第三章 仮初めの女神
「ローレン、殺れ」
少年の命令に、大きな体をひたすら縮めていた男は、おずおずと体を起こすと背に手を伸ばした。
「で、できるだけ、痛くしないようにしますネ。だ、だから、ボ、ボクのこと、恨まないでくださいィィィィィッ」
すっとその手を引くと、巨大な鎌が握られていた。いったい、どこに隠し持っていたのだろう。見事な曲線を描く刃は、美しい銀色に輝いていた。
涙目で鎌を構えた男は、とっさのことに身じろぎもできないメルファの体に向かって振り下ろした。
「う──……っ、あ…ぅァ、……ッ」
ものすごい圧迫感に、床に崩れ落ちた。
ああ、死ぬんだ──。
そんな感慨がふっとよぎる。
(こんなとこで死にたくなんかなかった……)
まだやりたいこともたくさんあった。
叶えたい夢もあったというのに、この命は両親のように儚く散るのだろうか。
メルファがうっすらと目を開けると、美しい水晶の床に自分が映っていた。覇気のない己の顔をじっと見つめていると、だんだん違和感を覚えた。
(ん──? あたし、死んで、ない……?)
まだ意識ははっきりとしていた。
確かに斬られたというのに、痛みがなかった。
ゆらりと立ち上がったメルファは、指先を見下ろして首を傾げた。普通に動いている。
不思議に思っていると、掌が薄く透けた。まるで水晶のように透明に……。
「え……は? なに、これ」
「ふんっ、どうやら成功だな」
黙って眺めていた少年が、満足そうに口の端を持ち上げた。
「ご、ごめんなさいィィィィィ」
男はひたすら謝っていた。
メルファが視線をずらすと、そこに見慣れた体があった。
「う、うそ、でしょ……」
思わず目を疑ったが、見間違うものか。
床に倒れているのは、メルファの体だった。血の気はなかったが、横顔は眠っているように安らかだった。
鎌で斬られたはずなのに、周囲には血の飛び散った気配もなかった。服も綺麗なまま、ただ気絶したように倒れていた。
「いいか、小娘。貴様の体は今、仮死状態にある。よって、腐らないよう保護する必要がある。わかるな」
「は? え?」
断定されてもメルファにはわからないことだらけだった。
しかし、戸惑うメルファに構わず、少年は床に額をこすりつけている男に命じた。
「ローレン、氷の宮で丁重にこの体を保存しろ」
「は、はいィィィィ」
男は血のついていない鎌を一瞬で消すと、仮死状態にあるメルファの体を恭しく持ち上げてその場から姿を消した。
──そう、姿を消したのだ。
空間を切り取るようにいなくなった男に、メルファは慌てた。
「ちょ、ちょっと! なんなのよ、コレ! アイツはどこいったのさ!」
「驚くことはありません。彼は、空間を移動しただけです。それに、あなたの今の状態は、ただの魂魄の離脱です」
答えたのは少年ではなく、成り行きを見守っていた知的な青年のほうだった。眼鏡を中指の背で軽く持ち上げる。
「とりあえず、おめでとうございます。まずは、第一関門突破ですね。資格のない者でも女神の御力は注がれる。なんとも興味深いことです」
「なんの話をしてるのさ。あたしにもわかるよう話してよ!」
メルファが噛みつくと、青年が不快そうに眉間に皺を寄せた。
「これは、言葉遣いから躾ないといけませんね。小鳥のようなさえずりならまだしも、野犬のようにこうるさいとは」
「ふんっ、バルティンの得意な分野だろう」
「貴方もお人が悪い」
くすりと柔らかく微笑んだ青年。
少年もにやりと笑みを返すと、地団駄を踏むメルファに視線を落とした。
「貴様には、ファーゼ中の女が羨む地位をやろう。ありがたく思え」
「は? 地位? なんの話よ。主神殿で働くんでしょ?」
「そうだ。貴様は三月の間、女神レウリアーナとなるのだ」
「はあぁぁぁぁぁ────……っ!?」
メルファの絶叫が響き渡った。
いくら扉を叩いても返事のないので、入室する旨を告げてから中へ入ったリートゥアは、眼前に広がる光景に笑みを深めた。
「あらあら~」
陽当たりのよい窓際で、昼寝をしているメルファの姿は、なんとも可愛らしい。子猫が無邪気に眠っているような微笑ましさに、リートゥアは足音を立てず近づくと、近くにあった毛布を彼女にかけた。
体を丸めて眠るメルファ。
起きていれば、勝ち気な空色の双眸と口の悪さが印象的だが、こうして目を瞑っているとあどけなくて可愛らしさが際だった。それでも、顔にうっすらと残った傷跡に気づくと悲しげに双眸を曇らせた。
メルファの支度を手伝ったリートゥアは、この小さな子供の体についた無数の傷を見てしまったのだ。消えかかっているとはいえ、黒ずんだ痣や擦り傷は白い肌により痛々しく映った。
決して楽な暮らしはしてきてないのだということは一目瞭然だ。
神官を厭い、神を信じない娘が、なんの因果か仮初めの女神として迎え入れられた。まだ何も知らない憐れな娘。
そっと女神レウリアーナと同じ黄金の髪を優しく撫でたリートゥアは、出会って間もないメルファの苦労を思い描き、目を閉じた。
「貴女に創造主バーンと女神レウリアーナのご加護を」
そう囁いたリートゥアは、人の気配を感じて振り返った。
「アーク殿、扉を叩きもせず入ってくるのは失礼ですわ~。ここは淑女の部屋ですのよ~」
