大山積神のおわす島より
第5話を書いたときは、すぐに書けると思っていたのですが、資料不足と私自身が納得できる当時の日付、地図が見つからず、地元の図書館に古書店、そして今治市の資料館、博物館、発掘された土器に、遺跡跡、王子社、水神のお社の側にある二十数基の円形墓を調べ歩き、近畿地方の古書店の方に連絡して、こういった本を探していますとお願いして、古い本ですがと教えてもらって、図書館に問い合わせたりと、あれこれして、ようやく再開できました。
本当に突撃して、大騒ぎしつつ、資料を集めに行った資料館、図書館の皆さま、古書店の方々、ありがとうございます。
時間はかかりましたが、続きを書く踏ん切りと自分のイメージができました。
そして、平成31年が終わり、令和元年が終わるこの日に投稿できること、幸せです。
斉明天皇7年1月14日(661年2月18日)。
この日に熟田津を降り、宮に入ったと言われるが、この説は熟田津というのはどこの津か?……どの港が熟田津か?という説が未だにある。
一つは有名な、伊予国の道後のある地域の港……現在の愛媛県松山市三津。
三津の湊に船を付け、輿で移動して石湯行宮跡だと言われる、道後の南の久米地域の久米官衙遺跡に落ち着いたという説。
ここからだと歩いては無理だが、輿を使えば道後の湯に何回も通うことができる。
これは有力な説なのだが、私はあえて、この説を否定したい。
何故なら、大山積神を祀る現在の大山祇神社のある大三島の周辺は島が多い上に、波は荒くうねることで有名で、船の運航の難所として知られ、三大渦潮のひとつもある。
後世、村上水軍が支配した地域で、一瞬でも気を抜けば船はぶつかり、難破する。
そんな危険な旅を、老齢の姫天皇や皇太子、大海人皇子などの重要人物にさせるわけにいかないはずである。
それに、大伯皇女を出産したばかりの大田皇女に寒い船の上で過ごさせることはできないだろう。
そこで私が探したのは、ある地図と小さな伝承。
ここから私は、話を語っていこうと思う。
大山祇神社……公式に残されている創建は推古天皇2年(594年)とされている。
しかし、それより昔の祭祀の跡や、全国でも世界的にも珍しい一人角力という、一人の力士が精霊と三回取り組みをして、精霊が2勝すれば豊作と言う伝統行事が残されている。
この角力の力士は、見えない精霊とどう戦うか、そして負ける時投げ飛ばされるところもどうすれば良いのかと日々考えながら練習をしているのだと言う。
残して欲しい無形文化財である。
当時は創建されて70年ほどしか歴史はないが、それ以前から御島とも呼ばれていたという……祀られる神は大山積神。
伊弉諾命と伊弉冉尊の子供で、5人の子供がいる。
天孫降臨の際に、天孫の瓊瓊杵命が見初め、大山積神が嫁がせた木花咲耶姫命とその姉の磐長姫命、木花知流姫命、そして、ヤマタノオロチ退治で有名な須佐之男命の妻になる櫛名田姫命の父母、足名椎・手名椎の父である。
大山積神は元々山の神だが、この地に創建されたのは、小千命(もしくは乎千命)がこの地に手ずから楠を植えたとされているからである。
小千命は小千氏の先祖とされ、大山積神を勧進し、祀ったと言われている。
その小千氏……船に乗るなつの夫の守興は、小千家の嫡子である。
大山積神の元に参り、その後、銅鏡……国宝である禽獣葡萄鏡を奉納した姫天皇方を、そのまま九州に船出させるというのは、季節もまだ春も遠く、波風は海に慣れない貴族に辛いだけだろう。
普通なら、休みを取ってもらうことが良いと思うはずである。
その為、まずは船を降り、身体をいたわってもらうことを考える。
それに現代では、愛媛の県庁所在地は松山市だが、当時国司を置いていたのが現代の今治市。
後の聖武天皇が国々に置いたという国分寺は、今治市にある。
そして、『源氏物語』でも有名な伊予の湯を何故『道の後ろ』と書いて道後と言うかと言うと、道前と呼ばれる地域は今の今治地域だったからである。
備前、備中、備後と同じで、まずは近い道前に船を留め、降りると険しい崖がある海沿いを通らず、南西の平地に降り、そのまま西に山道があり、進んでいくと山を回る形で道後に向かうのだ。
ところで、船は何故かまっすぐ西に向かわず、どこに連れて行かれるのか……と不安に思っていた人々は、守興の指示により大山積神の島からゆっくりと移動し、上陸した。
「ここは?」
姉の大田皇女は産後の肥立ちが余り良くなく、ぐったりとしていて会うのを禁じられている鸕野讚良皇女はキャンキャンと叫ぶ。
「どこよ?ここは!私たちは伊予の湯に行くのよ!お祖父様の伊予温湯宮があるのだから!お前は私たちを……」
「静かにせよ!」
孫娘をたしなめ、姫天皇はゆっくりと近づく。
「守興……吾子よ。どこに行くと言うのだ?」
「姫天皇さま……この季節、風は強く波は荒いものです。それに、船旅は寒く、お辛かったかと思います。ですので、この地にしばらく滞在されて体力を取り戻すことをお勧め致したいと思っております」
「どう言うことよ!」
「黙らぬか!鸕野讚良!……吾子?吾だけでなく、大田や大伯もおるのだ。大丈夫か?」
「ご安心くださいませ。姫天皇さま。これからご案内いたしますのは、姫天皇さま方が安心して滞在していただけるように準備させていただいております」
守興は深々と頭を下げる。
そして、いくつもの輿を仕立てると、ゆっくりと移動していったのだった。
その地は崖のようになっている海沿いではなく、小千氏の治める朝倉宮のある、現在の今治市朝倉……旧越智郡朝倉村とその周囲の越智郡玉川町、今治市。
守興とその妻なつの故郷でもある地だった。