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絶対的な高嶺の花、学園最強のアイドルは俺の幼馴染で通い妻。  作者: 卯月緑
絶対的な高嶺の花、学園最強のアイドルは俺の幼馴染で通い妻。
3/37

彼女が作ってくれるもの


 伊織と結菜は二人だけの、しかし会話が途切れることのない夕食を楽しんだ。

 結菜が作った煮魚は当然のように完璧な仕上がりを見せ、伊織は改めて彼女のスペックの高さに舌を巻いた。


 だが、そんな賑やかな食事が終わると、伊織の家は一気に静まり返っていく。


 時刻は夜。

 とうに日は沈み、女の子なら外を一人で出歩くのは控えたほうが良い時間帯。


「ふう……」


 伊織は最後の皿を片付けると、大きく息を吐いてキッチンを離れた。


 料理を作るのが結菜の役目なら、その後片付けは伊織の仕事だった。

 彼はどんなにキッチンが汚れていても生ゴミが残っていようとも、後片付けはすべて自分の仕事だと常日頃から周囲に伝えていた。

 それは家の掃除と同じく、いつも色々と作ってもらう側の伊織が出来る、精一杯の恩返しだった。


 とはいえ伊織がどんなに気を遣うなと言っても、香月結菜は必要以上に汚れを撒き散らかすことは決してしないのだが。


「……雨、降ってるのか」


 伊織が後片付けを終わらせると、家の中から生活音が消えてしまった。

 すると彼の耳は、静かになった室内からシトシトと降り注ぐ雨音を拾い始める。


 彼が住んでいるのは超高級住宅街と言っても差し支えない地域だ。

 夜の住宅街は静まり返り、聞こえてくるのは降りしきる雨の音のみとなっていた。


 どこか物悲しさも感じさせられるそんな状況の中、伊織はふと足を止め、雨音に聞き入る。


「…………」


 彼がどんなに耳を澄ませても、聞こえてくるのは雨の音だけだった。 

 伊織はしばらくの間、そうやってその場に(たたず)んでいたが……。


「……ふう」


 やがて彼はもう一度息を吐くと、軽く首を振ってリビングへと戻っていく。





 伊織以外の音がしない、夜の門倉の家。

 しかしその時、彼の耳に新たなる音が届くのだった。


「雨が気になるなら、ちょっとくらいカーテン開けてもいいよ。私、ここから動かないから」


 それは少女の声だった。

 伊織がゆっくりと目を向けると、そこには伊織お気に入りのソファを占拠して仰向けに寝そべる、彼の幼馴染の姿を見つけることが出来た。


 香月結菜。

 彼女は夜も遅くなってきている時間にも関わらず、まだ伊織の家でのんびりと過ごしていた。


 伊織は幼馴染に驚くことなく、淡々と返事をする。


「特に気になったわけじゃない。なんとなく聞き入ってしまっただけ」

「ふーん、そうなんだ。まあ、わかるけどねその気持ち。雨の音ってなんか心地良い時あるよね」


 座る場所を奪われていた伊織は、しかし慣れた様子でそれを流し、別の椅子へと腰を下ろした。

 重労働ではなかったが立ちっぱなしの仕事が終わり、彼は肩の力を抜いて体を休める。


 そうすると、次に伊織は目の前の結菜の格好が気になった。


「(……いくら死角から動かないとは言え、こんな姿の女性がいるならカーテンなんて開けられないよな……)」


 伊織は無防備にくつろぐ結菜を見て、小さく嘆息(たんそく)する。

 ぶかぶかの男物のシャツを無造作に引っかけ、短めの部屋用スカートを穿き、結菜はソファに大胆に生足を投げ出して趣味を楽しんでいた。


 昼間の彼女からは想像も出来ないようなラフな格好。

