その二
「荷を抱え、どこへ行く?」
回廊を歩いていたメルファは、ふいに聞こえた鋭い声にぴたりと足を止めた。
「あんたには関係ない」
すでに神官どもは新しい巫女を招き入れる準備に入っているはずだ。
イーシス本人から烙印を押されたメルファには、もう居場所などなかった。すれ違う神官たちの勝ち誇った顔が憎らしい。
すべての目が、メルファに出て行けと語っているようで、なんとも居心地が悪かった。
「ほう、少しは振る舞いを正せたと思っていたが、どうやら思い違いをしていたようだな。謙虚さのけの字も知らぬような、乱暴な物言いは健在か」
「あんたも偉そうな口の利き方は一生治らなそうだね」
鼻で笑うと、イーシスの後ろで控えていた神官が顔色を変えた。彼が口を開く前にイーシスが制した。
「よい。獣相手に話が通じぬように、下等な輩には何を言っても無駄だ」
「な……っ!」
怒りで顔を真っ赤に染めたメルファはぶるぶると震えた。
「どうせ逃げ出すのだろ?」
「逃げ出す? 追い出したのはそっちでしょ。せいせいする。あたしは別に女神なんかなりたくないし。お金のためじゃなかったらこんなとこ来なかったっ」
「こんなところ、だと?」
ぴくりと柳眉を持ち上げるイーシス。
不快な言葉を耳にしたように顔を歪めた彼に向かって、メルファは嘲るように笑った。
「だってそうでしょ。見なさいよ! 地上の贅をすべて注ぎ込んで造られたかのような豪奢な場所が主神殿だって? 女神とやらは贅沢好きなんだ。お貴族さまだって目を瞠るくらいのしつらえに、どうしたら敬虔な心とやらが持てるのよ。確かに見た目は綺麗だけど、反吐が出る。結局はあんたたちも金なんでしょ。妄信的な信者から金をむしりとってさ。祈ったって暮らしはよくならないっ。願ったって叶わないっ。だったらそんな甘っちょろい夢なんか見ないほうがマシ。まあ、あんたにはわかんないでしょうけど。下等な輩の生活の現状なんてね」
「言わせておけばっ」
鼻息荒く食ってかかろうとしたのは、先ほどイーシスに制された神官であった。穏やかな神官ならぬ形相に、メルファは大げさに肩を揺らした。
「あ~、怖い。それが神官さまの本性ってやつ? どんなけ信心深くなったって、聖水とやらで清めても、ひねくれた心なんてそう簡単に変わらない。どんなに取りつくろっても醜い感情は、決して消えないんだ。人を尊べとか、平等に愛する、とか良いことばっか口にしといて、腹の底では憎んだり、恨んだりしてる。矛盾してるよ。あんたらは、まるで自分こそが正しいような顔でさ、あたしたちに強いるんだ。女神を敬え、崇め、神官こそが支配者だと。あんたたちの魂胆なんかお見通しなんだから」
片手で荷物を抱え直し、びしっと指先を突きつけたメルファは眦をつり上げた。
「なにが平和を望むさ。うそばっか! そんなこと言いながら、裏でこそこそ悪いことしてるんだから。いっちばん汚いのはあんたたちじゃないっ」
辛辣に糾弾するメルファの口は滑らかだった。
これまでの恨み辛みを吐き出すかのように、空色の双眸を燃え上がらせながらイーシスを見据える。
「こ、この──っ」
神官は腹に据えかねた様子で、今度こそメルファを捕まえようとした。
しかし。
「くっくく、……はっ、面白い!」
イーシスの突然の笑い声に、神官は手を伸ばしたままの格好で硬直した。
「だ、大神官様?」
気でも触れてしまったかと目を丸くする神官。
イーシスは手を振って去るよう命じた。
ですが、と戸惑ったように言葉を返した彼をイーシスが目線ひとつで黙らせると、神官は悔しげに顔を歪め、一礼して去っていった。彼がいなくなると回廊は静まり返った。
もともと人通りの少ない回廊だったのだろう。
世話役の女の姿さえなかった。
「来い」
短く命じるイーシスに、抵抗しようとしたメルファだったが、荷を持っていないほうの腕を取られて無理やり引っ張られた。
