その二
「馬鹿なっ、話が違いますぞ!」
神官に呼び出されたリートゥアと別れ、ひとりで回廊を歩いていたメルファは、ふいに飛び込んできた怒鳴り声に思わず足を止めた。
「いささか意地がお悪いのでは?」
「バハス従神官、わしも困っているのだ。心中を察してくだされ」
「もし、悪用でもされたら……」
「いや、ローゼス主神官に限ってそんなことはあるまい」
「だが、イーシス大神官との不仲を知っておるだろう。アレがあれば、大神官を引きずり落とすことも容易いぞ」
耳をそばだてたメルファは、何の話かとこっそりと様子を伺った。
年のいったふたりの神官が、辺りをはばかるように肩を寄せ合っていた。人気のない裏手へ回り話し込む姿は、密談でもしているかのようだった。
「ああ、わたしはもう終わりだ。身の破滅だ。いかにローゼス主神官に頼まれようと、決して手放してはいけなかったというのに……。ああ、大神官になんと申し開きをしてよいのやら……」
「なに、そう病むことはない。ローゼス主神官も重要性を知っておられる。そのうち返してくださるだろう」
「そのうちですと!? それではあまりに遅すぎます」
苛立たしげな声に、さらにメルファが身を乗り出そうとしたそのとき、複数の足音が聞こえてきた。
とたん、言い合いをやめたふたりは、顔を見合わせると罰の悪そうな顔で会釈して離れていった。
「そこで何をしているのです」
「げっ」
振り返ったメルファの目に、不審そうな目つきでこちらを伺うバルティンの姿が飛び込んできた。
思わず呻くメルファに眼鏡をきらりと光らせたバルティンは、中指でくいっと持ち上げた。しかし、メルファに向かって口を開きかけた彼は、こちらへ向かってくる神官に気づくと腰を折った。
「こ、これは、バ、バルティン護衛神官殿」
どこに焦ったような神官の声に、バルティンが訝しげに眉を寄せた。
「バハス従神官がこのような場所に何用で?」
「いや、なに。外の空気を吸いたくなったのだ。澄んだ空気ほど穢れを払ってくれるものはないのでな。で、では、わたしはこれで」
そそくさと立ち去る神官を冷えた眼差しで見送ったバルティンは、メルファの腕を強く掴み引き寄せた。
「何か、聞きましたか?」
「……っ」
嘘、偽りを許さない強い眼差しに、メルファが息を呑む。
「答えなさい」
「えっと、ローゼス主神官がどうたらこうたらって……」
「ローゼス主神官……やはり、あの方が黒幕か」
眉を潜めたバルティンは、興味深そうなメルファの視線に気づくと目を細めた。
「いいですか。今ここで見聞きしたことは忘れなさい」
「まったく、神官ってほんとえらそうなんだから。あたしには知る権利もないっていうの?」
「命を落としたくないのなら、口をつぐんでいたほうが賢明ですよ」
冷笑したバルティンは、そこでふっと表情を和らげた。珍しく好意的な顔つきに、メルファは目を丸くした。
「そういえば、神殿の歴史について勉学に励んでいるそうですね。イーシス様もお褒めになっておりましたよ」
イーシスの名を聞いたメルファは、唇の端を不服そうに下げた。
「どうせ自分の地位のためでしょ。あたしを巻き込まないでよ」
「おや、ご存じでしたか。口の軽いのはアークですね。まったく、あの方は自分が護衛神官であることをわかっているのでしょうかね。守秘義務さえ守らず……困ったものだ」
「……女神がさ、見つかれば丸く収まるのに」
「そう、ですね」
メルファの言葉をバルティンは否定しなかった。
「女神捜索に当たっている者からは発見したとの報告は受けていません。逃げ上手な女神のことですから、巧みに気配を殺しているのでしょうね。まったく、人員を増やしたほうがいいですね。時間がないというのに。使えない者たちばかりだ」
「ねえ、どうして女神っていなくなったの?」
女神は普段、この主神殿の奥で過ごしているという。