 たしかにこれほどまでに油断した女性がいるなら、カーテンを開けるのは注意しなければならないだろう。


 だが、これが香月結菜の普段の姿だった。

 カーテンの話題が出なければ、伊織も一々考えを巡らすこともなかったかもしれない。隙だらけの結菜の姿を、目の毒に思うことはあったとしても。


 結局伊織は結菜の格好に触れることはなかった。

 代わりに彼は、別の話題で彼女へと話しかける。


 その話題とは、彼女の趣味のことだった。


「だいぶ出来たな。そろそろ完成か?」

「うん、今日中には全部終わると思う。今回もいい感じに出来たみたい」


 先ほどから雨の音と話し声しか聞こえない、夜の伊織の家。

 しかし結菜はソファの上で休んでいたわけでも、隠れていたわけでもなかった。


 結菜は黙々と趣味を楽しんでいただけだった。

 神に愛された少女(ギフテッド)の趣味はあまり物音を立てない。

 彼女は派手な経歴を持ちながらも、裁縫を趣味とする珍しい女の子だった。





 香月結菜は、家庭的な能力を網羅(もうら)していることでも有名だ。

 特に料理については彼女が弁当を自作してきていることもあり、生徒たちの間でかなり得意にしていると知れ渡っている。

 事実、結菜の料理の腕前はプロ級とも言えた。

 幸運にもおかずを交換できた女子生徒からその話は広まり、結菜の手料理は男子生徒たちの間で垂涎(すいぜん)の的となっている。


 だが、結菜が料理以上に裁縫を得意としていることは、ほとんどの生徒が知らない事実だった。


 結菜はプロ級の料理の腕前を持つ少女だが、裁縫はその道ですでにデビューを果たしている、正真正銘のプロ。

 結菜自身はまだまだ見習いのようなものだと言っているのだが、彼女の作品は先日も高値で落札されたばかりだった。


「しっかし寝転がったまま針仕事なんて、ホントよく出来るよな。地味におまえが一番化け物だって思うときは、今まさにこの瞬間だわ」


 伊織は結菜が作っているものを見ながら、呆れたような声を出した。


「見る人が見れば邪道だって言われちゃいそうだけどね。そもそもお仕事じゃなくてお遊びで作っているんだし、色々と大目に見てもらいましょう」


 結菜はそう答えながらも、慣れた手付きでスイスイと縫い針を動かし続ける。

 神に愛された少女(ギフテッド)の異名を持つ結菜が得意としているだけあり、その運針(うんしん)は仰向けとは思えないほど素早く丁寧だった。


 そこで結菜は指先から視線を動かさずに、伊織に言う。


「ていうかあなた、さり気なく女の子を化け物呼ばわりしたよね?」


 彼は大げさに肩を(すく)めると、(ひる)むことなく答えた。


「煮物と同じように今回も俺はおまえの実験台にされるわけだし、少しくらい構わないだろ?」


 それを聞いた結菜は、クスクスと笑う。

 結菜は伊織に化け物と呼ばれても気にしない。

 幼馴染である彼らは、少々キツいことを言い合ったところで仲が揺らいだりはしないのだ。


「よし、終わり!」


 小気味良く手を動かし続けていた結菜は、やがて勢いをつけて上半身を起こした。

 そうして手に持っていた作品を、テキパキと整え始める。


「あれ、もう完成したのか?」

「厳密にはまだだけど、ほぼほぼ完成。だからひとまず試着してもらおうと思ってね。ほら伊織、立って?」


 結菜に言われ、伊織は無言で素直に立ち上がる。

 すると結菜は急いで裁縫道具を片付け、待ちきれなかったと言わんばかりに、嬉しそうに伊織に駆け寄った。


