彼女が通う家の風景
香月結菜は男を寄せ付けない。
彼女の通う学校では、誰もが周知している有名な事実だ。
もちろん公の用事などがあれば別だが、ほとんどの場合、結菜は学校で男性と一言も喋らずに帰宅していく。
だからこそ、彼と彼女が持つ秘密は衝撃的だ。
あの高嶺の花でアイドルとして崇められる香月結菜には、世界にただ一人だけ、無条件に無防備に受け入れる異性がいたのだ。
「おかえり。今日は遅かったな。何かあったのか?」
「別に何もないよ。普通にお店をウロウロしてただけ」
「それで良い魚を見つけたと?」
「そそ。色々おまけもしてもらっちゃった」
それは、あるいは結菜を崇める生徒たちへの裏切り行為だと思われるかもしれない。
だが、許してあげてほしい。
彼らは結菜がアイドルとして担ぎ上げられる前どころか、それこそ生まれてからずっと、寄り添いながら歩んできた二人なのだから。
門倉伊織と香月結菜は人生で片時も離れたことのない、筋金入りの幼馴染だ。
学校にいる間の結菜は、例えるなら深窓の令嬢のような生徒だろうか。
もちろん彼女が運動神経も抜群なのは誰もが知ることだが、女友達の聞き手になり優しくたおやかに微笑む結菜の姿は、どこか儚げな雰囲気すら醸し出している。
しかしプライベートの香月結菜は、昼間とはまた違った印象を受ける。
「今日は時短調理にも挑戦してみたいのよね。上手く味が染み込めばいいんだけど」
いそいそと白いエプロンを制服の上に身に付け、楽しそうに対面式キッチンに入っていく今の香月結菜は、高嶺の花というよりは可愛らしい若奥様だ。
その姿はクラスメイトたちにとって、まるで別人かと思うような変貌ぶり。
しかし、美しすぎるその容姿は間違えようがない。
神に愛された少女結菜は、オンとオフで別の顔を持つ少女だった。
そして、本来の姿を隠していたのは、結菜だけではない。
門倉伊織。
彼もまた、学校でいるときとは違う別の顔を覗かせていた。
「時短調理なのに遅くなるかもしれないのか? というか、制服のまま魚料理するのか? 別にかなり遅くなっても平気だし、汚れる前に着替えて来いよ」
ソファから身を起こし結菜と話す伊織は、彼を知る人物から見れば大きな違和感を覚えるだろう。
伊織という少年は、教室では砕けた口調を使わない。
丁寧で当たり障りのない、しかし少し距離を感じさせる話し方を常とする少年だった。
だが今の彼は極めて自然に、あの香月結菜に向けて話しかけていた。
そこには一切の緊張も遠慮も含まれていない。孤独を好んでいるような彼が積極的に結菜に話しかける様は、他の男子が結菜と話す以上に意外性があった。
「魚屋のおばさんと煮付けにするって話してたら、おじさんがサービスで隣で下ごしらえまで終わらせてくれたのよね。だからこのままでも大丈夫。手洗い等は済ませてるし」
「ふむ」
「あ、でも煮始めたら着替えに行くから、その間は火の番よろしく」
「わかった」
そもそも門倉伊織と香月結菜は、学校ではほとんど接点がない。
校内で知らない者はいない結菜に対し、伊織はクラスの中でも影が薄いほうだ。
二人はクラスメイトではあるものの、ほとんどの生徒は伊織と結菜を結びつけて考えたりはしないだろう。
しかしそれは仮初めの姿。
伊織と結菜からしてみれば、接点がない学校生活のほうが異常な状況だった。
家でいる今の彼らの関係こそが、何年も何年も続けてきた二人の本当の姿だった。
「それで時短調理の話なんだけどね、試してはみるんだけど、上手くいくかどうかはわからないのよね。だから遅くなるかもってこと」
「そういうことか。なら、俺のことは気にせず満足するまでやってくれ。この前の肉じゃがも美味かったし」
「ありがと。今日も美味しく出来たらいいなぁ」
好みの問題もあるだろうが、放課後の結菜は学校でいるときよりも輝いて見えていた。
それもそのはず。今の結菜は出し惜しみをしていない状態だった。
高嶺の花、アイドルとして担ぎ上げられている結菜は、異性関係で様々な制約が付きまとう。
