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その四


「──脱走した、だと?」


 イーシスが目を細めると、その場の空気が重くなった。

 外は、霧で覆われていた。すぐ先の景色さえ、深い霧の中に消え、窓に映るのは一面の灰色がかった白だけ。

 物音さえも濃霧に呑み込まれてしまいそうな、そんな不気味な雰囲気が豪奢な室内に漂っていた。


 猫足の椅子に悠然と座っていたイーシスは、畏まるふたりに視線を落とした。

 床に膝をつくリオスの後ろで、護衛神官見習いが顔を俯けていた。その顔色は真っ青であった。


「一人では到底抜け出せまい。よもや、我らの中に手引きをした者がいると?」

「……それにつきましては、アークが関与しているかと」


 リオスが言いにくそうに口を開いた。


「ふんっ、アークはアレを大事にしていたようだからな」


 イーシスは、くくっと喉の奥でおかしそうに笑った。

 アークがメルファに手を貸すことは予想範囲内だったと言いたげな態度に、リオスのほうが瞠目した。


「こうなることを予期しながら、わざと放ったのですか? メルファさんの身はまだ潔白であると証明されては……」

「十分だろ。第一、偽物を持っていたところで俺の脅威ではない。小娘ひとりいなくなったところでなにも変わらんさ。それよりも──、」


 いったん言葉を切ったイーシスが、灰色の双眸に怒りを滲ませた。その視線は、顔を上げない護衛神官見習いへと向いていた。


「穢れた者の末路は知っているな?」


 ぴくりと体を震わせる護衛神官見習いに対し、イーシスは容赦なく糾弾した。


「俺が知らぬと思ったか。こそこそ俺たちの目を盗みながら、ずいぶんと手荒い仕打ちをしていたそうだな。護衛神官の一人が、先ほど罪に耐えきれず懺悔してきたぞ」

「! そんな、まさか……っ」


 振り返ったリオスは、護衛神官見習いを呆然と見つめた。

 自分がいないときは、彼にメルファのことを一任していた。護衛神官見習いの中でも有能で、次期護衛神官とも噂されている人物であったためリオスも安心して任せていたのだ。が、ちっとも自白しない様子にちょうど苛立ってきた頃でもあった。

 やり方が手ぬるいのかと考えていたのだが、実際はそうではなかったのだ。

 完全なるリオスの失態であった。


「たとえ罪人だろうと、丁重に接しろと僕は命じたはずだ。どういうことか説明を」

「そ、それは……」


 護衛神官見習いが、唇を戦慄かせる。その目は決してリオスとイーシスに合うことはなく、ただ床を見つめていた。


「今は罪人とはいえ、あの子は仮初めの女神として清められた聖なる御子。お前ごときが触れていいお方ではないぞ」


 メルファのことを裏切り者と罵り、尋問の際にも手を緩めることをしなかったリオスだが、その心の奥底では敬意を払っていたのだ。

 実は、仮初めの女神見定めの儀式のとき、リオスもその場にいたのだ。神気は残念ながらまとうことはできなかったが、その優雅な振る舞いとどこか挑戦的な視線に目を奪われていた。彼女が、下層階級の人間であることは知っていたが、そこにいたのはまさしく典雅な娘だった。


 短期間でなんとか様になったメルファのことを、リオスは少なからず尊敬していた。

 自ら関わることはしなかったが、突然ルオンに現れたメルファのことを嬉しく思ったのは確かだ。仮初めの女神の契約を一方的に破棄したのだとしても、リオスにとっては関係なかった。一度でも洗礼を受けたのならば、その尊さは一生変わらないのだ。


「も…、申し訳ございません。じ、実は、そそのかされたのです」


 体を震わせた護衛神官見習いは、額が床につくので頭を深く下げた。


「──だれにそそのかされた」


 目を光らせたイーシスが、鋭く問う。


「あ、悪魔です! 私の身の内に巣くう悪魔が……っ、ああ、恐ろしい! 私は敬愛する女神のためにこの試練に耐えなければならなかったというのに……! あの娘の犯した罪を悔い改めさせようと、私はこの手で……っ」


