その二
「もっと優雅に振る舞えないんですか? それでは女神を一目見ようと押しかけた民衆の目を欺くことはできませんよ」
バルティンは、手に持った鞭をしならせた。寸分の狂いもなく伸びた先は、メルファのつま先の一歩手前を跳ね、小気味よい音が無機質な部屋こだました。
女神としての修行を積んでいるメルファであったが、正確にはまだ女神ではない。
(なんとか透けることはなくなったけど、あたしってつまり魂だけの状態なのよね。なんか信じらんないけど)
ローレンの鎌によって魂と肉体が別々になってしまったメルファは、今は実体を持たない身である。けれど不思議と物は掴めるし、普段と変わりなく過ごすことができる。魂魄が離れてから時間が経ったせいか、魂も現状に馴染んできたのか肌が透けることはない。
──女神レウリアーナ。
大神官イーシスはそう告げた。
詳しい事情の説明もないメルファにはさっぱり理解できない。けれど無事に降臨祭を女神となって成し遂げなければ、この身が無事に元に戻ることがないことはわかっていた。
いくら大金に目が眩んだとはいえ、大変な仕事を引き受けてしまったようだ。
真の女神となるには、黄金の聖なる気をまとわなければならないのだ。もちろん女神となるために幼少のみぎりより育てられた巫女とは違い、メルファはただの人間だ。女神らしい気品あふれる所作はおろか、力だってない。
それを知っていながらバルティンは厳しくメルファを教育するのだ。
女らしい仕草でさえまごつくメルファに、バルティンは深々とため息を吐いた。
「なぜあなたが……」
忌々しそうな呟きはメルファの耳にばっちりと届いた。
ぎりっと悔しそうに歯ぎしりをしいたメルファは、けれど言い返すことはしなかった。メルファを女神レウリアーナの身代わりとして歓待している者はほとんどいないのだ。
リートゥアから聞いた話によると、女神レウリアーナを現在も捜索しているという。もし見つかればメルファはお役ご免というわけだ。
(あたしだって、別になりたくてなったわけじゃないのに……)
女神の身代わりと知っていたのならば引き受けたりはしなかっただろう。
いきなり仮初めの女神として仕立て上げられたあげく、神官たちの冷たい仕打ちを受けて憤りを覚えないほうがどうかしている。
ここの連中は、女神レウリアーナが現れるのを待っているのだから。
メルファになど、欠片ほどの期待も抱いていない。
もしメルファが巫女であったのならば、ここまで煙たがられたりしなかっただろう。神官たちにとって巫女は、女神と同じく特別な存在なのだ。
見た目も言動も粗野なメルファと深窓の巫女を比べるのもいかがなものだと思うが、彼らはメルファが下層階級の人間であることも許せない様子だった。巫女というのは、貴族の娘が多く、血統が立派な者が次期女神候補となるからだ。
「バ~ルティンちゃん、子猫ちゃんは何にも知らないんだから一から優しく教えてあげてよね」
ふいにアークが出入口の布を払って入ってきた。メルファと視線が合うと、片目を瞑った。
「は~い、子猫ちゃん。久しぶりー」
「アーク……」
ここに来たきり会っていなかったアークの姿に、胸の奥がツンとした。そんなに日は経っていないというのに、長い時間顔を見ていなかったように思えるのだ。
思わずヴァズの姿も探すが、彼の姿はどこにもなかった。どこかがっかりとした面持ちに気づいたのだろう。アークが慌てたように付け足した。
「ヴァズなら後から来るよ。子猫ちゃんに会いたがってたしね」
「邪魔しにいらしたのですか?」
不審そうに目を眇めたバルティンに、アークがぽんと手を打った。
「ああ、そうそう! すっかり忘れてた。大神官サマがお呼びだよ~」
「イーシス様が? 馬鹿者っ! それを先に言え」
血相を変え、部屋を出て行ったバルティン。
メルファのことなど完全に頭から抜け落ちているようだった。
「あ~あ、ほんと大神官サマのこととなると口うるさいんだから」
肩をすくめたアークは、怖い鬼教官が席を外したことで気が緩んだように表情を和らげたメルファに近寄った。
「だ~いぶ、しぼられてるみたいだねぇ」
「おかげさまでねっ」
嫌みったらしく言葉を返したメルファは、仰向けに倒れた。
「無理っ、無理~~っ! あたしが女神なんかになれるわけないじゃんっ」
「そ? オレは素質あると思うけど」
「なんでさ」
「ただの勘~」
「あっ、そう」
不機嫌そうなメルファの隣に座ったアークは、気まずそうに頭を掻いた。
「怒ってる? オレが仕事の内容教えなかったこと」
メルファは目を瞑った。
「聞かなかったのはあたし自身。だからアークが責任を感じることはない。ただ八つ当たりしただけ。思うようにならないから……。貴族のヤツらと同じ動きなんて反吐が出る」
「あはっ、メルファちゃんらしい台詞だね」
「あたしはさ、女神なんて知らない。どんな姿とか知らない。けど眼鏡男やほかの神官どもは同じ姿を求めてくる。知りもしない女のどこをマネしろってぇのよ。あたしが住んでたところには、そんなお上品な人間なんかいなかった……っ」
生きていくことが精一杯で、口調や態度なんかどうでもよかった。返って口汚いほうが、箔がついて、見くびられずにすんだ。
なのに彼らは、メルファのそんな事情など知ろうともせず、当然とばかりに貴族の振る舞いを求めるのだ。メルファには、どうすれば他人の目によく映るかもわからないというのに。
「少しずつでいいんじゃない。バルティンはさ、詰め込みすぎるきらいがあるからねぇ。子猫ちゃんは子猫ちゃんの速度でゆっくりと身につけたらいい。大丈夫。不安がることはないよ。オレたち十の護衛神官がついているからね」
優しい台詞は、メルファの尖った心まで溶かしてしまうかのようだった。
きっと、リートゥアやアークがいなかったらメルファは逃げ出してしまったかもしれない。
「どうして、」
「ん?」
「どうして言わなかったの? あたしが盗みを働いてること」
「言って欲しかった?」
「そうじゃないけど……。もしあたしが罪人だって知れたら、あんたやヴァズだって罪に問われるよ」
「あぁ、心配してくれてるんだ」
アークは緩く目尻を落とした。
「けど、仮初めの女神サマの手癖が悪いっていうのも面白くていいんじゃない? あいにくとお堅い守警団の連中と違って、オレたちは気にしないさ。犯罪者だろうと、女神となったのならばね。ま、中には古い考えを持った神官がいるだろうけど、子猫ちゃんが気に病むことじゃない。オレたちの役目は君を護ることだからね」
「たった三月の間だよ」
「それでも、その三月の間は、君がこの主神殿の女主だ」