 彼女はほとんど完成したという作品を、胸の前に掲げて伊織に見せる。

 それは男物のネクタイ。

 結菜が作っていたのは、伊織が学校で着けるネクタイだった。


「さてさて、じゃあ早速……」

「いや、渡してくれよ。ネクタイくらい自分で締めれる」

「え、イヤよ。自分で作って自分で巻くのが楽しいんでしょ? 今更何を言わせるの?」

「…………」


 絶対に譲れないポイントだったのか、結菜は他の人間には絶対に見せない歯に衣着(きぬき)せぬ口調で、伊織の提案を拒絶した。

 これも幼馴染ならではの彼らのやり取りだったが、さすがの伊織も今回は不満そうだった。

 彼はせめてもの反撃で、これ見よがしに大きなため息を吐いた。


「この瞬間が最高なのよね。作ってよかったって、しみじみ感じちゃうなぁ」


 そんな伊織に対し、結菜は満面の笑みで、まるで正面から抱きつくかのようにしてネクタイを回し始める。





 香月結菜という少女は、幼馴染の伊織から見ても魅力的な少女だった。

 彼女がアイドルとして崇められる理由は様々あるが、やはり一番重要な点を挙げるとするなら、それは誰から見ても優れていると感じる彼女の容姿だろう。


 そして彼女の美しさは、一般的な美意識を持つ伊織にも十二分に通用していた。

 生まれてからずっと結菜のことを見てきた伊織だったが、結菜のことは見飽きたなどとは決して思えなかった。

 今でも彼は、時に不本意に結菜の美しさに目を奪われることがある。


「うん……、特に問題はなさそう。やっぱり今回もいい出来だわ。ふふふ、ヤダ。思わず顔が笑っちゃいそう」


 結菜は伊織を目の前にして、上機嫌だった。

 彼女は幸せオーラを隠すことなく、伊織の顔とネクタイを何度も交互に見ながら手を動かし続ける。


 しかし伊織からすれば、その時間は必ずしも幸せな時間とはかぎらなかった。

 結菜とは日常的に接しているとはいえ、ネクタイを結ばれている今ほど近付くことはあまりない。

 しかもその相手は、彼自身も認めている絶世の美少女だ。どうしても彼の心は落ち着きを失っていく。


 自分の首元を這いずる彼女の指。触れたり触れなかったりする彼女の体。そして、常に自分の顔辺りを見つめてくるその瞳。

 いつもは嗅ぎ慣れているはずの彼女の匂いも、この瞬間は追い打ちをかけるがごとく伊織の心を揺さぶっていた。


 早々に間が持たなくなった伊織は、結菜に声をかける。


「なあ、なんか凝った結び方も試してないか? 学校は結婚式場じゃないんだから、そういうのは止めろって」

「えー? いいじゃない別に。これは試着なんだし、いろいろと試させてよ」


 どうやら結菜は、少しでもこの時間を長く楽しみたいようだった。

 彼女はネクタイを結んでは満足げに伊織を見、また(ほど)いては新たな結び目を試すという行為を延々と繰り返していた。


 これ以上耐えるのはキツい。

 伊織はそう感じ、結菜にもう一度止めるように言おうとした。

 しかし彼が口を開いた瞬間、時を同じくして結菜がピタリと動きを止め、伊織のことを見る。


「あれ? 伊織って……」


 そのままジッと見つめてくる結菜に、伊織は気圧されたように問いかける。


「……な、なんだよ?」


 結菜はたっぷり伊織の体を眺め回し、そして眉をひそめると返事をした。


「もしかしてあなた、また背伸びた?」

「えっ?」

「自分の体よ。大きくなったって気がしない?」

「いや、自覚はない。だいたい俺の体のサイズなんて、俺よりおまえの(・・・・・・・)ほうが詳しいだろ(・・・・・・・・)