メルファから素早く離れたリートゥアは、こちらを伺っているアークに近づくと小声で文句を言った。
「あはっ、オレとメルファちゃんの仲だし、それって関係ないない。だいたい、あの子がそんな細かいこと気にすると思う?」
リートゥアの肩越しに、眠っているメルファを発見したアークも声を潜めた。
「それでも礼儀がございますでしょ。これだから殿方は……。女手が少ないと、野蛮人が増えて困りますわ~」
不満を漏らすリートゥアに、アークが黙って肩をすくめた。思い当たることがあったのだろう。
事実、世話役の女の数は、神官に比べてずっと少ない。女性神官自体、貴重なせいか、ほとんど男支配といっていいだろう。
アークは、リートゥアに向かって廊下に出るよう促した。
「メルファさまにお会いになるのでは~?」
「ぐっすり眠っている子猫ちゃんを起こすなんて野暮なことはしないさ。思ったより馴染んでるようだねぇ」
魂が肉体から離された状況だというのに、のんきに寝ていることを指しているのだろう。
「順応性は高いかと~」
眠るメルファを微笑ましそうに一瞥したリートゥアは、静かに扉を閉め、アークに向き直った。
「けれど、どうしてメルファさまをお選びに? 候補ならばもっと……」
アークとヴァズは、大神官イーシスの勅令により、女神レウリアーナの代わりが務まる娘を捜す任を命じられていたのだ。旅立ってから便りもなく、主神殿の神官は苛立ちと期待に揺れていた。
特に仲間である護衛神官の反応はさまざまであった。アークたちがどのような娘を連れ帰ってくるのか、だれもが好奇を抱いていたのだ。女神レウリアーナに近い、品性と慈愛に満ちた聖母のような人物を想像していた。
なのに実際は、口の悪い、どこをどう見ても女神からはほど遠い少女を連れてきたのだ。彼女を巡って、表立って騒ぐ神官はまだいないが、不穏な動きは水面下で繰り広げられている。このままでは、大神官の顔に泥を塗ることにも繋がるはず。
それをアークが読んでいないはずがない。
だからこそ、訝しく思うのだ。なぜ、と。
「あぁ~、リートゥアちゃんまでそれ言うの? もう何回それ聞いたかなぁ。ほかの護衛神官も同じことばっかり。やんなっちゃう。案外、なかなか良さそうな子って見つからないもんだよ。条件に合う子はいっぱいいだけどさ、なんかピピッとこなかったんだよねぇ」
「だからといって、女神や神官に不信感を抱く子を選ばなくともぉ」
リートゥアは呆れたように言った。
百歩譲って、女神らしからぬ振る舞いには目を瞑るとしても、堂々と神官は嫌い、女神は信じないと言ってのけるメルファの行動は目に余った。
アークとヴァズには少しばかり心を開いているようだが、ほかの神官には態度が冷ややかだ。もっとも、その原因はメルファだけではなく、神官のほうにも問題があったのだが。ともあれ、そんな剣呑な雰囲気の中、メルファが仮初めの女神として迎え入れられるには無理があった。
「そうなんだけどさ、ちょっと憐れに思ってねぇ。なんか痛々しいっていうかさ。あんなに小さいのに一人で必死に生きてる姿に惹かれたんだよ。それに、毛色の変わった女神サマでも面白いでしょ。第一、最終的に決めたのは大神官サマだし。お眼鏡に適ったってことは、適正はあったんじゃない?」
「最初から巫女さま方の中からお選びになれば事は簡単に進みましたのに~」
十三の地の中心に【聖巫女の生誕地】と呼ばれる区域がある。そこでは、初代の巫女がその功を認められて女神となった逸話があることから、代々女神候補の養成地として各地の乙女が巫女として養育されているのだ。
女神となるために育てられた彼女たちをひとり寄越してもらえば、なにも今回は民の中から選ばなくともすんだはず。
「しょうがないよ。こんな不祥事が巫女サマ方の耳に届いてご覧よ。慈雨の地ファーゼの評判はガタ落ち。それこそ大神官サマの手腕が問われるからねぇ。ほら、うちの大神官サマってば、ほかの地の大神官サマ方の中で最年少でしょ~。ピリピリしてるんじゃないの~? 見くびられたくないってさ。ま、ファーゼの中でも虎視眈々と大神官サマの地位を狙ってる奴らがいるからね~。そいつらにつけいる隙を与えないためには、やっぱ孤児の子供じゃなきゃ」
「そうですけど~」
孤児ならば、長い間行方が知れなくとも、だれも気には留めないだろうという思惑から、孤児である娘が条件についていたのだ。それに、孤児ならば、お金に困っているだろうという安易な考えもあった。
「それにこれは子猫ちゃんだって納得済みだし。リートゥアちゃんがなにを気に病んでるのかわからないけど、大神官サマからの忠告。どうせ三月の間なのだから、情は持つなってさ」
「まあ、慈悲深いあのお方らしからぬ御言葉ですこと~」
「いやいやリートゥアちゃん。いい加減気づこうよ。大神官サマを慈悲深いって言ってるの、十の護衛神官の中で君だけだから……」
アークが苦笑しながら言うが、イーシスのことを想うリートゥアの耳には入っていない。
何年も一緒にいるというのに、いつまでもリートゥアは盲目的にイーシスを慕っている。それこそ、欠点すら美点に見えるようで、イーシスが心根の清らかな、空よりも広い慈悲の心を持っていると信じて疑わなかった。