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第一章 盗人少女

「……待てぇっ! こんのクソガキがぁ────ッッ」


 怒号が、賑やかな市街の通りに響き渡る。

 何事かと足を止める人たちの間に、するりと小柄な体を紛れ込ませたメルファは、にやりと口元を歪めた。フードを目深に被って、声の主をうかがう。

 メルファが近くにいることにまったく気づいていない中年の男は、でっぷり太ったお腹を揺らしながら、駆けつけてきた守警(しゅけい)団員に向かって吠えた。


「おまえたち、何をやっとるんだ! ええいっ、捜せ、捜せ! 小汚いガキだっ。ああ、ちくしょう。なんだってこんな目に……。いいか、なにがなんでも捜し出すんだ」


 怒りに顔を赤くし、血走った目を守警団員に向けた男は、ぎりっと歯ぎしりをした。

 慌てて敬礼をした彼らは、怒り狂っている男から犯人の特徴を聞き出すと、緋色のマントをなびかせて四方に散った。


(相変わらず血みたいな色……)


 守警団員の証である緋色のマントは、秩序と正義を示す色とされているが、メルファには毒々しい色にしか映らない。ルビーのように鮮やかでもない、少しくすんだ赤はいつ見ても気持ち悪かった。

 だが、彼らを()(ざま)に罵るのはメルファを含めたごく一部だけ。

 街の大半の人間は、治安維持に尽力を惜しまない彼らのことを尊敬していたし、緋色のマントを目に入れると、表情を和らげる。彼らにとって緋色は、神殿の者たちがまとう白に匹敵するほど神聖なものなのだ。


(あたしには、ちっともわかんないけどさ)


 みんなは知らない。

 守警団がどんなに恐ろしい存在か。表向きは街の平和のために奔走しながらも、その裏ではかなりあくどいことをしているのだ。


 ──腐りきってる。


 心の中でそう吐き捨て、顔を歪めた。

 こちらに歩いてくる守警団員に気づくと、さっと顔を引っ込め、人混みを縫うように駆けた。そのまま薄暗い路地裏に逃げ込むと、肩で大きく息をついた。

 盗みを働くとき、メルファは相手に気取られないよう上手くやる。だが、今回の相手は、鈍重な見た目に反して気配に敏感だった。懐にそっと手を差し込み、目当ての品を盗んだ直後に手を掴まれそうになったのだ。一瞬早く逃れ、そのまま雑踏に紛れ込んだのだが、その後を男が追いかけてきた。


 フードを被っていたから、男なのか女なのかもわからないと思うが、捕まらない保証はない。犯罪者を取り締まる守警団員の中には、無関係の人間だって捕らえる者がいるのだから。罪を犯しても犯していなくとも、彼らに捕まれば同じだ。


(もう、仲間が何人も連れて行かれた……)


 霧深きルオンの街の外れには、貧民区と呼ばれる区域がある。そこには親を亡くした子供や低賃金で働いている者、浮浪者たちが多くいた。身分が低いせいでまともな仕事にもありつけず、身を寄せ合ってなんとかその場しのぎの生活を送っているのだ。

 その日、一日を生きるのもやっとな彼らが、犯罪に手を伸ばすことなど容易かった。空腹に耐えきれずパンを盗み、病に苦しむ子供のために高価な薬を強奪し、堕ちるところまで堕ちていった。まさに悪循環。一度闇を知ったのなら、二度も三度も同じであった。


 けれどその者たちの末路は──。


 メルファは小さく首を振った。自分もまた闇に呑み込まれた人間である。生きるために、他人からモノを盗んで生活しているのだから。


(いけないことだってわかってる。けど、そうしなきゃいけないっていう状況で、道徳なんか守ってらんない。……もう考えるのはよそう。底辺の暮らしがどんなに惨めで、辛いかなんて、アイツらには一生わかんないんだから)


