その三
コトリ、と銀杯を柔らかな絨毯の上に置いたイーシスは、目を細めた。
冷たく湿った風が入り込んできた。吹き抜けの翡翠の間は、風の通りを良くするために支柱と支柱の間にはなにも置かれていない。
水晶には覆われていない部分のため、屋根付きの回廊を挟んだその向こうには、色とりどりの花々で埋まった中庭があった。
「ああ、雨が降り出してきましたね」
最初は小粒だった雨が、しだいに勢いを増していく。
庭よりも高い位置にある翡翠の間が雨水で濡れることはないが、横殴りの激しい雨粒は、回廊を越えて中へ入り込んできそうだった。
バルティンは、支柱に結んであった紐を解くと、薄い布を引いた。銀糸を織り交ぜた布が雨を隔てていくようだった。
ほんの少し薄暗くなった室内。
バルティンが、壁に掲げられていた蝋燭に次々と火を灯していく。
激しく降り注ぐ雨の音だけが、静まった空間に響いていた。
雨粒が布についてキラキラと光っているのを、なんともなしに眺めていたメルファは、イーシスに話しかけられて顔を動かした。
「霧深きルオンの街の現状を教えろ」
「ハッ、なんにも知らないわけ?」
「薄っぺらい紙だけでは知り得ぬ闇もあるだろ。貴様はその闇を知っているようだからな」
イーシスのそばには戻らず、扉にもたれかかったバルティンもメルファを見つめていた。
ふたりから注目されたメルファは居心地悪そうに顔をしかめると、大きく息を吐いた。
「ルオンはね、貧民区ってぇのがあるせいかすっごく治安が悪いわけ。犯罪者の温床とかいわれてさ。まあ、ほかの街なんか行ったことないからどんだけ悪いかなんか知らないけど」
ぽりつぽりつと語り始めたメルファ。
たとえ大神官に話したとしても何かが変わるとは思わなかった。
だって、メルファが現実を突きつけるまで、彼らはのうのうと主神殿で生活していたのだから。ルオンの神官の甘言を鵜呑みにし、すべての民が等しく安穏に暮らしていると思いこんでいたのだ。
「そんなんだから、神官と同じくらい守警団の力が強いってわけ。祈るだけの神官と違って、悪漢から守ってくれるのは守警団のほうだしさ。けど、あたしは、知ってる。アイツらが、お綺麗な人間じゃないってこと」
「どういうことだ」
イーシスの声が鋭さを秘める。
メルファは、乾いた唇を舐めると、懐にしまってある巾着に触れた。服の下にある、微かな膨らみがメルファに力を与えてくれるようだった。
「守警団はね、正義の味方なんかじゃない。悪魔の手先よ。賄賂をもらえば罪をもみ消すのに喜んで手を貸す。それだけじゃない。無関係の一般人を犯人に仕立て上げて、処刑してる! そんなことが平然とまかり通ってるんだ」
「神官はどうした? 貴様らが訴えれば神官も耳を貸すはずだ」
そう、イーシスの言うとおり、普通ならばメルファたちの嘆きを受け止めるのが神官の役目である。街で一番の力を持つのは、なんといっても神殿にいる神官なのだから。たとえ守警団でも神官の言葉を無碍にはできない。
「ハッ、ほんとお気楽ねっ。守警団が好き勝手できるのは、神官と繋がってるからに決まってるじゃない。守警団と神官が手を組めば、あたしたちはどこにも逃げ出せないし、批判の声すら上げられない。いくらあたしたちが正当性を訴えても、神官は守警団の肩を持つのよ。悪けりゃ、異教徒とか騒ぎ立てられて火あぶりの刑にされるのがオチ。そのせいで罪のない人が何人も殺された」
「ルオンの神官が虚偽の申告をしたということか?」
「確かに、ルオンはほかの街よりも裁かれる者の数は多いようですが、決めつけには尚早かと。メルファだけの証言では心許なく」
黙っていたバルティンが口を挟む。
まるでメルファの言葉など真摯に受け止めなくていいと曲解されたようで、メルファは怒りにカッと頬を赤らめた。
「疑いたいなら疑えばいい! 戯れ言だと思うなら信じなければいいっ。けど、」
メルファは気を落ち着けるように一呼吸置いた。
「──父さんと母さんは、ある日突然、神官どもに異端者だって連行されていった……」
今でもあの時の光景ははっきりと覚えていた。
泣き叫び、両親にすがるメルファ。
それを嘲うかのように神官の両脇を固めていた守警団員が、足蹴にして引き離した。
消えていく温もりと、最期に見たメルファを案じるふたりの顔がずっと忘れられなかった。
見せしめのように、広場で火あぶりの刑に処された両親の断末魔は、今でも耳に残っている。
神官長自ら火を放ち、フードの下で愉快げに口元を歪めていたのを、幼いメルファは見逃さなかった。
「異端者だと? そうか、ならば女神を見下すのも当たり前か。悪魔崇拝にでも手を出したか」
「違うっ!」
メルファが立ち上がった刹那、銀杯が倒れて中の酒が絨毯に広がった。すぅっと染みこまれていく赤い液体を見つめたメルファの顔が心なしか青ざめていた。
(赤……っ、赤い炎!)
