもらえると思ってたもんでね・・・」

「そうですか・・・」

肩を落とす担当に、松谷は心底同情する風を装い頷いていた。その間にも、次々と製品を吐き出す機械音に乗せて、テーブルを叩く鉛筆の芯の音が続いていた。

それが、止まった。

「ちょっとこれご覧いただけますか」

新人は小さなビデオデッキのディスプレイをくるりと担当者へ向けPLAYボタンを押した。ある機械が稼動している動画が映し出された。回転するバイトが機敏に動き、プラスティックの小さな薄板を削っていた。一分もしないうちにバイトが切削を終え、材料を載せたテーブルが横にスライドして反対側から次のテーブルが定位置に着く。再びバイトがやってきて同じ動作を繰り返し始めた。音声はない。

「これは九州の、ある工場のものです。マシニングセンタという切削機械です。予めプログラムされた通りに完全自動で素材を切削します。削ってるのはポリカーボネイトです。何の部品かは申し上げられませんが、PPより強度が必要な部分に使われる新素材です」

担当がその音声のない映像に魅入っている間、新人は描いた絵を携帯で映し、ボタンをポチポチ押した。松谷や小柳津も椅子を動かして画面をのぞき込んだ。

「部品の形状にもよりますが、この画面の場合、一個切削するリードタイムが換装を含めて五十四秒です。二十四時間連続稼働させて千六百個、刃物を交換したり、必要なメンテナンスをする時間が必要ですが、これ一台で月産四万個です。この工場では同型機を五台稼働させてます。一台約八千万ほどですが、十分採算ライン以上の成果が出ているとのことです。何しろ、射出成型機と違っていちいち金型を設計して鋳造して加工する必要がありません。携帯電話の分野はモデルチェンジが激しいですよね。実に、短納期、小ロットに向いた機械だと思います」

数分で動画は終わった。新人が描いていた絵を担当の前に押しやった。

「失礼だったかもしれませんが、勝手に御社の工場のレイアウトを考えてみました」

一同が動画を見ている間に、今稼働している射出形成機を何台か撤去してマシニングセンターに置き換えた場合の精巧なパース図と平面図が出来上がっていた。担当者が手に取り食い入るように絵を見ていると新人の携帯が鳴った。彼はぼそぼそと会話しながら手元の紙に数字を書き込んでいった。そして携帯を置き、担当者に紙を示しながら説明を始めた。

「材料は予めこのモデルより少し大きめにカットしてもらって仕入れた方がいいでしょう。今材料の業者と話していたんですが、一梱包百個としてワンパレット単位の取引とした場合この数、でこの値段になります。当初はウチを通していただいた方がスムーズだと思いますが、相手は実績次第で直接のお取引させていただいいてもいいと言ってます。こちらが機械本体二台分のリース料金とその設置工事費用。今現在の射出成型機はリースですかね? その処分費用。そしてこちらが月間のランニングコストの概算です」

担当はこの新人、松任という男に額を押しつけんばかりにして話に食い入っていた。

小柳津は顔色を変え、松谷は涼し気にゆったりと椅子に背を預けていた。松任は高揚も逡巡もなく、ただ淡々と説明を続けていた。

「動画のキャプション画像を何枚かプリントしておきました。申し訳ありませんが今日は急な話でしたのでパンフレットを持参しておりません。このマシニングセンタのメーカーのURLです。よろしかったら閲覧してみてください。明日にでも正式な仕様書とお見積もりを持参させていただきたいと思いますが、ご都合いかがでしょう」

「俺、明日はちょっと都合が・・・」

小柳津が口を挟んだが、担当はもう彼を顧慮する気さえなさそうだった。

「あの、よろしくお願いします」と松任に頭を下げた。

「すぐ社長に、っつても俺の兄貴だけんね、この話ししてみますわ。松任さん、だっか。本当に頼みますね。いや~、これで助かるかもしれんわ。今日中に連絡しますで」

担当はあらためて新人の名刺を押し戴き、腰に下げたタオルで額の汗をぬぐった。

来る時とは打って変わり、小柳津は無言で後部座席に座っていた。

松任は初めて訪れた客先との間にたった一時間足らずで三億近い商談を成立させようとしていた。自分には到底出来そうもないし、事務所の先輩にもそんな高いポテンシャルを持った者はいない。助手席で黙っている松任を見る目は下卑た興味から畏怖に変わった。

車が公道に出るや、松谷がバックミラーに映る小柳津に話しかけた。

「このまま駅に着ける。小柳津君、悪いが電車で帰ってくれ。俺は松任君とちょっと行くところがあるんでこのまま車借りる」

それまで静岡営業所の若手のホープと言われていた。

その自信が突然現れた新人に見事に打ち砕かれた。圧倒的な技量の差を見せつけられた。それなのに、助手席の松任はまるでこうなることが判っていたかのように平然としている。もしも自分だったら「三億の契約」に有頂天になってはしゃぎまわっているだろう。松任の落ち着いた風情が気に障った。

駅のロータリーに着いた。

「ああ、そうだ。あの客先、桑田さんの縁故なんだろう。今日の事話してやれ。今後あの工場は松任君に担当させる。彼が話を膨らませてくれたんだから文句ないよな。後から俺も桑田さんに言っておく」

萎れたような小柳津がバックミラーの中で小さくなってゆくと、

「いいだろ?」と松谷が言った。

「さっきの客、今後は君に担当して欲しいってさ。そうだ。いっそ、他の客先も遠慮なく好きなようにやってみろ。営業所のあのクソみたいなダメ連中は気にしなくていい。俺もな、去年の暮れに転任してきて唖然としたんだ。あの連中、腐ってやがる」

「わかりました」と治夫は答えた。

車は再びバイパスに乗り西へと向かった。

「ウハラケミカルからの仕入れ価格、どうしてわかった」

新素材の樹脂を製造する会社だ。治夫は前を向いたまま落ち着いて応えた。

「昨日本社で挨拶の間に仕入れ先の一覧を確認しておいたんです。四谷にいたときにも何度か取引はありました。販売に知っている人間もいます。四谷とハカマダでは取引額のケタが違います。だから納入価格は四谷より二三割安いだろうと推測しました」

「さすがだな」と松谷は言った。

「うん、そうしよう。他のの客も君が担当して行く。で、そうなるとだ。連中は顧客をなくしてヒマになる。ヒマになる営業連中をどうするかな。会社としてはヒマを持て余す社員に楽をさせる義理は無えんだよな。君、どうしたらいいと思う?」

「私の職責に関係のない話のようです」

松谷はフッと笑い、ハンドルの上で太い指先を遊ばせ時折面白そうに助手席の治夫を見た。煙草を一本取り上げて喫い、窓を少し開けて長い煙を吐き出した。

「昨日、営業本部の沢田専務も言ってたろう。ウチは今変革期にある。もう国内の製造業は頭打ちだ。誰でも知っている。それなのに社内のだれも対応策を講じようとしない。何でかわかるか」

「わかりません」

「ウチは吸収合併を繰り返してデカくなった会社だ。М&Aと言えば聞こえはいいが、つまり寄せ集めだ。役員会から出先の営業所まで。古巣を異にする人間が互いに牽制し合っている。今までの自分の縄張りにしがみつくような旧弊なやり方ではもうダメだ。社内体制のシェイプアップを図るべき時期に来ているのは誰の目にも明らかなのに、業務そっちのけで互いに少しでも自分の出身母体に有利に事が運ぶことに囚われている。

