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疫病神の誤算  作者: 美作 桂
19/20

8 過去 その7

熱く燃えるような秋祭りが終わると急速に秋が深まり、冬がやってくる。

その日は何となく底冷えがした。

アスファルトの上に新しく描きなおされた山車の車輪の痕が朝から降り始めた小雨で見えなくなった。事務所前の金木犀も香りを放つのをやめ、花を散らし始めた。

「それで、そのまんま帰ってきちゃったの? 

あのな、三田君。それはビジネスチャンスだぞ。お客さんが本当に君を嫌いなら、もう君なんか相手にしてくれない。クレームを受けるというのは、実はとても有難いことなんだぞ。わかるか? 

もう一度行ってこい! 商品説明に自信がないならわかるまで現場の技術に聞け。何なら現場の誰か連れて行ったっていい。同機種が入っている工場に客を連れて行ってもいい。契約取れるまで、最後まで絶対に諦めるな!」

その日はひと月に一度の状況確認の会議に当たっていた。

事務員に対してはいじられキャラで通していたが、部下の営業に対しては一切の妥協を許さない、鬼の上司に徹していた。事務員たちはもう何人もの若手の社員がここで一人前になって巣立っていったのを見てきている。治夫がどんなにキツく営業たちに当たっても表情一つ変えなかった。それでいて後でこっそり彼らを慰めフォローするのも彼女たちの役目になっていた。

治夫の間抜けな着信音が鳴った。うっかりマナーモードにするのを忘れていた。家族専用の着信音で、由梨が悪戯で設定していたのを気に入ってそのまま使っていた。

「ちょっと休憩にしよう」

電話は多恵子からだった。スマートフォンを取り出しながら事務室を出て階段を降りた。多恵子は今日、不妊治療のために浜松まで行っていた。

「どした?」と治夫は訊いた。

「予定日は来年のゴールデンウイーク過ぎだよ」と多恵子は言った。

「はあ?」

「できたの」

低くはあったが喜びを抑えきれないといった感じの熱の籠った言葉だった。その言葉に目を見開いた。

「ホントか!」

「ほんと。間違いない。多分きっとあの時の子だに。あなたがめちゃハッスルした夜。エコーも撮った。まだ丸い豆粒だけど。写メ撮って送るね」

「・・・おめでとう」

感極まって、やっとのことでそう口にした。

よくやった。

よくやった、母ちゃん。

「頑張ったな。長かったな。よかったな」

受話器の向こうから鼻を啜るのが聞こえて来た。それが嗚咽になった。言葉になっていなかったが、言葉以上に多恵子の気持ちが伝わってきた。

気を取り直して妻に注意を呼び掛けた。

「いいか。ちゃんと気持ちを落ち着けてからゆっくり帰って来るんだぞ。運転気を付けてな。ケーキ買った?」

「あ、忘れてた。もう舞い上がっちゃってたもんで」

「じゃあいいよ。ケーキ、こっちで買うから」

「いいよ。おいしいお店があるから。折角だから買っていくよ」

「わかった。しつこいけどくれぐれも運転気を付けるようにな」

「あなた」

「うん?」

「ありがとう。愛してる。じゃ、後でね」

目を閉じて受けとめた。胸が、溢れた。

それまでの多恵子の言葉の中で一番温かい、心に染み入る声だった。

そうだ。あの感謝の言葉を言わねば。

「もしもし」

通話は切れていた。

いつかは言わねば。そう思い続けて長かった。夏に美奈に言った言葉は伊達や衒いではない。治夫の本心そのものだ。

自分は多恵子と由梨のお陰で生きている。

どうせ夕方には帰って来る。美味いワインでも注いでやりながら言えばいい。どうせなら多恵子と二人きりになってから言おう。さて、どうやって由梨を早めに寝かせようか。

それからの発表は上の空だった。定時になり、誰よりも先に事務所を出た。バイパスが混んでいるとしても五時半には帰ってくるはずだ。途中高級食材を扱うスーパーに寄ってチーズとワインを買った。由梨にも寄り道するなと言ってある。天にも昇る気持ちで家に帰った。ワインを冷やし、チーズを切って簡単なオードブルを作ってやろうと思った。