限られた者にしか立ち入ることを許されない場所で、慈雨の地ファーゼを庇護するためにその御力を注いでいるのだ。
メルファが思い描いていた華やかさとは一線を画し、なんとも地味な生活様相だった。こんなにも主神殿は金をかけたしつらえになっているのだから、女神も贅沢な暮らしをしていると思ったのだ。
メルファが素朴な疑問をぶつけると、バルティンはわずかに狼狽した素振りを見せた。が、すぐに冷静さを取り戻した。
「そろそろ祈りの時間ですよ。部屋へ戻って支度を。主神殿にいる以上は、しっかりと日々の務めを果たしてもらいますからね」
メルファが貧民区で生活していたときは、神殿に行かなかったことを皮肉っているのだろう。祈りの時間も無視して、仲間と喋っていたし、祈りの時間に流れる音色なんか、時間を知るための手段でしかなかった。
ここに来て、数年ぶりに祈ったのだ。もっともメルファは、形だけ真似ているだけだったが。
「あ、ごまかした! ちゃんと説明してよ。あたしにはその権利があるでしょっ」
「──世の中には知らない方が幸せなこともあるのですよ」
酷く真摯な物言いに、メルファは押し黙った。
バルティンがここまで言うからには、よほどのことがあったのだろう。
仕方なく部屋へ戻ろうと、細長い回廊を歩いていたメルファは、ふとアークを見つけて目を輝かせた。
ピイー
漆黒の鳥が薄暗い空へと羽ばたいていく。灰色の空は、今にも雨が降りそうだった。
アークは、鉄管から小さな紙切れを取り出し、読んでいた。その顔にはいつものへらりとした笑顔はなく、辺りを払うような、どことなく緊張した空気をまとっていた。
しかしメルファは頓着せず、平然と近づいていった。
メルファが声を掛ける前にアークが顔を上げた。メルファに気づくと、無表情だった顔に笑みが浮かぶ。
「リートゥアから聞いたよ。勉強頑張ってるみたいだねぇ」
「イーシスを見返してやるんだ」
「あはっ、子猫ちゃんらしいや。やっぱりねぇ、なにかあると思ってた」
「それよりさ、さっきの真っ黒いのってアークの鳥?」
「ん? ああ、死鳥ね。そう。オレの大切な相棒クン。ま、あの通り辛気くさい色してるし、死を運ぶ鳥として忌み嫌われてるけど、オレの唯一の家族なんだよね~」
「唯一の家族……? 父さんや母さん、死んじゃったの?」
メルファの瞳が揺れた。もしかしてアークも自分と同じように両親がいないのだろうか。
「あはっ。やだなぁ、子猫ちゃん。そんな悲しげな顔しないでよ。死んじゃいないよ。ただ、物心つく前から主神殿に追いやられたからさ、血の繋がった家族との絆は薄いっていうかさぁ。顔も覚えてないしね」
「……寂しく、ないの?」
くすりと笑ったアークは、空色の双眸を曇らせるメルファの頭を撫でた。
「優しいねぇ、子猫ちゃんは。オレと似たような境遇の人はいっぱいいるし、別に自分を憐れんだことはないから安心して。お金欲しさにオレを売り払う奴らなんか親じゃないしね」
口調は軽いのに、金色の双眸には温度がなかった。感情を消し去ったかのような眼差しは、メルファではなくどこか遠くを見つめているようだった。
この間、アークは家族のこと覚えていないと言っていたが、本当は消えない傷となって残っているのだろう。イーシスと似たような境遇の中、それでも 平静を装って過ごしているのだ。
「そう、かな」
メルファはぽつりと呟いた。
「あたし、知ってるよ。子供の幸せを願って泣く泣く手放した人たちのこと。お金がないってさ、精神も蝕んじゃうんだ。それでも子供は守ろうって、わずかな食べ物を子供に与えてさ……。けど、いくら愛情があっても駄目なんだ。生きるためにはお金が必要で、子供が貧しさから抜け出すには自分たちよりも裕福な人たちのところへ行かせてあげたほうがいいんだ。だって、手元に置いておいても、みんなは生きられないから」
「……」
「それってどうしようもないんだよ……」
