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疫病神の誤算  作者: 美作 桂
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0 過去



その日母は僕をデパートに連れて行ってくれた。とても嬉しかった。父と弟がいなくなり母と二人きりで知らない街で暮らすようになってから初めてだったから。でも毎日夜遅くまで働きづめの母が普通の日にそんなことを言い出したことを不思議にも思った。

てっぺんのレストランで、フルーツパフェとホットケーキを食べた。母が何を頼んでもいいよと言ってくれたからだ。自分は何も頼まず、その代りにパフェを食べる僕をじっと見つめていた。母が見ていたのは僕ではなく僕の首筋の痣だったかもしれない。僕は右手でそれを隠した。

今まで我慢ばかりさせてごめんねなんでも買ってあげると母は言った。母の手を引き前から欲しかった列車のおもちゃ、プラスチックのレールを繋いで電池で走る新幹線のセットを見に行った。値札には千五百円と書いてあった。でも、我慢した。

かわりに五十円の黄色いスケッチブックを選んだ。

「今使ってるのはおもてもうらもすきまが無くなっちゃったから」

母は寂し気に微笑んだ。目元が微かに潤んだように見えた。

「少し、お散歩しよう」

バスに乗って冬に向かう浜辺に行った。薄陽は左手に低く傾き、海は重く垂れこめた灰色の空を映して黒く畝っていた。波は砂を巻き込んで奇怪な生き物のように大きく盛り上がり次々に浜に押し寄せては激しく砕け散っていた。僕たちの他には誰もいなかった。

並んで砂浜に佇んだ。

 母が僕の小さな手をぎゅっと握りしめた。握り返すとにっこりと笑ってくれた。

 母に手を引かれ海に向かって歩き出した。きちんと包装されたスケッチブックを抱え砂に足を取られながら小走りについて行った。波に濡れた砂を踏むと急に怖くなった。母に呼びかけても振り向きもしなかった。靴が濡れた。水が冷たかった。引き摺られるようにしてどんどん海に入って行った。何度ももう帰ろうと言い、ちから一杯母の手を引いた。すると母は僕を抱きかかえ、さらに水の中に入って行った。波をかぶった拍子にスケッチブックを手放した。塩辛い水を飲んだ。僕はありったけの力を振り絞って叫んだ。

いやだ! 僕、死にたくない。僕を殺さないで。

 お母さん。お母さん。お母さん!

 波に揉まれながら必死にしがみつく僕に、母は言った。


「生まれて来ない方が、よかったのに」


 黒い小さな、とるに足りない果物の種みたいなものが生まれた。小さな塊はすぐに細い触手を何本か伸ばし、僕の心の襞に潜り込ませてしっかりと取りついた。そして僕の孤独と悲しみを養分にしてゆっくりと成長して行き、僕の体内で生き続けた。



1 現在



「わかりました。週明けの月曜日、顔出します」

 松任治夫は椅子に身を沈め、深い溜息を洩らした。背にした窓からはブラインド越しに眩しい秋晴れの光が漏れていた。

 事務所は机のシマが一つだけ。治夫と同じジャケットを着たニ人の女性事務員が仕事をしていた。

「どうしただ」

 ミヨシさんはボールペンの尻で白髪の混じる癖毛の多い頭を掻きながら胡散臭げに治夫を睨んだ。PCを前にして未だにソロバンを弾いている。

「あ、ああ。何でもない。そろそろ図面できたかな。いつまで待たせるんだ、あいつは」

 もう一度PHSを取り出し階下の作業室にいる営業社員を呼び出した。

「出来たか? じゃあ、外で待ってるぞ。じゃあ、出掛けるから、後お願いします。あ、それからミヨシさん、」

 鞄を掴み壁に掛かった営業車のキーを取ってドアに向かいしなふと足を止めた。

「いつも由梨預かってくれてありがとね」

「改まってなに。もう孫みたいなもんだで」

 そう言いながらミヨシさんは向かい側のもう一人を見やった。小柳津というその女性はキーボードの手を止め、首を傾げて治夫を見上げた。微妙な空気が流れた。

「あ、忘れてたけん、所長が電話中に青柳さんって人から電話あったに・・・」

「青柳さん?」

「どちらの青柳さんですかって訊いたらなんちゃらエステートの青柳ですって。いちお所長は出掛けてますって言っといたに。したら、じゃあいいですだって」

「エステート?」

 治夫はその名前を記憶の中に探した。しかし、今仕事やプライベートで不動産屋に関わる案件はなかったし、「青柳」なんて親戚にも取引先にもいない。個人名を名乗って掛けて来るテレアポイントは多い。