 うぅっと嗚咽を漏らす護衛神官見習い。

 大きな体を縮こまらせ、嘆く彼の姿は、とても醜悪であった。まとう純白の外衣が、薄汚れて見えた。


「悪気はなかったのです。与えられた任務を遂行しようと、ただその一心で! あ、あの娘も悪いのです。身の潔白を示すのでもなく、ただ知らないと否定するばかりで……。嘘を吐いているのは明白だというのに、頑強に否定するものですから、私もつい力が入り……。ああ、きっと悪魔は私の醜い感情に気づき、いつの間にか心に忍び寄って体を乗っ取ったのです。すべては悪魔に心を許してしまった私の未熟さ故に……」


 切々と訴える護衛神官見習いを冷めた目で見下ろしたイーシスに、慈悲など微塵も浮かんでいなかった。冷酷に切り捨てる、そんな冷たさがあった。


「そうか、悪魔か。ならば、清めの儀式を行わねばならぬ。リオス、牢に閉じこめておけ。アレの尋問した者はすべてだ。ほかにも悪魔の誘惑に負けた者がいるかもしれないからな。清めの儀式で悪魔を追い払ってやろう」

「ひっ」


 護衛神官見習いが短く悲鳴をあげた。

 清めの儀式と聞こえはいいが、実際はどんな拷問よりも苦痛が待ち受けている。その儀式に耐えられた者だけが、悪魔を追い出し真っさらな状態に戻ったと見なされる。が、過去にその儀式を受けた者で生きながらえた者はほとんどいない。


 多くは儀式の途中で息絶えるのだ。

 それゆえに、神官ならば清めの儀式と聞くだけで忌避していた。


「どうしたのかな? 悪魔に囚われたお前には嬉しいはずでしょ。清めの儀式を受けて無事に耐え抜くことができたのなら、再び女神の加護を取り戻すことができるんだから。女神のためならば、どんな痛みにだって耐えられるよね」


 リオスは、底の見えない笑みを浮かべながら護衛神官見習いに言った。


「ぁ、悪魔の仕業では、ない、かもしれません」


 ガタガタと震えが止まらぬ様子で、彼が言い直した。


「悪魔は狡猾です。お前の舌を使ってでたらめを吐いているのかもしれない。安心なさい。僕は甘言に惑わされたりしない。お前の魂が朽ちる前に、助けてあげる」

「ち、ちが……っ」

「さあ、参りますよ。イーシス様に悪魔が乗り移ったら大変だ」


 リオスが細い腕で簡単に護衛神官見習いの体を引き上げる。


「ひ…っひぃ……──っ、そ、そそのかしたのは、ルオンの神官です! ほ、本当です。信じてください!」


 よほど清めの儀式を受けたくなかったのか、悲鳴混じりに叫んだ。

 外にいた別の護衛神官見習いに錯乱状態の彼を任せたリオスは、渋面顔のイーシスのそばに寄った。


「こちらの行動を把握されているようですね」

「間諜が潜んでいるということか」


 すっと目を閉じたイーシスは、黙考した。

 しばらくして瞼を持ち上げると、緊張した面持ちで佇むリオスに視線をやった。


「なぜ、メルファはわざわざここへ来た?」

「と、言いますと?」

「あれだけお金に執着していた娘だ。ローゼスの仲間といえ、そう深く関わっている様子もない。リートゥアが気づかなければ、あのまま仮初めの女神でいてもよかったはず」

「イーシス様は、どうしてもメルファさんに仮初めの女神でいて欲しかったのですね」


 緊張を解いて、くすりと笑ったリオスに、イーシスが顔を赤らめた。


「そ、そうではない! 口調も乱暴で、態度もおよそ女神らしからぬものではあったが、近頃は真面目に勉学に勤しんでいたという。少なくとも、仮初めの女神という大役を果たそうという意志はあったはずだ。なのになぜ、印章を持ったままルオンへ来た。あの娘は印章がすり替えられたことに気づいていないはず。主神殿で直接ローゼスに渡したほうが、事が早く進むだろうに」

「そうですね。今回の件は、まだ裏があるのかもしれません。実は、貧民区の子供ばかりが連行された件ですが、気がかりなことがでてきたんですよ」

「なにか問題でも発覚したか」

「先ほどの者が、ルオンの神官にそそのかされたと言ってましたが、その子供を捕らえるよう命じた人物も元は──……」


 リオスが耳打ちすると、イーシスは顔色を変えて、舌打ちした。


「そこまで闇は広がっていたか」




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