序章
──世界は十三に分かれていた。
大陸ドゥル=ドゥオールを守護するのは、万物の創造主バーン。
創造主バーンに見守られ、選ばれし女神と男神がそれぞれの地を治めていた。
神の御力に包まれて、民は諍いのない平穏な日々を享受しているのだった。
その一つ、豊穣と慈しみの女神レウリアーナが加護を与える慈雨の地ファーゼ。
豊かな土壌に恵まれ、安寧としたその地を揺るがすような怒号が、壮麗な主神殿から響き渡った。
「……っんの、バカ女神っ!」
ひくりと片頬を引きつらせた少年は、手の中の羊皮紙を握りつぶし、大理石の床に投げ捨てた。
「この大事な時期にっ」
黙っていれば繊細で儚げにみえる美貌も、ひとたび怒りに駆られれば鬼神と化す。くわっと猫目を見開き、銀色の髪を振り乱すその姿は、普通の者だったら怯むような雰囲気に包まれていた。
そんな少年の様子に頓着した気配もなく、物珍しげに少年が捨てた羊皮紙を拾ったのは、どこか飄々とした青年であった。背が高く、手足ばかりが長いせいかひょろりとした印象を与えるが、紫縁の丸眼鏡をかけた目の奥は思いのほか鋭い。
「なになに……、」
丸まった羊皮紙を丁寧に開き、読み始めた青年の笑顔が凍りついた。
羊皮紙に書かれた、いつもなら可愛らしい思える丸文字も、今ばかりは憎らしく見えた。
──愛しい彼の元へ行ってきま~す☆ ばっはは~い
そう書かれた末尾には、女神レウリアーナの花押があった。
「あ~……うん、まあ。いつかこうなると思ってたけど」
ハハハ……と、乾いた笑みを漏らすも、どこか虚しさを感じさせるものだった。
不機嫌な顔を隠そうともしない少年は、呑気に喋る青年を睨みつけた。
「いいか、なんとしてでもあのバカ女神を捜し出せ。降臨祭さえ終えればしばらくの間、用済みだ」
「ええっとぉ、ち、ちなみに見つからなかった、場合、は?」
びくびくと怯えながら、可愛らしく小首を傾げて問いかける青年に、少年は薄く笑んだ。老若男女問わず見惚れてしまいそうなほどの艶笑に、しかし灰色の双眸は、まったく笑っていなかった。
「その身をもってあがなえ」
「えっ…、え? そ、それってもしかしなくても死ねって意味?」
慌てる青年に、少年は黙秘した。
肯定どころか否定もしないところが余計に真実みを帯びるようで、青年の顔色がだんだん青ざめていく。
「ぅっ、が、頑張れっ、僕! 負けるな、僕。相手はご主人さま、ご主人さま……慈雨の地一清廉なお方なんだから、そんな生々しいこと言わな──……っ」
気を取り直した青年のすぐ横をなにかが通り過ぎていった。
「無駄口を叩いている暇があるなら、とっととあのバカ女神を連れてこい」
「は、はいぃぃぃっス」
振り返らなくとも彼には、そのなにかの正体なんてわかっていた。少年がいつも携帯している短剣を躊躇なく投げたのだ。このまま、まごついていたら、今度はその短剣が壁ではなく青年の額に突き刺さる。
たおやかな見た目に反して意外と短気な少年は、そういうところが容赦ない。
青年はびくびくと最敬礼すると、逃げるように去っていった。
「──本当にヴァーナントが見つけ出せるとお思いで?」
それまで部屋の片隅で静観していた知的な青年が口を開いた。先ほどの青年とは違い、こちらは鎖のついた銀縁の眼鏡をかけていた。
「まさか」
一笑に付した少年は顎に手を当てると、黙考した。
「何をお考えで?」
「この機に、いろいろと策を講じるのも一興」
にやりと笑った少年は、裾の長い外衣を優雅にさばくと、身を翻した。