「どうせ何かの営業だろ。不動産屋も最近は厳しいんだな」

 そう言い捨てて事務所を後にした。

「さっちゃん、なんだかね、アレ」と年かさの方の女性社員が言った。

「さあ。ミヨシさんの方が詳しいら。家近所だし。長い付き合いだら?」

 営業車を引っ張り出して玄関に横付けし車外に出た。気持ちのいい淡いうろこ雲が高い。

一週間ぶりに事務所前のキンモクセイの香りを吸いこんだ。このところ出張続きでささくれだっていた気持ちも和む。治夫はこの木が好きだった。

 構内に目をやる。黄色い天井クレーンが事務所棟から物流倉庫までの広大な敷地をゆっくりと動いていた。工場設備の設営に赴く作業員たちが昨日メーカーから届いたばかりのマシニングセンターと呼ばれる巨大な工作機械と資材を三十トントレーラーの荷台に積み込んでいる。その向こうにはいくつかのサイズの高所作業車や電源車、トレーラーの荷台部分が並んでいるのが見える。

 格納棟のシャッターが全開されて様々な工場設備の資材が山積みされているのが見える。ホイストクレーンのワイヤー、電気炉用の躯体、チェーン、高圧電流用のトランスユニット。製品を送るローラーベルト、ホッパー、産業用ロボットのベース、熔けたアルミを受ける取鍋、電源ケーブル、各種のI鋼・・・。それらが防錆用のフィルムや梱包材に包まれて整然と鎮座していた。

治夫は満足した。

「すいません。お待たせしました」

 治夫は黙って助手席に乗り込んだ。運転席に座った若い男は座席を直しバックミラーを調整し、自分のヘアスタイルまで入念にチェックし始めた。睨みつけてやった。

「おい、三田。何してる。いいからさっさと出せ」

 公道に出るとさっそく忙し気にカーラジオをいじくる三田を横目にし、治夫は溜息をついて首筋の痣を撫でた。新卒で入社してきてこの営業所に配属され、手取り足取り自分が一から仕込んできた。今どきの若者らしく時に生意気を言ったりすることもあるが、自分のDNAを一番色濃く継承しているのは事務所の営業の中でも一番年若のこの三田だ。後を託せるとすれば彼をおいて他にはいない。

「お前さ、今日何しに行くか、わかってんの」

「仕事取り行くんでしょ」

「違う」

 三田の手を払いのけてラジオのスイッチを切った。

「営業ってのはな、モノやサービスを売る前に、まず自分を売るんだ。俺はこれから客先にお前という人間を見せに行くんだ。わかるか?」

やれやれまた始まったぜ、とでも言いた気に、三田は指先でハンドルを叩きながら鼻歌しだした。治夫は額に当てた掌で顔を撫で下ろし、窓外を流れる市街の風景に逃げた。

「三年連続全国売上十位以内、社長賞一回。実績は文句ないはずなんだがなあ。なんか、違うんだよなあ」

「何か言いました?」

「いいや、何も。・・・ところでお前いくつになった」

「二十八です。あとひと月で」

「彼女、いるか」

「いるわけないじゃないスか」

 バイパスに乗る手前に自然渋滞が起きていた。三田は小さく舌打ちした。それが渋滞へのものなのか、彼女のいない自分の境遇に対してのものか判断がつかねた。おそらくそのどっちもなのだろう。