五時半過ぎに由梨が雨合羽を滴らせて帰って来た。

「由梨。今日は特別な誕生日になるぞ」と治夫は言った。

「何で」

「母さんが帰ったら教えてやる」

なんでいいじゃん教えてやと食い下がる娘を風呂場に押し込み、オードブルの続きに取り掛かった。

しかし、遅い。

多恵子の携帯に電話を入れた。出なかった。きっと、夕方の渋滞に嵌っているのだろう。ケーキを買いに行ってバイパスに乗るのが遅れたに違いない。そう思い込もうとしていると、シャワーを浴びた由梨がバスタオルで頭を拭きながら出て来た。

「でもさ、お母さん、遅くね?」

改めて娘に言われ、楽観に影が差した。

多恵子があらかじめ決めておいたメニューのうち、由梨の大好きなミートパイの仕込みに掛かろうとした時だった。家の電話が鳴った。由梨が治夫を見た。多恵子なら治夫の携帯に寄こすはずだ。胸騒ぎがした。

治夫は受話器を取った。

電話は多恵子ではなく、警察署からだった。


病院に向かう車の中で、早くも由梨は涙目になっていた。集中治療室から移された個室でもう動かなくなった母と対面した。号泣して母にとり縋った。あんなに温かかった母の温もりは消えていた。その絶望的な冷たさは、微かに残っていた由梨の望みを全て絶った。

渋滞の最後尾についていた母の車に長距離トラックが突っ込んだ。トラックの運転手、多恵子の車の前に停車していた観光バス、そして弾き飛ばされた母の車が接触した隣のレーンに居た車にも怪我人が出たが、命を落としたのは多恵子だけだった。ほぼ原形をとどめないほどにひしゃげた車の運転席にいたにしては、母の死顔は眠っているかのように穏やかだった。

ウチのせいだ。

ウチがお父さんを好きになっちゃったから、バチが当たったんだ。ウチのせいだ。ウチが悪いんだ。お母さん、ごめんね。

由梨は自分を責めた。

父は終始落ち着いていた。警察官や医師から説明を受ける時も淡々とメモを取り、保険会社の担当者と低い声で穏やかに話しをしていた。

母の車に追突したトラックの運転手が警官に連れられ病室に来て土下座した。

由梨はたまらず「人殺し!」と食って掛かった。

父はそんな由梨を咎め、あろうことか運転手に手を差し伸べた。

「どうかお手を上げて下さい。娘が取り乱しまして申し訳ございません」

警官に促されて運転手が去った後、由梨は父に噛みついた。

「何で! 何で怒らん。あいつがお母さんを殺したんだに!」

泣きながら父の胸を叩き続けた。父は無言でそれを受け止めていた。その情景は周囲にいた看護師達の涙を誘った。父の胸に顔を埋めた。くぐもった嗚咽が病棟の廊下に響いた。

翌日、母の遺体と一緒に家に戻った。

ミヨシさんと葬儀社の担当が来ていて父と話をした。ミヨシさんの旦那さんが町内会の人達を連れて来てくれ、家の中の事をやってくれた。

ミヨシさんは時々わけもなく旦那さんを怒鳴り、旦那さんも静かに怒鳴り返した。その度に父が中に割って入り二人を宥めた。父が穏やかに、時折微笑を交えながら話をすると湯気が立つようなミヨシさん夫婦の喧嘩も収まった。ご夫婦が、やりきれない気持ちの行き先をお互いにぶつけあっているのは由梨にもわかった。

二日後が通夜、その翌日の仏滅が本葬と決まった。地元の人たちが代わる代わるやってきて線香をあげた。この地域の「お悔み」と言われる習わしで、皆父に話を聞き悔やみを言った。皆が帰ると、父はまた母の枕辺に端座した。すぐに由梨に気付いて振り向いた。

「明日も明後日もあるからなるだけ休みなさい。・・・眠れないのか」

「うん」

「じゃあ眠くなるまで母さんのそばにいればいい」

父がアルバムを取り出してきた。二人で眺めた。すぐにたまらなくなった。こんなこともあったあんなこともあったねと口にするたびに込み上げてきてしまう。

それなのに父はうんとかああそうだったなと言うだけで懐かしみも悲しみも感情の昂まりも見せなかった。とても気持ちの共有などできそうになく、アルバムを見終わると一人で再び二階に上がった。