特にさっきの小柳津がいい例だ。あんな無能、普通ならとっくにクビか出向になっていてもおかしくない。それが代理とはいえ一営業所の責任者の桑田の縁故っていうだけでチャラチャラしていられるのは桑田のバックに役員がいるからだ。あいつは前の会社で増田常務の腰巾着みたいなことをしていたのさ。だから所長の俺でも正面切って首切れねえんだ。バカバカしいと思わないか」

そうした「政治」に興味はなかった。会社が自分を必要とするならよし。そうでなければ、また他をあたるだけだ。

「ところで、何処に行かれるんですか」

「遠州鋳造という鋳物屋、知ってるか」

車は大井川を渡り山を越え北に向かった。

市街地を抜けると水田が広がり、そこかしこに真新しい住宅が点在していた。その一帯の一段堆くなった丘の中腹にその工場はあった。県道に面して事務所棟がありスレート葺きの大きな工場棟がいくつか、外壁に長年の煤を纏って立ち並んでいた。

工場から緩やかに降りて来るスロープの下に車を止めた。フラン剤の灼けた香ばしい匂いと集塵機や電気炉が発する唸り声。ショットブラストの打撃音やグラインダーの甲高い摩擦音が重なって漏れ出ていた。一見、順調に操業中の鋳物工場に見えた。

丁度一台の幌を被った大型トラックが治夫の車を避けてスロープを上がっていった。

「戦争中に創業した。鉄兜やら大砲の台座やら作ってたらしい。今は産業ロボットのベースやアーム。工作機械メインの工場だ」

松谷は新しい煙草に火を点けた。

「この県道を北に行くと第二東名のインターチェンジだ。トレーラーが入れるくらいだから地盤改良工事無しで御前崎倉庫の重機も置ける。建屋は改造して倉庫に転用可能だ。建築制限もない。理想的だと思わんか。俺が何を言いたいか、わかるか」

松谷の吹き出す煙が狭い車内に充満した。

「さっきのトラック、異様に荷台が沈んでたろ。これから荷受けして出荷しようってのに、おかしいだろ?」

治夫の反応を伺うように言葉を切った。

「ちょっと上まで行ってみるか」

県道を上り工場の敷地と同じ高さのところで車を止めた。金網のフェンス越しに鋳型の金枠が積んであった。その奥に一メートルから三メートルほどの様々な大きさの鋳物部品が二三十、いや小さなものまで含めれば数百個近くの赤や青に塗装された製品が雑然と積まれていた。所々錆びているのは一部加工が終わっていることを示していた。

「つまり返品の山だ。加工して不具合があったやつを引き取って放置してるんだ。最近はスクラップの相場が安いからな。売るに売れないんだろう」

「経営が上手くいっていないということですね」

「上手くいってないどころか」

松谷は窓を開けて灰を飛ばした。煙が車外に流れ、独特の鼻をつく匂いが強くなった。

「最盛期にはキューポラが三基煙を吐いていたらしいけどな。今は旧式の二トンの電気炉一基だけだ。設備を一新して生産効率を高めることも、生産技術を高めて品質を上げる努力もしてこなかった。安穏と周囲の状況が好転するのをただ待っているだけなら、そりゃ無理だわな。社長も後継者の息子に出て行かれてから元気無くなったそうだ。銀行の話だと、密かに用地の買い取り先探してるらしい。そこでだ」

松谷は煙草を灰皿で揉み消して助手席の治夫に向き直った。

「静岡の営業所、沼津、浜松、豊橋の支所。それから御前崎の重機と実働部隊。俺の管轄にある事業所を全部ここに集約してしまう。年間で数百万から千万の経費が浮く。それにここなら三十トントレーラーだって入れる。新たに土地を手に入れるより移転費用は格段に安く済む。

今まで各拠点ごとに個別に縦割りで抱え込んでた案件情報を有機化する。営業が情報を囲い込んでるなんてナンセンスなことはもうお終いだ。情報を統合してシナジーを生み出す。客と客を結びつける新しい営業をここから始める。

それを松任君、君がやるんだ。君のやりたいようにやってくれていい。俺は鋳物屋の買収とそのための金を分捕ってくる役。君は思う存分鉈を振るって業務を再構築する。ただし、リストラは全部君が一人でやるんだ。どうだ」

東遠州の駅で下してくれという松谷のために運転を替わり駅へ車を走らせた。

「君は知らなかったろうが、俺は以前から君のことを知っていた。四谷にスゴイ奴がいると。前から噂になっていた。丁度運よく、と言っては君に悪いが、四谷があんなことになった。それで君のことを思い出した。君にはいい面の皮だったろうが俺にはチャンスだと思えた。急いで人事に掛け合った。そしてわざわざ君を引っ張って来た。君が適任だと俺が判断したんだ」

相手の心を鷲掴みにするような、有無を言わさない迫力だった。

「ただし、やってくれるならその功績は全て君にやる。君がさっき見せてくれたあのやり方で新しい営業モデルを作ってしまえ。現場で既成事実を作ってしまえばその社内における注目度はかなりのものになる。統廃合なった暁の新事務所の所長は当然君ということになる。というか、会社がそうせざるを得なくなる。静岡は、君のものだ。

そして俺は君を支援し、君の新しいそのモデルをプロデュースし全社に普及する。会社の古臭い因縁など全て吹き飛ばして海外に討って出るんだ。俺はやる。だから君もやるんだ。失うものなんかもう何もないだろ。是非ともこれはやってもらうぞ」

そこまで一気に喋ると再び松谷は口の端を歪めた。

「俺は名古屋に帰る。明日は東京だが昼前に静岡に寄る。その時返事をくれ」

車を降りる前、松谷は穴が開くほど治夫を凝視した。


「畜生・・・」

椅子に沈み込む小柳津を前に、桑田は舌打ちをした。

中途で入社してきた北陸出身の新人にこの静岡での仕事の仕方を見せつける。意気揚々として出掛けて行った筈の子飼いの部下は見るも無残に尾羽打ち枯らして帰って来た。

松谷からの電話を受け、慌ててアンマプラスチックの専務に連絡したが相手は言を左右にしてあいまいな返事しか返してくれなかった。挙句、

「桑田さん。悪いけん、これからはあの松任って人に担当して欲しいやあ。あの子じゃ駄目だわ。社長もそう言ってるもんでさ」

桑田には大きな自負があった。

ハカマダ産業に吸収される以前の中京工商の時代以来、自分が静岡を支えてきたのだと。何人もの若手を育てあげ一人前にしてきた。

小柳津にしても、遠縁の頼みで高校を卒業しても家でブラブラしてばかりの若者を引き取り尻を叩いて独り立ちできるようにしてやった。去年事務員として採用し、今向かいの机で電話応対している山岸という女性社員も、懇意にしている取引先に頼まれたからだ。娘を何とかしてくれと。大学まで行かせて都市銀行に入社させヤレヤレと思っていたらたった一年で辞めて帰って来た。陰気くさい、遠州弁でいう「無精ったい」娘だとは思ったが、長年の付き合いのある工場の経営者の頼みは断れなかった。そのお陰で多少単価が高めの商品でも文句を言わずに取引してくれている。

アンマプラスチックにしても先代からの付き合いで代替わりした今の社長が若造の頃から何かと面倒を見て来た。聞けば小柳津の遠縁だということでまだ場数が足りない小僧でもなんとかなるだろうと担当を任せて来たのだ。