「ちょっ、離してよ!」
「貴様には聞きたいことがある」
「あたしはない! っていうか、ルオンに帰るんだから」
「貴様はバカか。どうやって帰るつもりだ。だれも貴様のような者に馬車など出さぬぞ。それにその体でどうするつもりだ。永遠に魂だけの姿でさまようことになるぞ」
「リートゥアに頼むもんっ。馬車だって、体だってリートゥアに用意してもらう」
「俺が許可を出さねば、リートゥアが貴様の願いなど聞くものか」
「な……っ。えっらそうに!」
「ふんっ、俺は慈雨の地ファーゼの統治者だぞ。生意気な口を利いてるのは貴様のほうだ」
「むかつく……」
むぅっと頬を膨らませたメルファはイーシスの背を見つめた。
アークたちよりは身長は低く、線が細い。まだ成熟していない若木のような伸びやかさと、粗野な口調にもかかわらず匂い立つような品と色香がある。
男なのに繊細な顔立ちは、それこそ神秘的な容姿と相まってこの世の者ではないように感じさせる。
歩く姿も優雅で隙がない。ただ引っ張られ、必死についていくので精一杯なメルファとはまったく違う。一朝一夕で仕上がった物腰ではないのだ。毎日の積み重ねが自然と洗練された所作となっているのだ。
きっと女神レウリアーナも彼のような優雅さがあるに違いない。
(あたしなんか足下にも及ばないじゃん……)
なぜか悔しく感じるのは、メルファが負けず嫌いだろうか。
それともイーシスに認められなかったのが。思ったより深い傷となっているのだろうか。
「ここは?」
メルファが連れて来られたのは、穏やかな風が吹き込む開放的な一室だった。
「翡翠の間です」
答えたのはイーシスではなかった。
「げっ」
条件反射的に顔を歪めてしまったメルファを、きらりと眼鏡を反射させたバルティンが捕らえた。翡翠の間で、メルファたちが来るのを待っていたのだろう。彼は、口の端を柔らかく持ち上げて笑みの形を作った。
「どうやら短時間で身につけたすべてのことを忘れてしまったようですね。ああ、嘆かわしい。これだから覚えの悪い者を躾けるのは嫌いなんです。手間がかかる上に、私の苦労をいとも簡単に水泡に帰してしまうのだから」
──絶対嘘だ。
バルティンは、嬉々としてメルファの指導を行っていた。メルファが間違えると、それはもう晴れやかな笑みを浮かべ、罰則を与えるのだ。どこかメルファを見る目は冷たいバルティンが、そのときばかりは生き生きとしていたのだから。
ここ数日の『躾』を思い出したメルファの片頬が、ひくりと引きつった。彼と相対するくらいならば、守警団員から逃げまどったほうが何百倍もいい。
「座れ」
メルファの手を離したイーシスは、厚手の敷布が敷かれた床に座り、柔らかなクッションに腕を乗せた。なんとも寛いだ姿にメルファも腰を下ろし、荷を置いた。
「んで、なんの用なわけ? いまさら関わる意味がわかんないんだけど」
「貴様には大金が必要だ。そうだな?」
「だったらなによ」
「仮初めの女神になれぬならば、契約は白紙だ。一ベガも支払うわけにはいかない」
「……わかってるわよ。それくらい」
ここ数日のメルファの気苦労を考えるのならば、数ベガくらい払ってもらいたいものである。もともとメルファには仮初めの女神としての能力はないことを考慮して雇われたのだから。それを考えれば、一ベガもなしは辛かった。
しかし、そこはメルファ。
(な~んてね。ちゃっかりめぼしいお宝は盗んできたから、別にお金なんかいらないし~)
んふふ、と笑い出したくなるのを必死に堪えた。
メルファがタダ働きなんてするはずもない。この主神殿は、外からの侵入者には手強いが、内に入ってしまえば盗み放題だ。きっと、なくなっていることにも気づいていないだろう。