 毎日ちゃんとした食事と寝床がある幸せな暮らしをしている中流階級や上流階級の人間には、下層階級の暮らしがどんなに悲惨かなんて思いも及ばないだろう。


 苦々しく顔を歪めたメルファだったが、懐で密やかに主張している重さに気づいて、頬を緩めた。

盗んだモノをしっかり見るには邪魔なフードを取る。

 目映い金髪が、頬にかかった。それを耳の後ろにかけたメルファは舌打ちした。腰まで伸ばした髪をただひとくくりにまとめただけだったが、金糸のような美しい髪は、ルオンでもめったにお目にかかれないだろう。


 しかし、盗みをするメルファには、髪の美しさなど不要なものでしかなかった。特徴があるというのは、それだけで犯人を割り出す材料となってしまう。だからこうしてフードを被っているのだ。

 空色の大きな目をきらきらと輝かせ、懐から目当てのモノを取り出すと、周囲に人の気配がないかしっかりと確認した。


「んふふ、あたしのおっ宝ちゃん~」


 鼻歌まじりに呟いたメルファは、陰鬱な空気を綺麗さっぱり拭い落とすと革袋を開いた。肥えたあの男は、身なりが立派だった。生地の光沢ぐあいを見ると、上流階級で間違いないだろう。これは期待できそうだ。

 この重さならば、金貨か、宝石だろうと当たりをつけ、革袋を逆さにしたメルファは、掌に落ちたモノを見て、残念そうに肩を落とした。


「ちぇっ、これっぽっちか」


 中から出てきたのは四角い石だけだった。これはとてもじゃないが捌けない。色つやはあって綺麗だが、現金に換えようとも追い払われるのがオチだろう。これが純金で作られていたなら話は違うが。


「金目のモンなんかないじゃんか」


 唇を尖らせたメルファは、石を袋に戻すとまた懐にしまった。早いところ、川にでも捨ててしまおう。

太った男は、たかが石を盗まれただけで取り乱していたのだ。

 馬鹿だなと嘲ったメルファは、灰色の空を見上げた。薄暗い通りは、昨夜降った雨のせいでぬかるんでいた。継ぎ接ぎだらけの布靴の底がじんわりと湿り、冷たさが伝わってきた。音を消すのにはちょうどよい布靴であったが、こういうときは不便だ。

 日陰のせいか、空気までもじめっとしていた。


 肌にまとわりつくような不快感。


 湿気を帯びた生ぬるい大気ほど気持ち悪いものはない。


 ここ数日、太陽は分厚い雲に隠れていた。もともと慈雨の地ファーゼは雨の降る日が多く、水には困らない環境だった。今の季節は恵みの月と呼ばれ、空から命の水が降り注ぐ日々が続く。それこそ太陽が恋しくなるほどの悪天候に見舞われて、始まりの月に芽吹いた草花や農作物も腐ってしまう。


 だから降臨祭のとき、女神レウリアーナに太陽をおみせくださいと祈るのだ。

 地上に降り立った女神は、彼らの望み叶えるため、天を覆っていた雨雲を一瞬で払い、薄暗闇に包まれていた地に光を取り戻させるという。そうして人々は、ようやく恵みの月に終わりを告げ、根付きの月を迎えるのだ。


(まっ、女神なんて神話だけど)


 メルファは女神なんて信じてない。

 毎年、この街でも降臨祭は行われているが、女神が実際に降り立つのはルオンからずっと離れた場所だ。ルオンの街の人たちはだれも姿を見たことがないというし、街に出入りする商人も噂でしか知らないようだった。


 一度、女神の御業を見てやろうと、分厚い雲に覆われた空を見上げていたことがあったが、いつの間にか雲が薄くなり、太陽の光が差し込んできたことしかわからなかった。だからこんなに離れた街では、女神の存在すらあやふやなのだ。


 それに、メルファには女神がいると信じたくない理由があった。


(父さん、母さん……待っててね)


 懐から小さな巾着を取り出した。革袋とは違う、ボロボロになった袋。けれどメルファにとったら命と同じくらい大切なものだ。壊れ物を扱うように両手で包み込むと、額に押し当てた。