ここのところ業績が落ち込み、ついに本社からの監視役としてやってきた松谷に所長の席を禅譲しても、実質的な静岡の総責任者は自分だと確信していた。

松谷は着任早々沼津、静岡、浜松、御前崎に分散した拠点は不合理だと主張し、営業マンを減らして配置を再構築し集約すべきだと言い張った。

「長期にわたって売上が低迷している。贅沢言う余裕は無い」

それに対し桑田は、静岡は東西に広く、そこに散在する顧客に密接なアプローチをするには現在の体制はギリギリだと反論した。

「個々の営業のスキルの問題でしょう。無能な人間が多すぎる。ゼロは一万個集めてもゼロなんだよ」

「だったら、あんたが言う優秀な人間を連れてくりゃいいだ。ひょっと出の人間に務まる市場じゃねえ。昔っからの付き合いってもんがあるだ」

昨年からもう何度こんなやり取りを繰り返したか知れない。その答えがこれだというのか。

「まるで手品みたいでした」

小柳津はやせ細った練り歯磨きのチューブをさらに絞るように言葉を繋いだ。

「専務が、ビデオに、釘付けになっているうちに、あっという間に、数字、出してくるんです。・・・俺には、無理っす。あんなの、出来ません」

しばらく黙っていた桑田はやがてサチエを振り返った。

「サチエちゃん。今日はもういいで、上がんナイ」と言った。

サチエは急いで帰り支度を整えると逃げ出すように事務所を出て行った。桑田は小柳津を見下ろした。

「俊、お前明日から外回りはいいで。その代り、今から俺の言う通りに動け、ええな?」

桑田は能面のような顔で小柳津を見下ろしていた。


冬の静岡の空には雲がなかった。南にも山がない。海と空がどこまでも青く続き乾いた風が吹き抜ける。凍るように冷たい風がアルプスを越えて吹き付け、治夫の湿った心をカラカラに干した。

薄暗いアパートに戻り、ジャケットを脱いでネクタイを緩めながら窓を開けた。冷たい夜風が雑然とした部屋の中に吹き込んだ。

先週末に引っ越してきた部屋は、まだいくつかの段ボール箱が壁際に積んだままだった。梱包をほどこうともしなかったし解く気もなかった。そもそも段ポール箱と二三着のスーツの他に何も持って来ていなかった。

食事なんか全て外食すればいいと思っていた。それも時間に関係なく腹が減れば食えばいい。食欲がわかず抜くことも一再ではなかった。週末に一応の炊飯器や冷蔵庫や食器など一通りは買いそろえたけれどパッケージも開かずに積んだままにしてあった。冷蔵庫にだけは電源を入れたが、それすら数本のミネラルウォーターが入っているだけだった。スーツや作業着や部屋着は全てクリーニングに出し、下着は量販店でまとめ買いし、その都度捨てればいい。だから洗濯もしない。掃除もしない。布団は敷きっぱなしでいい。湿気の多い金沢なら布団が湿って寝られなくなることもあったが、幸い静岡は空気が乾いている。卸したてのシーツを敷き汚れたら捨てればいい・・・。そう考えれば全てが、何もかもがラクだった。

去年の暮、勤めていた会社が倒産した。妻にそれを告げた途端、五歳になったばかりの息子と共にある日突然目の前から消えた。既に他に男がいたことを後で知った。数年間の家族の時間で残されたのは、箪笥の隙間に挟まっていた息子のスケッチブックだけだった。

それからまもなく母が自ら命を絶った。

片親で苦労しながらも治夫を大学まで行かせてくれた母だった。「絶対にお前の足手まといにはならない」結婚が決まったとき、そう言って自ら望んで介護付きのホームに入っていた。

ホームから連絡があり出張先から駆け付けたときには既に警察の検証が済んだ後だった。自分でシーツを裂いて紐を作り、最後の見回りが去った後に部屋を抜け出し、非常階段の手すりにぶら下がった。倒産のことや離婚のことは話してはいなかった。遺書のようなものもなかった。

今にして思えばあれは最後の母の愛だったかも知れない。女神だと思っていた妻と天使だと思っていた息子とで作ってきた家族三人の幸せが全て幻想であったことを知らされた、哀れな息子に与えた最後の母の愛情だったのだ。死んでくれたおかげであっさりと故郷を捨てることが出来たのだから・・・。

そう思うことにした。

故郷のあの湿り気を含んだ温もりを懐かしく思うこともあった。しかし思い出の全てに崩れ去った家庭のイメージが二重露出してきた。それで故郷を想うこともやめた。それでも何度も夢を見た。別れた妻の浮気相手との痴態や幼い晃の顔が度々脳裏に浮かび狂おしいほどに治夫を苦しめた。そしてそれよりも恐ろしいのは幼いころのあの海での記憶。あの悪夢だけは絶対に見たくなかった。忘れようと努めるしかなかった。

そうやって自分を突き放すと心が急速に乾いていった。乾くに任せた。もしかするとこのまま干からびて死んでしまえば楽になれるのかも知れない。そんな被虐的な妄想が不思議にも心を慰めた。そうやって汚れた下着やシーツと同じように、最後には自分自身も捨てることになるのだろう・・・。

自分は泥をかぶるリスクは負わずにこの際根無し草を使って火中の栗を拾わせ甘い汁だけ吸おう。松谷のハラはそんなところにあるのだろうことは容易に察せられた。要するに、リストラ請負要員だ。

でもそんな事もどうでもいい。出世にも栄達にも興味がない。あのまま故郷でじっとしているとやりきれない思いに苛まれるから、ただ言われるままに静岡に来て、言われるままにひたすら仕事に打ち込む。

それだけだ。

携帯の振動で我に返った。

「山岸です」

電話の向こう側から暗く低い女の声が聞こえて来た。

「事務の、山岸幸恵です」

「ああ。どうも。お疲れ様です」と治夫は応じた。

「あの・・・」

言いかけて、相手は黙ってしまった。要件を質そうと口を開けかけたとき、

「明日保険証を持ってきてください。本社の総務から手続するように言われたので・・・」

「わかりました」

「あの・・・」

「はい・・・」

「いいえ、何でもありません。じゃあ、よろしくお願いします。夜分、すみませんでした」

不意の電話だったが、お陰で無益な感傷を止め気持ちを切り替えることができた。明日松谷に示す計画案の検討を始めた。簡単にレジュメをまとめてから床についた。そして、夢も見ない深い眠りに落ちていった。


翌日。皆より早く出社して計画案を清書し、見積を書き上げた。事務所を出る際にサチエから呼び止められた。

「あの、今日の予定は・・・」

「あ、すみません。昨日訪問した藤枝のアンマさんに寄って、それから二三、挨拶回りしようと思ってます。夕方には戻ってくる予定ですが直帰する場合は連絡します」

営業車に乗り駅に向かった。

松谷は寸分の隙も無い堂々とした身なりで改札の向こう側に来ていた。改札越しに書類を手渡した。彼はその場でパラパラとページを繰った。

「わかった。大体俺の考えていたことと同じだ。早速今日から始めてくれ。君に全部任せる。ただし、分かってると思うが、事務所の連中には知られないようにな。事務の子にも気を付けろ。この件では事務所の電話やPCも使うな。活動拠点が必要ならどっかに事務所を借りてもいい。手続きが必要なら本社の総務は通すな。昨日会った営業本部の西川君に直接依頼しろ」

「所長。それならいっそ、遠州鋳造の敷地内に仮事務所を設けようと思いますが」

「なるほど。そのほうが手っ取り早いな。俺からも鋳物屋に電話しといてやる。とにかく、全部任せる。好きにやれ。これで俺と君は一蓮托生だぞ」

松谷はニヤリと笑い、改札を出ることなく上り線のエスカレーターに消えた。

アンマプラスチックへ見積書を持参しマシニングセンタ導入事例を見学する予定を調整した後、二三件の客先を回ってから昨日の鋳物工場を訪れた。

実際に構内に入ってみると騒音と異様な臭気と砂ぼこりとで息が詰まりそうだった。事務所に社長を訪ねた。中年の女性が社長は現場にいると教えてくれた。礼を言い、事務所を出た。