「用済みのあたしはお払い箱。あたしなんかに構ってないで、さっさと巫女でも呼べば」
「だれが呼ぶと言った?」
「は?」
メルファの反応を愉しむかのように、イーシスはニヤリと笑った。
「俺は考えると言っただけだ。なあ、バルティン」
「さようにございます。早合点しているのはあなたですよ、メルファ」
イーシスのために給仕の準備をしていたバルティンは、心底呆れたとばかりにゆるく首を振った。
「ちょ、まっ…、待って……! 意味、わかんないんだけど」
「ああ、低能ここに極まれり、ですね。いくら有能な私でも、頭の回転が鈍い方を治す術は存じません。偉大なるイーシス様の垢でも煎じて飲ませてあげたいですよ。もっとも、そのくらいで回復できるような知能ではないようですが」
「あんたってほんとむかつくっ」
「それはようございました。別段、あなたに好かれたいとは思っておりませんから」
晴れやかに笑ったバルティンは、手際よく飲み物の用意をした。
まるで相手にされていないその様子に、メルファがぎりぎりと歯ぎしりをする。
メルファだって好意を抱かれたくないが、先に面と向かって言われるとなぜか負けたような気持ちになる。だいたい、彼はリートゥアと違い、メルファを敬うという素振りも見せない。仮にも一時の間とはいえ、女神となる身だというのに。
いや、彼ばかりではないかと思い直したメルファは、不機嫌そうに口の端を下げた。
「メルファ」
「……なにさ」
イーシスに呼ばれたメルファは、刺々しく返事を返した。
「貴様を呼んだのは、先ほどの女神の資質をについて話し合うためでも、我らに対する暴言をいさめるためでもない。貴様の話を今一度聞くためだ」
「話? なんのさ」
「神官どもが横領しているらしいな」
「お話し中、失礼いたします」
バルティンは、取っ手のついた壷のようなものを手にすると、イーシスの前に置いた銀杯に注いだ。同じくメルファの手前にも銀杯を置くと赤い液体で満たした。
独特の香りに眉を潜める。
「神職者ってお酒って禁じられてるんじゃないの」
「ふんっ、少しは勉強したようだな」
イーシスは、ぐいっと銀杯を傾け、一気に飲み干した。わずかにこぼれ落ちる葡萄酒を手の甲で拭った様は、見惚れるほど美しかった。大神官自ら戒律を破っても、その神々しいまでの雰囲気は決して褪せることはない。
揺るぎない自信が彼を内から輝かせているようだった。
同じ神官であるバルティンは、そんなイーシスを咎めることはしなかった。ただ笑みを浮かべ、空になった銀杯に再び葡萄酒をついだ。
「だいたい、品性良好な仮面を被ってるのは肩が凝る。頭の固いジジイども相手にしてやってるんだから、少しくらい酒を飲んでも神罰が下るわけもなかろう」
「ハァァ─────ッ!?」
素っ頓狂な声を上げたメルファは、信じられないものをみるかのように注視した。
「猫かぶり! 良い子のふりして、みんなを騙してたんだ!」
「心外な。俺はしっかり責務は果たしているぞ。私的なことまでゴチャゴチャ口を挟まれるいわれはない。なあ、バルティン」
メルファがバルティンを苦手と知っていて、あえて同意を求めたのだろう。
「もちろんにございます。イーシス様は慈雨の地ファーゼの大神官、つまりこの地で女神に次いで最もご威光のあるお方です。なにをなさろうと、イーシス様の望むことを阻む者はおりません。イーシス様のなさることに、間違いなどひとつもありはしないのですから。ああ、神殿に祈りも捧げなかったメルファは、イーシス様の素晴らしい行いなどご存じないのでしょうね。イーシス様が即位なさってから、主神殿がいかに変わり、民がより豊かな生活を享受するようになったかなど」
「……っ、あ、あたしの住んでたとこは違うもん! 豊かになんかならなかった」
負けじと言い返したメルファは、荒くなった息を整えるように肩を揺らした。