「うーん……」


 そこで結菜は、ベタベタと伊織の体のあちこちに触り始める。

 再び伊織としては居心地が悪い時間がやってきた。

 すぐに彼は「そんなに気になるくらいなら巻尺でちゃんと測れよ。いつものように大人しく測らせてやるから」と言おうと口を開く。


 けれどもその前に伊織は、結菜がベタベタと自分の体を触るその一回ごとに、どんどん笑顔になっていっているのに気付いた。

 彼女はやがて限界点を突破したかのように、破顔しながら声を上げた。


「うん、間違いないわ! 絶対伸びてる! すごいなぁ。やっぱり男の子なんだね。悔しいけど、どんどん私より大きくなっちゃう」


 何が楽しいのか、結菜は伊織の胸をポンポンと何度も嬉しそうに叩いていた。

 伊織はそんな彼女のテンションについていけず、呆れた様子で口を開く。


「なんで俺が大きくなったらおまえが喜ぶんだよ。おまえからしてみれば、俺が成長しても苦労が増えるだけだろ」

「そうなのよねー。服とか仕立て直しが必要になるし、必要な布の面積も大きくなるし、その分たくさん縫わなくちゃいけなくなるし、本当に大変よ」


 発言内容とは裏腹に、結菜の表情は明るかった。

 彼女はそのままの調子で言葉を続けていく。


「でもまあやるしかないよね。あなたの面倒はずっと私が見てきたんだし、服のお下がりも私が着たらいいだけだし、頑張るしかない。うんうん」


 伊織が大きくなれば、また新たに服を縫う口実が出来る。幼馴染の少女はそれが嬉しくて仕方がないようだった。

 結菜は「いい練習台にもなるしね」と笑顔で付け足すと、再びネクタイを締め直し始める。


 だが、そんな結菜を見つめる伊織は、とても複雑な心境だった。


 料理を作ってもらい着る服を作ってもらい、伊織は毎日のように結菜の世話になっている。

 彼はそれを喜んで受け入れているわけではなかった。男として、幼馴染の少女に世話をされてばかりなのは、彼も思うところがあったのだ。


 それに、さすがに服は自分では作れないが、彼も料理は人並みには出来る。伊織は幼馴染から自立が出来ないわけではなかった。


「…………」


 けれども伊織は本心を語らない。

 彼は幼馴染の少女が幸せそうに自分の体に触れてくるのを、ただただ無言で静かに眺めるのみだった。


 やがて、彼も幼馴染の接触に慣れ始める。

 その頃には自分の感情とも折り合いをつけることが出来、伊織はフッと微笑むと明るい声で結菜へと話しかけた。


「しかしそういうの、見ただけでよくわかるよな。俺なんておまえの細かい成長とかさっぱりわからないんだけど」


 返ってきたのは、とんでもない爆弾発言だった。


「そう? 私のおっぱいとか毎日見てるくせに、大きくなってきてるなとか思わないの?」

「…………」


 伊織は絶句し、無表情になって結菜を見る。

 彼女は別に頬を赤く染めるわけでもなく、澄まし顔で伊織のネクタイを結ぶ作業に戻っていた。


 すぐさま伊織は口を開く。


『おまえの胸なんて毎日見てるわけないだろ。自意識過剰だろ!』


 だがその言葉は、ギリギリのところで引っ込んでしまった。

 彼はそのまま黙り込み、苦々しい表情で結菜を見る。


 伊織が結菜の胸を毎日見ていないというのは、本当の話だった。

 しかし、思春期の男としてたまに目が留まってしまうことも、悲しいことにまた事実だった。

 彼はそこを指摘されるのも(しゃく)だと考え、代わりに精一杯皮肉げに結菜に言う。


「俺、やっぱおまえのそういうところ嫌いだわ」


 結菜は目を合わすことなく、すぐに答える。


「嫌い。だけどついつい見ちゃう。悔しい、みたいな?」

「……そういうところは、もっと大嫌いだわ」


 伊織の大嫌いという言葉を聞いて、結菜はベッと小さく舌を出した。

 だけど彼女の手は彼の首元から離れるわけでもなく、伊織も結菜を振り払うようなことはしなかった。


 二人はそのまま無言で立ち尽くし、結菜の手だけがネクタイを結び続けていた。

 やがて最後の結びが終わり、結菜は改めて仏頂面の伊織を見上げる。


「…………」


 まるで目を離したほうが負けとばかりに、伊織と結菜はお互い見つめ合う。

 雨音だけが部屋を支配し、二人の争いは長引くかと思われた。


 しかし不意に、香月結菜が不敵に笑った。

 彼女は首に巻いたばかりの伊織のネクタイの根本を掴むと、一気に自分の胸元へと引っ張った。


「なっ!?」


 ネクタイを引かれた伊織は前傾姿勢になり、彼女の思惑通り彼女の目の前へと顔を近付けてしまう。

 鼻と鼻が触れ合うほどの距離までネクタイを引き寄せた結菜は、伊織に向けて挑発的な言葉をかけた。


「私って負けず嫌いなのよね」

「あ、あのな……」


 結菜は伊織にとっても魅力的だ。

 そんな彼女に強制的に吐息がかかる距離まで近付けられ、伊織は慌てて顔を(そむ)けた。

 ところが首に巻かれたネクタイが邪魔をして、彼は結菜の前から逃げられない。


「大嫌いって言われたままじゃ終われないよね? だって悔しいじゃない」


 絶妙な力加減で動けない状況にされた伊織は、一瞬で窮地(きゅうち)に立たされていた。

 立ち上る彼女の香りやぬくもりに加え、女性特有の柔肌の触れ心地など、彼の頭を真っ白にさせる要素であふれていた。


 続けて聞こえてくる楽しそうな結菜の発言に、伊織は早くも謝罪の言葉を口にしそうになった。

 けれども彼はとっさに奥歯を噛みしめると、自分の情けない気持ちにムチを打つ。


 伊織にだってプライドがある。借りは返したいという意志がある。

 料理の後片付けだって、裁縫の後の掃除だって、伊織は手を抜かずに完璧にやり返している(・・・・・・・)

