その二
「シッ、静かに、ね」
メルファが声を上げないのを確認してから手を離した青年は、黒い外套でメルファを優しく包み込むと、軽々と持ち上げた。
「ヴァズ、行くよ」
「お、おいっ、話は……ヒッ」
強面の男から鋭い眼光を浴びた守警団員は、情けない声を上げた。
守警団員がいるほうとは反対の道に出た青年は、じっとしているメルファに向かって囁いた。
「外は騒がしいから、オレたちの泊まっている宿に行くよ。それまで大人しくしててね」
長身のふたりが通りを歩くとそれは目立ち、彼らに道を譲るように人並みが引いた。
それを当然とばかりに平然と進む青年と、むっつりと押し黙ったままそのあとをついていくヴァズ。
壁も屋根も赤茶に塗られた店先には、屋台がひしめき、久しぶりの曇天で賑わっていた。
しっかりと舗装された馬車道沿いを進むと、人影もまばらとなった。その先には貴族区と呼ばれる、上流階級の者たちだけが住まうことを許された区域があるのだ。
中流階級の住人は、仕事以外での立ち入りを禁止されているせいか、視線の先は通りの賑わいが嘘のような閑静な住宅街が広がっていた。
小綺麗な二階建ての宿の前で足を止めた青年は、扉を押して中へ入っていった。その拍子にチリンッと鈴が鳴ると、すぐに女盛りの女将が現れた。ふくよかな体を重そうに揺らしながらやって来た女将は、青年たちに気づくとすぐに笑顔になった。
「おやおや、お帰りなさいませ。ずいぶんとお早いお帰りですこと。日が落ちるまで、まだありますよ」
にこにこと愛想良く言った女将は、青年が持つ荷物を持とうと手を出したが、青年は柔らかく断った。
一階は食堂として使われていることもあり、席には料理待ちの客が何人かいた。
「オラ、そんなとこでくっちゃべってねぇで、早く運べッ」
奥から主人らしい男の怒鳴り声が聞こえてくる。
カッと頬を赤らめた女将は、反射的に言い返すと、青年の視線に気づいておもねるように上目遣いで見た。
「なにか入り用のものがありましたら、なんでもおっしゃってくださいな。あんたみたいないい男にだったら負けとくよっ」
片目を瞑った女将に、焦れたように主人が声を荒らげた。
「オイッ」
「うるさいよッ。何年ぶりの客だと思ってるんだい!」
どしどしと長台に向かった女将に、主人も負けずと噛みついた。
「そんなもん知るかッ」
「また始まった……」
「どうでもいいから飯くれよ」
客の悲嘆にも気づかず、喧嘩を始める夫婦。
客の視線が青年たちから逸れている間に、ふたりは二階へと上がった。一番奥の陽当たりのよい部屋へ入ると、青年はようやく担いでいたメルファを降ろした。
淡黄色で統一された室内は品が良く、建具もそこそこ立派なものばかりだったが、霧深きルオン一の宿と謳うわりにはいささか殺風景な光景だった。長いすや円卓すらなく、装飾のされた寝台が二つばかりと小さな棚が一つあるだけだ。壁に飾られた綺麗な風景画だけが、唯一の美点だ。
ん~、と体をほぐす彼に代わり、ヴァズがメルファをくるんでいた布を取り去った。
「痛むところは、ないか?」
腰を屈め、ぼんやりとしているメルファの顔を覗き込み、ぼさぼさの髪を整えてやった。
その優しい仕草にほんの少しだけ頬を緩めたメルファは、ハッとしたように顔を引き締めると、ヴァズの手を振り払った。そしてそのまま後ろに下がる。
子猫のように毛を逆立てて警戒している様子のメルファに、青年がにっこりと微笑んだ。
「お嬢ちゃんのお名前は?」
「あたしが名乗るより、自分のほうから言うのが礼儀ってやつじゃないの?」
睨めつけるメルファに、青年は吹き出した。
「あはっ、そりゃ、そうだ。ヴァズ、どう? この子、なかなか面白い!」
彼は同意を求めるようにヴァズに視線をやったが、ヴァズは少し眉を潜めただけだった。
「ほんと君は、面白味がないなぁ」
肩をすくめた青年は、ヴァズから受け取った黒の外套を再び羽織ると、左手を自分の右肩に乗せた。
「失礼、お嬢ちゃん。オレはアーク。そして、そこの凶悪な面をしてるのがヴァズ」