世間話はおろか挨拶一つしただけでも勘違いされてしまう結菜は、細心の注意をもって男子に接しなければならない。
だが勘違いさせて困るような相手のいないプライベートだと、彼女のリミッターは外れる。
彼女本来の性格が顔を出し、自身の魅力を遠慮なく周囲に振りまくのだ。
「もっともっと料理も上手くなりたいな。本職の人には敵わないかもしれないけど、家で食べるより外で食べるほうが良いって思われるのは絶対イヤだ」
「もう十分だと思うけどな。それにどうやったって、気分転換とかそっちの理由で外で食べたくなることもあるんじゃないか?」
「あなたは外で食べたいときあるの?」
「……ないけどさ」
「ふふ、勝った」
素顔の香月結菜は、快活でよく喋り遊び心にも満ちあふれた、とても親しみやすい性格の少女だった。
門倉伊織と香月結菜は、生まれる前からつながりを約束されていたようなものだった。
それぞれの母親が大の親友で、子どもを授かる前から家族ぐるみの付き合いがあり、そしてそんな両家に時を同じくして生まれてくる……。
それは言うならば、幼馴染のエリートコース。
彼らの人生には初めから交わったレールが敷かれており、それに逆らうことなく二人は成長していった。
伊織と結菜は物心付く前からすでに、お互いがいないと泣き出してしまうほど仲が良かったという。
「ねえ伊織」
「ん?」
「明日も和食を続けていい? 筑前煮と茶碗蒸しその他にしたい」
「別にいいけど。……ああ、今気付いたわ。最近のおまえって煮物に凝ってるのか。だから肉じゃがとか魚の煮付けとか色々作ってるんだな」
「あ、やっぱりわかっちゃった? 実はそうなんだよねー」
自然体で流れるように会話を続ける彼らは、どこか長年連れ添った夫婦のような年季の入りっぷりをも感じさせる。
お互いのことを世界で一番理解し合っている二人だからこそ出来る芸当だった。
「そんなわけでバレちゃったし、これからもっと煮物のメニュー増やしてもいい? なるべく飽きないように頑張って工夫するから」
「毎食でも良いよ。おまえが凝ったときっていつもすごい結果出すし。でも、なんで煮物が気に入ったんだ?」
「うーん、奥が深いからかな。仕上がりを想像するのが楽しんだ~」
「おまえって、たまに趣味が年寄りくさいよな。渋いというかなんというか」
「あらら、言われちゃった。なら女子高生らしいところも見せるべく、あなたのネイルでも派手にデコってあげましょうか」
「……勘弁してくれ」
特に香月結菜は本当に楽しそうに、いきいきとした姿で笑っていた。
感情を隠すことなく前面に押し出し、白いエプロンと制服のスカートの裾を揺らし身振りを添えて喜ぶ姿は、明るく健康的で年頃の少女の魅力にあふれていた。
もし今の結菜の姿を、昼間の男子生徒たちが見ていたとするなら。
彼らは鼻を伸ばすでもなく、言葉を忘れて真顔で見惚れてしまうかもしれない。
「おまえってネイルアートとか派手な化粧とか一度もやったことないくせに、実際やらせてみるとあっさり出来そうだから怖いんだよな」
「最初から完璧には出来ないかもしれないけどね」
「普通は出来栄えの心配より、まず出来るか出来ないかの心配から入ると思う」
しかし残念なことに、プライベートな結菜の魅力を引き出せるのは、気心知れた幼馴染のみ。
飾らない伊織との会話を楽しんでいるからこそ、結菜は心を開き、本来の素顔を覗かせてくれるのだった。
「よし、後はしばらく煮込むだけかな。伊織、ちょっと着替えてくる」
「わかった。火の番だよな?」
「そうそう。だけどそんな大層なものじゃないよ。何も問題は起こらないだろうけど、一応念のため鍋に火にかけたまま離席するから、気にかけておいてって伝えておく感じ」
「了解。いってらっしゃい」
「うん、いってきます」
伊織は今日も、結菜が作る料理に舌鼓を打つ。
運命にも翻弄されてきた彼らは、そのような生活をもう何年も続けてきていた。
彼らは兄妹でも家族でも恋人でもない、幼馴染。
その関係は下手な血の繋がりよりもはるかに強くて、しかし近年は少しずつ形を変えつつある関係だった。