ジンライム
本日更新2話目です。
各務の独白です。
意識のない人間の身体は、想像以上に重い。
それが自分より小柄な女性だとしても。
1ヶ月もない期間で急いで引き継ぎをして、5年過ごしたアメリカ支社から日本にある本社へ異動となった。
空港に着いたその足で、そのまま本社にある社長室に顔を出せば、40代半ばのイイ大人の癖に何時までも少年の心を忘れない……傍迷惑な性格の社長に掴まって、挨拶だけのつもりが夕飯まで一緒する羽目になった。予めスーツケースを宿泊するホテルへ預けておいて良かった。
社長とは高校の卒業旅行として東南アジアを一人旅してた時に出会った。彼は当時日本の企業の社長ではなく、現地の人しか行かない雑多な場所にある店で雇われ店長をしていた。偶々フラリと立ち寄った俺を何故か気に入り、ちょくちょく店を手伝わされていた。……しかもタダ働きで。
社長はその頃から商才があったらしく、数多ある店の中でも彼の店だけは別格で、客足が途絶える事は無かった。
俺が帰国する頃、社長の父親が病に倒れたと連絡があり、実家を継がなければならないと嘆いていた。話を聞くと実家の会社は典型的な親族経営で、親戚である幹部連中が甘い汁を吸う一方で、社員は法外な勤務時間を強いられている、所謂ブラック企業らしい。
『ま、そいつら一掃するけどね』と、ギラギラした目で不適に笑うのには、短い付き合いだが彼の性格を知っている身として背筋が寒くなった。恐らくどんな手段を使ってでも成し遂げる、非情さが見え隠れしていたからだと思う。
……このまま彼とも2度と会うこともないと思っていたが、彼の方はそうでは無かったらしく、大学卒業後に自分の会社へ入るよう誘われた。
俺の家も会社経営をしていたが、長兄と次兄が跡継ぎとして父親のサポートをしていた為、三男の俺にはある程度の自由があった。……それに、理不尽な癖に不思議と憎めない彼の元で働くのも悪くないと思った為、大学入学前に進路は決定した。
「ん……」
暫く過去へと思いを馳せていた所に、甘い掠れた声が聞こえる。
キャンセルで空いたシングルルームを、奇跡的に押さえて運び込んだ“同期”が上げた声だった。
偶然が重なって再会した“同期”―――茂木照子は、社長から逃れて宿泊するホテルへと向かう為に利用した駅で、運悪く派手な女子グループに絡まれていた時に、新入社員歓迎会帰りの彼女が通り掛かった所で出会った。肉食系の女子共を振り切る為に、渋る彼女を無理矢理引っ張って、ホテル最上階にあるバーへと連れ込んだ。
……その結果、元々アルコールを摂取していた彼女は、呑み慣れない上、口当たりは良いがアルコール度数の高いカクテルをかなり飲んだ為に、酔い潰れてしまった。
仰向けに寝転んでいる彼女のすぐ横、ベッドに腰掛ける。寝苦しそうに眉を寄せている彼女の顔から眼鏡を取り、ベッドサイドにあるテーブルに置くと、長めの前髪を払いのけて普段隠れている素顔を、間接照明の柔らかな光の下にさらけ出す。
5年振りに再会したにも関わらず、彼女の顔立ちは最後に会った5年前と変わらず、秀麗なままであった。
滑らかな頬に、目許に影が落ちる程長い睫毛、薄めの唇は艶やかで、思わず吸い付きたくなる程魅惑的である。
きちんと上まで留められたブラウスの釦を、3つ外して首もとを楽にさせてやると、苦しげに寄せられていた眉は柔らかな弧を描くだけとなった。
―――茂木照子に最初に会ったのは、入社式の後の研修の組分けの時だった。
第一印象はお互いに良くはなかった。彼女は明らかに俺を避けていたし、俺の方も身近にいないタイプの扱い難い性格の彼女と関わらないようにしていた。