冷たい。

そう思った。腹が立つのを通り越して不可解だった。どうしてそんなに落ち着いていられるのか。父にとって母とは何だったのか。母を愛してはいなかったのだろうか。寂しさが募った。

通夜の日の朝。よく眠れないまま部屋を出ると既にミヨシさんや町内会の人たちが来て何かと家のことをやってくれていた。家のリビングと寝室に幕が張られ、葬儀場になった。葬儀社の人たちが母の遺体を清め装束を着せ始めた。父は手伝ってくれた人たちに終始慇懃に穏やかに応対していた。

「大丈夫か」

父は昨日と同じように何度も由梨を気遣ってくれたが、やはり全く表情が変わっていなかった。

東京や名古屋から相次いで父の会社の人が来た。その中に松谷さんがいた。彼は父の会社の重役だ。何度か家に遊びに来て知っていた。タクシーから降りるや治夫に駆け寄り無言で手を握り、肩を抱き、うんうんと頷きながら時折空を仰ぎ目を瞬かせて何事か父に話しかけていた。そして由梨を認め、熊のような毛むくじゃらの手を差し伸べた。

「由梨ちゃんなあ。ホントに残念だったなあ。惜しかったなあ。いいお母さんだったなあ。ホントになあ。これからは、お父さん助けてやれな」

目に一杯の涙を浮かべて何度も繰り返していた。そのあまりの嘆きように誘われてまた泣いた。

美奈も両親と一緒に来た。夏の終わりに別れたばかりだというのに。再会がこんなに早く、こんな悲しみに満ちた場で実現することになるなんて夢にも思わなかった。

「由梨坊。大丈夫か?」

ブレザーの制服に身を包んだ美奈は、たった二ヶ月の間にさらに美しく大人びて、そこに居た。ただし言葉だけは変わらず、仲良くつるんでいた時のままだったのには救われた。

「どうして欲しい?」と美奈は言った。

「抱っこして」

美奈の胸の中でまた、声を上げて泣いた。

父の事務所の社員たちや取引先の経営者や担当者がひっきりなしにやって来ては父と二三事言葉を交わして焼香をして行った。母の同級生や友人達も来た。初めて見る人もいた。由梨が小さかった頃に度々預かってくれた人もいた。

うわー。棺を覗き込んで崩れる様を見て、どんなに母が友達に愛されていたかを知った。

由梨のクラスの友達も親同伴で来てくれた。その度に父は律儀に応対していた。依然表情は全く変わっていなかった。

枕づとめが終わり、通夜振舞があり、やがて近所の人たちや会社の関係者らが三々五々に帰って行った。松谷と美奈の両親が最後まで残っていたが其々にホテルに引き上げて行った。

「今夜は由梨についててやりたい」

美奈はそう言って残ってくれた。

毛布を持ち出して美奈と二人で朝まで母の側にいることにした。線香番は俺がするからという父だったが任せきりには出来なかった。凛と背筋を伸ばして母に侍座する父に何度か声を掛けた。その度に、「俺は大丈夫だから」と微笑まれた。

一昨日からの泣き疲れ気疲れが襲ってきて何度か船を漕いだ。気が付くと美奈がいなかった。二人で頭を突き合せるようにして壁に凭れていたはずの美奈は父の側にいた。

彼女が父に話しかけているのを見たとき、父の不自然にようやく気がついた。

一睡もしていないはずだ。美奈が何を話しかけても父はただ同じことを繰り返すばかりだった。大丈夫だよ、眠くないんだ、いい顔してるじゃないか、なあ?