「土日もロクに休めないし、一週間に半分は出張だし。作るヒマなんかないスよ。所長のせいスよ」

「営業で一番代休取ってるくせに。よく言うよ」

 誰に対してもではない。三田は治夫に対してだけはこういう甘えたような口を利いた。治夫はそれをよく知っていた。

「もういいス。女なんて。やっぱクルマいじってるのが一番スね。ねえ所長、営業車にエアロパーツ付けていいスかね」

「誰かいい子紹介してやろうか。ちなみにエアロパーツは却下な」

 結婚して所帯を持てばこのふわふわした奴も少しは落ち着くかもしれない。

「俺の心配より所長はどうなんすか。誰かいい人居ないんすか」

「去年三回忌も済んだ。もう慣れたな。それに、死んだ女房には本当に世話になった。今でも感謝してるんだ。ましてや再婚なんて、由梨が絶対許さないよ」

 渋滞はなかなか解消しなかった。が、自然渋滞なら待っていればそのうち流れるだろう。まだ約束の時刻には十分間に合う。

 ふいに三田が頬を緩めた。

「由梨ちゃんなら、いいな」

「はあ?」

「時々所長の弁当持ってきたりするじゃないスか。いいスよねー。あの笑顔癒されるんスよねー。今年もバレンタインチョコくれたんスよ。他の人ももらってましたけど。父をよろしくお願いしますね、なんつって・・・」

「却下」

「まだ結婚するなんて言ってません」

「当たり前だ。まだ十七だぞ。ロリコンかお前は。それに俺よりデカいんだぞ。お前俺より背低いじゃないか。あんなの嫁にしたら毎日首痛くなるぞ。やめとけ」

「愛があれば歳の差と背丈の差は乗り越えられます」

「お前も親になればわかる」

 窓を開けた。歩道に二羽のハトが舞い降りてポカポカ暖められた舗道をつついていた。

「あのな、三田。由梨は東京の大学に行く。そして今後お前は当分の間ここに残ることになる」

「え、もうそろそろ転勤かと思ってました。ウチの慣例らしいスし。そしたら由梨ちゃんと一緒に東京本社勤務・・・」

「いいか、これはまだ誰にも言うな」

 治夫は三田のお調子を遮った。

「俺な、早ければ年明けに転属になる。そしてお前は俺の後を継ぐ。この営業所はこれからお前が盛り立てて行くんだ」

「ええー?」

 しばらく三田は黙っていた。前の車が一車分進んだのにも気づかないほど衝撃を受けているように見えた。

「だって俺まだ三十にもなってないんスよ。他の人みんな俺より年上っスよ。ムリですよ」

「俺も所長になったのは三十前だ。いささかここに長く居過ぎちまったけどな。大丈夫。心配するな。お前なら出来る。俺はそう見込んでいるんだ」

 やっと車が流れ始めた。側道の分岐に差し掛かり同じくバイパスに乗るのだろう、前の車が方向指示を出し始めた。それなのに、三田は黙ってハンドルを握っていた。注意を促しかけた時、おもむろに口を開いた。

「あのう、今さらなんスけど」

「なんだ」

「図面は描いたんですけど、描いたデータ入れたUSB、忘れました。ハハ・・・」

 開いた窓から一陣の寒風が吹きこんできて治夫の頬を撫でた。

 思い切り三田の頭を張った。

「いてーっ。何するんすか、パワハラっスよ、パワハラ!」

「やかましい! つべこべ言わんでさっさと引き返せ」

 さんざん説教と罵倒を繰り返しながらやっとこさ営業所に辿り着いた。

 左折して構内に入ろうとしたところ、同じように対向車線から右折して来ようとする黒塗りの高級車がいた。こちらが当然のように先に入ろうとした鼻先を強引に掠めて横切ってきたから、三田は慌ててブレーキを踏み、車はつんのめるようにして急停車した。

