その三
部屋に戻ったメルファは、すぐさま革袋を取り出して、逆さにしてひっくり返した。掌に転がったのは、やはりなんの変哲もない四角い石だった。どうみても値打ちがないこの石を、あの太った男は死にものぐるいで探しているのだろう。
貧民区に住まう仲間の姿を脳裏に思い浮かべたメルファは、小さく体を震わせた。あそこにはメルファと同じくらいの年の子が何人いただろうか? 十五人くらいはいたはず。もっと小さな子を含めると、五十人余りは生活していたと思う。
「あたしがこんなモノの盗んだから……っ」
やり場のない苛立ちをぶつけるかのように、床に石を投げつける。
幸い、絨毯に衝撃が吸収されて、砕けることはなかった。
それを睨めつけたメルファは頭を捻った。
どうすればいい?
メルファはようやく仮初めの女神になろうと覚悟を決めたばかりであった。自分に神気をまとえるか不安ではあったが、それでもやるだけやってみようとようやく思えるようになったのだ。
(でも、あたしの代わりなんていっぱいいる……)
イーシスの失脚した姿は想像したくなかったが、イーシスには有能なバルティンら十の護衛神官がいる。彼を護るために、なんらかしらの手は打つだろう。
メルファがいなくなったとしても、問題ないように思えた。
(あたしは、まだみんなに恩返ししてないよ)
メルファに救いの手をさしのべてくれた貧民区の仲間を見殺しになどできなかった。これはメルファが招いたことなのだ。自分の命と引き替えにしてでも、捕まった仲間を取り戻さなければならない。
(大丈夫……。覚悟してたことよ。あたしはいつだって今を精一杯生きるだけなんだ)
罪を重ねたときからいつだって死は隣り合わせだ。
これほど盗みを繰り返しておきながら、捕まらなかったほうが不思議だろう。
そろそろ潮時なのかもしれない。
そのとき、リートゥアが部屋に入ってきた。
「メルファさま。もうすぐ祈りの時間ですわ~。……あらぁ?」
リートゥアは、床に転がっている石に気づくと、それを拾った。
「この紋章は……」
「駄目っ」
メルファは慌ててリートゥアの手から奪い取った。
「メルファさま、それは……」
「これはあたしのよ! 父さんと母さんの形見なの。それより、あたし、祈りには行かないから」
「どこか具合でも悪いのですか? それなら、ゆっくりと──」
「もう、たくさん!」
メルファはリートゥアの言葉を途中で遮った。
目を丸くしている彼女に向かって、一気にまくし立てる。
「覚えることもたくさんあるし。なんか、飽きちゃった。仮初めの女神なんて、ちっとも楽しくないしさ。あたしはやっぱ、ルオンの街の空気が肌に合ってる」
「いきなり、どうなさったのです~?」
「ずっと考えたことだよ。我慢してたの! でも、もう我慢の限界。だれがなんと言おうと、あたしはルオンに帰るから。代役なら、ほかからまた連れてくればいいじゃん」
「わたくしは、メルファさまがい相応しいと思いますわ」
「そんなのわかんないよ。次の人はあたしよりずっと立派かもしれない。そしたらリートゥアもきっとそっちのがいいと思うよ」
「そんな……」
「とにかく、決めたの! 約束破るのは悪いと思うけど、もう、決めたんだ……」
リートゥアは、メルファの固い意志をくみ取ってか悲しそうに表情を曇らせた。
その姿にメルファの胸がちくんと痛んだが、気づかないふりをした。
祈りを終え、執務室に戻ったバルティンを迎えたのは、その場にいなかったリートゥアであった。
憂えた顔で外を眺めていたリートゥアは、バルティンに視線を移すと軽く頭を下げた。
バルティンは小さく眉をあげたが、小言は言わなかった。彼女が今、だれの世話役かわかっていたからだ。
「メルファは具合でも悪いんですか? あなたがついていながら、」
説教しようとしたバルティンだったが、リートゥアの真剣な表情に気づいて口をつぐんだ。
「バルティン殿。メルファさまは、去られる決心をなさったようですわ~」
「なに──?」
バルティンの眼鏡が鋭く光った。
「ふふ、仮初めの女神にはならないということです」
バルティンの愕然とした顔が面白かったのか、リートゥアはいつも通りの笑みを浮かべた。