父は、既に、壊れていた。

由梨はやっと、父の悲しみの底知れない深さを知った。

翌日も父は変わらなかった。喪主として物静かに挨拶する姿に感銘を受ける人もいた。が、由梨にはわかっていた。火葬場で母の棺が分厚いドアの向こうに押し込まれ、思わず口元を抑えて抱きついた美奈の肩の向こうに焦点の合わない目をした父を見た。

喪服の人々や家の前に横付けした車があらかた消えてしまい、美奈も両親と一緒に帰っていった。

「駅まで送るよ」

「ハア? 何言ってんの。あんたがついててやんなきゃダメじゃん!」

美奈に叱られた。

父は会社に行くと言い出した。

片付けなければならない案件があると言い張った。

この三四日一睡もしていない。行かせるわけには行かない。母の死を悼みしんみりしている場合ではなかった。既に帰宅したミヨシさんに電話した。彼女はすぐ来てくれた。

「鈴木さんやら三田さんやらサッちゃんもみんなちゃんとやってくれるもんで。今日明日はいいだよ。ゆっくり休みナイ」と一生懸命に説得してくれた。

「そうは行かないよね」

頑として曲げない父に根負けし、ミヨシさんは車で送って行ってくれた。しかし出かけて間もなく、悄然とした表情で事務所の入社したばかりの若い三田という顔見知りの社員に車に乗せられて戻ってきた。

「所長とにかく大丈夫ですから休んで下さい」

「何を言っているんだ決裁書類山積みになってるんだぞ」

「全部支社長も本部長もご存知ですから。とにかく大丈夫ですから」

「三田さん」

急いで駆け寄ると、三田は無理矢理父を玄関先に座らせ、抑えつけた。

「由梨ちゃんは平気かい? 所長、アブナイんで連れて来た。面倒、見れるかい」

「はい。ご迷惑かけてすみません」

「何が迷惑だ! 俺は所長だぞ。仕事して何が悪い」

「お父さん! 部下の人困らせちゃダメじゃん。三田さん、ごめんなさい。ありがとうございました」

「こんな所長、初めてだよ。よっぽどショックだったんだなあ。所長、由梨ちゃん困らせちゃダメですよ」

「なにを生意気な」

「お父さん!」

由梨は父を窘めた。

「いい? 絶対、目離しちゃダメだよ。落ち着くまで見守ってて。出来るかい? 由梨ちゃん」

「はい。大丈夫です」

ミヨシさんからも電話があった。

「由梨ちゃん。お父さんから絶対目離さんようにね。なんかアブナイで。なんならいつでも電話してね」

電話の向こうのミヨシさんと三田に礼を言い、見送った。

父の腕を抱えがらんとしたリビングを通り抜け和室に戻った。白木の机に白い布で包まれた箱と香炉が載っていて長い線香から細い煙が立ち昇っていた。父は箱の前に座り込みぼんやりと背中を丸めた。どうやら落ち着いたようだ。

何とか気を引きたくて、軽い口調で話しかけた。

「何だか散々な誕生日になっちゃったやあ。誕生日がお母さんの命日になるなんてね。プレゼントももらい損ねちゃったしなあ・・・」

そう言って父の反応を待った。

プレゼントどころじゃないだろう!

そう言って怒ってくれれば。

でも期待した反応はなかった。やっぱりダメか。どんな刺激がいいんだろうと考えていると、ゆっくりと父の背中が伸びていくのを見た。

「誕生日?」

キター!。

「そうだよ。お母さんの命日になっちゃった。今からでもいいもんで、プレゼント頂戴や」

父は再び母の箱に目を戻し、

「なんでだ」と呟いた。

「お前、今日学校じゃないか。なんで家にいる」

「お父さん・・・」

「なんだ、これは。母さんまだ戻らないのか。お前の誕生日なのに。何してんだろうな」

急に父が立ち上がった。そこいら中の引き出しや押入れを開け始めた。

「どうしただ?」

由梨の呼びかけも無視し、家じゅうを駆けまわって何かを探し求めていた。父の目は血走っていた。もう由梨には見ていることしか出来なかった。

「携帯! 俺の携帯は?」

やがて作業着の上からあちこちを滅多矢鱈に叩き始めポケットを探りスマートフォンを取り出して操作し始めた。手が震え、何度も取り落としてようやく目的の画像を出し由梨に示した。