このまま平行線で、彼女と俺は交わらないまま研修を終え、違う部署に配属されると思っていた。
寝返りを打った所為でブラウスが縒れて、日に当たらないからか思いの外白い胸元が目に飛び込んで来る。ブラウスの隙間から覗く予想以上の豊かな膨らみに、クラリと誘惑されそうになり、慌てて掛け布団で隠す。
三十路を迎えて幾分分別は付くようになったが、惚れている女の胸元を見て何も感じない程枯れてもいない。
何も知らずに呑気に寝こけている彼女を見やり、長々と溜め息を吐く。
……本当、何故こんなにも彼女に惹かれてしまうのか。
茂木は第一印象通り取っ付き難い性格で、その上要領が悪く不器用な人間だった。
普通、新人研修中は先輩社員を適度に頼り、仕事を円滑に進める事を優先する。正式に配属された部署で、自分の能力を活かすようにする事が求められるようになる。
それは誰に言われるでもなく空気を読み取ってする、謂わば処世術であるので、俺やもう1人の同じ研修組の奴は無難に熟せていた。しかし、茂木はそういった事が苦手なのか出来なくて、仕事を滞らせ先輩社員に疎まれてしまった。
きっと辛かったと思う。だけど彼女は腐らず、不器用なりに一生懸命だった。仕事を押し付ける同期の女や、明らかに雑に扱う先輩にも文句を言わず、彼女は黙々と仕事に向き合っていた。
……そんな姿が歯痒くて、俺はらしくもなくお節介をやいていた。
最初はすごく迷惑そうにしていたが、茂木は元来は素直な性格らしく、俺のアドバイスもよく聞いていた。
当時は会社の改革途中で、旧体制派の上司や先輩は、大人しい茂木に仕事を押し付けて自分達は定時で帰り、茂木は深夜まで残業をする事が多かった。今だったらそんな事は許されないが、上層部の改革で混乱しており、社長の所までその悪しき風習が上がって来なかったのだ。茂木は言わば改革の皺寄せを食らった被害者であった。
室内の明かりが消えてデスクにあるライトだけの頼りない明かりの中で、1人で泣く彼女に胸が締め付けられた。
初めて、人の助けになりたい、抱き締めて守ってやりたいと思った。
―――これが、恋と自覚した瞬間だった。
偶然にも彼女を抱き上げて運ぶという幸運に恵まれた。が、やはり入社当初から変わらず、茂木には苦手意識を持たれているらしい。
恋と自覚して、それとなく意識をしてもらおうとあれこれ世話を焼いても、彼女には全く通じていなかった。
すやすや眠る可愛い寝顔を憎らしく思う。その反面、男慣れしてない反応に安堵を覚える。
5年前にアメリカへ出向となった時、茂木に告白しようかと思ったが、断られるのが目に見えていた為に出来ず仕舞いだった。
次に会うときは、もしかしたら恋人がいるか結婚して子どもがいるかもと考え、アドレスすら聞けなかった事をアメリカに居る間中後悔していた。
……そんな心配を余所に、彼女は5年前と変わらず男の影がなかった。
この異動をチャンスと思ったって悪くは無いはずだ。
まずは今日、彼女と過ごす事を考えよう。引越しを手伝ってもらう事を口実に、食事に誘うのはどうだろう。5年前のように後悔はしたくない。
らしくもなく青臭い恋をしている自分に苦笑いしながら、部屋を後にした。
彼女の1杯目にジンライムを選んだのは、大学の時に付き合っていた彼女がやたらとカクテル言葉に詳しくて、当時聞いたカクテル言葉を思い出したからだ。
普段カクテルを飲まない上、そう言った事に疎そうな茂木は気付かなかったが、それでも良かった。
……何時か、特別な関係になれたらその時に、笑って話せたいいと思った。
―――俺は知らなかった。
これから、自分の思惑とは外れた事ばかり身に降りかかるようなる事を。
これで第1話終了です。
2話からいよいよラブが動き出します。