貧民区の仲間がそういう状況になったとき、メルファは真っ先に異を唱えた。
引き離すなんて間違ってるって。
けれどメルファにはそんなこという権利などないのだ。繊細な問題に、軽々しく口を挟んではいけなかった。
子供を売らなければみんな餓死してしまう、そんな究極な状況下の中で、だれかが生き延びるには家族がバラバラになる方法しかなかった。
「──子猫ちゃんはさ、ご両親のこと好き?」
ふいにメルファに視線を落としたアークがそう訊いた。感情を読み取れない、金の双眸が深く色づく。
「好きよ……大好き!」
間髪入れずそう返したメルファは、懐にしまってある巾着に触れた。
「ふたりは、あたしの自慢だもん。物知りで行動的な母さんと、物静かだけどいざってときは頼りになる父さんがね、あたし、ドゥル=ドゥオールで一番大好きよ」
明るい母親の笑顔。
父さんが大きな手で撫でてくれる感触。
それだけは色あせずに、はっきりと覚えていた。
賑やかで、楽しかったあの日々は、今でも昨日のことのように思い出されるのだ。
「じゃあ、恨んでる?」
両親のことを思い出し、ふわっとあたたかな笑みを浮かべていたメルファの顔から表情が消える。
「な、に……」
「大切なご両親を死に追いやった神官のこと」
わけがわからなかったメルファは、その一言でようやく合点がいった。
「イーシスに聞いたってわけ? そうよ、恨んでる。当たり前でしょ。無実の罪だったのに、アイツらの身勝手な理由で、命を奪われたんだから。けど…、あたしが地団駄ふんでも、なんにもできない。それが現実」
ひとり残されたメルファに出来ることといえば、立派な墓を建ててやり、どんなに両親が立派な人格者だったか訴えかけることだけだ。それが今のメルファにできる唯一の復讐だった。
両親を死に追いやった神官長はルオンの神殿で今ものうのうと生きているのだろう。きっと罪なき多くの命を奪いながら。
メルファにもっと力があれば、彼の暴挙を訴え止めることはできたというのに。
けれど糾弾したところで無力な、しかも貧民区の住人であるメルファの言葉に耳を傾ける者などいない。
「そういえば、霧深きルオンに不穏な動きがあるみたいだねぇ」
周囲に視線を走らせたアークは、人気がないのを確認すると腰を屈め、メルファに耳打ちした。
「不穏?」
「そう。なんでも子供を捜しているとか」
「──!」
どきり、とした。思い当たる節があったのだ。
(けど、今更……あたしなんか捜してるはずなんかない。だってアレは価値なんて……)
動揺がアークにも伝わったのか、心配そうに声を落とした。
「子猫ちゃん、確か守警団員から逃げてたよね? もしかして関わってた?」
「なん、で……」
「人違いならいいんだ。気にしないで」
「そ、そこまで言われたら気になるよ! もしかしたら仲間のことかもしれないし」
「あ~、大神官……おっと、これは秘密だった。ええっと、まあ、たまたまルオンを調べてたら、小耳に挟んだんだけどね。とある有力者が、街中で大切な物を盗まれたとかで、必死に犯人の行方を追っているんだよ。それがどうも子供らしいってことで、身なりの貧しい格好をした子供を片っ端から守警団員に捕らえさせて、拷問にかけてるみたい。子猫ちゃん、何か心当たりある?」
顔を青ざめさせたメルファは、慌てたように首を振った。
「し、知らないっ」
「そ、ならよかった。まあ、ここなら安全だしね。いい? 絶対ルオンには行っちゃ駄目だよ。今の姿なら大丈夫かもしれないけど、間違えられて捕らえられちゃう危険もあるからね」
念を押すアークの気迫に圧されたように頷くメルファだったが、胸中はさまざまなことが渦巻いていた。
(あたしの、せいだ……)
きっと、捜している子供というのはメルファのことなのだろう。
まさかそんな大ごとになっているとは知らなかったメルファは、指先から血の気が引いていくのを他人事のように感じていた。