「あっぶねーな」

 三田はそのトヨタ・セルシオの後に続いて構内に車を淹れた。ドアの取っ手に手をかけ今にも飛び出して怒鳴り込みそうな勢いで毒づいた。

「何なんすかね。あいつら」

「おい、待て。どっかの偉いさんとかヤクザだったらどうする」

 運転していたのはサングラスをかけた「いかにも」なダークスーツの若い男だった。

「所長。相変わらず『ビビリ』で『ヘタレ』っすね」

 そんなやり取りをしている間に前の車から男が降りて来た。

「こんなとこ停めっぱでなんだあいつ」

 そういう三田の言葉が終わるのも待たず、治夫はドアの外に出ていた。

 男はサングラスを外し、ゆっくりと治夫に向かって歩み寄って来た。眩暈がした。ドアに捕まらなければ立っていられなかった。

「あの、所長。どうしたんスか」

 三田の呼びかけも耳に入らなかった。その男から視線を逸らすことが出来なかった。

「晃です」と若い男は言った。

「お父さんですね」


 満点の星空の下。小さな光が近づいてきた。

 由梨は大きなスポーツバッグを括り付けた自転車のペダルを漕いでいた。

「うー、さぶさぶ」

 風が冷たい。ニットの帽子にマフラーで顔を覆い、セーラー服の上にはジャージとウィンドブレーカー、スカートの下にもジャージを履いていた。登下校時の服装規定が喧しい高校だった。でも寒さには耐えがたい。

 秋祭りが終わり、このところ急に朝晩の冷え込みが厳しくなった。ここ、遠州が秋から冬へ向かう前触れだ。先日二階の納戸からコタツ布団を引っ張り出して干した。もうそろそろダウンジャケットも出さねば、と由梨は思った。

「ハゲ山のせいだ。まったく」

 女子バスケットボール部の顧問の春山は生徒達から密かに「ハゲ山」と呼ばれていた。まだ三十代前半で独身なのに気の毒なほど額が後退していた。由梨のクラスの担任でもあるその「ハゲ山」から、

「頼む松任。お前しかいないんだ」

 泣きつかれて渋々部長を引き受けさせられた。そのせいで何かと雑用がある。部活の後に細々とした仕事を押し付けられていい加減ウンザリしていた。

「お前何か、怒ってる?」

「いいえ、別に」

「それはそうと、松任。お前、本当に進学しないのか。それでいいのか? もう一度よく親御さんと話し合え。いいな?」

 真顔になったハゲ山に顔を覗き込まれ、鬱陶しかった。

 由梨は独りペダルを蹴たぐりつつ、呟いた。

「ハゲのくせにいちいちうるせえんだよ。んなこたもう厭きるぐらい考えたんだよ。全部はるおのせいなんだよ。はるおのバーカ」

 ようやく家の前まで辿り着いた。

が、おかしい。

 父の車があるのに家の灯りがなかった。ドアを開けてみた。鍵がかかっていなかった。ますますおかしい。鍵は今朝確かに掛けた。外出するなら必ず施錠をする。それは父自身が日頃しつこく言っている。ちょっとお隣まで行ったにしても、鍵は必ず掛ける。それに買い物にでも行ったなら、車があるのはおかしい。一番近いコンビニエンスストアでも車で五分はかかる。自転車も車の横にあった。夜の散歩にでも行ったのだろうか。

「ただいまー」

 返事が無い。ホールの灯りを点けた。上がり框に治夫の鞄が置いてあった。ちゃんと帰ってきてるじゃん。疲れて寝ているのだろうか。

「はるおー、帰ってるだー?」

 呼びかけた声は空しく家の奥の暗闇に吸い込まれていった。

 玄関右脇の書斎を覗いて灯りを点けた。反対側のリビングの曇りガラスの嵌った格子戸も引き急いで灯りを点けた。続くキッチンも、トイレも風呂場も全ての照明を点けていった。二階の父の寝室も自分の部屋も見た。バカみたいだが納戸も開けた。トイレの蓋だって開けてみた。灯りを点けて回るほどに動揺が大きくなった。

 どこにいるのだろう。

 一か所だけ、まだ確認していない場所を思い出した。再びそっと階段を下り、念のため治夫のゴルフセットからドライバーを抜いた。玄関を出た。庭を横切り、一角に建てられている小さなログハウスのドアの小窓から中を伺った。暗くてよく分からない。木彫りのその握手を引いた。鍵は掛かっていなかった。

