8 過去 その4
「お父さん、今日も遅いだ?」
由梨は傍らでアイロンがけをしている母に尋ねた。
夕飯の後、リビングのカーペットに寝転がってTVを見ていた。が、朝聞いた美奈の話が気になって内容なんかさっぱり頭に入ってこなかった。
もう父にメールしたんだろうか。もしかして今、二人で会っているんだろうか。会って何を話しているんだろう。いやな想像ばかりが胸を掻き乱した。
母はウンザリしたように応えた。
「話聞いちゃいんもんで。今日は泊まり。朝お父さん言ってたじゃん。今頃エライ人とお酒飲んでるじゃないだ」
「怒んなくてもいいじゃん。ただ訊いただけだし」
「怒っちゃいんよ」
「怒ってるし」
「怒ってません!」
まずい。
不用意に母のボルテージを上げてしまった。この後に続くセリフは大体予想がつく。
だいたいあんたいつまでTV見てるだ、そんなんでいいだ? もう夏休み終わるに、二年生の終わりごろにはもう決まっちゃうだよ、内申は三年生になってからじゃ遅いもんでね、私立は駄目だでね、授業料高いし定期代もったいないし・・・。
ところが、いつまで経ってもその予想された小言はなかった。
「丁度いいわ。ちょっとTV消しなさい」
何が丁度いいのかよくわからなかったが、逆らうと煩いので言う通りにした。母は続けた。
「あのね由梨、ひとつ訊いていい?」
「なに?」
のそのそと寝返った。
「あんた、お父さんのこん、どう思ってる?」
直球かよ・・・。
アイロンがけの手は止まっていなかった。何も答えられず、目も合わせられなかった。ここのところ母がイラついている理由はそれか。薄々感づいているとは思っていた。だが、さすがに真正面から訊かれるとは思わなかった。
「どうって?」
「誤魔化さんでいいで。ホントの気持ち言ってご」
母はアイロンを掛け終えると洗濯物の山に取り掛かりながら無言の尋問を続けた。耐えられなくなって、立ち上がった。
「どこ行くだ」
「ちょっと、シャワー」
由梨はバツが悪そうにそう言ってみた。
「いいから。ここ座りな」
もう体格では母を超えている。それなのに何故か逆らえない。仕方なくローテーブルを挟んで膝を抱えた。
「こっち。何でお母さんから離れようとするだ。たまには手伝いな」
母は傍らのカーペットをポンポン叩いた。仕方なく、母の隣に座った。途端に母はTシャツにショートパンツ姿の由梨の尻を叩いた。
「あんたね、いくら家の中だからって、そんなの穿いて胡坐なんかかくんじゃない。女の子だら? 一応」
仕方なく、正座をした。母の苛立ちに怯えるのも癪だったから、ワザとのろのろと目の前のタオルを取り上げ、膝に乗せて畳み始めた。
「もっと、きちんと。心を込めて。・・・あんた、お父さんのこん、好きだら」
いきなりのストレート。
動揺で洗濯物を畳む手が止まる。動かない。何と答えていいのかわからない。躊躇しているうちに母の次の一言が由梨の顎に炸裂した。
「好き嫌いの好きじゃなくて、男の人として好きなんだら」
ノックアウトだ。TKOだ。
母が手際よくシャツやタオルや下着を畳み、積み重ねて行く様は全くいつも通りで、どこにも特別な風がなかった。洗濯物の山はみるみる小さくなり、最後に残った父のトランクスに由梨が戸惑っていると母の白い手がさっと伸びて持って行ってしまった。
「怒ってるだ?」
「怒っちゃいんて。・・・でも、困ってる」
全てを畳み終え、母は息をついた。
「由梨。お茶飲みたい」
キッチンにたち母のお気に入りの湯呑にお茶を淹れてやった。トレーを捧げてリビングに戻ると、母は畳んだ衣類を片付け終わり、再びカーペットに膝を揃えていた。由梨が置いた湯呑を、ありがとうと受け取るとしばらく両手の中で弄んで一口飲んだ。
「あんた、淹れ方上手になったね。美味しいよ」
由梨のお母さんて若くて美人だよね。
よく友達からそう言われた。それが自慢でもあった。でも最近急に老けたような気がした。病気のせいだろうか。そんなときに自分は母を困らせているのか。
怒ってはいないが、困っている。
そう言われると余計に辛かった。思っているだけなのに。思うことが態度に現れ、それが母を傷つけ困らせているのだろうか。思うのをやめるなんてできるのだろうか。
と、ふいに母は由梨のTシャツの背中を捲り上げ、下着をずらした。
「やっぱり。ブラきつくなってるんじゃないの? ほら。痕ついてるじゃん。何で言わんの」
「だって、・・・この前買ってもらったばかりだったもんで」
「成長期なんだから気にしなくていいだよ。明日買いに行きまい。ごめんね。本当はお母さんが気付いてやらんといかんかったね。なんやかやでバタバタしてて、あんたのこん、ちゃんとかまってあげられへんかった。大きくなったねえ・・・」
母はそう言って目を細め、肩まで伸びつつある由梨の髪を撫でた。
去年病室で母に抱かれた。母の胸は温かくて柔らかくて懐かしい匂いがした。本当は今も母の胸に抱かれたいのに、なんとなく引け目を感じてしまっていた。
髪を撫でられているだけで緊張していた心がとけてゆく。本当は誰かに思いのたけを打ち明けたい。美奈には言えなかった。出来れば母に受け入れてもらいたい。でも、それも出来ない。
「あんたにね、とっておきのお父さんの武勇伝、教えてあげる」
何それ?