 彼は幼馴染にやられっぱなしでも納得できるほど枯れた人間ではなかった。


「残念だけど、おまえならわかるよな? 俺が嘘を言ってないってことくらい」


 大嫌いと言われた結菜が、伊織の言葉にピクリと反応を示す。

 彼らはお互いを理解し合った仲だが、相手のすべてが大好きというわけではない。

 伊織は幼馴染だから通じる皮肉で、そこを的確に攻撃していた。


「……ふーん、そんなこと言っちゃうんだ。最初は冗談のつもりだったのに、これじゃ普通に悲しくなってきたかも」


 結菜の表情から余裕が消える。

 伊織の胸はチクリと痛んだが、自分が優勢に立ちつつあることを喜んでもいた。


 このまま行けば、あの結菜に勝てるかもしれない。

 ここが踏ん張りどころだと自分を奮い立たせ、彼は間近に迫る結菜の色気に立ち向かった。


 そんな伊織の前で、結菜は寂しそうに視線を落とす。


「残念。伊織は私が大嫌いなのね……」


 結菜のつぶやきで、再び伊織の胸に痛みが走る。

 でも、それは同情を誘う彼女の作戦かもしれない。

 伊織は心を鬼にして「そうだよ」と――正確には大嫌いな部分もあるぞ、と正面から伝えてやろうと思った。


 しかしその瞬間。

 香月結菜は優しく笑う。


「私はこのまま、あなたとキスだって出来るけどね?」


 幼馴染を理解しているのは伊織だけではなかった。

 結菜もまた、幼馴染だからこそ通じる攻撃の手段を持っていた。


 伊織は秒で理解する。結菜は嘘を言っていない。


 たった一言。

 たった一言で、結菜は伊織の心を折った。

 彼女は伊織の人生に立ちふさがる、最強で最強のライバルでもあった。





 門倉伊織と香月結菜は、幼馴染だ。

 生涯を通じて一度も離れたことがなく、二人はいつも一緒に育ってきた。


 しかし神様は残酷だった。

 二人のうち一人だけに大きな翼を与え、大空へと羽ばたかせた。

 門倉伊織は地べたから、幼馴染が活躍していく姿を眺めるのみ。


 その幼馴染は優しくていつも自分のために地面に降りてきてくれるけど、しかし一度(ひとたび)羽ばたけば、彼女は手の届かない雲の上の人。


 生ける伝説、神に愛された少女(ギフテッド)の幼馴染は、悲しい運命を背負わされた少年だった。





 伊織は真正面から結菜に見つめられ、白旗を揚げるしか道は残されていなかった。


「わ、悪い。俺が言い過ぎた。大嫌いだなんて冗談でも言うべきじゃなかったよな。許してくれ」


 それは無様とも言えるほどの全面降伏。

 だが伊織は結菜の恐ろしさを知っていた。すぐに謝らないと何が起こるかわからない。そんな恐怖が、伊織にはあった。


 そしてそれは正解で、しかし彼の謝罪はすでに手遅れだった。


「冗談ってわけじゃないよね。伊織は本当に、私のことを大嫌いだって思ってたんだよね」


 結菜は伊織を許してはくれなかった。

 伊織は後悔していた。幼馴染はスペックが高すぎて、下手に手を出すといつも予想もつかないことを始めてしまう。


「だから、それは……。おまえだってわかるだろ? おまえの一部を嫌いってだけで、おまえの全部を否定しているわけじゃない。ホントだって。誓って嘘は言ってない」


 今もネクタイを握られている伊織は、結菜の目の前から逃げることが出来なかった。

 彼は必死で幼馴染の怒りを鎮めようと、言葉を選んでいく。


 だけど、彼は混乱していただけだった。

