その二
その後、しっかりと清められたメルファは、世話役の女によって着替えさせられた。色の濃淡が違う薄布を幾重にもまとい、腰布を巻けばまるで巫女のような装束となった。
動きやすそうな格好をしている世話役の女とはまったく違う。彼女は、前開きの裾の長い上衣の下に、ズボンを穿き、どこか男子のような衣服に身を包んでいた。それでも体の線は柔らかだし、腰に巻いた帯も可愛らしい飾りがついていて、女性らしさに溢れているからそんなに違和感はなかったが。
「白……」
彼女の姿をあまり気にしていなかったメルファは、ようやく違和感を覚えた。この世界で『白』をまとうことが許されているのは神官だけである。
彼女が世話をする者ならば、先ほど会った女たちのように黒をまとっていなければならないはず。
「あんた、世話役じゃなかったの?」
「申し遅れました~、わたくし、十の護衛神官、変幻のリートゥアと申しますぅ。しばらくの間、わたくしがメルファさまの身の回りのお世話をいたします~。よろしくお願いしますわぁ」
間延びした喋り方が彼女の特徴なのだろう。
片膝を折り、優雅に身を屈めたリートゥアは、顔を上げるとにこりと笑った。銀に蒼を溶かしたかのような美しい髪を一つに結い上げ、背筋を伸ばして佇む姿はどこか凛々しい。年齢は二十代前半だろうか。アークと近い年齢に見えた。
「神官……」
メルファの顔が一瞬、歪んだ。
リートゥアに、絨毯の敷かれた、透き通った水晶の廊下を先導されながら、メルファはあえて彼女が神官であるという事実を考えまいとしていた。
(わかってる。アークやヴァズみたいに優しい神官だっているってこと)
けれど、嫌悪感と怒りが胸の内にくすぶり、どうしても心穏やかにはなれない。
密やかに懊悩するメルファに、気づく者はいないだろう。いくらお金のためとはいえ、できることならば一生足を踏み入れたくなかった神殿に今、いるのだ。
しばらく進むと、大きな空洞が現れた。
とたん、目映い光が視線を奪った。
思わず目を瞑ったメルファは、太陽とは違った輝きに気づいて、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「宝の山だ……!」
(そうだ、神殿なんかじゃなくて、ここは宝の山って思えばいいんだ)
視界を覆う黄金一色の空間に、すっかり心を奪われたメルファの手が怪しく動く。さすがに盗める大きさのはないが、これほどの宝を前にして自制しろっていうほうが無理であった。
そんな奇妙なメルファの態度には気づいているのだろうが、リートゥアはあえて言葉を挟まず、にこにこと見守っていた。
「さ、ここから先は小舟で移動ですわ~。足下にお気を付けてお乗り下さいませ~」
メルファとリートゥアが黄金で造られた小舟に乗り込むと、ゆったりとした長衣の上に腰までの外衣をまとった神官が船頭となり、黄金の櫂を流れるような動作で動かすと、小舟は水面を軽やかに滑った。
「この水って湖の?」
「いいえ~、清められた神聖な水ですわ~」
「ふうん」
メルファはきらきらと光る水面に惹かれるように手を伸ばした。ひんやりとした冷たさは、清涼な心地よさがあった。底に色石をはめ込んであるのか、水面が揺れると色が交わって様々に変わって、まるで動く絵画を観ているかのようだった。
水の跳ねる音を耳に入れてか、前方を注視していた神官が振り向いた。
「な、何をしているんですか! す、すぐに手を離しなさいっ」
メルファの姿を目に入れると、慌てたように怒鳴った。
「なにさ。文句あるの?」
胡乱げに睨み上げたメルファは、注意されても水に触れるのを止めなかった。
「あ、当たり前です。この水は穢れた者が触れていいものでは……」
「前、ちゃんと見ないと危ないですわ~」
激昂する神官に向かってリートゥアが声を掛けた。
にこにことこの場の雰囲気にそぐわない笑顔を浮かべる彼女に、正気に戻ったらしい神官は低姿勢で彼女に謝ると、罰が悪そうに顔の向きを戻した。
「なにあれ。感じわるぅ~」
メルファは腹いせに、彼に向かって聖なる水を思い切りかけてやった。
その冷たさにメルファを睨みつけるが、リートゥアを目の端に止めると、怒りを押し殺したような顔で黙々と己の仕事をこなした。
きっと彼よりリートゥアのほうが、位階が上なのだろう。
「手が冷えてしまいますわ~」
リートゥアは、メルファの手を取ると丁寧に拭った。
「全然。最初は冷たかったけど、なんかあったかくなってきたし。気持ちよかったよ」
「そう…、ですか~」