戸惑う由梨にお構いなしに母は続けた。
「ほんとはね、去年あんたが荒れてた時、よっぽど教えてやらっかと思っただよ。あんた、お父さんの本当の子供じゃないの知っちゃったしね。
でもあんたお母さんに似て頑固だし。どうせ意固地になって聞きゃーへんらと思ってさ。それにお父さんのこん嫌いな人に聞かせるのもったいないし。それぐらいとっておきの話。この家にね、強盗が押し入ってきたこんがあるだよ」
「強盗?」
「こんなおじさん、相手にしちゃいけない。全然美奈ちゃんに相応しくない。第一、結婚してるんだよ」
「そんなのわかってる。でも抑えきれないんだよ。想う気持ちは自由でしょ」
あまりの執拗さに大人げない事を言ってしまいそうになる。つい口調が厳しくなっていた。
「美奈ちゃん。さ、帰ろう」
「やだ」
治夫は大きく溜息をついた。美奈は大声で泣き崩れた。仕方なく、しゃがみ込んで顔を覆っている美奈の背中に手を置いた。
「ごめんよ、美奈ちゃん。でもね、どうしてもこれだけは美奈ちゃんの言うことを聞くわけにはいかない」
「やだ。チューしてくれなきゃ、帰らない」
農道の際に防犯灯が灯っていた。夜光虫が光を競い合っているその下に、古びたベンチが置いてあった。ベンチや木の切り株やレジャー用のスツールはそこかしこに置いてある。農家の人々が農作業の合間にそこに腰掛けて一服しているのは見慣れた風景だった。
仕方がない。
他人の娘である美奈に言うのは憚りがあったが、治夫は自分の心底を吐き出すことにした。美奈の手を取ってベンチに誘った。
「美奈ちゃん、俺、まだ死にたくないんだよ」
顔を伏せたままの美奈に語り掛けた。
「嫁さんと由梨を裏切るくらいなら、俺、死んだほうがましなんだ」
美奈はやっと泣き止んだ。
「世の中にはそういうの簡単にできちゃうヤツもいるんだろうね。でも俺にはできない。
嫁さんは毎日俺が一生懸命働いていることを信じてしっかり家を守ってくれている。由梨も、あんな我儘娘だけど、俺が絶対に裏切ったりしないと信じてるから、俺を頼ってくれる。俺が今生きてるのはあの二人のお陰なんだよ。俺はね、あの二人に生かしてもらってるようなもんなんだ。
俺の嫁さんと由梨はね、もう生きてくの面倒になって、ボロ切れみたいになってた俺を拾ってくれたんだ。
美奈ちゃんのお父さんの代わりならいつでもしてあげる。もしパパとママが許してくれて美奈ちゃんがその気なら高校までうちで預かったっていい。でも美奈ちゃんの恋人にはなれない。美奈ちゃんがそのつもりなら、家で引き取るわけにはいかない」
美奈はやっと顔を上げた。
「美奈ちゃんは可愛いし、賢い子だ。こんなおじさん相手にしなくても、美奈ちゃんなら俺なんかよりもっとずっと素敵な王子様が現れるよ。ごめんね。わかるよね。さあ、もう行こう」
突然、美奈が襲い掛かって来た。
避けようとしてベンチから滑り落ち尻もちをついた。そこへ抱きつかれてはどうしようもなかった。応えはしなかったが、拒否もしなかった。
後厄の、どこにでもいる平凡な中年男が幼気な少女に唇を奪われるなんて・・・。滑稽極まりない。拒否をしなかった時点で合意と見做されても仕方がない。それにこんなことが世間に知れたら事態は全く逆に伝わるに違いない。
「夜道で好色な中年男が女子中学生を襲った」
世間はそのように理解する方を好むものだ。
「ごめんね、おじさん。あたし、我儘しちゃった」
さっきまで泣いていたはずなのに。
美奈はケロリとした顔でそう言った。満足して治夫から離れワンピースの埃を払った。
「でも、やっぱりおじさんはおじさんだった。あたしにとっておじさんはこの世で信じられるただ一人の男なんだ」
そう言って手を差し伸べた。治夫がその手を取って立ち上がると、ブンブン振り回して楽しそうに軽やかに歩き始めた。その変わり身の早さに唖然としながらも歩調を合わせた。
女は、怖い。
心底そう思った。
しばらく歩くと天窓から灯りが漏れている美奈の家が見えた。
「ねえ。今朝のクイズの答え、わかった?」
「クイズ?」
「由梨が怒った理由」
ウフフ。不敵な笑みが薄明かりに見えた。
「由梨ね、好きな人いるんだ。あたし、その人の事知ってるんだ。全部知ってるんだ」
美少女は門燈に照らされたアプローチを駆け上がってインターフォンを押した。
「由梨には悪いけど、あたしもう面食いやめるね」
明るい声で美奈は言った。
はい、とスピーカーから声が流れた。ただいま、と美奈が言い、今開けるね、で通話が切れた。
「今まで付き合った人の中で、おじさんが一番ブサイク。でも、一番好き。世界中の誰よりも、大好き」
美少女はそう言ってにっこりと笑った。
ドアが開き美奈の母が帰宅した娘を迎え入れた。
「お忙しいのに、本当に申し訳ございませんでした」
彼女はそう言って深々と頭を下げた。
何か返辞しなくては。咄嗟に言葉が出なかった。治夫が口を利けずにいると美奈が先に口を開いた。
「おじさん、今日はありがとう。おじさんの言ってくれた通り、あたし、大阪行くことにするよ」
≪つづく≫