 そこに人影があった。

「ひいっ・・・」

 暗闇の中に浮かび上がった青白い顔。幽霊かと見紛うて仰け反ったが、「おっ!」という間抜けな反応に、一気に力が抜けた。

「・・・もーっ。何が『お』だよ。灯りも点けんで!」

 壁のスイッチを探った。さほど広くない小屋の中がカンテラを模した淡い灯りの電球に照らされた。

 父はまだ会社の作業ジャケットを着たままだった。見覚えのある首筋の黒い痣。眩しそうに由梨を見上げていた。

 六畳ほどの広さのログハウスは倉庫を兼ねていた。壁や設えた棚はスキーやスノーボード、サーフィンにキャンプや釣りなどのレジャー用具で埋め尽くされていた。その隙間を埋めるように、無数の写真がピンで留められていた。由梨が幼いころから現在までの記憶がそこに散りばめられていた。

「おお、お帰り。ただいま。・・・今、何時だ」

「何時だじゃねえし~」

 由梨はがっくりと膝を落とした。

「あー、ビックリした。何してただー、こんなとこで。何、そのスケッチブック」

 治夫は慌てて膝の上に開いていたスケッチブックを閉じ背後に隠した。

「ああ、ゴメンゴメン。何だかボーっとしてた」

 治夫は頭を掻いた。だいぶ白髪が目立ってきたなと由梨は思った。

「ゴメンな。すぐ風呂沸かすよ」

「いいよもお。ウチやるもんで。疲れただら」

「悪かったな。じゃあ飯の支度でもするか」

 治夫を追って母屋に戻った。ワザと踵で大きな足音を立てながら階段を上がった。自室に入るやバッグを放り投げてベッドに倒れこんだ。天井を見た。何故か胸がドキドキしていた。

 あれは「ボー」だ。

 久々に来たな。先刻の父の姿が目に焼き付いていた。あんな父を見たのは何年かぶりだった。

「お父さんがボーっとしてたら注意してね。お父さん、何か大事なこと抱えちゃうとそうなっちゃうもんで」

 中二の時に亡くした母の言葉を思い出した。あれからもう三年。父と二人、何とかこれまで日々を送ってこれた。しかし再び「ボー」を目の当たりにするともっと自分がしっかりしなくてはと思う。

まったく。世話の焼ける親父だ。

 治夫を支えられるのは自分だけだ。気合をかけて起き上がり、まずはベランダに干しっ放しの洗濯物を取り込んだ。


 やれやれ。由梨に醜態を見せちゃったよ。

 和室に入りジャケットを脱ぎながら、治夫は仏壇の上に掲げた亡き妻の遺影に語り掛けた。

 細面で薄い唇にちょっと困ったようなはにかみを見せ変らずに微笑んでいた。

 今日は全く仕事にならなかった。

「松任さん、大丈夫? なんかエラそうだけん。仕事しすぎだら」

 偉いのではない。辛いという意味の遠州方言だ。三田と共に訪れた工場の、長年付き合いのある担当者が憐れみを含んだ目で治夫を慰めた。結局早々にそこを辞し、事務所も早退してしまった。

 いつもなら、帰宅してまず仏壇に線香をあげ手を合わせる。それから洗濯物が干してあればそれを取り込み、風呂を洗って湯を張り、夕飯の支度に取り掛かる。由梨が高校生になって帰りが遅くなっても、その習慣を変えることはなかった。どんなに疲れていても娘とバカ話をして過ごせば吹き飛んでしまっていた。

 ところが今日はその気力がまるで無かった。こんな複雑な気分は何十年ぶりだ。

 体の中に何か得体の知れない塊のようなものがあって、そこからじわじわと心を蝕むような液体が染み出しているかのような、そんな不安で不快な気分を伴っていた。吐き出せるものなら吐き出してしまいたい。自ら解毒する術が見つからず、どうしようもなくてただぼんやりとその奇妙な液体に侵食されるままでいた。気が付いたら、あの黄色い表紙のスケッチブックを手に小屋に居たというわけだ。

 とりあえず顔でも洗ってスッキリしよう。

 洗面所に行って鏡の前に立った。鏡の中に知らない男がいた。今朝髭を剃っていた自分とは全くの別人になっていた。目の焦点が合っていない。頬に力が入らない。こんな顔で客先に行けば不審を抱かれるはずだ。早めに仕事を上がってきたのは正解だった。