「……あたしはメルファ。メルファ・ラートン。さっきは助けてくれてありがとう。一応お礼は言っておく。けど、どうせ親切心じゃないんでしょ? あたしをこんなとこへ連れてきて、どうするつもりさ」
「疑り深いなぁ。オレたちが拐かすような悪人に見える?」
「仲間以外の人間なんて信じられない」
「あははっ、ほんとに猫みたいだ。綺麗な金色の子猫ちゃん。うん、やっぱり気に入った。こうして出会ったのも何かの縁だし、もっと深く関わりたいな」
「──アーク」
メルファのそばに立っていたヴァズが、咎めるように低く名を呼んだ。
「だってヴァズ。この子ならよさそうじゃない? ねえ、…えっとメルファちゃんだっけ。大金、欲しいでしょ? オレたちの言うとおりにしてくれたら、簡単に、しかも短期間で富豪になれるよ」
「……いらないって言ったら?」
アークの申し出には惹かれるものはもちろんあったが、甘い言葉に惑わされて後悔するのは自分なのだ。よくよく吟味しなければならない。
思惑に乗らないメルファの態度を、感心したように見つめたアークの笑みが深くなった。
「バッカだねぇ、金色の可愛い子猫ちゃん。君に拒否権はないの。この場でどちらが優位に立っているかなんて、わかりきったことでしょ。君は罪深き犯罪者。守警団員の手に渡されたくないのなら、大人しく言うことを聞くべきだね」
確かにこの場で騒いだところで、メルファが得るものはなにもない。味方はだれひとりとしていないのだから。
ぐっと押し黙ったメルファは、それでも反論しようと頭をひねるが、なにも浮かばなかった。
「大丈夫、そんなに難しい事じゃないよ。……たぶん、ね」
「こんな小さな子には酷だ」
「酷? え~、これも人助けじゃない。だって、この子はお金を欲しがってる。お金があれば罪を重ねなくてもいいんだよ? オレたちが正しい道へ導いてやれるいい機会じゃない」
「親御さんにはどう説明をする。身寄りのない清らかな娘を捜しているんだぞ。お前の一存で勝手に決めるな」
珍しく饒舌に喋るヴァズに、アークが目を丸くした。
「どうしちゃったの? ヴァズちゃん。だれでもいいって言ってたじゃない」
「……」
「この子を憐れんでる? でも、これが現実。狭い世界に閉じこめられてたオレたちは知らなかっただけ。子猫ちゃんみたいな境遇の子なんて五万といるよ。ねえ、ご覧よ。堕落した魂は穢れてていいはずなのに、オレの目には真珠みたいに光り輝いて見える。これも清らかな証じゃない?」
「だが……」
「ねえ、子猫ちゃん、ご両親はいる?」
渋るヴァズに構わず、アークが期待を込めて尋ねた。
「……死んだよ」
辛そうな色を走らせたメルファとは対照的に、アークは心の底から喜んだ。
「ほら、これで決定!」
「これも、運命、か」
「あ、あたしは……っ」
勝手に盛り上がるふたりに、置いてきぼりとなっていたメルファは声を荒らげたが、自分に拒否権はないのだということを思い出し、声を落とした。
「い、命はあげないから。それに人殺しもヤだっ。あたしは盗みしかできないんだからね」
とたん、アークが吹き出した。
ヴァズも珍しく表情を和らげ、メルファを見下ろした。
「あぁ、なるほどね。オレとしたことが、すっかり失念してた。子猫ちゃんから見たら、オレたちって完全に人さらいか、犯罪組織の一員の勢いだよね。どおりで警戒心が緩まないはずだよ。いまさらだけど、オレたちはさ、別に怪しい者じゃないよ」
「そういうヤツに限って、そう言うよ」
メルファの目が険を帯びる。
ますます頑なになっていくメルファの様子に、アークがおかしいなと小首を傾げた。
「……主神殿で、若い女の働き手を捜している」
焦れたのか、ヴァズが口を挟んだ。
「しゅしんでん……って? それってなにさ」
訝しげな表情でメルファが訊くと、アークは目を丸くし、ヴァズでさえ微かに片眉を上げた。