作業棟は三棟あり、今は一番手前の建屋しか使われていないと言われた。スレート葺きの作業棟に向い、臭いと埃の発生源である入り口から中を覗き込んだ。真っ暗な建屋の中に目を凝らすと、ばい煙の向こうで真っ赤な鉄の溶湯が巨大なバケツのような取鍋から輝く筋を描いて鋳型に流し込まれているのが見えた。片隅では金色の火花を散らしてグラインダーが動いていた。それらの光を背景にして何人かの影が見えた。皆、満足な排塵装置もない場所でヘルメットも被らずマスクもせず、ただ黙々と立ち働いていた。半ばは中年と老人だったが中には高校を卒業したばかりのような若者も二三人いた。

近くで作業をしていた年配の作業員に「すみません。社長はいらっしゃいますか」と尋ねた。

「ああ。あんたが、松谷さんとこのか」

七十は超えていそうな好々爺だった。

ごつごつした手で薄くなった頭を撫でながら手振りで事務所へと促した。

話は全て通っていた。

まず手始めに今は使っていない敷地の一角を事務所にしたいので間借りしたいと申し入れた。社長は二つ返事で承知してくれた。先ほどの中年の事務員がお茶を運んで来て呉れる前に主要な交渉は終わってしまった。

「だけん、事務所にするだけならもっと便利のいいとこあるら」

社長はしばらく黙って治夫を凝視していた。治夫も愛想笑いを浮かべただけであとは黙っていた。話がついているなら余計なことは言わない方がいい。社長もそれ以上は追求してこなかった。節くれだった手で大ぶりの湯飲みを掴み茶を含んだ。そしてしばらく治夫を眺めるようにして対峙していた。

「松任さん、だっか。あのな、あんたには今日会ったばかりだけん、あんたを見込んで、一つ頼みがあるだよ。心残りがあるだ。だもんで続けてただ」

社長は湯呑を置くと両膝を掴んで擦り始めた。

「社員は全部で十三人だけん、この衆らの身の振り先決めてやらんうちは辞められんで。なあ?」

「はあ・・・」

再就職先を斡旋して欲しいと社長は言った。

「去年までは三十ぐらいのもんがあと二三人は居ただけんなあ。イキのいい衆からドンドン辞めて行っちまった」

只でさえ製造業の求職は供給過剰だ。何某かの資格がありそれなりの経験があるならまだしも、去年高校を出たばかりの新人では。事業が上手くいっていなかったのに何故育成の手間のかかる高卒の新人を雇ったのか。松谷に倣い、聞き流すことは出来た。金の話がついているならなおのことだ。そうすべきだと誰もが考える。

「それさえ片付けば、おらも気持ちよく余生を百姓して過ごせるだけんな・・・」

寂しそうに社長は言った。

ふと、右手で首筋の痣を撫でていた。

「あんたのそれ、怪我の痕か」

「いえ。・・・生まれつきです」

「そうか。・・・痛そうに見えたもんでさ」

そう言って社長は薄くなった白髪の頭を垂れた。

その姿に、治夫の中の何かが蠢いた。頭はそんなことは言うんじゃないと制止する。だが口が自然に動いて言葉を作り吐き出そうとしていた。治夫は言った。

「あの、社員の皆さんの履歴書のコピーを貸していただけませんか。何分、今は景気がいい状況とは言えませんが、検討だけはしてみます」

事務所を辞す際、先刻の女性が席を立ち見送ってくれた。

「どうか、よろしくお願いします」そう言って深々と頭を下げた。

部屋に帰るとさっそくPCを開いて新規事務所の開設までの工程表を書き上げ松谷にメールした。

仮事務所を設置する傍ら、現在の静岡管内の営業マンの内から有望な者を選抜し再教育する。同時に商品のIT化への対応と業務の省力化を図るための情報処理とCADに精通した人材の採用。新事務所棟建設と現在の建屋を商品管理と資材倉庫と機器の整備工場への改装工事。そして新しい業務運営システムの構築と実施・・・。

一年半、と治夫は見積もった。新体制を構築するまでの時間が、だ。

翌朝治夫が目覚めるとすでに返信が来ていた。そこにはただ一言、

『早くしろ』と記されていた。

その日から県内の事業所を回った。本来の営業活動の傍ら、営業マンたちに接触を始めた。実際に営業に同行し、治夫のアプローチを見せてやった。その中から見込みのありそうな営業マンを選抜し定期的に御前崎の作業員詰め所に集めた。松谷の名前で正式な研修会という名目にした。もちろん、中京工商からの人間は省いた。

作業員を束ねる工務長は五十絡みの、周囲から『トシさん』と呼ばれているハカマダ産業生え抜きの熟練工だった。

「まったく。松谷の野郎が突然変なこと言い出したと思ってたら、こんなめんどくせえこん。はっきり言って邪魔だ。やりにくくてしょんないわ」

自分の技術に絶対の自信を持つタイプは人当たりが悪い。治夫は今までこういう現場の人間をたくさん見て来たから別に驚かかなかった。むしろ彼のような昔気質の人間が現場を仕切っていることに安堵した。

「すみません。何とかお願いします。ビシビシ鍛えてやって下さい」

御前崎に行くたびに作業員達に差し入れをした。営業員たちは当初松谷の声がかりの治夫を警戒していたが、次第に打ち解け、本音を漏らすようになった。

今までの営業はただ作業伝票をFAXしてくるだけで現場にも来なかった、どういう作業内容なのかは作業員が直接顧客の工場に連絡し調整していた。第一、営業の顔も知らない者もいた。

「あいつ、ウチの人間だったんか・・・」

この研修で初めて営業に会ったと言う作業員も何人かいた。それを聞いて驚いた。


桑田は営業車を道の駅の駐車場に停め携帯電話を取り出した。相手はすぐに出た。

「今日はどうだ」と桑田は言った。

車の行き交う音に張り合うように張り上げた声が聞こえて来た。

「朝、六時半ごろ家を出て東名で沼津の客先、営業所には寄らずに途中で沼津の阿部っていう俺の同期と合流して富士の客先に同行しました。そこで阿部と別れて昼前に富士を出て御前崎に立ち寄りました」

小柳津は弾んだ声でそう報告してきた。松任を尾行して様子を知らせるという探偵のような行動に興を覚えているようだった。

「ああ、若い衆ら集めて研修とかなんとかやってるらしいな。あいつら、俺に何も言って来ん。一回締めとかんとイカんな。それから?」

「そこに三時まで居て、今東遠州の鋳物屋にいます」

「鋳物屋?」

「『遠州鋳造』って会社です。知ってますか」

「いや。それも客先なのか」

「違うと思います」と小柳津は即座に否定した。

「実はここ、俺の高校の後輩が働いてるんス。そいつから聞いたんですが、近々廃業するらしいんです。次の仕事先紹介して欲しいって、前から言われてたんス」

「ヤツはそこで何してるんだ」

「さあ・・・」

小柳津は遠州鋳造の構内を見下ろせるスロープの頂上の端に停めた車の中で缶コーヒーを一口飲んだ。

「よくわかりません。今夜にでも後輩に電話して聞いてみます。あと、今建設業者のトラックが入って、敷地の中に建設現場の事務所みたいなもんを立ててまして。解体工事とか始めるんですかね」