 よしっと気合いを入れたメルファは、巾着を再び懐にしまった。そのまま路地裏を抜け、大通りへと向かおうとした。が、三歩も進まないうちに足が止まる。視線の先には、赤茶色の壁に背をもたれ、こちらに顔を向けている人がいた。


 いったい、いつからいたのか。見られていることにも気づかなかった。

 舌打ちしそうになったメルファだったが、表面上は平静を保っていた。


「退いてよ。そこ、邪魔なんだけど」


 つんけんと言い放つと、その者はゆっくりとメルファに近づいてきた。ちょうど影となっている場所にいるせいか、相手の表情が読みにくい。すらりと伸びた手足を包む漆黒の外套が、全身を闇一色で染め上げてしまったかのような不気味さを漂わせていた。

 思わず後ろに下がると、トンッとなにかに当たった。

 壁などなかったはずと、驚いて振り返るとそこにもうひとりいた。


「──っ」


 思わず息を呑む。

 気配なんてまったくしなかった。


 顔が近いせいか、薄暗闇の中でも男の表情がはっきりとわかった。鋭い目つきの男は、薄い唇を曲げ、不機嫌そうにメルファを見下ろしていた。メルファと視線が合うと眉間に寄った皺がさらにきつくなった。子供なら簡単に泣いてしまうような強面を前に、メルファの頬が引きつった。

 頬に走った斜めの傷がすごみ増しているようだった。


 こくりと唾を飲み込んだメルファは、逃げ道を探すようにそっと視線を走らせたが、完全に退路を絶たれては手も足もでない。手癖は悪いが身体能力は至って普通のメルファに、家の壁などよじ登る芸当なんて到底できない。

 逃げるのを諦めたメルファは、近づいてきた者を睨めつけた。


「あたしになんか用? 人さらいだってぇなら叫ぶよ」


 黒をまとった者の顔の輪郭があらわになる。後ろにいる強面と違って、こちらはなんとも優しげな風貌の青年だった。彼は人の良さそうな笑みを浮かべながら、愉しげに口を開いた。


「守警団員が来たら、困るのはお嬢ちゃんのほうじゃない?」

「は? なんでさ」

「盗みを働いた咎は、そう簡単に許される罪ではなかったはずだけどねぇ」


 微かに表情を強ばらせたメルファの顔を覗き込むように腰を落とした青年は、喉の奥で低く笑った。

 華やかな美貌が、ほんの少し毒を持つ。漆黒の艶やかな髪に、美しい黄金の双眸。どこか掴みにくい雰囲気を持っているが、笑顔は柔らかかった。


「お、脅そうってぇの? あたしは屈しないよ。守警団のヤツらに渡したいなら渡せばいい」


 そう強気に言葉尻を強めたが、心中は冷や汗だらけであった。

 ここ慈雨(じう)の地ファーゼには、盗みを働いた者に対して両手を切断するという、なんとも残酷な刑があるのだ。

 神官いわく、罪を犯す者の心には悪魔がすみついているから、その悪魔から守るために、罪で穢れた部分を体から切り離さないといけないという。そのため、盗みを働いた者には、両手を失わせるのだ。もちろん、罪の程度にもよるが、どの刑も決して軽くない。

 メルファと同じように泥棒をしていた仲間の多くは捕まった。中には、命まで失った者もいて、その数は数え切れないほどだ。

 もちろん盗みは犯罪で、悪いことだと知っている。


 しかし、庇護のない子供たちや働くことさえできない者たちが生きていくには、犯罪に手を染めるしかない。そのせいで手を失おうと、命を落とそうと、それしか生きる術がないのだ。

 だからこそ貧民区に身を置いている者たちは、いつでも覚悟をしている。


 ――死ぬ覚悟を。


 メルファもそれを受け入れたからこそ、貧民区で暮らしているのだ。

 けれど、いざ現実を前にすると、体が震えることを止められなかった。


(なんで、いまさら……っ。ちゃんと覚悟、してたのに!)