「あれぇ? 赤子でも知ってると思ってたけど……。主神殿は、慈雨の地ファーゼにおいて最も神聖な場所さ。豊穣と慈しみの女神レウリアーナが初めて降臨されたのが、現主神殿のある場所ってことで、今でも不可思議な力に護られているんだよ。その主神殿におわす大神官イーシスは、最高位神官としてファーゼの神殿を統括し、女神レウリアーナに次いで権力を持つ最も偉大なお方。今回は、その大神官サマに命じられて、働き手を捜してたってわけ」
「ふうん」
興味なさげに相づちを打つメルファの目は冷めていた。
「うわっ。反応うすっ。おっかしいなぁ。ここは歓声をあげるところなんだけど。神官たちの羨望の的にして、民に崇敬される主神殿で働けるってなかなかないよ」
「あたし、」
メルファは、どこか必死に言いつのるアークをキッと睨んだ。
「神官とか女神とか、そういうの大っ嫌いなの! みんな女神や神官のおかげで幸せだとかほざいてるけど、あたしはちっともそう思わない。だってそれって恵まれてるからじゃん。恵まれてるから、女神に祈ることができるんだ。その日の生活だって苦しかったら、そんなことできない。祈ったってお腹は膨れないし、願いが叶うことなんてないんだから……」
メルファは掌をきつく握りしめた。
願いが叶わないなら祈っても無駄だ。
女神の温情が降り注ぐのはいつだって道楽者たちの頭上で、本当に女神の救いを必要としている者には届かない。
メルファはそのことを痛いほど知っていた。
「困ったな……子猫ちゃんにこの仕事は向いていないかも。やってくれたら百万ベガ払うのに」
アークの最後の台詞に、ぴくりとメルファが反応した。
「なんだって!?」
思わず輝く双眸。
──百万ベガ!
十ベガあれば一家四人が一ヶ月間暮らすには十分なお金だ。
破格の値に、メルファは大きく目を見開いた。
きっと貧民区の仲間がここにいたならば、やめとけと言っただろう。甘い話の裏には、危険が潜んでいるというのが彼らの定説だからだ。
しかしメルファは、どんな方法を使ってでもお金が欲しかった。
百万ベガなんて大金は、寝る間を惜しんで働いたとしても一生稼げないだろう。頭の中に金貨を思い浮かべると、それだけでクラクラしそうだった。
「……っ、これよっ、これ! あたしはこれを待っていたのよ!!」
ダンッと床を踏みならし、鼻息荒く拳を握りしめたメルファは、女の子らしからぬ下卑た笑みを浮かべた。
メルファは高らかに言い放った。
「その話、のった!」
「けど、子猫ちゃんは女神も嫌い……」
「なに言ってんのっ。それとこれは別! 最初にそれ言ってくれれば、あんたたちのこと警戒なんてしなかったのに。交渉の仕方が下手くそなんだから。まあ、これぞ女神……ううん、女神さまのお導きってヤツね。なんて幸運。あたしってドゥル=ドゥオール一の幸せ者」
んふふ、と締まりなく笑ったメルファは、キラリと目を光らせた。
「んで、前払い? それとも後? 期限とかってあるわけ?」
「仕事の内容は聞かなくていいの?」
「どうせろくなもんじゃないんでしょ。だれもが軽々こなせるんだったら、そんな大金支払わない。まあ、あたしみたいなガキを選んだ時点で、そんな小難しいもんじゃないと思うけど」
「そ。なんとも楽観的な子猫ちゃんだ。けどまあ、契約成立ということで、改めて自己紹介を」
アークは、すっと姿勢を正すと片膝を折り優雅にお辞儀をした。
「十の護衛神官のひとり刹那のアーク。以後お見知りおきを」
ヴァズもアークと同じように片膝を折った。アークと違い、己の体をもてあますかのような動作だったが、それでも貴族のように洗練されていた。
「同じく十の護衛神官のひとり、紅蓮のヴァズ」
急に畏まったふたりに、メルファは面食らったように呟いた。
「ごえい、しんかん……」
「そ。驚いた?」
メルファの反応を楽しむかのように、瞳を光らすアーク。
しかしメルファは、むぅっと眉を寄せた。
「それってなに? 偉いの?」
「えっ、そこ、から──……?」
あはは、とアークの乾いた笑い声が、虚しく響き渡るのだった。