「さあな。明日も頼むな。事務所には電話しとくから直帰していい。くれぐれもヤツに気付かれんようにしろ。その後輩ってヤツに電話するの忘れんようにな。ご苦労さん」

小柳津は挨拶をして携帯をスーツのポケットに仕舞った。

桑田にはブラブラしているところを拾われた恩がある。しかし、このように隠れて同じ会社の人間を探偵するなんて・・・。罪悪感を覚えないでもなかった。

「アイツは俺たちを追い出すために来たんだ」

去年松谷が赴任してきてから、事あるごとに桑田はそう毒づいていた。

桑田の考えていることが理解できなくはなかったが、今、静岡の売り上げは低迷している。会社にとって本当に必要なのは松任のような人間なのではないだろうか。彼のあの鮮やかな手並みを見せつけられた直後こそ落ち込んだが、時間が経つにつれ自分も松任の下で仕事をしてみたいと思うようになっていた。だから、同期の営業が松任に研修を命じられている一方、自分には何の指示もないことに疎外感を感じたし、このまま桑田の言いなりになっていいのだろうかという葛藤があった。

「俺には本社の増田常務が付いている。俺を信じろ。松谷なんて必ず追い出してやる」

桑田はそう言うが、その言葉が次第に無意味な虚勢に聞こえてきて仕方がなかった。

陽の落ちかけた鋳物屋の構内を見下ろしながら、小柳津はコーヒーの残りを啜り缶を窓の外に放り投げた。


毎夜、日付が変わってから事務所に戻った。伝票をサチエの机の上に置き、明日の準備をして自分の部屋に帰る。帰ると今度は東遠州の件に取り掛かった。PCを開きメールをチェックする。毎晩二三時間程度しか眠っていなかった。が、不思議に疲れを感じなかった。

営業マンの選抜と並行してその業務をアシストするITに精通した人材を募集した。業務や物流の管理だけでなく、納入した機器にインプットするアプリケーションプログラムぐらいはメーカーに頼らずに作成したい。メンテナンスを含むサービスエンジニアリングの能力を持ち、さらにユーザーに講習できるぐらいのスキルの高い人材も必要だった。そうすればメーカーからの仕入れ価格も下がる。付加価値を高めるから利益も増す。

不況のせいもあってか、三名の募集に男女合わせて六十名以上の応募があったと松谷から聞いた。システム構築の実務経験者や、情報処理と物流や経理事務に明るい中堅を十名ほどに絞った履歴書の写しがメールで送られてきていた。例によって極端に短く、「目を通しておけ」とだけ、コメントがついていた。

その際、治夫は大手のITソリューションの会社に在職したという女性を除外しようとした。スキルは申し分ないのだが、独身で扶養しなければならない小さな子供がいる。無理が利く人材とは思えなかった。履歴書の左肩にバツをつけた。

全てを秘密裏に運んでいるから当然事務所では面接などはできない。桑田の眼に入るかもしれないことを考え静岡ではなく東遠州駅前のホテルに会議室を取った。

駅で松谷と本社の人事担当を出迎えホテルに案内した。松谷は既に重役でもあるかのような貫禄を見せていた。治夫と同年代らしきその人事は気怠げに「どうも」と言っただけだった。このやる気の無さは自分が員数合わせで静岡くんだりまで連れてこられたと理解しているからだろう。治夫はそう解釈した。松谷は抜け目がない。人事部まで確実に根回しが行われていた。本社の人事が同席した、ただそれだけで筋が通る。松谷の政治力は相当なものだということだ。強力な後ろ盾がいるのだろう。

会場となる小宴会場の一室に入ると、治夫はプリントアウトした履歴書の写しを松谷に渡した。ホテルの係員とテーブルや椅子をセットしている間、松谷は治夫がチェックした書類に目を通していた。

「何故、この人を外すんだ」

例の子持ちの女性の履歴書だった。治夫は思った通りの意見を述べた。

「その点は確認すればいい。本人次第だろ。この人は面白そうだ。美人だし、俺の好みだ」と松谷は言った。

ほとんどの質疑応答は松谷が行った。

人事は眠気を我慢するのに苦労していた。治夫は面接者と目も合わせることなく書類ばかり見ていた。だからその女性のこともあまり覚えていなかった。

「松任君、何かあるか」

「特にありません」

他の面接者に対した時と同様、素っ気なく応えた。あとは書類に目を落としていた。だからその女性が入室してきたことにもあまり注意を向けてはいなかった。

「土屋多恵子です。よろしくお願いします」

松谷は型通りの質問をいくつかした後、こう尋ねた。

「ところで配偶者無しで扶養一人とありますが。お子さんですか。おいくつです」

「子供は二才です。昨年、離婚しました」

臆することなくきっぱりと答えた。その点を訊かれることは十分承知していたのだろう。

「そうですか。今日は何処かに預けていらしたんですね。勤務中はどなたが面倒を?」

「今日は三島に住んでいる父が面倒を見ています。採用頂ければこちらに越してきますが子供は保育園に入園させます」

「場合によっては残業になるかもしれませんよ。大丈夫ですか?」

「その点は自分の能力でカバーします。ご心配には及びません」

治夫は顔を上げた。

意志の強そうな口元を引き締め、余裕の笑顔を見せた。松谷は、ホラ本人がこう言ってるだろう、とでも言いたげに治夫を一瞥した。

数日後、三名の採用が本社で承認された。その中の一人にその女性が入っていたが、あまり深く係わらないことにした。松谷が職権を使って「現地妻」候補の人材を確保しようが治夫には何の関係もない。そう割り切るとその土屋という女性への関心を薄れさせていった。


あの二人。松谷と松任はあの鋳物屋を巡って裏で何かを企んでいる。それが何かは判らないが、松谷は静岡を根こそぎ変えるために、すなわち自分達を追い出すために来た。そのことははっきりしている。頼みの増田常務も松谷の件ではなぜか及び腰だ。

桑田は自分が徐々に追い詰められているのを犇々と感じていた。

久々に地元の幼馴染が経営する機械加工の工場へ向かった。規模は大きくはない。しかし腕のいい熟練工がおり、精密部品の微小加工を得意としていた。放電加工機も備える、その筋では一目置かれる位置にあった。もちろん単に付き合いが長いだけではなかった。工場で使う切削機械の刃物や他の消耗材の顧客でもありお互いの家族ぐるみの交際もしてきた。ただ、慎重なタイプで、桑田がいくら新製品を紹介しても馴染んだ古い機械への愛着を捨てず、大口の取引先とはなっていなかった。それに桑田はここのところの業績の低迷から上層部のプレッシャーを強く受ける立場であり、訪問しても単に茶飲み話に花を咲かせるだけに終わるだけの客先からは自然に足が遠のいていた。

半年ぶりに訪れた工場の事務所には先客がいた。駐車場の営業車にはハカマダ産業のロゴが入っていた。受付のいない受付を通り抜けて勝手知った事務所のドアを開けると、社長と顔を知らない男がいた。社長と机を挟んでこちらに背中を向けている男の作業ジャケットは良く見慣れたものだった。男の首筋にはあの黒い醜い痣が見えていた。

「ああ、正ちゃん。久しぶりだなあ」

社長は快く迎えてくれたが、松任の存在で心中穏やかではなかった。

「この人正ちゃんとこの人なんだってなあ」

何故松任がここに居るのか。それを問いただしたい衝動を抑えていると、松任の方からそれを説明してきた。

「所長代理。早く着いちゃったんでお先にお邪魔していました。こちらの守谷さん、四谷にいた頃からお世話になっていた方で、半年前にこちらの社長にヘッドハントされたんです」