ほんの少し目を見開いたリートゥアは、すぐに笑顔を作った。
メルファは、リートゥアの傷一つない美しい手と己の擦り傷だらけの手を見比べて、彼女の手を羨ましく思った。
彼女の手は、貴族の手だ。
働くことを知らない貴族の手。
白く滑らかで、指の先まで整った美しい、手。
(穢れてる、か。そうだ、その通りだ……)
犯罪に手を染めたこの手が、神官である彼女と同じ美しさをしているはずがない。
たとえ傷が無くとも、彼女と同じような白さを保っていても、穢れは決して消えないのだから。一度闇に身を堕とし、黒く染まってしまったら、決して『白』に戻れない。『白』というのは、なにものにも穢されていないからこそ、その色を保つことができるのだ。
「──開門」
厳かな神官の声が響き渡る。
この神秘的な空間の中にあって不釣り合いな、重厚な扉が鈍い音を立てて開いた。
そこをゆっくりと通り抜けると、再び扉は閉じられた。
降り場に小舟をつけると、控えていた神官たちが揺れないよう小舟を押さえ、手を差し出した。
「さ、メルファさま、お先にどうぞです~」
不安定な足場によろけるメルファをリートゥアがしっかりと支えた。そのまま神官の手に掴まり硬い地に足をつく。
その後ろからリートゥアが軽やかに飛び移った。
メルファを伴ったリートゥアは、跪く神官たちに構わず、大きな薄布が掛かったほうへと足を向けた。
メルファたちが近づくと、そばに立っている神官ふたりが両端の布を持ち上げた。そこを過ぎると、また似たような布が天井から掛かっていた。それもやはりそばにいる神官たちが持ち上げる。
それを数度繰り返すと、広々とした空間に出た。水晶で覆われた空間には、色鮮やかな布が垂れ幕のようにかかっていた。
その異様さに思わず圧倒されるメルファに、にこりと微笑んだリートゥアが真っ白な扉を示した。
「その先に大神官さまがおられますわぁ」
「リートゥアは来ないの?」
ほんの少し不安そうな色を覗かせたメルファの頭を優しく撫でたリートゥアは、ゆるりと首を振った。
「わたくしの役目は、メルファさまをお連れすることですの~。怖がることはありませんわ。大神官さまはファーゼ一慈悲深いお方ですもの~。それはそれは素晴らしいお方ですわぁ」
緩く喋るリートゥアには緊張感の欠片もない。
毒気を抜かれたように苦笑したメルファは、慣れない服に苦戦しながらも背筋を伸ばして白の扉へと歩いた。
メルファが取っ手に手を伸ばす前に扉が開いた。
──純白。
その言葉が一番馴染むような白で統一された部屋の奥に、人影があった。
権力者に相応しい高い位置で、メルファを見下ろすように座している少年。どこか不機嫌そうな顔は、繊細ながらも怜悧なまでの冷たい顔立ちだ。彼が大神官なのだろうか。リートゥアが話していた慈悲は、どこかへ置いてきてしまったような雰囲気だった。
銀の髪に灰色の双眸のせいで、どこか浮世離れした美しさがある。
近づきがたい空気は、メルファを簡単に呑み込んだ。静かながらも普通の人とはまったく違う鋭い気に、知らず足が後ろに下がった。
しかし、すぐに体は閉められた扉ではなく、柔らかな何かに当たった。
「こ、怖いです、よネ……。ボ、ボクも、実は、怖いんです」
振り返ると、いつの間にか泣きそうな顔をした男が立っていた。長身で、体つきもしっかりとしているのに、ふるふると震えている姿は小動物を思い起こさせる。
漆黒の長い髪を三つ編みにし、地味な外套を羽織っている彼は、とても神官には見えなかった。青白い肌。その肌をことさら不健康そうに見せているのは、真っ赤な目と唇だった。血のように毒々しい色は、守警団のマントよりずっと鮮やかだ。
ホンモノの血を塗りたくったような色に思わず視線を奪われる。
「──何をしている。早く連れて来い」
「は、はィィィィッ」
びくりと大げさなまでに体を震わせた男は、メルファの体を引きずるように走った。抗議しようとした次の瞬間、床に放り出された。尻を打ったメルファは痛そうに顔をしかめた。
「す、座ったほうがいいですヨ」
耳打ちした男は、素早くその場に伏した。
渋々とそれにならうメルファだったが、男よりも下げる頭の位置はずっと高く、ただ顔を下に向けただけにしかならなかった。
その態度を無礼であると受け止めたのか、少年の表情はきつくなった。
「我が名は、イーシス。慈雨の地ファーゼの大神官だ。貴様のような愚民と直々に対話してやるのだ。ありがたく思え」
「! ……ッ」
