第四章 失意
とある、豪奢な執務室に男はいた。
ふくよかな体つきの男は、そわそわと落ち着かなそうに歩いていたかと思うと、突然立ち止まり頭をかきむしった。しばらくするとまた歩き出しは、立ち止まるのを繰り返す。
「失礼いたします。例の件の報告に参りました」
「おお……っ」
暗く濁った双眸に歓喜の光を宿らせた男は、畏まる青年に駆け寄った。
「そ、それで、どうだった」
興奮したように唾を飛ばしながら喋る男とは対照的に、落ち着いた雰囲気をまとった青年は顔色ひとつ変えず口を開いた。
「捕らえた子供の中に、旦那様と接触した者はおりません。現在も捜索中ですが、一週間ほど前から行方をくらましている人物がいます。もしかしたらと当たりをつけておりますが、仲間が匿っているのか、それとも地下にでも潜んでいるのかもしれません」
「一週間……ちょうどワシの大切な物が盗まれた日と重なるな」
唸った男の顔が歪む。
「だからあの区域を早々に処分していればよかったんだ。悪の巣窟を、これを機に根絶やしにするのも面白いな」
にたりと嗤った男は、青年に命じた。
「いいか、そのガキを捕らえ、必ずやワシの元へ連れてこい」
「はっ」
青年がいなくなると男はペンを手に取った。
「クソッ、このままでは計画どころかワシの身も危ういぞ」
羊皮紙にすらすらと書き込む手つきは滑らかだったが、蝋燭に照らされたその顔はほんの少し恐怖に引きつっていた。
鏡に映る自分の姿にメルファはため息を吐いた。
ちっとも輝いていない。
苛々と部屋を出たメルファにまとわりつく神官たちの視線。
メルファが睨みつけると、慌てたように逸らされるが、その視線は決して友好的ではない。未だ女神としての力を発揮できないメルファに向けられる視線は冷たかった。
(しょうがないじゃん。あたしは巫女でもないんだからっ。だいたい素人に大役任せるほうが悪いのよ)
「メルファ殿、大神官様が広間にお呼びです」
神官のひとりが声を掛けてきた。
メルファを女神と認めていないせいか、口調こそ丁寧ではあったが、伏せることもせず立ったまま不躾に見つめてきた。
「こちらへ」
「子供じゃあるまいし、ひとりで行けるわよ」
つっけんどんに言い返したメルファに、神官は渋るように眉を寄せた。
けれど構わず、メルファはひとりでずんずんと歩き出した。広間ならば行き慣れていたから迷うことはない。
後から神官が焦ったように追いかけてくる。しかし、何歩も進まないうちに彼の腰布がほどけ、躓いた。
振り返ったメルファは、思い切り鼻で笑ってやった。
失笑が周囲からも漏れる。
倒れた神官は、顔を強く打ったのか鼻を押さえた。つぅと赤い物が流れていく。さらに顔を真っ赤にして慌てる姿が滑稽で、可哀想であったが、メルファの双眸に宿るのは冷たい光だけだった。
くるりと身を翻したメルファは、口元を歪めた。
(いい気味)
実は、腰布を緩めたのはメルファだ。
すれ違ったとき、気取られないよう手を伸ばして緩めておいたのだ。転ばせるつもりで。
やられたらきっちりとやり返すのがメルファの信条だ。
(盗みだったらだれにも負けないのになぁ)
メルファは、リートゥアの手によって優雅に結い上げられた髪をかき乱した。あっという間にほどけ、肩の上を滑っていく黄金の髪。メルファは満足そうに笑った。
ここの環境は酷く窮屈だった。
いくらお金のためとはいえ、我慢の限界にもほどがある。
広間へと赴いたメルファは、そこに居並んだ面子に顔をしかめた。
見知った顔の中には、アークをはじめとする十の護衛神官のほか、いかにも位の高そうな神官が両端を陣取り、敷布の上に座していた。
大神官イーシスは、ほかの者たちより高い位置におり、その後ろにはバルティンが控えていた。
「──これより、仮初めの女神、見定めの儀式を行う。これまでの成果を見せてみろ」
唐突にイーシスがそう告げた。
どうやらメルファのために集まったらしい。
だがあいにくとメルファはまだ神気を会得していない。衆人環視の中でメルファに恥をかけというのだろうか。
それでも逸る気持ちを押さえ、まずは、なんとか様になってきた佇まいを披露する。背筋を伸ばし、指先にまで神経を尖らせる。
笑顔はぎこちないが、そこはご愛敬。どうせ降臨祭で集まった民に、自分が微笑んでるかなんて遠目からわかるはずないのだ。
胸を張り、裾の長い衣服を転ばないようさばいていく。足音は立てず、ゆっくりと、ゆっくりと……。
顎の位置は低くもなく、高くもなく。
地を滑るように歩くのだ。
イーシスの手前までやって来ると、ちらりとリートゥアに視線をやった。急用ができたとメルファのそばを離れたのは、このためだったのだろう。心配そうに見守っていたリートゥアは、その視線に気づくとコクコクと頷いた。上出来とばかりに浮かぶ優しげな笑みに、メルファは安堵した。
「ふんっ、及第点か」
冷めた目で眺めていたイーシスの判定は合格であった。
胸をなで下ろしたメルファだったが、次の瞬間、全身から血の気が引いた。
「では、神気を」
イーシスがそう続けると、固唾を呑んでいたアークは額を手で叩き、渋面を作った。
ヴァズは顔色こそ変えなかったが、鋭い目をほんの少し細めて、心配そうな面持ちとなった。
「どうした、なにをグズグズしている」
メルファは頭の中にキラキラとした金粉を思い描いてみるが、何も変わらない。力んでも、精神を統一させても神気をまとうことはできなかった。
──時間だけが無意味に流れていく。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
一向に神気をみせないメルファの姿に、失笑と失望と、やはりなという苦笑が密やかに広がっていく。
徐々に大きくなっていくざわめき。
その声は、その場に立ちつくすメルファの耳にしっかりと届いていた。
「大神官、今からでも遅くはありませんぞ。巫女を迎え入れるべきかと。やはり女神に選ばれない者が女神となるのは不可能なのです」
年かさの神官が声を上げた。
それに賛同するかのように次々と是と答える神官たち。
「……その点については、考慮しよう」
さすがにメルファに失望したのか、イーシスが妥協を見せた。
おおっと驚く声が、いたるところから上がった。それは好意的なものだった。
(もう、終わったんだ。あたしの役目……)
唇を噛みしめたメルファは、何も言い返すことができず項垂れた。イーシスはとうとう見限ったのだ。メルファはもう用なしということなのだろう。
悔しくて、やるせない。
周りはすでに新しい巫女へと心が移っているようで、メルファなど見向きもしなかった。
打ちひしがれるメルファに声を掛ける者はいない。リートゥアたちは、イーシスの目を恐れてかその場を動こうとはしなかった。
浮かれた声を上げる神官たちに気取られないようきびすを返したメルファは、失意のうちにその広間を後にした。
その後ろ姿を見つめるイーシスの視線に気づかぬまま。