「いやあ、ヘッドハントだなんて」

守谷と紹介された男は大いに照れながら桑田の名刺を押し頂きテーブルの上の松任の名刺の上にそれを置いた。

「リストラに遭っちゃって。それをここの社長に拾ってもらっただけですよ」

「ご謙遜でしょう。守谷さんは多くの大手の開発に名前を知られてる人ですよ。社長、初めてお目にかかりましたが、守谷さんを引っ張るなんてお目が高いですね」

「いや、実際に来てもらうまではこれほどの人だと思わんかったに」

「所長代理。社長は今回、守谷さんを総責任者にしてお取引先の進出先のクアラルンプールへついてゆく決断をされたんだそうです。丁度今現地の実情について話をしていたところだったんです。持ち込む機械もこの際一式新規に調達したいと・・・」

咄嗟に場を繕い、偶然鉢合わせした自分の立場を救い、初めて訪問した顧客の内情まで細かく把握して気分よく持ち上げる。

事務所では仏頂面しかしないのに、松任とはこんな寝技も出来るやつなのか。何より、自分がいくら押しても引き出せなかった大型案件を、今日初めて訪問したばかりの他所者が呆気なく成立させてしまっている。「長い付き合い」を誇っていた自分がたまらなく惨めに思えた。

「では、こちらはお急ぎになられているようですので、自分は見積の手配に移りたいと思います。所長代理、あとの詰めをお願いします」

松任は自然な形で先にその席を辞して帰って行った。

「桑田さん。あの松任さんはタダ者じゃありませんよ。静岡に来て松任さんが居てくれてホント、良かったですよ」と守谷が言った。

「いやあ、正ちゃん。出来る人が来てよかったねえ。これで静岡営業所も盤石、万々歳だら」と社長はカラカラと笑った。

桑田が事務所に戻った。

サチエに顧客からの注文書を渡して説明している松任を見つけた。立ったまま、ただ治夫を睨みつけた。

その只ならぬ雰囲気に、それまで談笑していた営業マンたちも、挨拶もそこそこにそれぞれ鞄を手にして出て行った。少なからず事情を知っている小柳津だけが残った。

それを待っていたかのように、桑田は治夫に歩み寄った。傍目にもその威圧感は強烈で小柳津は背中に冷たい汗が流れるのを覚えた。

治夫は平然としていた。サチエも、その必要が無いのにも関わらず注文書に書かれている項目を一々音読し治夫に確認する風を装っていた。

「前田フライス製、KZL801、オプションのパレット十セット、でいいんですよね。本体同型を三台、初回サービスのバイトは五セット、でいいんですよね」

「ハイ。そこに書いてある通りに手配してください・・・」

「お前、何様だ」

桑田が切り出した。互いの腕が相手の鼻面を直撃出来るほどの距離に詰められていた。治夫は何も言わなかった。

「あの対処で俺がお前に感謝するとでも思っただか。筋道が違うんじゃねえか。行くにしても本来担当である俺に断ってからにするのが当たり前だろう」

「その点については申し訳ありませんでした。以前お世話になった守谷さんが転職したというので挨拶しに行ったところ、あの一件を相談されまして」

治夫は鞄から先刻谷と社長に提示した資料を取り出し、桑田に示した。

「よろしかったら目を通してください。現地へ進出する際のメリットや問題点などを、先行しているいくつかの企業から集めてまとめてあります。今後桑田さんがあの案件を扱われる際に参考にして・・・」

「余分なこんすんな!」

桑田が払いのけた資料が飛散した。サチエが小さな悲鳴を上げた。

「知ってるぞ、松谷の犬みたいにお前が東遠州の鋳物屋で何かコソコソしてるのは。何をするつもりなのか知らんが、どうせ俺らを追い出すための策略だら。だけん、やり方ってもんがあるら。小柳津の客先にしてもそうだ。泥棒みたいに横から掻っ攫いやがって。何もとんじゃくねえだな。裏でコソコソやるのがお前らのやり方だか」

治夫は何も言わなかった。散らばった資料をかき集めてそろえ直し、再び桑田に差し出し頭を下げた。桑田は何も言わずに出て行った。

電話が鳴った。治夫が応対し、メモを取り、サチエに示した。

「御前崎のトシさんから。オイルシーリング三本追加しておいてって」

「何で松任さんは言い返さないんですか!」

メモを受け取り、サチエは立ち上がった。

「松任さんが来てからまだ二か月も経ってません。それなのに、静岡営業所全部のニ倍の売り上げを一人で稼いでいます。いえ、稼いで下さってます」

サチエは叫んだ。治夫に、というよりも自席で下を向いて黙っている小柳津に聞かせるためであるかのように声を張り上げていた。

「それなのに・・・。恥ずかしいですよ、あの人達。文句があるなら、それなりのことをしてから言うべきなのに」

彼女は自ら気を昂らせ肩を震わせた。

「いいんですよ。ありがとう、山岸さん」

事務所を出て車に乗り込むや松谷に電話をした。会議中だったらしく、しばらく待たされて出た松谷は不機嫌そのもののだった。

「何だ」と松谷は言った。

「例の東遠州の鋳物屋の件ですが、どうも桑田さんにバレたようです」

「・・・そうか・・・」

松谷はし沈黙の後、こう言った。

「じゃあ、それを逆手に取ろう。仮事務所はいつから使える」

「机や事務機器は既に搬入してあります。電話も引きました。いつでも使えます」

「わかった。それなら君は明日から東遠州で仕事しろ。すぐに東遠州営業所所長代理の辞令を出す。採用した三人も招集していい。すぐに掛かれ」

「一つ、お願いがあるんですが」

「何だ」

「静岡の山岸さんを残したいんですが」

「あれは、桑田の息のかかった女だぞ。やめとけ」

「現在の四か所の営業所の状況の把握、御前崎の詰め所との連絡、県内の顧客の知識。彼女なしで運営するといろいろ不都合が出てきます。彼女は必要です」

「あんな根暗な女のどこがいいんだか・・・。わかった。好きにしろ」

「ありがとうございます」

「それからな、選抜した三名とその山岸君以外は即刻飛ばすからな。君から引導渡しておけ。桑田だけは置いとけ。俺が直接介錯してやる」


仮事務所の表には事務用品のレンタル業者から今朝届いた備品が早春の眩しい光に照らされて放置されていた。治夫は一人で机や椅子や事務機器を運び入れていた。そこへ下ろしたてのジャケットにズボンという作業服姿の女がやって来た。

「おはようございます」

土屋多恵子は両手にバッグと紙袋とをぶら下げ、椅子を掻き分けるようにして事務所の戸口にやって来た。

「私、遅刻しました?」

「いいえ。時間どおりですよ」

古染みのある肘掛け椅子を運び入れながら治夫は答えた。レンタルだから文句は言えない。

「土曜日なのに無理を言って申し訳ない。PCのセッティングはあなたにお願いしたかったので。あの、お子さんは・・・」

「この近所に友達がいるんです。そこに預けてきました」と土屋は言った。

「ですから、もし残業とかになっても頼れます。今日からお世話になります。よろしくお願いします」

「そうですか・・・。こちらこそ、よろしくお願いします」

すぐ隣には建設会社の現場事務所があり、その向こう側には「箱馬」と呼ばれる黄色と黒に塗られ建設会社のロゴが入ったバリケードが並べられていた。新事務所棟を建てる予定になっている敷地の基礎工事が始まっていた。周囲は鋳物工場の内部を改装するための重機や資材を運び込むトレーラーや大型トラックが始終出入りしていて騒々しかった。

土屋も自分の荷物を片隅に置き治夫を手伝い始めた。

「他の方々はこれからですか」

「ぼちぼち来ると思いますけどね」

搬入が終わり、土屋が並べられた机に雑巾をかけていると、いつもの事務服でなく作業服姿のサチエが段ボール箱を抱えてやってきた。

「遅れてすみません」

土屋とサチエが「すみません」「いいえ」などと声を掛け合いながら営業車から段ボール箱を運び入れている間に、治夫は部屋の片隅をローパーテーションで仕切り、そこに粗末な応接を置いた。