「あー。たいそいわ」

 疲れたという意味の金沢の言葉が出た。この静岡に来て、もう十五年にもなる。

 部屋着に着替えようとしてふとポケットに名刺を突っ込んだのを思い出した。名刺のその名前を目に焼き付けてから、和室の仏壇の前に膝をついてもう一度語り掛けた。

「今朝、いきなり来られたんだ。どうしようもなかったんだ・・・。まいったなあ・・・」


 若い男は、治夫が首から下げたIDカードを一瞥すると「晃です」と名乗った。

「お父さんですね?」

 十五年もの間一度も会ったことが無かった。その息子に付けた名前だった。別れた前の妻と共に自分の元を去っていった息子の名前。それを目の前の見知らぬ青年が名乗っている。「青柳」は前の妻の浮気相手の男の苗字だと今さらながら思い出した。

「青柳晃」

 目の前の、自分よりはるかに背の高い好青年をただ眩しく見上げた。大柄な割に柔和な表情に人懐こさがあり威圧感はない。目の前の青年は若いころの自分にそっくりだった。

 不惑を迎えてもう五年になる。大手の工場設備設計施工会社の一営業所長として十数人の社員を統べる立場だ。それなりに人生の酸甘や悲喜を経験してきている。実の息子が十数年ぶりに父である自分に会いに来たのだ。本来なら包み込むような言葉で遠来の息子を労い迎えるべきだった。よく来たなあ、久しぶりだなあ、俺を覚えているか、立派になったなあ、どうしていた? 今どこに住んでいるんだ・・・。頭では理解はできる。ただ心の奥でそれを拒否したい自分がいる。何か言わねば。だが何と言えばいいのか。動揺するほどに言葉が遠退いてゆく。突然の出来事が治夫から平生の沈着冷静を奪った。

 継ぐべき言葉を探りながら懸命に笑顔を作ろうとした。なぜ作り笑いをする必要があるのか。何故卑屈にならなければならないのか。日頃から「その行動を取った理由、その文言を用いた根拠を担保せずに行動してはならない」と部下の営業たちにいい含めている当の本人が自分の行動を説明できなかった。

 それで結局この場合もっとも無粋な言葉を選んでしまった。

「松任治夫です」

 ゆっくりと頭を下げた。言ってしまってから後悔した。

 かつての息子は治夫の返答とその後の沈黙に何かを悟ったように見えた。やっぱり、というような失望の色が浮かんだのが治夫にもわかった。もしかすると再会を喜んでくれるかも知れない。心のどこかでそう願って訪ねてきたのかも知れない。治夫の態度でその希望が叶う確率が限りなく低いのを悟ったのかも知れない。お互いの温度差を合わせるように、やや声を落として傍らの女性を紹介した。

「これは僕の婚約者です。倫子といいます」

 隣に寄り添った若い女性が美しく穏やかな微笑を浮かべながら初めましてと丁寧に挨拶してくれた。服装や装身具、その物腰から一見してごく大切に贅沢に育てられた娘であることがわかる。かつての息子はステイタスの高い伴侶を得たようだった。その幸せを十五年も会わなかった自分に報告に来たというのだろうか。

「お母さんは、元気かね」

 やっとのこと、それだけ口にした。

「母は、父と母は亡くなりました」と青年は答えた。

「もう四年になります」

 そして青年はもう一度深々と頭を下げた。

「実は今日お邪魔したのは今までのことをお詫びしたかったのと、折り入ってお願いがあったからなんです」


 まだ信じられなかった。今朝のあの事件は、あれは本当にあったことなのだろうか。手にした名刺にはしっかりと息子の名前がある。それだけは疑いようもなかった。

「でももう少し言い方、あったよなあ・・・。悪いことしたなあ。あ、スケッチブック、由梨に見つからないとこに隠しておかんとなあ。

 おい・・・。オレ、どうしたらいい? なあ、返事ぐらいしてくれよ・・・」


                      ≪つづく≫



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