「何を呑気に笑って……事の重大さがわかっているのですか。たとえ本人が拒否しても、すでに計画は進行しているのです。いまさら、白紙に戻すことなど」
「本来なら、わたくしも反対すべきところですわね~。けれど、少し事情が違ってきましたの。イーシスさまが、今どちらにいらっしゃるかご存じでしょ?」
とたん、バルティンは苦虫を噛み潰したような顔つきとなった。
「ああ、まったく、忌々しいことですよ。なにも自ら動かなくとも……。我々に任せてくだったらいいものを」
「そこがイーシスさまの優しさですわ~。メルファさまの心中を察して、早々に手を打ってくださったんですもの。メルファさまがお知りになったら、きっと感激なさいますわ」
「あの娘に、そんなかわいげがあるものですか」
バルティンは呆れたように嘆息した。
そんな彼を見つめたリートゥアは、ほんの少し双眸を曇らせた。
「どうしました?」
「気がかりなことがございますの。主神殿内で、複数の神官が水面下で動き回っているはご存じでしょ」
「ああ、ローゼス主神官が裏で糸を引いているようですね。イーシス様に大神官の座を奪われたことをねたんでいたのでしょう。まったく、神官らしからぬ腹に一物持った男ですよ。ただ、今のところ確固たる証拠は揃っていません。状況証拠だけでは、取り調べもできないのが現状です」
「それなのですが~、メルファさまが──……」
リートゥアがバルティンに耳打ちすると、彼の顔色が変わった。
「それは、事実ですか?」
「はい~、この目で確認しました」
「では、メルファが今回のことに絡んでいるかもしれないということですね」
「それはわかりかねますわ~。あんなに清らかな目を持っているのですもの。きっとなにか深い事情があるに違いありませんわ。けれど、このまま主神殿に置いておいては危険かと~。今のところ、ローゼス主神官と接触はありませんが~、いつあれが人手に渡るかわかりませんもの」
「ならば、偽物を至急用意させます。頃を見て、すり替えておきなさい」
「承知しました~」
一瞬、辛そうな光を走らせたリートゥアは、それを隠すかのように微笑んだ。
「ほんとによかったの?」
揺れる馬車の中でそう問いかけてきたのは、アークであった。
「……」
死神に本来の体を返してもらったメルファはまだ本調子ではない。魂が肉体から長く離れていたせいで、ここしばらくの間、微熱が続いていたのだ。ぼんやりと窓の外を眺める目も虚ろで覇気がない。
それを神殿への心残りと勘違いしているアークは、後悔しているように顔を俯けた。
「オレが余計なこと言った? ルオンの現状を知らなければ子猫ちゃんは……」
「あたしに、後悔させないで」
だるい体で、それでも必死に顔をアークへと向けたメルファは、そう呟いた。
「なにが大事なんか、わかりきってるでしょ」
はぁっと荒く呼吸をしたメルファは、辛そうに目を瞑った。
「子猫ちゃん!?」
アークが焦ったような声を上げる中、メルファはゆっくりと意識を沈ませていった。
メルファの額に手を押し当てたアークは、眉を寄せた。
「熱が上がってる……こんなになるまで我慢するなんて……」
いったん離れた魂が肉体に戻るとき、ものすごい負荷かがかかるという。
当代の女神レウリアーナの統治は長く、数百年の間代替わりがなかったせいか、肉体に魂を戻すとどれほどの負担があるか詳しく知る者はいなかった。蔵書の中にも詳しく書かれてはおらず、ここまで酷い有様とは思わなかったのだ。
もし肉体と魂の融合まで時間がかかるのだと知っていれば、もっと神殿に留まっていただろう。
体調不良で越えられる旅ではないのだから。
揺れは少ないほうとはいえ、わずかな振動も今のメルファにはきついだろう。
メルファの体をできるだけ楽な態勢にすると、御者に近くの街へ寄るよう声を掛けた。少しでも早く霧深きルオンへ到着したいメルファには悪いが、メルファの体調が万全になるまで旅は続けられなかった。
「ごめんね、子猫ちゃん……」
真っ白な外衣をメルファに被せたアークは、沈痛な面持ちで髪を撫でたのだった。その声はどこか憂いを帯びていた。