防災放送の十二時のジングル「ふじの山」が鳴り渡った。ヘルメットをかぶった建設作業員達の向こう側に見える鋳物工場。そのスレート葺きの造形棟から鉄粉混じりの粉塵が吐き出されてキラキラ輝いていた。埃と共に煤で真っ黒になった工員たちがぞろぞろと出てきて手洗い場に溜まった。二三人の影が集まってこちらを見ていた。鋳物工場の操業はその月一杯で終了する予定になっていた。

「二人はお昼にしてください。山岸さん、出来れば長めに。食事の後消耗品なんかを買いに行ってもらうと助かります」

「土屋さん、でしたね」サチエが名前を確かめるように声を掛けた。「行きませんか」

二人は連れだって車に乗って出て行った。

「あのう、何食べましょうか」

左右をしつこいくらい確認して車を公道に出しながらサチエが尋ねた。この辺りは周り一面田んぼで、そこかしこで耕運機がうなり土起こしが始まっていた。

「そうですねえ。こんな格好だしなあ。ラーメンか牛丼でいいです。さっさと済ませて戻りたいですね」

「あのう、多分松任さんは気を遣ったんだと思うんです」

「どういうことですか」

「松任さん、これから異動になる人の面接なんです。昨日で終わるはずだったんです。私も受けました。私は引き続き松任さんの下で働くことになりましたが、昨日来れなかった人もいて・・・。

本当は松谷所長がすることなのに松任さん、押し付けられちゃったんです。転属させられる人たち、皆不満だらけで・・・。多分修羅場になるから、来たばかりの土屋さんに見せたくなかったんじゃないかって・・・」

「そうだったんですか」と土屋は言った。

「あの、そこのコンビニに停めて下さい」

車がコンビニの駐車場に停まると土屋はドアを開けながらこう言った。

「だったら、早く戻らなくちゃ」

二人がレジ袋を提げて戻ると怒号が仮事務所の外にまで聞こえていた。通りがかった建設作業員達が目を丸くして顔を見合わせていた。

「お前にそんな権限があるのか!」

「いくら会社の方針といってもあまりにやり方が乱暴過ぎだら」

「こういうことはあんたじゃなくて松谷所長から話があるべきじゃないのか」

「二十も下のお前にこんな言われ方をするこんねえだ。お前みたいなやり方が通るなら会社はめちゃくちゃになっちまうに」

パーテーション一枚の向こう側で繰り広げられる「修羅場」から大声が響く度に、サチエは首をすくめた。。

「私の権限は松谷所長から委嘱されたものです。お疑いでしたらどうぞ所長に直接ご確認ください」

土屋は背後から聞こえてくる諍いをBGMくらいにしか思っていないようだった。ひっつめ髪で化粧気もない。切れ長の涼し気な目元と引き締まった薄い唇は色白の肌に映えた。和服の似合いそうな典型的な美人顔が買ってきたクロワッサンを無造作に頬張り、梱包を解いたばかりのPCの立ち上げ作業に没頭する様が同じ女性のサチエの眼からみても魅力的に見えた。

「あの・・・、土屋さん?」

サチエは土屋を気遣い、小声で呼びかけた。

「多恵子でいいよ。私もさっちゃんて呼ぶ。いいかな」

そう言ってクロワッサンの残りを口に押し込み、缶コーヒーを流し込み、

「で、何?」

周囲の雑音などまるで気にもしないその気丈さに畏敬すら感じた。

「あ、いえ・・・。何でもないです」

治夫はポケットから名刺入れを取り出し、何枚かの名刺を選び出してテーブルの上に並べた。そして一枚を指差した。

「この方はあなたに何度か空調と排防塵の設備について質問されていたはずです。この会社の方は設備を新しくしたいからと必要な工作機械の仕様をあなたに提示して電源と給排水設備の設計を依頼していた。この方は東南アジアに進出する取引先に付いて行こうか悩んでおられました。現地の実情を聞きたいとあなたに相談していた。

あなたはその全てを放ったらかしてましたね。何日も何週間も放っておいた。いずれも一日あれば見通しぐらいは返事できる案件ばかりです。私はそれらの案件をその場で回答し、新しい防塵設備を受注納入し、電源と給排水設備の構築を請け負い、本社の海外事業部に連絡してジャカルタまで同行してもらい、私の知っている顧客の工場と設備の見学をアテンドしました。社長先週決断されたみたいですね。海外事業部から仮契約したと報告もらいました」

ここで言葉を区切り椅子に座り直した。そして応接テーブルの向かいで憤怒に顔を染めている浜松の古参社員に止めを刺した。

「あなた、二十年近くもこの会社にいて今まで一体何をしておられたんですか。あなたみたいなのを給料泥棒って言うんじゃないんですかね」

テーブルがひっくり返され茶が零れて治夫のスラックスにかかった。構わずに無言で相手を見上げ続けた。

「桑田さんが黙ってないぞ。増田常務とは昔から繋がりがあるんだ。あとで吠え面かくなよ」

「桑田さんなら今日本社で本部長と面談されてますよ。増田常務も同席されていると聞いてます」

浜松の古参は荒々しく立ち上がりゴミ箱を蹴飛ばした。ゴミ箱はころころと転がり、事務机の足にぶつかって止まった。サチエは顔を青くしていたが、土屋多恵子が平然と立ち上がり、パーテーションから出て来た男をひと睨みすると、黙ってひっくり返ったゴミ箱を片付け始めた。

「ケッ!」

実力では到底敵わない相手を、せめて嘲笑することで自らを慰める。浜松の古参はそうした手合だった。仮事務所の立て付けの悪い引き戸に八つ当たりしながら出て行った。眉一つ動かさずに平然と対応してのけた土屋のその態度に聊か驚いた。

「驚かせてすみません」と治夫は言った。

「あと二人ほど来ますが・・・」

「いいえ」と多恵子は言った。

「さっちゃん。よかったらそのPCもセットアップしてあげようか」


小柳津はカーペットに仰向けになりベッドの上に足を上げて天井を見上げていた。胸の上には艶々した毛並みの三毛が気持ち良さそうに眠っていて小柳津の指が頭を撫でる度にゴロゴロ喉を鳴らした。

今日、同僚の営業たちが松任の面接を受けた。受けた、としかわからない。彼には呼び出しがなかった。その代り、松任にこう言われた。

「小柳津さんは今日一日御前崎で研修を受けて下さい。トシさんには話が行っていますから向こうで指示に従ってください」

丸一日磐田のSMT、電子回路の表面実装機のラインの移設を手伝わされて先ほど帰宅した。すぐに同僚や先輩の営業たちに電話したが誰も出てくれなかった。その代り、桑田から連絡があった。ひどく、酔っていた。

「お前、どうやって松谷に取り入っただ」

「何の話ですか」

「お前だけ、今日松任の面接に呼ばれなかった。何でだ」

「知りませんよ。俺は御前崎に行けって言われただけです。それから丸一日磐田でビシャモン転がしてました。他の営業の衆とも電話も通じないし。みんなどうしたのか・・・」

「飛ばされるだ」桑田は静かに小柳津を遮った。

「今日、東京本社に呼び出された。緊急の営業会議ってな。行ったらお前、俺の吊るし上げだに。本部長、副本部長、海外事業部長、企画部長、増田常務までいた。その衆らの前で、松谷の野郎、俺の業績から、経費の使途、失注の顛末。重箱の隅つついて、あることないことぶちまけてくれてよォ・・・」

