その三
「……ッぅ」
メルファは、体を動かしたとたん感じた激痛に顔を歪めた。神官に蹴りつけられた背中はきっと打撲になっているだろう。動くと、骨に響くようだった。
メルファを敵と見なしたリオスたちは容赦なかった。
彼らはローゼス主神官との関係を問いただしてきたが、もちろんメルファが答えられるはずもない。まったく無関係なのだから。
けれど法神官の印章という、確固たる証拠がある以上、リオスたちは追及の手を緩めることはない。
しかし、脅され、痛めつけられても決して口を割らないメルファに、時間が経つにつれて目に見えて苛立っているのがわかった。
こうして閉じこめられて幾日が過ぎただろう。屋敷の地下にある部屋では、唯一時間を計ることのできる祈りの音も聞こえない。
今が夜なのか、それとも昼間なのか、それすら曖昧であった。
窓のない、薄暗闇に、蝋燭の灯りだけが冷たい部屋を柔らかく照らしていた。
「どうしにかして……」
口を動かすと、塞がったばかりの傷口が開き、唇がぴりっと痛んだ。
それに顔をしかめながら、メルファは思いをめぐらせた。
背中は痛むが、動けないほどではない。
(あしたは決して仲間を見捨てない。絶対、助けてみせるっ)
メルファは、尋問されているときに盗み出した針金で錠を開けると、そっと周囲を見回した。思ったり大きく響いた音に、だれも反応している様子はない。
尋問の時間が終わったあとは、警備も手薄だった。ぐったりと、薄い毛布に倒れ込んだまま動かないメルファに、気を失っていると思って警戒を解いているのだ。もちろん最初こそ慣れない空気に気絶してしまったメルファだったが、すぐにここから出る方法を考え始めた。
そこで思いついたのが、リオスたちを油断させる作戦だ。メルファが起きている時間帯は目を光らせている神官も、メルファが眠っているときは退屈だとばかりに席を外していた。それに気づいて、わざと気を失ったふりをしていたのだ。
よもやメルファが脱走するとはだれも想像していないだろう。
すっと懐に手をやったメルファは覚悟を決めるように大きく深呼吸をした。ずっしりとした重みがそこにはあった。
なぜかリオスは大切な印章を取り上げることはしなかった。一度、子細に調べてからメルファに返したのである。きっと、囚われている限り、ローゼス主神官の手に渡ることはないと気楽に考えたのだろう。
(神官って案外まぬけなんだ。ま、おかげであたしは仲間を助けることができるんだけどさ)
メルファは息を殺し、蝋燭のあかりを頼りに歩いた。螺旋状の階段を上がれば、澱んでいた空気が少しだけ軽くなる。
頭上が明るくなったと思ったそのとき、驚いたような声がメルファの耳をついた。びくり、と足を止め、影の中に身を潜めながら、様子を伺った。
「これは、アーク殿。いかがなさいました?」
「まだ、交替の時間では……」
アークという名前に、メルファの胸が激しく鼓動を打った。
(アーク? なんで……)
ここに囚われている間、アークに会ったことはなかった。
もっとも、メルファをイーシスに引き渡した張本人であるアークと顔を合わせたところで、悲しみと怒りしかわいてこなかっただろうが。
「メルファちゃんに伝言があるの忘れてた」
「伝言、ですか……? けれど今は眠っているので面会は後のほうが」
「今じゃないとダメなんだよね。かなり重要なことだから」
「しかし……」
難色を示す神官に、アークが深いため息を吐いた。
「あのねぇ、仕事熱心なのは結構だけど、リオスくんの言うことだけハイハイ聞いてるのはどうかな。ま、今回の指揮官はリオスくんだけどさぁ。リオスくんの命令で、メルファちゃんを慮ってる君たちの優しさはわかってるけど、事は緊急を要するの。──もちろん、君たちが知っていい内容じゃないんだから、しばらくの間、ほかの部屋に行っててくれるよね?」