 この状況では無理な話かもしれないが、冷静に幼馴染を観察することが出来たならば、彼にも気付けることがたくさんあったはずだった。


 結菜は怒っているわけではない。

 女の子らしい可愛い考えから、ちょっと伊織を操ろうとしているだけだった。


 すなわち。

 彼女は単純に、大嫌いの反対語を彼の口から聞きたくなっていたのである。


「じゃあ、嘘は言わないあなたに質問するわ」

「わ、わかった」

「私の一部は嫌い。それはわかった。だけど、私のその他の部分のことは、伊織はどう思ってるの?」

「…………」


 そうして伊織も、ようやく彼女の意図に気付く。

 幼馴染の彼女はまっすぐ伊織のことを見つめ、彼は彼女の瞳の中に、自分の姿が映し出されていることを知った。


「ほ、他の部分のことは……」

「うんうん、ハッキリ答えてね」


 超至近距離で笑う幼馴染に、伊織は何も考えられなくなる。

 彼は結菜の策略にはまり、まんまと本音を引き出されそうになっていた。


「お、俺は、おまえのことが……」

「私のことが?」


 伊織にとっても、結菜という少女は魅力的な少女だ。

 彼は世界で誰よりも、結菜の魅力を理解しているはずだと信じていた。

 そんな彼の本音が、今まさに彼女へと伝えられそうになる。


 しかし幼馴染というものは往々(おうおう)にして、逆の立場でも同じことが当てはまる。

 間近で相手の顔を見続けて頭が茹だってきていたのは、あの香月結菜も同じだった。


 もう少しで伊織が本音を言うという直前。

 彼女にも、限界が訪れる。


「ねえ伊織」

「……なんだよ」

「顔、真っ赤よ?」

「……おまえもな」


 その言葉が合図だった。

 結菜はパッと伊織のネクタイを手放すと、すぐに真っ赤な顔で彼から距離を取った。


「あはは、ちょっと調子に乗り過ぎちゃった。ごめんなさい。いくら幼馴染でも、恥ずかしいものは恥ずかしかったね」


 結菜はそう謝ると、若干ぎこちない動きで伊織の前に戻り、震える手付きでネクタイを外し始めた。


 伊織は、答えることが出来なかった。

 彼はまだ赤らんだ顔で、ボーッと結菜がネクタイを外していく様子を眺めていた。


 夜の雨は続いていた。

 彼らはお互い顔を赤らめたまま、雨音をBGMにして向かい合う。


 やがて結菜は伊織の首からネクタイを外し終えると、次に近くに置いてあった裁縫道具をまとめ始める。

 終始落ち着かない様子で針の数などを調べ、それでも確実に間違いがないことを確認すると、結菜は普段より大きめの声で宣言するように言った。


「よし、じゃあ工房(・・)行って仕上げてくるね!」

「……ああ、いってらっしゃい」


 結菜は未だボーッとして生返事しか出来ない伊織をからかうことなく、逃げるようにしてリビングを出ていった。

 残された伊織は一歩もその場から動くことなく、ゆっくりゆっくりと心音を鎮めていく。


「…………」


 しばらく経った後、彼はぼんやりとリビングの窓へと視線を向けた。

 窓は分厚いカーテンが閉められ、外は見えない。しかし彼はその向こうに、ざあざあと降り続ける雨の景色を見たような気がした。


 伊織は不意に一人苦笑すると、温かみの残るお気に入りのソファを、幼馴染の彼女から奪い返したのだった。



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