電話の向こうで、桑田は乾いた笑い声をあげた。

「俺はただ中京のときと同じこんやってただけだに。お前や根暗の山岸みたいな引き籠りを面倒見てもやった。この景気悪い中、昔からの客をずっと繋いでいたんだ。それなのによお・・・。

増田さんにも切られたってことだな。あの人の我儘にもぞんぶん付き合っただけんなあ。それが全員、島流しだとさ。国内、国外、社内、社外。バラバラに飛ばされるだ。俺も中部支社長付になる。その後恐らく転籍出向だな。片道切符でどっかチンケな会社に飛ばされる。残るのは前から御前崎に行ってた佐藤と永井と小田、それとお前だけだ」

「本当ですか」

「嬉しいか」

「そんなわけないですよ」

「もしかしてお前、松任を見張るふりして俺らのことを告げ口しただら。二重スパイだ。そうだら。あんだけ面倒見てやったのに、それがこれか。見事に裏切ってくれたわけだ」

「俺、知りませんよ。何かの誤解です。桑田さんには恩義感じてますし・・・」

「だったらお前、誠意見せろや。このまま松谷とあの他所もんがデカい面して静岡でのさばるなんて許せん。俺もいい歳だ。今更辞めてもこのご時世ロクな行先はねえだろう。だがこのままじゃあ納得出来んだよ。気持ちよく静岡にバイバイするために、最後にお前の心意気、見せてくりょう・・・」

小柳津の眼に暗い光が宿った。傍らの携帯を取ろうと動いたら、猫が身を翻してカーペットに降りた。彼は小柳津をひと睨みすると、にゃあと凄んだ。


翌週、松谷から電話があった。

「常務の仏頂面、お前にも見せたかったぞ」

彼は電話口で笑いながら伝えて来た。

「そっちは大丈夫か」

「全て終わりました。問題はありません」

「それならいい。いろいろあったが、こんなのは想定内だ。桑田もなあ、腰巾着だったわりには、あっさり親分に見限られたようだな。世が世なら常務にくっついて本社で羽振りを利かせていたはずだ。静岡でくすぶっているせいで屈託があったんだろな。

いくら寄り合い所帯だからってあんな無能が本社に入れられるわけはねえからな。引継ぎをサボタージュする人間も出てくるかも知れんが、あくまで形式だ。事実上客先を君が押さえているんだから何の問題もない。頑張れよ」

「はい。ありがとうございます」

「あ、それからな」と松谷は付け加えた。

「君、詰所や現場に差し入れ持って行ってるんだってな。御前崎のトシさんがな、三十年この会社にいるが営業さんにこんなことしてもらったの初めてだって喜んでたぞ」

松谷は本丸の桑田の対応だけは治夫任せにしなかった。まずくなれば切り捨てられるとさえ覚悟していただけに、松谷の親分肌な一面を見た思いがした。もともと将来に夢を持っていない治夫にはどうでも良いことではあったが。

新しく選抜した営業たちが着任し、ようやく新体制での仕事がスタートした。

名古屋と東京での大口の顧客対応を兼務する松谷は、週に一度仮事務所に来た。治夫か統合関係の進捗状況を聞き次週次月の見通しを確認する。それらが終わるとサチエや土屋に親し気に声をかける。そして二週に一度は彼女を連れだした。

「新人の彼女にいろいろ覚えてもらいたいからな。定時までには戻る」

定時を過ぎ、他の営業やサチエが退社した後、治夫が一人で電話をしていると、表に車が止まった。松谷と土屋多恵子が事務所に入って来た。

「今戻りました」と多恵子は言った。その表情からは何も伺えなかった。

「おう。渋滞にはまって遅くなっちまった」

治夫は電話を続けながら頭だけ下げた。松谷は多恵子と二三事話してから軽く手を上げて事務所を出て行った。多恵子は何事もなかったようにPCに向かった。

電話を終えてもしばらく黙っていた。しかし多恵子はなかなか帰る素振りを見せなかった。痺れを切らし、土屋さんと呼びかけた。

「もう遅いし、帰ってください」

「ですが、外出していて今日やるはずだった分が・・・」

「今はまだ準備段階ですから」

「ですが、所長代理が頑張っていらっしゃるのに私だけ楽してるみたいで・・・」

「土屋さん」

治夫は語気を強めた。

「これは自分の仕事なんです。あなたが松谷所長に同行して市場を視察するのも立派な仕事です。あなたは今日一日十分に働いたんですから気兼ねする必要はありません」

言葉を選んだつもりだったが、どうしても嫌味っぽくなってしまった。少し後悔した。

「お子さん、まだ小さいんでしょう。今日はもう帰ってください」

「わかりました」

蟠りを残した表情のまま、多恵子は席を立ち帰り支度を始めた。

「では、所長代理、お先に失礼します」

「お疲れさまでした」

治夫は書類に目を落としたまま返事をした。

「あの・・・」

目を上げた。

多恵子は、いえ何でもありません、お休みなさいと事務所を出て行った。

一体何を言おうとしたのか。

少し気にはなったが、元々関心はなかったし、今後も持たないようにするつもりだった。女はもう二度とごめんだ。その気持ちに聊かも揺るぎはなかった。

帰宅する前に工場の事務所にまだ灯りが点いているのを見た。丁度いい。今までに話の付いた工員たちの書類を届けておこう。

事務所に上がると赤堀が一人で机に向かっていた。

「遅くまで大変ですね。これ、まだ途中ですが今日までに纏まった分です」

カウンター越しに書類を手渡した。

「お手数をおかけして申し訳ございません」

地味な紺の事務服の赤堀は丁寧に頭を下げた。

「いえ。この程度の事は・・・。ただ、出来ればくれぐれも面接や内定の決まった方には社員同士で話を出さないように伝えて下さい。無理かもしれませんけどね。

それと、多少畑違いでも我慢してくださいと。変わらなければ、生き残れませんから。皆、そうですから」

「もちろんです。その辺はしっかり言い伝えますので」

「あの、赤堀さん。一つお尋ねしたかったのですが、再就職希望の方のリストにあなたのお名前がありませんでした。よろしいんですか」

そこで初めて赤堀は表情を和らげた。

「まだ全員の行く末が決まってませんし、それにここが無くなったら家庭に戻ろうと思ってましたから。子供も就職してお金のかかる時期も過ぎましたし・・・」


治夫は極力引継ぎに同行した。予想通り桑田をはじめ三名の古株が何かと理由をつけて引継ぎを拒んだ。バカな連中だ。直属の上司の業務命令に服さず、不満があると上司を飛び越えて上役に直訴を繰り返すような人間が組織の中で信頼されるはずがない。それにここまで来ればどう足掻いたところで決定は覆らない。前任者抜きでの挨拶回りを続行した。

鋳物工場の工員たちの再就職先もあと四五名を残して決まりつつあった。残ったのはやはり資格のない若年工員たちだった。

今日は名古屋近辺の大手自動車会社でもあたってみるか。下請け孫請けレベルでも社員寮を持った工場があったはずだ。

そう考えながらいつもより早めに外回りから上がり、灯りの消えた仮事務所のドアを開錠しようとしているところだった。

突然背後から殴られ、引き倒された。

三人か四人なのかよくわからなかった。引き倒された後はひたすら蹴られた。腹と頭を丸めてじっと耐えた。暗がりで、皆帽子を目深に被ってマスクをしていたから顔はわからなかった。彼らが唾を吐いて立ち去った後に時計を見た。三十分ほども続いたかと思われたが実際には四、五分でしかなかったようだ。起き上がれるか試したが背中が異常に痛んだ。そのままでいた。起き上がろうとする気力もなかった。

もう、いいや。

起き上がらなければならない理由が見いだせなかった。傷ついた頬を夜風が弄るに任せた。


      ≪つづく≫


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