 怖いのだ。

 死ぬかもしれないという事実が怖い。


(あたし、まだやりたいことあるのに。こんなところで、死にたくなんて、ないっ)


 ふいに頭の上に温もりが乗った。

 ハッと顔を上げると、強面の男が大きな手をメルファの頭に乗せていた。まるで宥めるような優しい撫で方に、不思議と凍えていた胸がふわりとあたたかくなった。


「ヴァズってば、そう睨まないでよ。オレ的には、苛めたつもりはこれっぽっちもないんだから」


 ぽりぽりと頬をかいた青年は、困ったように苦笑した。


「ま、そんな死にそうな顔しなさんな。オレは別に守警団の連中に売るつもりはないし」

「うそ!」


 メルファはとっさに否定した。


「うそ、うそっ! そんなのうそっぱちだっ。あたしがまだ、なんにも知らないガキだからって、だます気でしょ。あ、あたしをだましたって、なんもないからねっ」


 きっとこのふたりは極悪人なのだ。自分を拐かしてしまうかもしれない。連れて行かれた先で、一生奴隷のようにこき使われるのだ!

 思わず、現状よりももっと酷い光景を思い浮かべたメルファの眼差しが険を帯びる。

 と、そのとき。


「なんだ、騒がしいな」


 陽の当たる表通りから、メルファの怒鳴り声に気づいてか、がっしりとした体格の男が路地裏へ入ってきた。

 メルファは少し体をずらし、自ら厄介事に関わろうとした男を興味本位で盗み見した。が、気味の悪い緋色が視界に入ると、顔色が悪くなった。


(ああ、やっぱりコイツらはうそつきだ! 守警団のヤツらとグルだったんだ。あたしを甘い言葉で誘って、こっそり引き渡すつもりだったんだ)


 やっぱり貧民区の仲間以外を信じちゃいけない。

 メルファは怖さから震える手をぎゅっと握りしめた。一瞬だけ見た緋色が、視界を染め変えてしまうかのようだった。きっと、彼らのマントは、メルファたちのような罪人の血で染まっているのだろう。だからあんなにも禍々しいのだ。


「なんでもない」


 気分が悪そうなメルファを一瞥した強面の男は、なにを思ったのか自ら進み出て、青年と位置を代わった。長身の青年よりもさらに背の高い男が立つと、メルファと青年の体は隠されてしまう。


「諍い事なら放っておけない」


 なんとも仕事熱心な守警団員らしい。もっとも彼らの多くは、仲裁するよりも、喧嘩両成敗とばかりに諍いに関わっていた者たちを牢へぶち込むのを好んでいるが。牢から出てきた者たちは一様にやせ細り、人相が変わっていると聞くから、そこでなにが遭ったのかは推して知るべしだろう。


 しかし、いくら鍛えられている守警団員といえ、人相の悪い大男に黙って見つめられれば、居心地が悪いのだろう。結局、深く追及しなかった彼は、落ち着かなく視線をさまよわせると、空咳をした。


「と、ところで、ボロ布をまとった小汚いガキを見なかったか?」


 メルファの体がぴくりと震えた。


 ああ。これで、終わりだ。


(父さん、母さん、ごめんね……)


 ここでメルファは逮捕されるのだ。


 きつく目を瞑ったメルファは、しかし次の瞬間、我が耳を疑った。


「知らん」


 一刀両断で切り捨てた強面の男は、不機嫌そうな雰囲気を漂わした。それだけで空気が重くなり、近づいたら殺されそうな気が充満した。

 それに尻込みをした守警団員は、ごにょごにょと訳のわからない言葉を口にし、その場を後にしようとした。が、その刹那、男の思わぬ言葉に動揺し、身じろぎしたメルファの外衣が守警団員の目に入ってしまう。


「そういえばさっき、子供の声がしたな。若い娘の声が──」


 思い出すように呟く守警団員。

 今度こそ万事休すだ。

 打ちひしがれるメルファの目の前がいきなり暗くなった。とっさに声を上げようとしたメルファの口を大きな手が塞いだ。





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