「は、はいっ。承知いたしました!」
いつも飄々としたアークのものとは思えないほど低く冷ややかな声音に、メルファまでもが背筋を凍らせた。慌てたように去る複数の足音が聞こえなくなると、アークがこちらに向かって歩いてきた。
戻ろうか逡巡していると、ぴたりとアークの足が止まった。
「さて、と。子猫ちゃん、そこにいるのはわかってるよ。護衛神官をなめちゃダメだよ。子猫ちゃんの気配なんか丸わかりなんだから」
いつもの調子に戻ったアークが笑いを堪えるように言った。
すっと彼の前に出たメルファは一瞬だけ気まずそうに視線をさまよわせたが、すぐにアークを見つめた。
「子猫ちゃんがどんな方法を使って抜け出したのかは知らないけど、その酷い有様を見れば糾弾できないな……」
痛ましげに眉を寄せたアークはゆっくりとメルファに近づくと、絹のハンカチを唇の横に押し当てた。
「リオスにしてはずいぶん乱暴だね」
「やったのは別の神官。リオスっていう護衛神官がいたのは最初だけ。あとはほかの神官に任せきり」
顔をしかめたメルファは、なすがままになっていた。
「じゃあ、その傷は神官が?」
「そっ。なにが血を厭うよ。あいつらなんかちっともお綺麗じゃない。ルオンの神官どもと変わらない!
あたしをまるで異端者を見るような目つきで、嬉々として暴力をふるったんだから」
「それが事実なら裁かなければならないのは彼らのほうになる。たとえ護衛神官見習いだとしても、か弱い子に手をあげるなんて言語道断だね」
アークはメルファに同情的であった。
「アークはあたしを責めないの? あたしは大罪を犯したんでしょ。イーシスやリオスみたいに責めればいいのにっ」
「馬鹿だねぇ、子猫ちゃんは。オレはね、ローゼス主神官の手先なんか思ってないよ。だって君を仮初めの女神にしようとしたのはオレだよ? たまたまローゼス主神官の息の掛かったメルファちゃんを仮初めの女神にしようなんて、偶然にしては無理があるでしょ。ま、オレも仲間だったっていうなら筋は通るけどね」
「じゃあ、なんで……なんでイーシスに伝えたのさ! あたし……、あたしは、知らないのに! ただあの男から盗んだだけなのに……っ。ローゼスっていうヤツなんかと関わりなんてない」
「うん、オレはその言葉信じてる。けど、オレとしてはね、メルファちゃんにこの屋敷から動いて欲しくなかったワケ。わかる? オレは言ったよね、ルオンは危険だって。安全なのはここだけだよ」
メルファを擁護しなかったのは、彼なりの優しさからだったのだろう。
たとえ無実だろうと、しばらくメルファが閉じこめられ、守警団員と関わらなければいいと考えた末の結果がこうなったのだ。
「じゃあ、なんでいまさら……」
「気になって、様子を見に来たんだけど……、メルファちゃんの気配に気づいて人払いしたのさ。オレがいなかったら、ここにいた連中に見つかってもっと酷い目に遭っていたかもしれないんだよ」
「それでも、あたしは仲間を助けたい」
メルファは真剣な眼差しでアークを見上げた。
「みんな、あたしのせいで捕まったんだよ。……あたしが、印章を盗んだから。けど、これを返せば仲間は無事に帰ってくるかもしれない」
メルファは、だから見逃してと続けた。
「それってオレに大神官サマを裏切れっていうの? 法神官の印章がローゼス主神官に渡ったらどうなるかわかってるよね」
「……っ、違う。ただ、見なかったことにして欲しいだけ」
「それを裏切りっていうんだよ。まったく、困った子猫ちゃんだねぇ」
必死に言うメルファを見つめていたアークは、苦く笑った。
「──見逃す代わりに、オレも一緒に行くよ」
「えっ」
メルファは息を呑んだ。思いも寄らない回答だった。
「あはっ、当たり前でしょ。か弱い少女を強欲な奴らに黙って差し出すと思う? オレはそんなに薄情じゃないよ。ま、これも人助けだよね」