磨かれた水晶の床に、メルファの顔がはっきりと映し出された。怒りを押し殺してはいるが、屈辱に震える目だけは正直であった。
「ふんっ、しかし、アークとヴァズが選んだのがこんな小娘とはな」
気にくわなそうなため息が、少年の薄い唇からこぼれ落ちた。
「だが…、仕方あるまい。妥協するとしよう」
なんとも身勝手な考えに、我慢だと言い聞かせるメルファにも限界はあった。つい、顔を上げてしまう。
少年と視線が合ったメルファは、睨み返した。
微かに片眉を上げた少年は、温かみのない双眸を、メルファの隣で畏まる男へと向けた。
「アレの用意を」
「け、けれど~、ほ、本人の意志が必要なのでは……と思ったり」
怖々と口を挟む男に、少年が目を細めた。
とたん、ひッと息を呑む男。その顔は恐怖に引きつっていた。
「闇の眷属が、口答えか? ずいぶんと偉くなったじゃないか。また、永久なる淵へ堕とされたくなければ、おとなしく俺の命に従っていればいい」
「ひ、ひいィィィィィィッ、あ、あそこだけはご勘弁をっ。やりますっ。ぜひボクにお任せくださいませ!」
涙ぐむ男は、必死だった。
神官ではないメルファは知らないが、永久なる淵というのは地獄を意味する。その名の通り、堕ちた者は永久に闇をさまようこととなる。どんなに望んでも命果てることもできず、永遠に肉体的、精神的苦痛を味わう、絶望に満ちた世界なのだ。
それこそ、人格すら変えてしまうくらい……。
もともと闇の眷属らしく退廃的で人間には友好的ではなかった男が、少年の手によって一度そこへ堕とされてからは、内向的になってしまっていた。一年という月日は、彼を作り替えてしまうには十分な時間だったようだ。今ではこうして従順に尽くしているのだから。
「ハッ、大神官がなにさっ!」
男が虐げられるのを見ていたメルファは、我慢ならないとばかりに立ち上がった。
「弱い者いじめして楽しいの? だからあたしは、あんたたちがだいっっきらい! 神に選ばれてるとか勘違いしちゃってさ。バッカみたい。あんたは人間でしょ。あたしと同じ人間だ。神なんかじゃない。人間が人間に従うことなんてないはずだ」
正義感を振りかざすつもりではなかったが、少年の不遜な態度には納得できなかった。
「刃向かうというのか? 慈雨の地ファーゼの最高権力者であるこの俺に。この先の生活を安穏と送れると思うなよ」
「それがなにさ。元から、楽な人生なんか送ってない。壊したければ壊せばいい。けど、あたしは屈しない。──もう、我慢しない」
メルファは、澄み渡った双眸を光らせた。
静かに、けれど揺らめく炎のように燃え上がるのは、強い決意であった。
「小娘ひとりになにができる?」
嘲るように口の端を持ち上げた少年。
手を伸ばしても届かないほど高い位置に悠然と座す彼の姿は、同じ人間とは思えないほど清麗で、こちらに非がなくとも謝罪してしまいたくなる威厳があった。
だがメルファは怯まなかった。震えそうになる両手をぎゅっと握りしめ、果敢に彼を睨み上げた。
「あたしにできることなんてたかが知れてる。悔しいけど、今のあたしにはなんの力もない。でも、心は自由だ。花のように簡単に手折らせない。たとえ──あんたでも」
そう言い放った刹那、我慢できずに吹き出したのは、ほかでもない少年であった。
「どうだ、バルティン。面白いヤツだと思わないか?」
少年の問いかけに答えるように、椅子の後ろから現れたのは、鎖のついた銀縁の眼鏡を掛けた知的な青年であった。十の護衛神官のひとりで、氷牙のバルティンと呼ばれている。護衛神官の中でも中心的な人物であり、大神官の右腕と目されている。
「だからといってなんの知識のない娘に任せるのは、荷が重いのでは?」
「だが、都合がいい。大金を必要とし、庇護のない者ならなおさら」
「けれど彼女は不適切です。貴方に暴言を吐いたばかりか、礼を失し、我ら神官を愚弄するなんて」
「仕方のないことだ。女神の教えが下々(しもじも)にまで行き渡っていないのは、地方神官の怠慢。これを機に一から教育をやり直すのも一興」
にやりと笑った少年に、知的な青年が肩をすくめた。
「名をメルファといったか」
少年は、理解ができず呆然と立っているメルファに視線を移した。
「どのような仕事でも引き受ける覚悟はあるか?」
「あ、あるわ」
先ほどまでの嫌味の応酬がなかったかのようなあっさりとした態度に、メルファは困惑したまま答えた。
「──そうか。ならば、」
にこり、とそれまでの不遜さが嘘のように優しげな笑みを浮かべた少年は、厳かに告げた。
「貴様には死んでもらう」