震える手をぎゅっと握りしめたメルファは、毒々しい赤い液体から目を逸らした。
「母さんは、確かに女神レウリアーナなんか崇拝してなかったかもしれない。だって、ほかの地からやってきた流れ者だったから。けど、ルオンに居着いてからは、神殿にだってちゃんと行って、お祈りは欠かさなかった。祈りの音が鳴れば、跪いてお祈りしてたんだ。父さんだって……っ」
「ならばなぜ、捕らえられる? 怪しい振る舞いでもしていなければ、神官の目に留まりはしないだろう」
「言ったでしょ、母さんは流れ者だって。霧深きルオンの街の独特な仕組みを知らなかった。罪なき者が平然と捕らえられること、知らなかった。だから庇ったの。無実の人たちが連れて行かれるのを。神官にも訴えてね……。それが守警団の癇に障ったのよ。反抗的で、しかもよそ者の母さんのこと、神官も守警団員も好いてなかったみたいだから。邪魔な両親を異端者に仕立て上げるのなんか簡単だったよ。だって、よそ者だったから。みんな納得してた。父さんのこと、たぶらかされたんだって口々に言い合って、母さんにならって父さんも異教の神を崇めてたんだって好き勝手に──! そんなのうそだって言っても、だれも信じてくれなかった」
もともと閉鎖的な霧深きルオンの街の住人は、あまりよそ者が移住してくるのを快く思っていなかった。
だが、ルオンの街で生まれ育った父親は、ルオンの街の住人とは違う、奔放でどこか神秘的な雰囲気のある母親に惹かれたようだった。周囲の反対を押し切って契りを交わした彼らに、最初こそ周りの人間は白い眼で見ていたが、しだいに母親を受け入れるようになっていた。
けれど、異端者として告発されたとたん、あんなにも両親と親しかった者たちや親戚は掌を返して遠ざかっていったのだ。
関わることを恐れるように。
残されたメルファは、それでも懸命に生きようとしたが、異端者の家はすべて焼き払われるのが習わしだった。メルファの家も例外ではなく、着の身着のまま追い出されたメルファに残された形見は、両親の一房の髪の毛だけだった。
異端者の娘であるメルファに向けられる視線は冷たかった。いくらメルファが異端者でないと証明されても、人々の疑惑は晴れなかった。
神官たちは、まだ子供のメルファなら手を出さなくとも、そのうちのたれ死ぬと判断したのだろう。
事実、ただ震えながらうずくまることしかできなかったメルファは、寒空の下で死ぬのを待っているしかなかった。そこに救いの手をさしのべてくれたのが貧民区の住人だった。
それから四年、十四歳となったメルファは、彼らとともに必死に過酷な毎日を生き抜いてきたのだ。
「アイツらはね、用意周到なんだ。上手く罪人に仕立て上げるから、みんな気づかない。気づいてるのはほんのわずかだけ。真実を知っている人たちと、闇に触れているヤツだけさ。でも、だれも声を上げない。声を上げたって、捕まるのは自分のほうだってわかってるからね」
だからこそ多くの民は守警団を慕い、神官を崇拝している。
その裏で、どんなに罪なき血が流れたか知らずに。
霧深きルオンという、狭い檻の中で、窮屈な生活を送っているとも知らず、彼らは平和だと信じていたのだ。
「──バルティン」
イーシスが低くバルティンの名を呼ぶと、彼と同じく表情を硬くしていたバルティンがその場で膝を突いた。
「謀ったのはどちらだと思う?」
苛烈さを押し殺した低い問いかけに、バルティンの肩が揺れた。
「それは……」
「実際の被害者が目の前にいる。俺には、真実味があるように聞こえたが?」
「至急、調査いたします」
「もし、メルファの言うとおりだとしたら、ルオンは──荒れるぞ」
「はい。神官長自ら悪行を行っているとはいえ、彼だけに報告を握りつぶす力があるとは思えません。裏で糸を引いている輩はほかにいるはず」
「ならば、あぶり出せ。巣くう闇など一掃してしまえ」
「御意」
深く頭を下げたバルティンの目がメルファへと向かった。何かを言いたげな視線は一瞬だけで、すぐに顔を背けた彼は部屋から出て行った。
残されたメルファは、どしゃ降りの雨にも負けない大声を出した。
「いまさら……、いまさら遅いよ!」
「……」
「助けてくれるなら、どうしてあの時助けてくれなかったの!? どんなに祈ったって、救いを求めたって女神なんかの耳に届かないじゃん!」
「だから女神の存在を信じぬのか?」
「そうよ。女神とやらがほんとにいたなら、無実の人間を見殺しになんてしなかった。あたしの願いを聞いてくれたはずだ」
「クッ、おめでたい小娘だな!」
「なっ……」
思わず言葉を詰まらすメルファに向かってイーシスがたたみ掛ける。
「ならばなぜ待つ?」
「え?」
「自ら動かずとも運命が変わるとおごっていたのか? 女神は信徒のすべての声をお聴き下さるが、運命を切り開こうとしない愚か者に力を貸しはしないぞ。すべて女神のせいにするのはただの甘えだ」
「……っ、知った口利かないでよっ。あたしのこと、なんにも知らないくせに。どれだけ生きるのが大変だったか知らないくせに!」
「では貴様は俺の何を知る? 女神の何を知っているというのだ? ろくな知識もなく、よくそこまで大口が叩けるものだ。己の不幸を貴様だけと思うなよ」