「できたんだ! 母さんやっと。ほら、見てみろ。弟か妹か。お前の兄弟だぞ由梨。母さん頑張ったんだ。やっと、授かったんだ。そうだ、バッグ! 母さんのバッグは?」

母の泥まみれになったバッグを書斎から持ち出してきて大声で由梨を呼び、あったぞー! と叫びながら戻って来て畳の上に中身をぶちまけエコーの写真を見つけた。

「あった! ホラ、これならわかるだろ? この小さな豆粒みたいの。な? ・・・やっと、やっと出来たんだよ。でかしたぞ、多恵子! ・・・多恵子?」

父は、その場に崩れ落ちた。

「お父さん!」駆け寄って肩を抱いた。

「なんで・・・」

数分か、数十分か。もう時間の感覚すら怪しくなった。なんでと言ったまま絶句している父を、ただ見守るしかできないのか。

「約束したじゃないか。絶対離れないって。

ケーキなんか買いに行かせなけりゃ・・・。浜松なんか行かせなけりゃ・・・。こんなに長く不妊治療なんかさせなければ・・・。俺がもうやめろって止めてれば・・・。

お前からはいつも貰ってばっかりだった。お前がいなけりゃ、俺はとっくに死んでたぞ。お前のお陰で生きてこられた。由梨だって・・・。もう子供なんか抱けないと思ってたのに。それなのに、こんなに立派な子供もくれた。俺に子育てをやり直させてくれた。貰ってばっかりじゃないか。何も返してない。

もっとたくさん笑わせてやりたかった。もっといっぱい包んでやりたかった。もっとたくさん愛してやりたかった。それなのに・・・。何でだ。なんでだあ!」

父は由梨の手を振り解いて畳に頭を打ち付け始めた。際限なく自分を打擲する父をそれ以上黙って見ていることはもう、由梨には出来なかった。

「止めて! もうやめてお父さん」

由梨の声が届かないのか、なおも頭を打ち続ける父に由梨は叫んだ。

「やめて! もう、やめろォ!」

父の顔を捕まえて渾身の力を込めて張った。

「由梨・・・」

「もう、いいんだよ。もう十分。もう、いいんだよ。」

父はさめざめと泣き出した。泣き続ける父を胸に抱いた。

あんなに大きく見えた父が、ちいちゃく見えた。

あんなに強い父が、こんなにも弱々しく、頼りなげに自分に縋ってくるなんて・・・。

「あたしが代わりになる。

これからはあたしがお母さんの代わりに、治夫を幸せにするで。だから、もう苦しまんで。自分を責めんでや。あたしがいるから。ずっと一緒にいるから。あたしが代わりになる。これからは・・・」

ずっと一緒だよ。心の中で、自分に言い聞かせた。

それから。

その場に床を延べて寝かせた。茫然自失と号泣と短い睡眠を何度も繰り返し、その度にトントンと布団をたたき目尻をぬぐってやった。

愛おしくて、堪らなかった。

母が、羨ましい。

一人の男にこんなにも愛された母が羨ましかった。胸が熱く高鳴り、顔が火照った。

陽が落ちるころようやく父は寝入った。するとふいにそれまでの疲れがどっと押し寄せ、猛烈な睡魔に襲われた。


深海の底の暗闇の中で自分を捨てかけた時、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。

その声に励まされ、力を振り絞って立ち上がり、声のする方へ、よろめきつつも歩き出した。

遥か上に微かな明るい光が見えてきた。


治夫は漸く体を起こし、由梨の胸から顔を上げた。

娘は治夫の背中に両手を回したまま眠っていた。

髪はボサボサ。瞼は腫れあがり、頬には幾筋もの涙の川ができていた。起こさないようにそっと体を外し、再び腕の中に抱きかかえた。娘の髪を撫で、頬を擦りながらささやきかけた。

「この野郎。親を呼び捨てにしやがって」

俺はまだ死ねない。

こいつがいてくれる限り。

由梨の広い額にそっと口づけた。すると大きな瞳がぱっと開き、両手が治夫の頬を挟みこんだ。

「おい!」

治夫は慌てて体を離した。娘はニヤッと笑った。

「今度チューするなら口にしてや。治夫。今日からウチ、治夫のこん、治夫って呼ぶでね」




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